荊の墓標 04

019*

「シェリダン様、イスカリオット伯爵がいらっしゃいましたけど」
 新王の即位から二ヶ月以上、隣国への侵略から一ヶ月以上が経って、ようやくこの体勢も落ち着いてきたらしい。最近は極安定した執務しかしていなかったシェリダンは、ローラのその言葉に頭を抱えた。
「ああ、奴か」
 イスカリオット伯爵、ジュダ=キュルテン=イスカリオット。彼とは表面上はさほど友好的な様子も見せずにいて、実は間諜を任せるような相手ではあるが……あまり、会いたくない相手といえば、そんな相手でもある。
「イスカリオット?」
 午前中に執務が早々と終ったシェリダンは、いつも通り自室で寛いでいるところであった。椅子に座って本を読んでいたロゼウスが、人名に反応して首を傾げる。
「その名前、なんだか最近聞いたような……」
 本を半ば閉じかけながら、思い出すように小首を傾げるロゼウスの口元へと視線を走らせる。添えられた指が艶かしい。
「……聞くも何も、奴は我が国の知られざる重鎮だ。私が口走ったのを聞いたのだろう」
 一瞬だけさらりと告げた名前を、ロゼウスは思い出せないようだ。しかしシェリダンは、自分がそれをどこで彼に聞かせたのかを覚えている。
 あの日、あの悪夢のように甘美な退廃の夜。
 シェリダンとロゼウスが罪を分け合った運命の日。
『まだよ、まだ私は負けてはいないわ! あなたが父上にしたことを全部公表してやる! そうすれば』
『本当にできると思っているのか? そんなことが。知らないなら教えておいてやろう。イスカリオットとユージーンは私の間諜だ』
 異母妹であるカミラを無理矢理組み伏せたあの時、シェリダンはつい彼らの名を口走った。ロゼウスがイスカリオットの名を聞いたのは恐らくその時だけだろう。
 思い出さなくてもいいことまで思い出して胸を抉る。あの時、確かに熱い肌をしていた少女はもうこの世にはいない。シェリダンは彼の妹であり、そしていくら憎まれようとも愛した女を、この手で死に追いやった。その責を一生背負ってゆかねばならない。
 だが今は、わざわざこちらを尋ねてきた
 ジュダのことを考えなければ。用件は先日の、カミラを罠にはめるための姦計への協力のことだろう。そして、何を報酬として求められるかもわかっている。
「気が進まないな」
 紅茶のカップを傾けて残りを飲み干して言えば、ロゼウスにも茶を淹れようとしていたローラが手を止めて困った顔をする。
「あら、どうしましょう。帰っていただきますか?」
「追い返したくらいで帰る輩であればな。そうなったらたぶんあの男はその原因をこの目で見るまで帰らないとか言い出すような奴だぞ」
「じゃあ、お会いになるんですか?」
「……仕方がないな」
 断ったら逆に後が怖い、というわけでもないが……とりあえず困る相手ではある。
 シェリダンはカップを置いて席を立ち、リチャードとエチエンヌを呼ばせた。こちらのことはローラに任せておけば心配はいらないだろうし、向こうでの計らいもリチャードとエチエンヌを動かせば間違いはないだろう。
「シェリダン、出かけるのか?」
 本を置いたロゼウスがシェリダンのほうへと視線を向けて言う。今日も麗しいドレス姿なのに、せっかくの瞳は曇っている。それは今日ばかりではなく、ここのところいつものことだ。
 カミラが亡くなってから、ロゼウスはそれならこんな場所に用はないとばかりにこの部屋から外へと出なくなった。一日中部屋の中に引きこもり、傍に控えているローラや、時々やってくるエチエンヌにリチャードなどを相手にして暮らしている。カミラが居た頃は薔薇園に向かう道すがら侍女や侍従の目を引き少しずつでもエヴェルシードに慣れそうであった「王妃」が、今では、事情を知る者以外とは口を利くどころか顔を合わせもしない。抜け殻のように生きている。
 それもシェリダンのせいだ。何もかも全て。
「臣下の一人に会ってくるだけだ。ああ、だが……夜はきっと相手をできないだろうな、今夜は」
「え?」
「行ってくる」
 訝るロゼウスの顔を見て、シェリダンは部屋を後に知る。やってきたエチエンヌが、来客の様子を告げる。正面を向いたまま唇をほとんど動かさず極小さな囁きだけで告げる。器用な奴だ。
 シェリダンが即位前に手に入れたもののなかで一番使えるのは姉のローラも含め、この二人の部下だ。双子人形と呼ばれるシルヴァーニの奴隷たち。見目麗しく才に優れた彼らのおかげでかなり助かっている面もある。
「イスカリオット伯爵はいつもの通りのらりくらりと周囲をかわしています。反王権派の大臣が接触を試みていましたが」
「捨て置け。そちらはバイロンに任せておけば大丈夫だろう。あの伯爵は簡単に篭絡される輩でもあるまいし」
「ええ。そつなく相手なさっていましたよ。何を聞いたのか詳細は本人の口からどうぞ」
 伯爵を待たせておいた客間へと入る。謁見の間ではなく、わざと客間にした。本来ならばそれなりの立場ある伯爵が改まって国王に目通りを願うのだから、格式を持って謁見の間で重臣たちを並べて迎えるのが当然なのだが、シェリダンとこのジュダは表面的にはすこぶる険悪な仲の主従ということになっているので、それらの堅苦しい儀式関係はいかにも面倒くさいといった様子で常に省かせている。いや、面倒くさいという部分までなら本音なのだが。
 ともかくも、エヴェルシード王たるシェリダンの間諜であるジュダ=イスカリオットは客間にいた。こちらも緊張感などは欠片もなく、侍女が淹れた茶を口に運びながら持ってきた書類に目を通している。行儀が悪い。
「おや、陛下」
「久しぶりだな、イスカリオット」
 二十代半ばにもなるこの伯爵は、とにかく物怖じしないので有名だった。若者相手にならまだともかく、旧家の大貴族相手にも堂々と対等のように接するというので、諸侯からはそれほど好かれてもいない人物だ。エヴェルシード人らしい青い髪に橙色の瞳は整っていて爽やかな二枚目だが、内面は爽やかなどという言葉からは程遠い。その顔で流した浮名は数知れずともなれば、年のいった貴族から敬遠されてもしかたのない人間ではある。
 国王であるシェリダンに対しても普段どおりの、気遣いの欠片もない粗悪な態度をとる、と周囲には思われている。思われているも何も、砕けた口調などは実際に王に対するにしては不敬だが、シェリダンがそれを許してやるという形を見せて諸侯の目を眩ませている。エヴェルシード王とイスカリオット伯爵は不仲、対外的にはそれでよい。
「で、用件は?」
「すでにお気づきでしょうに。先日の妹殿下の件―――……私はまだ褒美を全く頂いていないということに気づきまして」
 伯爵が立ち上がり、シェリダンの元へと歩み寄る。シェリダンは目配せでリチャードに続きの間を整えて置くようにつげ、頬へと伸ばされた青年伯爵の腕を取る。
「頂けますか。今回の働きに関して。私の望むものを」
「ああ」
 シェリダンはこれまで、間諜であるイスカリオット伯爵が何か働いたからと言って、金銭的なもので報酬を支払った事は一度もない。

 ◆◆◆◆◆

 客間の続きの部屋には寝台があり、掃除が行き届いてどこもかしこも整えられていた。シェリダンが寝台へと腰掛けると、青年の手が襟元を寛がせようと伸びてくる。
「イスカリオット」
「二人きりのときはぜひジュダとお呼びください、シェリダン様」
 晒された喉元に、ジュダの唇が触れてくる。上着の隙間から手が差し入れられ、胸を撫で上げる。手早く自らの服を脱いだ男は、シェリダンの着衣までも剥ぎ取って床へと落としていく。二人分の体重で寝台が軋んだ。
「ん……ふ、ぅん……」
 唇を寄せると、すぐに舌が絡んできた。息苦しさに思い切りジュダの胸を突き飛ばして体を離した。
「はぁ……」
 口元を濡らす唾液。
「接吻はお嫌いでしたっけ?」
「お前とはな。長すぎる。殺す気か?」
「いやいや、まさか」
 言って、懲りることなく男はまたシェリダンの体を抱き寄せる。下腹部へと伸ばされた指に刺激され、体が熱を持て余す。
「うあっ」
 ぬるぬると濡れた指が体の内側に入ってくる。直腸をすりあげられる感覚にたまらず声を上げると、ジュダの顔が満足げに歪む。
「いいですか、陛下」
 指の数を増やし、しつこいぐらいに中をかき回して慣らした後で、ジュダが尋ねる。
「…………ああ」
 シェリダンは頷いて、男のものを受け入れた。

「あなたは美しい」
 行為の後、寝台に横たわるシェリダンの髪を梳いて時折口づけながら、ジュダが言う。
「そんなことは知っている。私の顔はヴァージニア王妃に生き写しなのだから」
 藍色の髪と朱金の瞳。凛々しさの中にどこか甘さを含んだ面立ち。これは全て母親から受け継いだものだ。
「ええ、それもあるでしょうね。この容貌。この美しさ。それでいて、あなたには人をひきつける才能がある」
「才能?」
 事後にわざとらしくシェリダンを誉めそやすイスカリオット伯爵ジュダは、皮肉に笑ったシェリダンの背中を抱くようにして覆いかぶさってくる。裸の胸がシェリダンの背中に触れて彼の体温を感じる。だが、男の熱い体は今の彼には馴染まなかった。
「抱かれるのは久しぶりだ」
「おやおや、あなた様がまさかそんなに禁欲的だとも、相手に不自由するとも思えませぬが」
「違う。そうではなく、今はロゼがいるから」
「ロゼ……王妃。ああ……そういえば、結婚なさったのでしたね」
 ジュダの声が唐突に冷えて翳りを帯びた。忘れてましたよ、ともう一度寝台に零れる髪を掬い上げて口づけながら、彼は耳元で囁いた。
「フリッツ=トラン=ヴラドが王都へ戻ってまいりました」
「ヴラド?」
 シェリダンの名はシェリダン=ヴラド=エヴェルシード。ヴラドというのは、母方の姓だ。
「ええ、そうです。あなたの母上様、ヴァージニア第二王妃の血縁です」
「だが、両親ともジョナス王に殺されたのではなかったか?」
「弟がいたのですよ。彼女には四つか五つほど齢の離れた、ね。その弟であるフリッツはあの事件の時、親戚の家に預けられていて難を逃れたそうです。……陛下」
 上に覆いかぶさる男の胸は熱く、シェリダンよりたくましい。ああ、そうかとシェリダンは気づく。こうして人に抱かれるのは久しぶり……というのも微妙だが、二ヶ月以上なかったことなのだ。抱くことはあっても……。
 そしてヴァンピルのロゼウスはシェリダンより体温がかなり低い。その肌は、人よりも冷たい。熱を持ってもまだ温い。その冷たさにシェリダンは慣れていた。
「バイロン宰相は第二王妃の下町時代の知己であったと聞きます。あの方を通じれば、詳細が手に入るでしょう」
 バイロン。そういえばあれ以来シェリダンに従属することとなったバイロンは母の宮中に来る以前の友人だったとは聞いたことがある。だが、それはシェリダンが母の弟だという人物に会いに行く、ということではないか。シェリダンにはわからない。自分が母方の血族に会いたいのかどうか。
 言いたいことだけ言って、ジュダが寝台を離れる。
「それでは御機嫌よう、私の陛下」
 見かけだけは立派に服を着込んだ伯爵は、ひらひらと手を振って客間を後にする。相変わらず、何を考えているのかわからない男だ。