021
「お前の兄妹のことを教えろ」
ロゼウスはシェリダンから唐突にそう言われた。
昨日のシェリダンは来客があると言って部屋を出て、数時間後には戻ってきた。戻ってはきたが、その日はそれ以降ロゼウスに対して何もしてこなかった。
今、つまり次の日の夜、目の前に晒された彼の上半身には、幾つかの赤い痣がある。
息が止まりそうだった。ロゼウスが驚く理由なんてないのに。一国の王ならば、愛人の数人ぐらいいて当たり前だ。ロゼウスの父親など妻が三人もいたのだから(しかも本気で愛していたのは第三王妃だけだったらしい、ロゼウスの母上である正妃は無視して)。
だからシェリダンにそういう関係の恋人がいてもおかしくない。なのに、実際そうやって他者との情交の痕をまざまざと見せ付けられると……何故だろう。胸が締め付けられる。
鎖骨を飾る赤い痣。しなやかな肌に散る花のようで。
目が離せなくなるのはどうしてだろう。ロゼウスは、シェリダンの裸体を声もなく見つめる。
ここはエヴェルシード王城シアンスレイト。その中にある、国王の寝室。そして決まった部屋のないロゼウス……ローゼンティアの第四王子でありながら性別を偽ってシェリダンの妻になった『ロゼ王妃』の起居する部屋でもある。
広い寝台の上、侍女が整えた褥をまた乱す目的でシェリダンが服を脱ぐ。露になった肌は白く瑞々しい。
性格を無視して顔だけを見れば、シェリダンは美形だ。それも、とびっきりの。美形が多いと言われるローゼンティア王族の一員であり、見目麗しい兄妹に囲まれて目が肥えているはずのロゼウスの眼から見ても、シェリダンは綺麗。
夜の空を切り取ったかのような藍色の髪、暁の光を閉じ込めた朱金の瞳。エヴェルシードという涼しい国の生まれであり肌は白く、程よい背の高さに体格。けれど体つきは華奢とは言わないが細身で、顔つきも母親似であるという彼は女性と間違えられることは決してないが、女性的な容貌の美形であることに間違いはない。それでも凛々しいくらいに凛々しい目つきが、彼の印象を刃のように研ぎ澄ましている。
何となくロゼウスの兄……長兄である第一王子に印象が似ている。ドラクルもどこか油断ならない空気を纏った美しい人だった。ロゼウスはその兄に兄妹のなかでは誰よりも似ていると言われたけれど、できるならこんな女装をしても誰も正体に気付いてくれないような完全な女顔ではなく、もう少し凛々しく人を惹きつける魅力のある、兄やシェリダンのような顔立ちが良かった。
「どうした? 早く脱げ」
「あ、うん」
寝台に座り込んだまま、服を脱ぐシェリダンの様子を何をするでもなく眺めていたロゼウスはそう催促されて自分の衣服にようやく手をかける。ドレスの勝手もそろそろわかってきた。もっともこれは普段着だから着やすいだけで、舞踏会用の要コルセットの本格的なドレスは侍女の力を借りねばとても一人では着られないものらしい。
絹の衣服を無造作に床に落として、寝台へと上がる。先に上がっていたシェリダンに腕を引かれ、勢い余った挙句その胸に飛び込んだ。
ロゼウスは目の前にある肌へ口づける。きつく噛んで痣を残すと、頭の上でシェリダンが小さく唸った。痛かったらしい。当然だろう。血が出てどす黒い痣になるほど噛んだのだから。
「……いきなり何をする」
「あんたに接吻しただけだけど」
ロゼウスはシェリダンの傷口から流れる、と言うよりもじわりじわりと染み出る血を舐める。独特の錆びた鉄の味。普段は薔薇の花で吸血衝動による渇きを凌いでいるが、それだけではやはり不足だ。時々はこうして血を吸わないと。
渇きが止まらなくなる。
カミラが亡くなってからしばらく、ロゼウスは誰かの血を吸う気にも、薔薇の花を食べる気にもなれなくなっていた。近頃ようやく食欲は回復して、血が飲みたくなった。だからといって通りがかる人間を襲うわけにもいかないので薔薇の花びらで飢えを凌いでいたが。
目が眩む。恍惚となる。甘い、甘い血の味。
もっと寄越せと体が叫んでいる。もっと新鮮な、若くて美味しい血液。シェリダンの人としては白い喉首に噛み付きたくなる。ヴァンピル、吸血鬼と言う言葉はただ血を吸うだけではなく、もともとは死体を喰らう甦りの死者のことを指していたらしい。その習慣はロゼウスのようなローゼンティア人にはまだ残っている。男の肉は硬くてあまり美味しくないと言われているけれど、それでも目の前のこの少年の肌は綺麗で、内臓なども汚れてはおらずきっと綺麗ですっきりとした味わいだろう。
思わず首の根に唇を寄せる。
どん、と思い切り肩を突き飛ばされる。
「…………ロゼウス、お前、今何をしようとした」
「あ……」
うっかりあんたを喰い殺そうとしてました。言ったら間違いなく怒られそうだ。
「……血が足りないんだよ。吸血衝動を抑えるには、もっと、もっと、人の血が欲しい」
「……具体的にどのくらいなんだそれは。牛一頭分の体液などと言われたらいくら私でもそれだけ人を殺して血液を集めるなどできんぞ」
これだけは、と言った感じでシェリダンがげんなりとする。ロゼウスたちヴァンピルにとっては普通のことなのだが、どうも人間には理解できないらしい。
「牛? 牛の血はあんまり美味しくない。飲んでたけど」
「飲んでいたのか。私たちが牛乳は滋養満点とか言っているところをお前たちは牛の血で喉の渇きを癒すというのだな……」
それ、普通ではないのだろうか。牛の乳などただ白いだけの液体だ。血液に比べればさらさらしすぎて味もそんなにしない。
「で、どれぐらい血が必要だ」
「七日ごとに一滴程度、指先でも、怪我をした傷口からでも、どこでもいいから」
人の血はどの生き物よりも力が強い。他の動物なら殺して体中の血を干からびるまで吸い上げねばならないが、人間の血は一滴でも吸血鬼に大いなる力を与える。
「仕方がないか……」
苦悩の表情で頭をかいたシェリダンが、寝台横のチェストの引き出しから小さなナイフを取り出す。それを左手の人差し指に押し当て、小さく切り傷を作った。たちまち彼の指先に柘榴石のような紅い血の珠が膨れあがる。
「あ……」
ロゼウスはその色に魅入られるようにして、血の雫が零れないよう慎重に顔を近づけてシェリダンの血を啜った。舌の上に広がる鉄錆の味。背筋を快感が走り、体から力が抜ける。指先の血が止まるまで、しつこくその指を舐め続けた。間違っても限界以上に吸い上げて彼を殺してはならないと、今度は自分に言い聞かせる。今ここでシェリダンを殺したりしたら大変なことになるから。
それでも、こうして王の寝台にすら潜り込めるということは、ロゼウスにはシェリダンを殺す機会がいくらでもあるということだ。……けれど、今のロゼウスにはシェリダンを殺すつもりはなかった。ローゼンティアの民のためということもある。けれど一番の理由は。
――お前は、我が墓標。
そう言った彼を、見捨てられないからかも知れない。俺の共犯者。俺はあなたと共に地獄へと堕ちていくと決めた。
けれどそうして心を決めたロゼウスの脳裏に浮かぶのは、決まって一つの面影だった。
「――何を考えている、ロゼウス」
「あ……いや、別に」
「別にということはないだろう。思考が飛んでいたぞ……当ててやろうか? お前の考え」
シェリダンが優雅に口の端を吊り上げる。
「兄妹、それも長兄のことだろう」
ロゼウスはぴたりと動きを止め、シェリダンの指から口を離す。
体温の低いロゼウスたちヴァンピルとは違って、暖かい熱を持つ指が伸びてきて頬に触れる。その指先に撫でられることは、初めこそ苦痛だったのに今では心地よささえ覚えている。
「丁度いい機会だ、話せ」
「え?」
すっかり服を脱ぎ寝台も整えられているこの状況で、シェリダンはそんなことを言い出した。
「話せ、ロゼウス。お前の兄妹のことを」
そしてロゼウスは、今ではこんなにも懐かしい、過去のこととなってしまったローゼンティアの日々を思い返す。
◆◆◆◆◆
『おいで、ロゼウス』
差し伸べられるのは大きな手のひら。兄の優しい手。
ローゼンティア王国王太子、ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。彼はロゼウスより十歳年上の同母の兄だ。ロゼウスが物心つく頃にはすでに凛とした雰囲気を漂わせるしっかり者の第一王子で、優秀で有能だった。彼が跡を継ぐのなら国は安泰だろうと誰もが口々にドラクルを誉めそやした。
ロゼウスはそんな兄が大好きで誇らしくて、いつでも彼の後をついて回った。覚えているのは四歳ぐらいからの記憶で、その頃から……ドラクルは他のどの弟よりも、自分を溺愛していたというのは自惚れだろうか。
だが目をかけていたのは確かだった。第二王子で一番目の弟であるアンリより、第三王子のヘンリーよりも、誰よりも。弟ができてからもそれは変わらなかった。第五王子ミカエラ、第六王子ジャスパー、第七王子ウィル。それでもドラクルが一番多くの時間を過ごしたのは第四王子であり同母の弟であるロゼウス、だった。
あれはいつの頃だっただろうか。確か七、八歳頃から。
夜、と言っても昼間は眠り夜に活動するヴァンピルの基準では夜は人間たちの明け方から夕暮れに値するのだが……明け方に寝室へと呼ばれるようになった。呼び出されて、最初は自分がしていることも、兄が要求しているのが何なのかもわからなかった。
その頃、ドラクルは十七、八歳だ。ロゼウスはずっと、彼に「奉仕」させられていた。
『いいこだね……私のロゼウス』
兄の股間に顔を埋めて、そのモノを口いっぱいに含み、ぺろぺろと舐め続ける。絶対に歯を立てるなと教えられた。苦い液は吐き出さずに飲み込めと、そう、言いつけられて、ロゼウスはその通りに従った。
『ふふ……よくできたね、いいこだ……』
喉の奥で笑う兄の笑みに応えたくて、ロゼウスはさして面白くもない行為を続けた。それが単なる前戯に過ぎないと知ったのは、それからしばらく後。こちらの体も差し出すように求められた。女より早く男を知った。
『兄上、兄上……!』
泣き叫ぶロゼウスを抱きしめて、ドラクルが笑う。終わり頃にはいつも意識を失いそうになって朦朧としているロゼウスの額や首筋に口づけて、いいこだと褒めてくれるその声を待った。
彼の機嫌が悪い時は猿轡を噛まされて、鞭で背中を打たれることもあった。ドラクルはロゼウスを抱きながら、どこかそうして苛立ちをぶつけるようなところが、ないでもなかった。様々なことをさせられた。様々なことを、された。
それでも、ロゼウスは兄との行為に溺れた。十三になる頃、王女の中ではただ一人正妃の産んだ娘、ロゼウスとドラクルと同母の姉であるルースにばれた。けれど兄はどう妹を言い含めたものか、ルースによってロゼウスたちの関係が世間に知れて咎められるというようなことはなかった。ドラクルは王太子であるから、知られれば絶対に只ではすまない。第一王位継承者であるからには、男色家であるなど許されない。もっとも、あの兄は弟であるロゼウスだけでは満足せず、かなりの人数同性とも異性とも楽しんでいたようだが。
完璧な王太子と言われたドラクルの、それだけが唯一の欠点だろう。人に好かれるという意味では美徳かもしれないが、一体彼はどれだけの相手を泣かせてきたのだろうか。父王も母である王妃も国の重臣たちも、誰も知らないこの事実。
それでもロゼウスはドラクルを嫌えない。いいや……言ってしまえば、愛している。誰よりも。
そう、ロゼウスは一国の王子でありながら、兄を愛していたのだ。今も、愛しているのだ。
エヴェルシードに、このシアンスレイト城に来てカミラを愛し、異性へと向ける恋を知った。けれどそれと同じくらいの強さで、ロゼウスはドラクルを愛している。そして男同士、兄弟、七歳から十年間の年月と、年季が深い分カミラへ向けるものよりもそれはどろどろとしていて複雑だ。
『大人しく言う事を聞くんだよ、私のロゼウス……』
足を開かされ、彼のものを受け入れさせられる。最後にはロゼウスのほうから喜んで彼自身を咥えこんでいたのかもしれない。ドラクル。大好きだった。あなたが、誰よりも。
けれどドラクルはどうだったのだろう。ロゼウスは数多い遊び相手の一人、男同士では絶対に孕むことがないから楽だと、それだけの理由で弟を抱いたのだろうか。六人もいる弟たちの中から、ロゼウスを選んだのはたまたま?
ある日ローゼンティアで、国民には知らされなかった事件が起きた。第二王妃による第四王子殺害未遂。ロゼウスはアンリを始めとしたほかの兄妹たちの母である第二王妃に首を絞められて殺されかけた。それも、ドラクルと間違えられて。第一王子が消えれば彼女の息子である第二王子アンリが王太子となれる。そしてロゼウスとドラクルは顔が似ているのだ。彼女は二人を間違えたらしい。
けれどあの事件の時、ドラクルは自分の身代わりに死に掛けたロゼウスを本気で心配してくれただろうか?
いつものように、薄く笑みをはいてはいなかっただろうか?
それでもロゼウスはただあの人に溺れた。命の危機? その程度のことで覆りはしないほど、ロゼウスは長兄に魅せられていた。たとえ彼の謀略によって死に瀕しようとも。
『ロゼウス――私の、ロゼウス』
もっと名を呼んでほしい。縛り付けて雁字搦めにしてほしい。彼の声は、言葉は、肌は麻薬のよう。
『兄上ぇ……』
ロゼウスは快楽に泣きながら彼のものを受け入れて、ただその名を呼ぶ。ドラクルの指が直腸をすりあげて後ろを解す。その度に狂喜ともいえる感覚が背筋を走り、彼のものを咥えるたびに意識が恍惚とした。
『ああ、兄様、兄様……!』
『可愛いロゼウス。―――お前は永遠に、私のものなんだよ』
俺はただあなたに溺れ。
『……ねぇ、ロゼウス。お前はずっと私の傍にいるんだよ。そうすれば、今にこの国を全て、お前にあげる』
あれは一体どういう意味だったのだろう。
『決して裏切るな』
『はい、兄上』
あの時は今のような状況は予想もしていなかった。兄の言葉の意味を深く考えてみることもなかった。
ドラクル。
誰よりも大切で大好きな兄。
初めは嫌だった。数々の淫戯の名称も知らず、意味もわからずにやっていた。知ってからは、嫌悪感が増した。ドラクルの言葉に逆らい、離れようと努力したこともある。けれど結局は、駄目だった。
愛している、どうしても。
「話せ、ロゼウス。お前の兄妹のことを」
シェリダンは言った。かつて自分の前で別の人間の名を呼ぶなと言いつけたその口で。だからロゼウスは遠慮なく話す。とは言っても、大した情報ではないが。
第一王子のドラクル、第二王子のアンリ兄上は気さくな青年で俺の言葉遣いはこの人から学んだものだ。第三王子のヘンリー兄様はちょっと変わった不思議な人。第一王女アン姉上はアンリ兄上と数ヶ月違いの生まれで同い年、いかにも悠然としたお姉さまだが、口調が少し変だ。第二王女ルース姉上はロゼウスとドラクルと同じく正妃の子どもだけれどいつも自信がなさそうに伏目がちで、大人しい。第三王女ミザリー姉上は美しかった。その美しさに国内の求婚者が殺到したけれど、本人はどうでもいいようだった。彼女は兄妹で唯一体の弱い弟の第五王子ミカエラを気にしていた。ミカエラはすぐ下の妹である第四王女ロザリーとなぜかそりが合わないらしくて、いつも喧嘩ばかりしていた。でも密に一番仲がいいのもこの二人だとロゼウスは思う。第五王女メアリーは、兄妹の中では目立たないタイプだった。毒舌家のミカエラに言わせれば、性格が庶民、らしい。第六王子ジャスパーは、年齢の割にとても冷静で聡明で、物静かな子だった。第七王子ウィルは……王子の中では最年少、まだ十二歳だ。この子も随分のんびり屋だと思った。第六王女エリサは末っ子で、誰からも可愛がられていた……。
思い出すと、どうしようもなく懐かしくなってしまった。
会いたい。会えない。愛しい兄妹。家族。
「ロゼウス」
シェリダンが裸の胸を押し当ててロゼウスを抱きしめる。
あんたが、俺から家族を奪った。ローゼンティアでの平和な暮らしを奪った。男であり王子であり、兄であり弟であることを奪った。そして俺はそれに乗った。
だから、これまでの日々など絶対に取り戻せるはずがないのに。……それでもロゼウスは、自分の兄妹が生きているとわかっただけ幸せだ。シェリダンの妹であるカミラは死んでしまったのだから。シェリダンの家族はもう誰もこの世にいない。
こんなにも懐かしくて胸を締め付ける。
けれど、会えない。もう誰にも、会えない……。
涙を啜るようにシェリダンが目元に唇で触れた。さらりとした唇がロゼウスのせいで濡れる。柔らかな熱。
そして寝台に押し倒され、いつもの通りに、きつく両の手を絡めた。