荊の墓標 05

023

 そしてシェリダンは城下へと出かけた。
 ロゼウスとローラを残し、バイロンとリチャード、エチエンヌだけを連れて。
「って、よりにもよって俺が出かけたいって言った翌日かよ! 当て付けか!?」
 ここ数週間、ロゼウスはシアンスレイト城下どころか、城内にすらろくに出ていなかった。ずっとこの部屋に引きこもり、枯れた薔薇を眺めながら日々を過ごしていた。
 まだ生きているのに屍のような生活を送っていた。食事もろくにとらなかった。起きて何かを考えるのが……彼女のことを考えるのが辛くて逃げた。覚醒した頭を無理矢理睡眠に叩き込んで現実から逃げようとした。そうすると、今度は夢で彼女を見た。
 宵闇の濃い紫の髪に、猫科の獣を思わせる金色の瞳。兄であるシェリダンに似た、けれど見様によっては全く似ていないとも言える容貌。
 そして夢の中でカミラは泣いていた。
 ロゼウスもシェリダンもカミラの遺体を見てはいない。カミラ付きの侍女が、それが唯一の遺言だったと遺体をシェリダンに任せず埋葬したのだと。当然だとわかっている。それでも寂しかった。
 ロゼウスが最後に見た彼女は泣き顔だった。裏切りに泣き崩れ、憎悪に美しい顔を歪めていた。
 カミラは、故郷で亡くしたかつての婚約者とは全く違うタイプの少女だ。あの、何が起こってもいつも毅然と佇んでいる、男顔負けの凛々しさを持った少女とは違う。それでも愛しいと思ったのは真実で、裏切ったのは事実だ。
 ロゼウスはカミラよりローゼンティアの民をとった。
 ロゼウスはカミラの言う事より、シェリダンを選んだと、その脅迫に屈したととられても仕方がない。
 だけれど、そこまで追い詰めるつもりはなかったのだ。傷つけたことはわかっていた。それでも生きてさえいればいつかは傷を癒せる日が来るのではないのかと。もう何もかも手遅れだけれど。
 ああ、また思考が一回りする。
 どうしようもない。結局はこの言葉に還る。わかっているのに考え続ける。もし、あの時こうしていたらと。過去を仮定したところで現在が変わるわけではない、足掻くべき時期はとうに過ぎ去り後は自分のしたことの報いをただ静かに受け入れねばならないだけだと知っているのに理解はしているのにロゼウスは心の底ではこの結末に納得していなかった。
 シェリダンは受け入れているのに。
 ここが彼と自分の差なのだろう。どんなに傍若無人で気狂じみた男でも、一国の王たる者である。兄や父に甘やかされ国を背負うこともなく初めから満ち足りた暮らしをし悔しいという思いをさせられること自体稀なロゼウスとは違う。
『ロゼウス、後悔するな。私がお前に教える最大の教訓はそれだよ。自分の選んだ道に……誇りを持て、とは言わない。それを信じろとも言わない。けれどお前の選択は確かにお前の心。お前の一部。もしくは全て。それが例え、正しくはなくても。お前はお前の選んだ道を貫き通さねばならない』
 ドラクル兄上。
 俺には無理です。
 やっぱり振り返ってしまいます。後悔してこんなはずじゃなかったと叫び、みっともなく泣き喚いてしまいます。
 ロゼウスは自分の選択を貫き通すことなどできない。あの時に戻れたなら、そしてこの未来を知っていたなら次は別の道を選びたいと切に願う。
 ロゼウスはドラクルやシェリダンのように強くはなれない。どこまでも情けない男だ。カミラに愛される資格なんてなかった。
 このままこうしてカミラのことを考えていると、自分は永遠に前へと進めないような気になる。見えない鎖が体中に巻き付いて四肢を絡めとりロゼウスを逃がさない。その体温は、温い女の体温をしている。
 カミラ。
 ――忘れろ。
 ローゼンティア。
 ――忘れてしまえ。
 ドラクル、アンリ兄様、ルース姉様、ロザリー、みんな……
 ――もう、忘れたい。
 全てを忘れて眠りにつけたらいいのに。体は生きて呼吸をするけれど、魂は眠って全てを忘れることができたら。
 どうせシェリダンが欲しいのも滅亡への道連れであり、姿形の整った玩具であるという価値しか持たない自分であるのだし。……心があるから苦しい。心臓を抉り出してそれごと魂を捨て去ることができたらどれほど楽になれるのだろう。
『だがロゼウス。心がなければ何も知ることができないよ』
 懐かしい声。困ったような笑い顔。ロゼウスはあの人を困らせた。たくさん困らせて一度も報いる前に彼女は死んだ。名ばかりの婚約者。
 目を閉じると闇の向こうから、ロゼウスのせいで死んだ人々が呼んでいる気がする。早くここへ堕ちてこい、と。
 そう長く待たせはしない。俺はあの朱金の瞳の王と一緒に堕ちていくから……。
「!」
 シェリダンが宰相を連れて出かけてから、寝台にひたすら突っ伏していた。ローラは他に用事があるとかで部屋を出て行ったし、今この場所にはロゼウス一人のはずだ。
突然の人の気配に、ロゼウスは素早く顔を上げる。
「ああ、気づかれちゃった」
「あんたは……」
 部屋の入り口に立っているのは初めて見る相手……ではなかった。一度だけ、見たことがあると言っていいのかどうか怪しい相手。全身黒尽くめのローブの少年。シェリダンがカミラをこの寝室へと連れてきたあの日、その傍らにいた少年だ。
 いや、出会ったのはそれが初めてではないことに、今になってようやく気づく。
 この男は。
「初めまして、ロゼ王妃」
「初めてではないはずだ」
 ロゼウスは深く被ったフードに顔を隠すその少年を睨みながら言った。寝台から降りてその正面に立つ。背の高さはロゼウスとさほど変わらない。声は涼やかに適度に低くて男だと判別がつくが、どう聞いても若い。
 だがロゼウスの勘が正しければ、この少年は一ヶ月前はもっと体格がよく、声の低い手練の剣士だったはずだ。
「あの時、薔薇園でカミラの命を狙った刺客――!」
 黒いローブの少年は、ひっそりと笑みを浮かべた。

 ◆◆◆◆◆

「ねぇ、ハデス。私の可愛い弟」
「何でしょう、姉さん」
「あなたにお願いがあるのよ。――エヴェルシードに行って来て」
「はい?」
「お願いよ」
 エヴェルシード。ここより南東の大陸の一地方を占める国の名前。確かに姉はその国の名を最近よく口にしていた。何か気になることがあるという風情で。
「王が代替わりしたの。今度の王は十七歳の少年だそうよ。先王が下町からやもたてもたまらずに攫った美しい娘から生まれた、この世で二番目に美しい王子。そしてこれからは最も美しい王と呼ばれるべき存在」
「二番目に美しい王子、ですか」
「ええ、もっとも、人が口で伝える情報ほど不確かなものもないのだけれど」
 姉は高い声で笑った。普通に話せば快い声なのかもしれないが、笑い声だけは鼓膜に引っ掛かるように聞きづらくて耳障りだ。だが本人は気にしていない。周りの人間も今更だと気にしてはいない。彼だけがそれを気にしながら過ごす。おそらくこの世で最も、この姉のつくろわない素のままの笑い声を聞く彼だけが。
「ねぇ、ハデス。エヴェルシードへの使者となって」
「公式の? 非公式の?」
「後者よ。あまり表立ってはよくないわ。私はね、どうやらエヴェルシードの新王陛下とは仲良くできそうなのよ。……一月前に一度だけ会ったけれど。好みの目をしていたわ」
 その王子の瞳は絶望と孤独と猜疑と憂鬱と憎悪とに彩られている。
「酷い人だ」
 ハデスは姉の膝をまたぐようにして、玉座の余裕に膝を乗せてその胸元まで迫った。
「僕よりも世界で一番美しい王にお心を寄せられるなんて」
「あら、まさか」
 また、甲高い笑い声。
「ハデス。あなたより気に入った人間など私にはないわ。あなた以外の誰もが、私にはただの玩具。面白そうだから手を触れて、私にあだなすようならすぐに捨ててしまえばいい。あのエヴェルシードの王子様は、とても使い勝手が良さそうよ」
 為政者たるもの、時には残酷になることが必要だ。この姉にとって、人間と言うのは盤上の駒なのだろう。思い通りに動かして世界の方針を決める。口でこそ何だかんだ言っても、いまだかつて姉が失策と言える失策を行ったところを見たことはない。
 世界は彼女を崇めているし、これからも崇め続けるだろう。
 だが、ハデスだけは、この人の素顔を知っている。
「さあ、ハデス。お返事は?」
 ハデスはにこりと笑う。つられたように姉も微笑み返す。膝の下に敷いた彼女のドレスが皺になることも気にせず体を寄せて、玉座に座る主の唇に自らのそれを寄せた。くすぐったそうに声を零す隙間に、自らの言葉を滑り込ませる。
「喜んで従います。我が皇帝陛下」

 皇帝。それは世界を統べる者の名。
 世界皇帝。
 この世界はとうの昔に統一されている。今幾つかの国々へと分かれている大陸の全てが、そもそもは皇帝の領土だ。つまり世界は一つの帝国だった。王国を併合して作られた一つの国が世界。王国は国においての街や村と同じだと思えばいい。それも一つ一つが自治都市のようなもの。
 神の化身であると言われる初代皇帝から連綿と続くその歴史の中で、皇帝と言う名はいつの世でも特別だった。
 ある時は世界を救う神として。
 またある時は、滅びをもたらす魔王として。
 皇帝。それは世界を統べる者の名。世界を意のままにできる人間の名。
 どういった基準で皇帝が選ばれるのかは誰も知らない。だが、ある種の人間には次代の皇帝が必ずわかるのだという。その者は、選定者と言われる。皇帝を選び定める宿命の者だ。
 どんな人間がその栄光の座につくのか。選定者たちは語る。その人間が善良であるか暴虐であるかすら皇帝の選定には関係がないのだと。
 ただ、その選定は全ては神の決め事。
 すなわち宿命。

「あなたの望むままに、我が皇帝、我が姉上」

 そしてハデスはこの国へと来た。
 エヴェルシードは、安定した気候と農作に適した土地と、豊富な資源があることから安定した治世さえ敷けば数年で世界的に有数の大国となることも難しくはない国だ。 
 もっとも、現在の王にその気はないようだけれど。
「あの時、薔薇園でカミラの命を狙った刺客――!」
 目の前でハデスを睨むのは白銀の髪と深紅の瞳の美しい少女。否、少年。
 この世で最も美しい王子。
「お前は、一体何者だ……?」
「初めまして、でなければ、二度目まして、かな、ロゼ王妃―――いいや、ローゼンティア王子ロゼウス殿下」
 名を呼ぶと、相手があからさまに動揺した。美しいその肢体を飾る女衣装は本当にとてもよく似合っているけれど、本人的にはその格好で本名を呼ばれるとかなり複雑らしい。女装姿のときはあくまでも彼はロゼ王妃。当初に比べれば慣れてきたものでよかったとでも言ってあげるべきだろうか。
 そろそろいいだろうとフードを外す。姿を隠す黒いローブを脱ぎ去ると、相手が驚きの声をあげる。
「そんな化物を見るような目で見ないでくれる? 君たちヴァンピルにとってはよっぽどたいしたことない人間だろう。僕はね」
 今のハデスは、というよりあの時が特別だっただけで、いつものハデスはこの格好だ。奈落の底を汲み上げたような漆黒の髪に瞳。古くから迫害されている異端の民、《黒の末裔》の一人。現在の外見年齢はおよそ十六歳。
「あの時は、確かに……」
「ああ、これね」
 戸惑うロゼウス王子のご期待に沿うように、自分の外見を変えてみせる。ぐにゃりと輪郭が歪むような感覚の一瞬間後には、ハデスの体は二十代半ばの筋骨隆々とした男になる。
「!?」
「驚いた? 驚いたでしょう……これが僕の特技なんだよ。誰でもできる技じゃない」
 そういう意味では確かに自分は特別、というより特殊だろう。この《冥府の王》ハデスは。
「改めて名乗らせてもらうよ。僕はハデス」
「……ロゼウス、だ。名乗らずとも知っているようだけど」
 警戒と不審の色を露にハデスを睨む深紅の瞳は柘榴石のように美しい。
「ハデス、と言ったな。お前は一体何者なんだ? 何故、そんなことができる。どうして、あの時カミラの命を狙った!」
「そう一時に幾つも質問するものではないよ、ロゼウス王子……まあ、最初の二つの質問に答えるならこれで十分だろうね。僕の姉は現皇帝陛下だと」
「皇帝の弟!?」
 あからさまに驚いた顔をしてくれる。
「そうだよ。つまりは、このエヴェルシードの非公式の客人だ」
「皇帝の弟……聞いたことがある。黒髪黒瞳、《黒の末裔》にして《冥府の王》。特別な力を持つ……」
「カミラ姫を何故狙ったかだったっけ?」
 その話題を振ると、一瞬でハデスの身分などロゼウスの頭からは吹き飛んだようだった。怒りと憎しみと、それ以上に哀しみが彼の胸を覆うのがわかる。
「その方が、シェリダン王のためだからさ」
「妹を殺すのが?」
「そうだよ」
「それが、シェリダンの愛している相手でも」
「それでもだ、ロゼウス」
 彼はハデスの言葉についていけないかのように、大きく首を振った。俯いて唇を噛み締め、拳を強く握る。血の通わない指先が白くなるまで。
 皇帝の弟。それは絶対の免罪符。偉大なる姉上の御威光の陰で、ハデスの評判はひっそりと悪い。しかしこの世の神にも等しい皇帝の唯一の身内であるハデスを殺すわけにも行かないから、何人も迂闊に彼に手を挙げるわけにはいかない。
 ハデスを憎む心と、それ以上に自分を憎む心の狭間で苦しむロゼウスの姿は美しくどこか官能的だ。シェリダンの気持ちもわかる。彼は甚振って跪かせ、哀願しながら許しを乞う姿を見たくなるタイプなのだ。
 けれどそうして遊んでいるわけにも行かない。
「ねぇ、取引をしない? ロゼウス王子」
「何だって?」
「あなたをここから出してあげる。外へと出たいのでしょう」
「……」
「僕は君の願いを叶えよう。だから君は僕の言う事を聞いて。シェリダン王を救ってあげてくれないかな」
 それは幾つもの謀略と思惑を孕んだ企みの一つだ。けれど彼はその取引に乗らざるをえない。
 愚かなのは君か、彼か、それとも僕か。
 しばしの沈黙の後、ローゼンティア唯一の王子は頷いた。