荊の墓標 05

024

 舗装された石畳の道を馬車が走っていく。
「我々が目指す場所は、この界隈の奥まった場所になります。馬車は途中で降りることになりますが……」
「ああ、わかっている。行ったことはないだけで、報告書は読んで場所は知っている。狭い下町の小さな店だったな」
 シェリダンはバイロンの言葉に頷く。二頭立ての馬車と言う、普段、国王として使うには小さすぎる乗り物の中には、今四人の人間がいる。エヴェルシード王であるシェリダンと、侍従のリチャード、小姓のエチエンヌ。そして同行を命じた宰相のバイロンだ。王と宰相が揃って王城を空けるなどあってはならないことかもしれないが、本日の責務はシェリダンもバイロンもとうに終えている。それに一度赴けば数ヶ月は帰ってこられない旅と言うわけでもなく、今日シェリダンたちが向かうのはシアンスレイト城下の下町、王城から目と鼻の先にある小さな酒場だ。
 そしてそこは、シェリダンの母である先代エヴェルシード第二王妃、ヴァージニア=ヴラドの生家でもある。とは言っても実際の生家は十八年前、国王であった父が無理矢理両親の元からヴァージニアを攫った際に跡形もなくなるよう壊され焼かれていた。今シェリダンたちが向かうのは、その後、つい先日この王都に戻ってきたばかりだと言う母の弟が経営する新たな酒場だ。
「シェリダン様、僕たち、外に出ていなくていいのですか?」
「ああ、エチエンヌ、お前の容姿はこの国では酷く目立つ。中にいろ」
「はあい」
 普通小姓などは御者と共に馬車の外の台に乗っているものかも知れないが、移民をあまり受け入れないエヴェルシード国内で、シルヴァーニの容貌を持つエチエンヌの姿を人目に晒すのは目立ちすぎる。体格の関係でシェリダンの隣にリチャード、正面にバイロン、その隣にエチエンヌと並ぶようになっている。斜め前にいる小姓に向けてそう指示した。
「立ち入ったお話を聞いてしまいそうですが」
「今更お前たちと私の間で、立ち入るも何もないだろうが」
「はあ……」
 良い子の返事であっさりと頷いたエチエンヌとは対照的に、戸惑ったような顔をするのは侍従であるリチャードだ。元々は良い家の出だが、騒動に巻き込まれて本来の爵位を失った貴族の息子。控えめで主に忠を尽くす性格の彼は余計な気を回して、こちらが求めてもいないことで勝手に困っている。
「いいんだ。リチャードにエチエンヌ。とにかくお前たちも馬車の中にいろ」
「はい」
「陛下の仰るとおりに」
 二人の様子が落ち着いてようやく馬車の中が静かになった。規則的な振動と共に石畳を滑る車輪の音だけが耳につく。
 シェリダンの正面に座ったバイロンはリチャードとは別の意味で終始困った顔をしている。下町育ちでシェリダンの母とも彼女が王妃になる前から面識があったと言う宰相は、突然のシェリダンの行動に今度は何を企んでいるのかと首を捻るのだろう。バイロンとは元々は因縁のあった仲、先日のことで改めて臣下には下ったものの、この宰相がリチャードやエチエンヌ、ジュダのように良心を捨ててまで自分に忠義を尽くすとはシェリダンも当然思っていない。それを望むわけでもない。ただ、手駒は多いに越したことはないと考える。
 交通の便と言うものは常にその国の経済を左右するもので、エヴェルシードも街道の整備には力を入れている。荷運びから旅人まで馬車の行き交う道は平らにならされ、蜘蛛の巣のように分岐・連結して王都内、ひいては全国内に広がっている。ただし不祥事は起こらないよう、それぞれの街と街の間に関と呼ばれる検問と街門をしいて、交通が整備されているが故に賊に街の中を荒らされるなどと言う事が容易には起きないようにしている。シェリダンはこれまで王城の外に出たことはそれこそ数えるほどしかないのだが、そのたびに街と道の様子には気を配っていた。先月のローゼンティア侵略の際にもこの辺りには異変は見受けられなかったはずだ。
 馬車の旅は平穏無事、快適に続いてあっという間に王都の暗がり、下町と呼ばれる地域に辿り着く。ここは一応、表向きは反王権派でありながら真実はシェリダンに与するクルス=ユージーン候の領土と境界を接している。有事の際には王の所領である王都シアンスレイトから兵を派遣するより、ユージーン侯爵から派遣された方が遥かに早く辿り着くような距離だ。
 そして、街の様子は当然のことながら、シアンスレイトの中心地よりも寂れている。人々の生活臭ばかりが漂い、陰湿な空気はないのだが華美で豪奢な王城附近の活気とは無縁の街だ。
「ここからは馬車が使えませんので、どうぞ歩きで」
 バイロンの案内にしたがい、シェリダンたちは道を歩く。両側の建物の隙間の路地から、薄汚い格好をした子どもたちがこちらを興味深そうに眺めてくる。シェリダンはフード付きの外套を纏って顔を隠し、バイロンを先頭に飲食店の並ぶ界隈へと足を進めた。まだ昼間であるからか、それらの店は予想したほどの活気ではなかった。夜になれば酒が入り、もっと混沌とした愉楽の気配が漂うであろう店々も今は看板を飾って並べるだけとなっている。
「もう少しですよ」
 気ぜわしげに幾度も後ろを振り返り振り返り、ゆっくりとした歩みでシェリダンを案内していたバイロンが通りの向こうに屋根の望めるある建物へと目を留めて、そう告げた。一つ道を曲がり、路地の中へと入る。建物の隙間を潜り抜けるようにして、先程よりさらに細い道へと出た。
「ちょっとバイロンさん! こんな汚い道、陛下がお通りになるなんて……」
「あそこです」
 泥と埃まみれになってぼやくエチエンヌの抗議は無視して、バイロンは一つの建物を指差して声をあげた。
 赤い屋根。茶と見紛うような濃い臙脂色に白い文字の看板。夜になれば橙色の炎が灯るのだろう、入り口脇に釣り下げられた、小さな細かい細工の洋燈。入り口までの短い階段は広く、脇には小さな鉢植えが置かれて名も知らぬ可憐な花が飾られている。鉢は酔っ払いの足にでも蹴られたことがあるようで、ところどころが欠けていた。
 炎の鳥と赤い花亭。
 その名の通り、壁に取り付けられ店名を示す大きな看板の横には橙色の鳥が、道に立てる分の看板には赤い花が描かれている。
「新しい建物ですね」
 エチエンヌが言った。バイロンは感慨深げにその建物の概観を眺める。焼けた木材、瓦礫の残骸はとうに片付けられてもその店が一度破壊されたという事実は変わらない。古くくすんだ街並みの中で、不自然に新しい建物。それもやがては古くくすみ街の様子に違和なく馴染むようになっていくのだろうが、だが。
 シェリダンは懐に入れてきたあるものを意識する。このために今日はここに来た。
 バイロンが店の扉に手をかけ、ゆっくりと力を込めて開く。昼間であるからか、店内は薄暗く一つの明かりもついてはいない。窓から差し込む陽光だけが頼りで、窓枠の部分だけ暗い、四角く切り取った白い陰が焦げ茶色の床に落ちている。
「いらっしゃい。まだ酒は始められないが」
 店の一番奥、カウンターの中にいる男が言った。こちらには目もくれず、俯いてグラスを磨いている。昼間でも二、三人の客が入っていて、中の一人が扉に手をかけた宰相の姿に気づいた。
「バイロン!」
「何だって?」
 その声に続々と人々が集まり始める。シェリダンたちは中へと足を踏み入れ、窓の外から顔を出した男は外へと叫ぶ。
「おい! みんな来てみろよ! バイロンだぞ! 俺たちの宰相殿が来たぜ!」
 騒ぎに反応してカウンターの中にいる男も顔を上げた。エヴェルシード人特有の、蒼い髪と橙色の瞳。
 シェリダンはフードを脱ぐ。男の顔が驚きに染まる。
 叔父であるその男は、シェリダンに似ていた。

 ◆◆◆◆◆

 嫌な予感が、するんだ。
「どうするの? ロゼウス王子」
 目の前にいる少年は気味が悪くなるくらい優しい声で尋ねてくる。
 ここから外に出してあげる。
 その代わり、シェリダン王を助けて。
 彼が提示したその条件に何の意味があるのか。何故、シェリダンを助けねばならないのか。助けねばならないようなことが、起こるのか……?
「うん、そう」
 声に出してもいない問いかけに世界皇帝の弟だと自称する少年、ハデスは答えた。額に落ちる黒髪をかきあげながら笑う。
「酷いなぁ、自称だなんて。僕は正真正銘、世界皇帝の弟だよ?」
「なっ、どうして……っ」
「君の考えがわかったのかって? 僕、多少人の心の中が読めるんだよね。だから、それで」
「そんな力が……」
 心を読み取る。
 そんな力を本当に使える人間などいるものか。いくら皇帝の弟だとは言っても。それとも、そういうことができるからこそ皇帝の弟を名乗れるのか。
 世界皇帝。
 それはこの世界を統べる神の名。
 かつて、一人の人間が混乱と争いに満ちたこの世界を治めたのだという。その一人は後に初代皇帝となり、神の代行者とも呼ばれるようになった。不老長寿にして強大な力を持つ、その他のことは何もかもが謎に包まれている最初の一人。
 皇帝は血筋によって選ばれるものではない。それは天が、いるとも知れぬ神だけが決めることだ、と言われている。世界の人々が知っているのはこれだけだ。
 皇帝は神の力を持つ。
 その存在は希望にして絶望。皇帝には選定者という従者がおり、その皇帝を選ぶ者は、体のどこかにその徴が現れるというが、定かではない。
 世界は一つの帝国だ。それぞれの領地が世界中の王国で、皇帝はその王たちを纏める長でもある。
 あのシェリダンですら、皇帝の前では頭を垂れるのだろうか。何故、彼が皇帝の弟などと知り合いなのだろうか。
「ああ、僕とシェリダンはもともと知り合いなんだよね。だから今回も姉さんが僕に様子を見てこいってさ。それで、どうするのロゼウス王子?」
 ハデスに促されて、ロゼウスは思考を元へと戻す。外に出る代わりにシェリダンを助ける。
「シェリダンが、どんな目に遭うって言うんだ?」
「まあ、一言で言うとあと一歩で死にそうな目だね」
 そして皇帝の弟だと名乗った少年は告げる。
「君も王子であったのなら、僕についての噂の、有名なものくらいは聞いているだろう? 僕には、未来を見る力がある」
 そう、その話はロゼウスも知っていた。今代の皇帝は見目若く麗しい女帝。その皇帝には、よく似た弟がいる、と。
 《冥府の王》ハデス。
 皇帝の弟の存在を有名にしたのは、その名だ。《黒の末裔》である彼は、不思議な力を持つ。その一つが、此岸と彼岸を結びつける力だ。ハデスには、黄泉の国から死者や数多の化物を連れてくる力があるのだという。ロゼウスがカミラを一度生き返らせたように本人の精神を元のままに甦らせるのではなく、魂のない死体だけを思い通りに操るという、グールと呼ばれるものに近いらしい。似たようなことは一部のヴァンピルにもできるが、そもそもヴァンピルの術は相手を自らと同じヴァンピルに変えるための術である。黄泉の国の人間以外の魔物まで連れてくるハデスの術とは違う。
「…………?」
「どうしたの? 心象が疑問に変わったね」
 僕は相手の心を文章のように読むんじゃなくて、相手と同じように感じることでその心の動きの大体のところを知るんだ、と事も無げに言い放つハデスのことばを聞きながら、ロゼウスはふいに訪れたその感覚について考え込む。
 なんだろう、俺は何かを忘れている。そして今、その大切な何かを思い出しかけたような。
 だがその違和感とも疑問ともつかぬ、喉の奥に何かが支えたようなもどかしい感覚を解く糸口も見つからない。
 自分は今何を考えていた……?
「まあ、思考に耽るのは後にしてさ、さっさと質問に答えてよ。僕の予言が正しいならシェリダン王は今日、間違いなく命の危険に瀕するはずなんだからさ」
 言われて、ロゼウスはつかみかけた謎の欠片を手放し、返答しようと口を開きかける。だがどう言っていいのかわからない。自分が何を言いたいのかわからない。
 《冥府の王》ハデスには、もう一つの異名がある。
 《預言者》
 未来を見通すその力が、まず貴族たちの間で知れわたった。ハデスの予言はよく当たり、皇帝もその予言を安定した治世を敷くための助けとしているとか。
 だから、彼が「シェリダンが危機を迎える」と言えば、それは確かなことなのだろう。
 そしてそれは。
「その、シェリダンの危険は、俺が行けば回避できることなのか?」
 皇帝の弟―――役職で言えば、帝国宰相。彼は薄く酷薄に笑う。
「率直に言うなら、君が行ったところで彼が襲われるという運命自体は変わらない。だが、その命を救えるのはたぶん、この世に君一人だけだよ」
「襲われる?」
 暴漢に? 反王権派だという貴族に?
 そして何故、それを止められるのがロゼウスだけなのか。わからない。ロゼウスには未来なんて見えない。つい数ヶ月前まで、まさか故国が滅びるなんて考え付きもしなかった。今こうして女物のドレスを纏い、それまで顔も知らなかった同い年の隣国の王の花嫁として夜毎寝台に侍る羽目になるなんて、思いつきもしなかった。今だって夢のように思っている。
 けれど、確かにこれは現実である。目覚めるたびに慣れない空に昇る朝日と、肌を合わせたシェリダンの熱がそれを鮮やかに伝えてくる。
 シェリダン……。
 普通の人間にしては白い肌、温いような、熱い体温、けぶる長い睫毛は少し憂いがちに伏せられていて、上気した頬が薔薇色に染まる。この体を組み敷く細いのに力強い腕と、長く繊細な指先、夜色の髪、炎の瞳。
 この身に口づけるその唇。
 彼と共に堕ちていくと決めた。自分たちは共犯者だから。共に同じ罪を犯し、同じ人を傷つけた。そして彼の瞳が湛える孤独と絶望の色は、いつかの自分によく似ていた。
 手に入らないのなら壊してしまえと一生叶わないのならば永遠を紡ぐ世界こそ滅んでしまえばいいと。
 けれどもしも、その彼が死んだら。
 彼が死んだら、ロゼウスは自由になれる。ローゼンティアに帰ることだってできるだろう。シェリダンがいなければカミラも死んでしまった今この国の王位は途絶え、エヴェルシードは混乱に陥りその隙であれば甦った諸侯たちと協力して国を奪い返すのもそう難しいことではない。
 こんな女装をさせられて屈辱的な扱いをされることも、自分の部屋すら与えられずこの部屋に閉じ込められる必要もない。話す相手もローラの他にはろくになく、エチエンヌからは冷たい目を向けられ、リチャードからはいっそ憎んでいるのではないかというくらい無関心な目を向けられる必要もない。
 血を飲めずに渇きに苦しんで、薔薇を求めて彷徨うこともなくなる。ロゼウスは第四王子としての以前の満ち足りて優雅で何も不満などない生活に戻れる。兄妹に会える。家臣に傅かれる。
 シェリダンさえ死ねば。
 毎日のように寝台に侍り、あの熱い肌と交わることも、…………ない。
「――――っ!」
 ロゼウスたまらなくなる。
 憎んで、いたはずだったのに。
「心は決まったようだね」
 見透かしたように……ではない、まさしくこちらの心を見透かして、ハデスが微笑む。シェリダンもよく冷笑や苦笑を浮かべるが、その彼とはまた違った意味でよく笑う少年だ。子どもの無邪気な笑顔とは違って、一概に明るいからと言って油断はできないのが難点だが。
「俺は、行く」
「シェリダン王を助けるんだね」
 そう言われると、何か違う気がする。ロゼウスはシェリダンを助けたいとか、そういう気持ちを持っているのとは少し違う。守りたいではもっと違う。そんな感情ロザリーやミカエラやカミラに向けたことはあっても、間違ってもあの男に向けるようなものではない。
 ただ。
 ただ、俺は。
「シェリダンを殺すのはこの俺だ」
 そうなんだ。俺は、俺が全く知らない、手の届かない場所でシェリダンに死なれるのが嫌なのだ。
 だってあんたを憎んでいるのは誰よりもこの俺なのだから、その心臓を永久に止めるのは俺でないと。
 彼を殺せる人間なんて世界にはいくらでもいるだろう。彼を殺したいと思っている人間はさらに多く、彼を怨んでいる人間などはとうてい数え切れはしないだろう。
 それでも、どんなにその人々がシェリダンを憎み、殺したいと願っていても、最後にとどめを刺すのはこの自分だ。
 それが共犯者であり仇でもあり、それ以外の何か、言葉にならないような感情を共有する相手であるシェリダンに対する、ロゼウスのたった一つの決意だ。
 それまでは彼を誰にも殺させはしない。
「まあ、思考の方向性については今はまだ突っ込まないでおくよ。それよりも、じゃあさっさと出ようか。シェリダン王たちに追いつかなくちゃいけないし」
「ああ」
 ハデスは再びローブを着込み、どこからか怪しい杖のようなものを取り出した。黒い金属で作られ、幾つにも別れた先端が再び絡まりあう不思議な杖。
 そして彼はロゼウスに向かって右手を差し出す。ロゼウスは同じく右の腕を伸ばし。
「連れて行ってくれ」
 しっかりと彼の腕をとった。