025
先日道で拾った少女をそのまま店員の一人にした。街に戻ってきたばかりで店を開く。建物の手配だけは別の街にいる間にしていたから問題はないが、わからないのは雇い入れる人間と、その人数だった。
フリッツの記憶にあるあの店は、広かった。今、全く同じ大きさで建ててもらったはずの店内がやけに狭くなったように感じる。いきなり土地が広くなったわけでも、業者が大きさを間違えたわけでもない。両隣の建物はあの頃から変わっていないというのだから、いきなりこの場所が広くなったりそういう間違いがあるわけはない。
フリッツは十八年ぶりにこの街に帰ってきたんだ、とようやく感じる。木材とニスの匂いは新しく、看板はやけに色が明るかった。以前その場所にあった建物と全く同じように作ろうとして、自分が細部を覚えていないことに愕然とした。うろ覚えの記憶を頼りに再現した『炎の鳥と赤い花亭』は、十八年前この土地にあったものとは全く別物だ。
「変わってしまったね。まあ、仕方ないことだが……」
店に来た客の一人がそう言った。父親が生きていた頃、店主だった頃の馴染み。今は老人となった彼の言葉がフリッツの胸をつく。
失くしたものは取り戻せない、永久に。
仕方がない。本当にそうだ。だってどんなに外側を取りつくり完璧な店を建てたって、そこにいる人間は違うのだ。父も母も姉も、あの頃、この店にいた人間はもういない。だったら拘るだけ無駄なのに、それでもこうして面影と呼べるものにだけでも縋り付きたくなるのは人の性か、己の弱さか。
「お前も変わったな、フリッツ」
男がしみじみと言った。二件隣で小間物屋を開いている老人だ。自分を眺めて、感慨深そうに言う。
「立派になったな……と言ってやりたいところだし、立派になったとも思うんだが……正直、わしは驚いたよ。お前、やつれてないか?」
そうかもしれない。
だが頷きはしない。
「そんなことねぇよ」
あの頃は使いもしなかった乱暴な口調が板についた。男なんて成長すればみんなそんなものだとは知っているが、自分だけがあんな特別な体験をしたからだと思えてならない。
それを振り払うようにフリッツは首を払い、給仕にと雇った少女の名を呼ぶ。
「ロー」
「はい、マスター」
目隠しをした白髪の少女が、見えていないはずなのに何処に何があるのかすぐにわかるようで、グラスをトレイの上に乗せてお客へと渡しに行った。
カウンターで顔を合わせている男たちは彼女を見て、感嘆の声を上げる。
「凄いな、あの子。全く見えてないんだろ?」
「ああ、だが、気配やら風の動きやらで、物の形と大体の動きはわかるとか言ってたな」
「おいおい、そんなことの出来る人間がいるのかよ」
「しかも、あの……」
「白髪か……なんでも、相当苦労したって話だが……」
実は、それは疑わしい話だと思っている。
フリッツがこの、ローと名乗る少女を拾ったのは一週間にもまだならない数日前のことだ。店はシアンスレイトについたらすぐ開店できるように整えてもらっていたから今日で二日目の開店だが、ローとはこの街へ入った街道の脇で出会った。霧の中、幽鬼のように突然馬車の前に飛び出してきた、薄汚れた格好の少女。
彼女は故郷で酷い目に遭い、目が見えなくなったのだと言う。だから目元は目隠し用の布を巻いているのだと。そして白髪もその時に色が抜け落ちてしまったというが。
本当にそうか? フリッツはローの白髪を見るたびに思う。
「なあ、なんであの子目元に布なんか巻いてるんだ? いくら目が見えないったって、あれじゃ怪しい上に不都合じゃないか?」
「ああ、あれは目に薬草を塗って治療しているんだそうだ」
「でも、惜しいよなぁ。輪郭とか鼻とか唇だけ見ててもさ、あれで目隠しを外したら結構な美人じゃないのか、あの子」
「ああ、そうなんだろうな」
そうなんだろうが。……生憎とフリッツは美人に興味はない。
彼の姉は美人だった。彼女は十八年前に亡くなった。全てと引き換えに欲しくもない国一番の美女の称号を得て、まもなくして亡くなった。
だからフリッツは美人など見たくはない。
その人が不幸になるのを見たくはない。
だからと言って、フリッツの姉が何らかの偶然によって不幸にも死んだのに、他の姉に勝るとも劣らない美人が幸せに生きているのも見たくはない。だからどちらかと言えば、フリッツは美人が嫌いなのかもしれない。
フリッツの今まで知った女の中で一番美しかったのは姉だった。幼心に、自慢だった。それが絶望に変わったときの虚しさは言いようがない。
だから、フリッツは別に道で拾った少女が美人であろうがあるまいがどうでもいい。いっそ二目と見られない醜女であればいいとさえ思う。目元以外のあの顔立ちからしてそれは決してないだろうが。
それ以上に気になるのは、ローの髪の白いことと、白い手だ。白髪や手先は出会った時は確かに薄汚れていて、今は少し荒れているし傷も多いが、その髪の艶やかさも、手のひらの柔らかさも下町の娘ではありえないことだった。もっと裕福な街の……金持ちの娘? あるいは貴族かもしれない。
そんな少女が何故こんな場所でこんなことをしているのか。白い髪はさらさらと美しい。それは貴族の娘であるという可能性と共に、もう一つのことを示している。
ローのあの白髪は、生まれつきのものではないのか?
色が抜けたにしては、見事な白髪。ところどころ銀が混じっているようにすら見える。言うならば白銀の髪。しかし、白銀の髪を持つ人間などいるものか、いるとするならば。
つい先月、この国が侵略した隣国ローゼンティアの――ヴァンピル。
「いや、まさか……な」
「どうしたんだい? フリッツ」
「なんでもありません。すみませんね。……ロー、それが終ったら部屋に戻っていいぞ」
「いいえ、マスター。私、まだ働けます。ここにいてはいけませんでしょうか?」
「いや……そうか。それなら、いいんだが」
ローはカウンターの中へと戻り、フリッツの隣に静に佇んでいる。
いい子なのは知っている。大人しくて、か弱げで、目が見えないから感情の動きが知りがたく一見無愛想にも思えるが、始めこそ警戒心の強い様子も見せていたが……笑い顔がとても愛らしい、いい娘だ。
今はローがこの店の唯一の店員だ。だから大事にしてやらねばならないだろうと思う。間違いなど起こしそうにない娘だ。何か不幸にでも遭ったのだろう。フリッツの姉のように。
日が暮れて人が増えてきた。この辺りは酒場が少ないし、あの事件のあとは酒場を経営するのも敬遠されていたらしい。続々と店に入ってくる、懐かしい顔と新しい顔。
「この辺も少しは変わっただろう」
「ええ。とは言っても、あの頃はまだ子どもだったものでそんなに詳しく覚えているわけではないんですが」
先日、フリッツのために街門を開けてくれた警備員もやってきた。
「よぅ」
「この建物、誰が建ててたのかと思っていたんだが、お前だったんだな。知らなかったよ。一度も経営者が見に来てなかったし」
「悪いな。驚かせたくってよ」
あの頃のことは、この下町の者全員に共通する悪夢だ。だからこそそれを払拭するために、同じ店で、同じ名前で……いや、他人をダシに使ってはいけないな。誰よりも自分自身が、あの辛い記憶を忘れたかった。辛くて幸せな記憶を……。
「バイロン!」
突然、誰かが叫んだ。
「何だって?」
その声に続々と人々が集まり始める。バイロンとはこの下町出身の男で、今は四十になるという年齢の、この国の宰相閣下だ。
「おい! みんな来てみろよ! バイロンだぞ! 俺たちの宰相殿が来たぜ!」
宰相となった今も時々はこの街に帰って来ているという彼は今も人々の馴染みだ。扉に手をかけて店内に入ってきたのは、確かにあの懐かしいバイロンだった。幾度か手紙のやり取りはしたが、会うのは実に十八年ぶりだ。
彼がもしも先王にこの町近くを通ることを進言しなければ……。
一時期はそんな話も出た。長ったらしい謝罪の手紙。
あんたのせいじゃ、ないのにな。フリッツは宰相を見ようとして……その隣にいる人影へと視線を留めた。フード付きのローブを着ている、細身の陰。
そのフードを外した顔を見て、フリッツは瞠目した。
「ヴァージニア……!」
思わず叫ぶと、店内が静まり返った。全員が入り口に注目して、フリッツ同様その顔を見て度肝を抜かれる。
藍色の髪、朱金の瞳、白い肌、赤い唇、通った鼻梁、孤をかく柳眉。
「違う」
出てきた声は、高く澄んだ姉の声とは違った。少し低いが通りよい、少年の声。
「それは十七年前に死んだ、我が母の名だ」
「あんたは……」
フリッツの姉は死んだ。十八年前に当時の王に攫われ、十七年前にその子どもを産んで三ヶ月で果てた。
そしてその時の王子は、今はこの国の王となっているはずだ。
◆◆◆◆◆
シェリダンは懐に抱えていたものを意識した。店内は静まり返り、彼の前には自然と道ができている。バイロンが恭しく頭を下げて脇に退き、シェリダンはカウンターまでの短い道を歩く。
「あんたは……この国の王か?」
カウンター内の男、この店の店主が直球で尋ねて来た。シェリダンは頷く。
「そうだ」
店内の緊張感がさらに増し、そこかしこで酒を楽しんでいた男たちは息を潜めている。まだ時間帯が早いせいか、泥酔している者はいない。元々今は酒場として開店してはいけない時間帯だ。早々と集まった者たちは店主の顔馴染みであるようで、その縁で軽くグラスを傾ける程度の酒精を味わっていたのだろう。
シェリダンが現れたことに素面の人々は動揺を隠せないでいるようだ。ただ彼が来ただけならばここまで動揺もしないのであろうが、傍にはバイロンがいる。この界隈では馴染みの男がかしこまった態度で控えている様子。それが一種の威圧となる。
シェリダンはカウンターの前に立った。叔父である男はシェリダンより背が高い。僅かに目線の高いその男の顔を見上げる。
「一国の王様がこんなちっぽけな酒場に何の用だ?」
「酒場に用があるわけではない。あなたに用が会って来た」
「俺はエヴェルシード王と知り合いになどなりたくない」
「知り合いにはならなくても血縁にはなれるということだ」
叔父である男が不審げに片眉を上げた。確かジュダ=イスカリオットの報告に寄ればこの男の名はフリッツ。
シェリダンの母の弟だ。
「王としてここに来たわけではない、と言う事か。では何をしに来た。甥御殿」
こちらの意図を察して言葉遣いを改めることなく自然体――もっとも完全な自然体というわけではあるまいが――で話しかける男の様子に、数少ない客たちはすでに度肝を抜かれている。バイロンは背後に佇み厳しい顔を崩さぬままであるし、エチエンヌとリチャードもシェリダンがよいと合図するまで発言は差し控えている。
シェリダンは懐から、城から馬車でここに来るまでずっと抱えていたものを取り出す。
叔父が訝しげに眉を顰めた。
シェリダンが取り出したのは、一冊の古い本だ。いや、本というには正確ではない。白い頁が続き、突然疎らに文章の綴られているあまりにも適当で不可思議な……日記。その中を開いて背表紙の裏側に書かれた名前を見せると、フリッツ=ヴラドは初めて大きな感情の揺れを表に出した。シェリダンの手から日記を奪い去る。普通なら不敬罪に当る行為だが誰も彼を咎めない、何よりも自分がそれを許す。
彼の行動は当然だ。シェリダンはそれを眺めすぎて、今では僅かに癖のある女文字を映像として脳裏に焼き付けるほど眺めた署名を反芻する。
ヴァージニア。
「それは、私の母であり、あなたの姉であった人の日記だ」
シェリダンの差し出したそれを、フリッツが受けとる。
「読めるか」
「ああ。読むだけなら俺にもできる」
平民は文字を読めない人間が多い。他国では義務教育と言う名で国民全てに教育を施すということもなされているようだが、生憎とエヴェルシードにはまだそんな機能もそれを達成する施設もない。だが、どうやら叔父が文字を読めないのではないかというのはシェリダンの杞憂だったようだ。明らかに内容を理解している目で、フリッツは視線をそれなりの厚さ持つ日記帳の紙面へと走らせている。
彼はしばらく日記の頁を繰っていたが、やがてある箇所で手を止めた。
亡き母の持ち物は城に全て残されていて、シェリダンは埃を被ったそれらの中からある日これを発見した。その時から数年間、機会があるごとに幾度もその文章を目で追い指でなぞったものだから内容は全て頭に入っている。当然、叔父がどの箇所で手を止めたかもわかった。
この日記には王宮に連れてこられてからのヴァージニアの全てが書き込まれている。字などろくに書けない庶民の娘が、好きでもない男に無理矢理攫われ嫁がされた不満を、どこで覚えたものか習いたての文字で必死に書き綴った日記。日記と言うものの使い方自体を知らなかったのか、怒りに任せて筆を走らせたためか、その頁はばらばらで、手当たりしだいに白い面を見つけては書き綴ったという感じだ。そして順不同の最後の日付は、それは彼女が死した前日まで続けられている。
この日記にはヴァージニアの死の真実が書かれていた。
シェリダンはそれを知り、その処分に困り、誰にも言わずに今日まで来た。だが。
「……なんてことだ」
叔父は目元を手で押さえ、もう片方の手では日記のある頁を開いたまま項垂れた。重い空気に耐え切れなくなった客たちは次々に席を立ち店を後にして、あとには数人の客だけが残される。
そして叔父は目元を押さえたまま、絶望の呻きを漏らした。
それはシェリダンがこの日記を初めて読んだ時と同じ反応。
「ヴァージニアは自殺したのか……! それも、第一王妃の迫害に耐え切れずに」
先王の正妃ミナハーク。カミラの母親。
シェリダンがずっと、妹に対して複雑な感情を抱き続けたのはこのためかもしれない。