026
あの日、全てが失われた日。
ロザリーは見ていた。危険だから隠れていろと、大好きな兄は私をあの広間から追い出した。自分は最後までいやだと駄々をこね……彼は笑った。わがままを言わないで。きっとまた会える。
ロザリーはそれを信じた。大好きな兄上。彼女が自分より更に幼い妹を連れて出て行ったのは本当に戦闘が始まる直前で、大勢の隣国の兵士たちが城へと押し寄せてきた。荒々しい音を立てて広間に敵が入ってきたところで兄に閉め出された。
入ってきた敵は一面赤い徽章をつけていて、その中で特に大柄と言うわけでもないけれど、一際目立つ人が一人いた。
その姿は眼に焼きついている。今思えば、あれはきっと敵の大将――エヴェルシード王だったのね。
そしてその後、彼女は死んだ。
◆◆◆◆◆
「ヴァージニアは自殺したのか……! それも、第一王妃の迫害に耐え切れずに」
フリッツが呻く。悲壮な声だった。悲しい思いをした人はいつも同じような響の声をあげる。
「宮中での第二王妃への嫌がらせは苛烈を極めたのだろう。もともとが市井の人間であると言う事は、それだけ宮中の貴族たちの反感を買うことになる」
「この近郊を治める反王権派の成り上がり者、ユージーン候のようにか?」
「……まあ、そのようなものだ。さらに、彼女は私を、第一王子を産んだ」
フリッツは先程やってきた客と話し込んでいる。
顔を合わせるなり二人がしたやりとりが、彼女は気になって仕方がない。
『一国の王様がこんなちっぽけな酒場に何の用だ?』
『酒場に用があるわけではない。あなたに用が会って来た』
『俺はエヴェルシード王と知り合いになどなりたくない』
『知り合いにはならなくても血縁にはなれるということだ』
エヴェルシード、王?
それは敵の名だ。ロザリーたちの国を攻めた。父上を殺した。私を殺した。
そして私の、世界で一番大好きな兄上を奪った。
それが、その暴虐の王が何故こんな下町の酒場に? マスターと知り合い? 血縁? どういうこと?
ロザリーはエヴェルシード王国のことについてよく知らない。ただ、二ヶ月ほど前に王が若い王子へと代替わりしたということを兄たちが取りざたしていたことぐらいしか知らない。彼女自身は、これまで隣国のことになど興味はなかった。他国と縁戚を結ばないローゼンティアでは国外の王侯貴族の話などしても意味はなかったし、まさか攻め込まれて破れるとも思っていなかった。
あの日のことは、まだ夢を見ているよう。それも比類するもののない悪夢で、彼女はまだ暗い闇を彷徨っている。
「……あんたが生まれたことが、ヴァージニアの死の原因だと言っているように聞こえるが」
フリッツと客の話は続いていた。ロザリーの知らない名前が飛び交う。
「ああ。そうだろうな。エヴェルシードの王権は男子継承の慣例だ。第二王妃ヴァージニアは正妃ミナハークよりも先に王の子どもを産んだ。それも、継承権を持つ男子の第一子を。王の寵愛を独り占めする第二王妃に腹が立ったのではあろうが……」
客の言う事はよくわからない。自分のことを話しているのならもう少し感情が入るものではないのか、淡々としていて。文脈から行けばそうであろうということも本当にそれでいいのか自信がなくなる。
ただ、会話の流れを聞いていると、どうも。
この声……どこかで聞いたような声だ。気のせいかもしれない。兄弟が七人もいるから男の声なんて聞きなれていると思ったけれど、年頃の少年の声なんてどれも同じものかもしれない。でも、それでも、やはりに似ている。
心臓が締め付けられるように痛み、早鐘を打ち出した。
「さして顔を合わせたこともない相手だが、あれも愚かな女だ、正妃ミナハーク。第二王妃だけを先に殺してどうなると言う。どうせなら王子を殺さねば、自分の子に王位が継承されないだろうに」
他人のことのように告げる声は乾いて熱を持たずひたすらに冷めている。だが、冷めているからこそそこにはある種の皮肉が混ざっている。
これはもしや、千載一隅の機会ではないだろうか。
ロザリーは静かにカウンターから抜け出た。目が見えなくても物の気配と、動いた時に跳ね返る小さな音と風の流れでおおよその位置はつかめる。この店の作りにも一日経てば慣れた。マスター・フリッツはとてもいい人。こんな怪しい自分を何も言わずに泊めて、雇ってまでくれたのだから。
感謝はしている。誰彼構わず八つ当たりたいわけではないし、民が王の言葉に逆らえるわけがないということも知っている。
驚いたのは、彼と、この新しい客との関係だった。下町にどうして一国の王が来るの?
マスターと、血縁関係だからなの?
この人が死んだら、マスターは悲しむかしら? ……悲しむでしょうね。家族は遠い昔にみんな亡くしてしまったと言っていたから。
けれど駄目だった。ロザリーももう、これ以上自分を抑えきれない。
ロザリーの家族が死んだのはつい一月ほど前。ほとんどの兄妹はともかく、父と母にはもう二度と会えない。そして、兄妹の最後の一人の行方がわからない。エヴェルシードに攫われたと、彼女を甦らせ姉が教えてくれた。だからロザリーは彼を捜しに出て……。
彼女たちの国の民の瞳の色は酷く目立つから、国境を超えた辺りでは目に布を巻いた。動きにくいけれど仕方がない。検問を避けて聳え立つ外壁をよじ登り首都へと入ったところで、フリッツに拾われた。
着の身着のまま、何も持たず、もうロザリーの手のひらには何も残っていない。
あるのは、ただまたあの人に会いたいというその気持ちだけ。それだけで、彼女は千の山も億の海も越えて見せる。だから。
そして疑惑を確信へと裏付ける、運命の言葉が口にされる。
「それで、当代エヴェルシード王シェリダン陛下、あんたの用はこれだけか?」
「ああ」
呼んだ。はっきりと。そして答えた。王と呼ばれて。エヴェルシード王シェリダン。政治に疎いロザリーでもその名前は知っている。二ヶ月前にエヴェルシードで代替わりし、新しく玉座についた少年王。
――私たちの国を滅ぼした敵!
あの日、兄の肩越しに見た広間の光景、一段と目立っていた若く美しい少年の―――。
ごめんなさい、マスター。
「シェリダン様!」
いち早く気づいたのはそれまで気配はしていたけれど行儀よく一言も喋らないでいた、たぶん、王族の連れる小姓の一人だろう、王よりもまだ若い少年。その彼が咄嗟に庇ったらしく、ロザリーの攻撃はエヴェルシード王に当らなかった。
行儀悪く舌打ちする。
「ロー!?」
フリッツが呼んでいるけれど、もうその声に答えるわけにはいかない。ロザリーは、ローであってローではないから。その名は嘘ではないけれど、兄や他の兄妹たちに呼ばれるための愛称だ。
ロザリーの攻撃と同時に小姓の少年が放っていたらしい刃がこめかみをかすり、彼女の目元に撒いた布を切った。輪になったそれが切られたことにより足元へと落ちて、視界が鮮明になる。
露になっただろう、ヴァンピルの赤い瞳。
相手はロザリーを見て驚いていた。彼女の視界にはフリッツは入っていないし、酒場の他の客もどうだっていいが多分驚いている。けれどそれ以上に、攻撃された少年王とその小姓、侍従らしき青年と確か、バイロンと呼ばれていた客の一人が驚愕に目を瞠っていた。
この顔だ。
ロザリーは少年王を睨みながら、あの日のことを思い出す。広間に侵入してきた敵、その総大将と、目の前の顔は同じ。華やかな悪夢のように美しくて、彼女にとっては忌まわしい以外の何者でもない。
ロザリーは先ほどエヴェルシード王を攻撃した刃――鋭く尖らせた自らの爪を構える。そうして敵意を露にしながら、瞼の内側に焼きついたあの日の光景を、正面を睨みながらぐっと思い返す。
「ロゼウス」
ふと、少年王のその口元から求めていた名前が零れた。
ロザリーは逆上する。もしも姉が伝えたことが真実なら、兄を攫ったエヴェルシードとはこの人に他ならない。
「私はロザリー=ローゼンティア」
そしてそんなことは絶対に許さない。許せないから。
「暴虐の王よ! 死して我が父我が民の痛みを思い知れ!!」
私はこの王を、殺す。
◆◆◆◆◆
「お逃げください、陛下!」
「クルス!?」
かけられた声は、本来この場にいないはずの人間のものだ。
シェリダンは母の日記を渡すために赴いた叔父の経営する酒場で、血走ったような赤い瞳に、鋭く尖った爪を刃物のように振り回して攻撃を仕掛けてくるヴァンピルの少女に襲われた。
酒場の入り口の方から新たに現れた気配が細剣でそれを弾く。その青年に庇われ、シェリダンはヴァンピルの少女から距離をとった。文官であるバイロンは役に立たないが、エチエンヌやリチャードはただの兵士以上の実力は持っているし、シェリダンだとて腕に覚えがないわけではない。マントでできるだけ隠しながら腰に佩いていた剣を抜く。
「ユージーン侯? 何故ここに!?」
「説明は後で。宰相殿」
後でとは言うが、この近隣を治めているクルス=ユージーン侯爵がここに来た理由はわかっている。どうせジュダからシェリダンがここへ来ることでも聞いて、警備のために潜入していたのだろう。バイロンは驚いているようだが、エチエンヌとリチャードは尾行の気配に気づいていたようだ。
エヴェルシード国内有数の剣の使い手と名高い彼が来てくれて、助かったというべきか。
「やめるんだ、ロー!」
カウンターを回ってきた叔父が叫ぶ。先程まで目隠しをして瞳の色を隠していた白髪の少女は、フリッツが雇ったであろうこの酒場の店員であった。
こんな偶然があるとはな。
皮肉なものだ。今日、ここで人死にが出る。誰もが無傷で帰れるとは思っていない。白髪の少女は恐ろしく強く、刃物のように鍛え抜かれた鋭利な爪の斬撃にあのクルスが苦戦を強いられている。
フリッツの言葉にも耳を貸さず、少女はまず邪魔者から片付けようと、クルスに攻撃を仕掛ける。両者とも一撃一撃が致命傷を狙った必死の攻防で、他者には手が出せない状況だ。
客たちは机の下に潜るか、窓から建物の外へと逃げ出て、とうに避難している。ただ一人残って、フリッツは先程までよくできた店員であった少女と突然乱入してきた青年の乱闘に手も出せず右往左往するばかりだ。
「下がっていろ」
「しかし、ローは」
「あなたにはどうにもできまい」
エヴェルシード王と『炎の鳥と赤い花亭』はつくづく相性が悪いとでもいうのか、すでに流血の惨劇となっている。
特殊な得物を使うエチエンヌが攻防の隙を見極めてクルスに加勢する。彼が使う特殊なワイヤーが少女の体をからめとり、その動きを封じた。できた隙と動きが止まって無防備な急所にクルスが剣を刺す。ずぶり、と肉に刃の埋まる鈍い音がして、少女の体が一瞬弾かれたように揺れた。
「ロー!!」
フリッツが絶叫する。すでに彼女の腹部は流れた血で赤く染め上げられている。これで終わりだと誰もが思った。
だが
「ッ!」
「!?」
人間であれば致命傷であるはずの深手だろう少女は、敵意と殺意をむき出しにした紅玉の瞳で剣の柄を握るクルスをきつく睨んだ。その眼光は瀕死と言うにはあまりにも力強く、震えもせず動いたか細い腕が、手のひらを傷つけることも構わずに刀身を握った。新たに血が流れる。
「っ、抜けな」
「クルス!」
少女の手が押さえた剣先がびくともせず、得物を手放すことを躊躇ったクルスの、それが隙となった。
「――っ!!」
エチエンヌのワイヤーをも無理矢理引きちぎった少女が先程とは逆に自分が動けなくなったクルスの脇腹に強烈な蹴りを見舞う。
決して華奢ではない青年の体が軽々と吹っ飛び、酒場の扉を突き破って店の表へと投げ出された。
「クルス!」
こちらからでははっきりとした様子は見えないが、仰向けに倒れた彼の口元で赤が散るのが見えた。血を吐いたのだ。肋骨が折れて肺に刺さったのかもしれない。
「くそっ!」
邪魔者を一人片付けた少女が今度はこちらへと狙いを定める。そうはさせじとエチエンヌとリチャードが一斉にその華奢な体へと飛びかかる。しかし少女は今度はエチエンヌのワイヤーに動じることもなく力押しでリチャードの剣を弾き飛ばすと、その顎を下から蹴り上げた。リチャードがその場に昏倒し、エチエンヌが目を瞠る。素早く懐から取り出したナイフをその目に向かって投げ、見事に命中させる。
「きゃぁあああああああ!!」
左目を射られた少女が絶叫する。だが、貫いた刃を自らの手で引き抜くと、残った右目でエチエンヌを激しく睨んだ。血とも瞳の色ともつかぬ濃い紅でその顔面が染め抜かれ悪鬼の如き形相になる。
少女は一度地を蹴っただけの一瞬の跳躍でその距離を詰める。左腕にまきつきたるんだワイヤーを気にもせず。さすがのエチエンヌも反応できず、少女は彼の胸倉を掴んで、逆の壁際へと片手で投げ飛ばした。
「エチエンヌ!?」
華奢な体を思い切り壁に激突させられたエチエンヌが意識を失う。壁の一部は衝撃で破れ、物凄い音を立てた。少年の金髪が乱れ、後頭部からじわじわと血が流れ出す。まずい。間違いなく頭を打っているだろうし、下手をすれば頭蓋が陥没している。そうなれば手の施しようがない。彼よりは軽傷だろうとは言え、クルスとリチャードも危険な容態だ。
「お逃げください! 陛下!!」
バイロンは今にも飛び出しそうな顔をしているフリッツをカウンターの奥へと引きずりこみ、庇っていた。
シェリダンは片手に剣を提げ、ヴァンピルの少女と睨み合う。自らの肉体に傷を負うことをものともせず暴れまわった少女の体は血に濡れ、服は破れ、長い髪は乱れてまるで幽鬼だ。クルスの剣に腹部を貫かれ、リチャードには胸の辺りを袈裟懸けに斬られていたにも関わらず、幽鬼のような少女はしっかりとした足取りでそこに立っている。
そして少女がシェリダンとの距離を詰める。シェリダンは剣を構えた。しかしその次の瞬間には、何の意味もなさなかったと思い知る。
「っ……ぐっ!」
素早く距離を詰めた少女は、こちらがいつ触れたのかもわからぬ間にシェリダンの喉首を両手で掴んで締め上げていた。咄嗟に剣から手を離し両手の指先を滑り込ませていたが、そんなものでは足りない。人間にはありえない強い力で首を締め上げられ、シェリダンは声もあげることができない。
シェリダンより背の低いはずの少女の細腕が彼の体を持ち上げ、宙吊りにされた形になる。自らの体重で余計首が絞まる羽目になる。
「がっ……あ!!」
視界が赤に青に黒の砂嵐に入り混じり、酸素のいかない脳が痺れ、少女の手を拒むために滑り込ませた指先が万力で締め付けられたように痛んだ。痛みと苦しみが同時に襲い、このまま行けば確実に首の骨を折られるどころか握りつぶされ、首自体を引きちぎられそうだという背筋の震える想像が頭を過ぎる。
視界は鬱陶しいくらいにチカチカと点滅し、もはや何もはっきりとは見えない。その中で、シェリダンの首を絞める少女の顔が笑っていたのは見間違いではないはずだ。
ロザリー=ローゼンティア。
自分の首を絞める少女はそう名乗った。
白い肌に白い髪、血のような赤い瞳はヴァンピルであるローゼンティア人の特徴だ。そしてこの驚異的な身体能力と、致命傷を負っても軽々と動ける不思議も、人間ではありえない。
そして何より、シェリダンはその名に聴き覚えがある。
『ドラクル、ロザリー』
まだ出会って間もない頃、ロゼウスが口走ったその名。確か一番仲の良い妹だと言っていなかっただろうか。
では、この憎悪に身を焼き、殺意をむき出しにし、なりふり構わずシェリダンを殺そうとするこの少女こそがローゼンティア第四王女か。
その顔は髪の長さを除けば、気味が悪くなるほど女装したロゼウスにそっくりだ。
「…………!!」
口内に唾ではなく泡が溜まり、意識が遠くなる。首に激痛が走り強力に押さえ込まれた指の下で骨の折れる感触を確かに知った。
死ぬ。
そう思った。これはもう覆らないことだと。けれど。
「だめだ、ロザリー!」
その瞬間聞いたのは、とても耳に馴染んだあの甘い声の、悲痛で必死な響きだった。