荊の墓標 06

第2章 薔薇の下の虜囚(3)

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 その光景を見た瞬間、ロゼウスは咄嗟に飛び出していた。
 そして今、腕の中に気を失った妹を抱きながら、シェリダンに剣を突きつけられている。
「何故」
 低く、いつもより掠れた声。
 シェリダンの折れた首の骨はすぐにロゼウスと同行していた《冥府の王》ハデスが治療した。酒場の外で倒れていた青年も、瀕死の重傷を負ったエチエンヌも、昏倒していたリチャードも治療されて、今はこちらを一歩離れた場所から見ている。
 何かあったらすぐ動けるように。
 ロゼウスがシェリダンに刃を向けたら、すぐ攻撃に移せるように。
「何故、お前がここにいる?」
 傷を癒されたシェリダンの首筋には跡すら残らず、ロゼウスは血まみれで意識を手放したロザリーを抱きしめたため、両手が真っ赤だ。血の色。顔にも胸にも服にも血の染みがあり、彼女は酷い怪我を負っている。
「どうして、お前が私を助ける」
 どうして、だろうな。
 ハデスにシェリダンを救うよう言われるまでもなかった。体が勝手に動いていた。ロザリーがシェリダンを吊り上げて首を絞めている光景を見た瞬間、ロゼウスが飛びかかりその動きを封じた相手はシェリダンではなくロザリーだった。妹の方だった。
『ロ、ゼ?』
 床に押さえつけた相手の真っ白な顔色を見て、その気になればロゼウスにもやすやすと抵抗することができるだろう怪力を一瞬だけ感じて、気づく。
 ヴァンピルの失血症状。普通の生き物より多量の血を必要とするヴァンピルは、一定量の血を失うと飢餓状態に陥り自我が薄れて身体能力の制御を失い、吸血鬼本来の破壊と殺戮衝動に身を任せるようになる。
 目にする生き物全てに襲い掛かり、その肉体を千路に引き裂いて溢れた血を啜るようになるのだ。
 ロゼウスは一ヶ月以上前、確かにこの妹の体を埋めた。そして最近、死んだはずの兄妹たちが甦ったのを知った。一度死んでまた生き返ることは、魔族である彼らでも相当の力を必要とする。
 この妹は、甦って以来血の一滴も飲まずにここまでやってきたのだろうか。
『ロゼ……ロゼウス』
『ロー、ロザリー』
 ロゼウスを見て急に正気を取り戻したらしい瞳からぽろぽろと透明な涙が零れる。
『会い、会いたかった……・ロゼ、ロゼ、私を置いていかないで! もう二度と離れないで!!』
 ロゼウスは妹の体を抱きしめた。力を失った体は弱まり、傷を癒すこともできない。ロザリーの胸と腹部、瞼を刺し貫き眼球を穿った傷痕は無残に残るままだ。そして今こそ正気に戻っているが、このまま血を飲まねばまた我を失い、今度こそ本能のままに殺戮を繰り返す化物となるのみだろう。
 ロゼウスは妹の唇にそっと口づける。口づけで血を分ける。
 ロゼウス自身もそう余るほど力の残っているわけではないが、最近シェリダンから血をもらったばかりだ。
 ロザリーの傷が癒える。ひとまずそれを確認して安堵した。視界の端では先程から《冥府の王》《預言者》と呼ばれ不思議な力を持つ皇帝の弟が他の負傷した人々の治療に努めており、シェリダンやエチエンヌが次々と起き上がるのが見えていた。
 唇を離して顔を上げた自分の目の前に立つ気配。
 こちらを見下して睨む朱金の瞳。
「何故」
 突きつけられた剣先。ロゼウスは腕の中の妹の体をきつく抱きしめる。
「何故、お前がここにいる?」
 破壊された店内は悲惨な様子で、あちらこちらの壁に穴は開き窓は割れ、カウンターも真っ二つにされている。これを全てロザリーがやったのだとすれば、シェリダンが殺されるというハデスの言も強ち間違いではない。現にロゼウスが駆けつけたとき、妹は目の前の男を絞め殺すところだった。
「どうして、お前が私を助ける」
 いっそロザリーにシェリダンを殺させれば、ロゼウスにとっては敵が消えて妹と共に国に帰ることができ、最高の状況が生まれたに違いないのに。
「あんたは、死にたかったのか?」
「いや」
「なら、いいじゃないか」
「…………」
 珍しく言葉少なに、シェリダンが押し黙った。締め付けられた喉が治療の終った今でもまだ痛むのか、襟元を剣を持たないもう片方の手で押さえている。
「シェリダン様」
 背後に立つエチエンヌがシェリダンを呼んだ。彼はこの場で誰よりも酷い格好をしている。傷は治ったが流れた血が消えるわけでもなしに、見事な金髪は血で真っ赤に染まっていた。
 だが、シェリダンは彼の方を見ようともしない。まっすぐロゼウスに視線を向けている。
「その娘は、ロザリー=ローゼンティアと名乗った」
 ローこと第四王女ロザリーの本名は、ロザリー=テトリア=ローゼンティア。
「お前の妹、第四王女だな」
「ああ」
 ロゼウスは頷く。シェリダンの前でこの妹の名を口走ったこともあるし、過日求められて兄妹たちの話もした。
 まさか妹とこんな形で再会するとは思っていなかったが。
 あちらこちらが崩壊した酒場で、シェリダンはロゼウスに剣を突きつけたまま言う。いや、彼が実際に剣を突きつけているのはロゼウスではなく。
「その女は、国王暗殺未遂の罪人だ」
 ロザリーが。シェリダンをエヴェルシード王だと知ったからか、彼を殺そうとしていたロザリー。彼らの国を滅ぼし、父と母たちを殺し、ロゼウスたち自身も彼の手によって一度は殺された。
 憎んでも憎み足りない相手に刃を向けることは、果たして罪か。
 けれどここはエヴェルシード王国。シェリダンの治める国だ。
「陛下のお命を狙った者なんて、普通は極刑だな」
「死罪ですね」
 エチエンヌと、ロゼウスの知らないエヴェルシード人の青年、店の表で倒れていた彼もハデスの治療で目を覚ましたらしく、エチエンヌと共にロゼウスの腕の中のロザリーを敵意のこもった眼差しで睨み付けている。
「その女を渡せ、ロゼウス」
「いやだ」
 ロゼウスははっきりと答えた。シェリダンは表情を変えないまま続ける。
「その者は罪人だ。今すぐにでも死刑に処すことが必要だ」
「駄目だ、そんなこと許さない」
 いくらヴァンピルでも、そう何度も生き返ったりできるわけではない。ロゼウスの母親の生家であるノスフェル家は《死人返りの末裔》と呼ばれ特に甦りの力が強い一族だが、ロザリーはそうではない。そう何度も死んで生き返るようなことなど、させてはならない。
 何より、この妹を今更失うなんてロゼウス自身がいやだ。
「どうしても嫌だと言うか、所詮死んでも生き返る魔物のくせに死が怖いか」
「あんたこそ、臨死の苦しみも知らない脆い人間のくせに死を語るな」
 彼らヴァンピルは、一度でも死に至るあの痛み悲しみ苦しみを知っているからこそ、死を忌避する。二度と生き返ることもできない人間にヴァンピルの何がわかる。
「ロザリーは殺させない。殺すなら、俺を殺せ」
 ロゼウスならば仮にもノスフェルの血をひく以上、一度や二度の蘇生ぐらいやってのける。
 シェリダンが鼻を鳴らした。
「どうせ生き返るくせに、何が殺せ、だ。わかっていないのはどっちだ。死んでも生き返るお手軽なヴァンピル風情が。普通の人間に比べて初めから一度の人生に命を二つも三つも詰め込まれてきた魔物が」
 一袋に一つも二つも詰め込まれ叩き売られている果実のように、安上がりな命だな、と。
「っ! シェリダン!!」
「取引をしろ、ロゼ王妃」
 ロゼウスの激昂を鼻先で挫く形で、シェリダンがそう告げる。
「取引?」
 この男のこの言葉には、ろくな意味がないとすでに知っている。今も身に纏うのは女物の衣装。この女装がその実証だ。
「そうだ。お前はその女の命と引き換えに、その女を私に引き渡せ」
 ロゼウスがローゼンティアの民の命を救うために自らの人生の自由を捧げてシェリダンの王妃となったように、今度はロザリーを、命を救う代わりに奴隷にしろと言うわけか。それも本人の承諾なしに。
「でなければ、その女は殺す。もともと、私はお前以外のローゼンティア王族など生かしておく気はない」
「だから、『王族であること』をロザリーから奪うっていうのか」
 そして命の代わりに魂を売れ、と。
 ロゼウスは数瞬、息を止めて考える。そしてそれを吐き出したときに、答えは出ていた。
「……いいだろう」
 これを知ったらロザリーは怒るだろう。彼を嫌い、憎み、軽蔑するかもしれない。
 けれどそれでも、ロゼウスは妹に生きていて欲しい。こんな形で彼女を失いたくはない。
「取引成立だ。その罪人は私の所有だな。城へ運ぶぞ」
 剣を降ろし、シェリダンはリチャードに向けて顎をしゃくった。心得た青年がロゼウスの方へ歩み寄ってくると、腕の中からロザリーを引き離して横抱きにする。すでに傷は塞がっているから心配はないが。
「俺が運ぶ」
「駄目だ。お前にそんなことをさせたら帰る前に何をするかわからない」
 何もしないと言っているだろうに。
 シェリダンは無理矢理ロゼウスの手を掴み、自分のほうへと引き寄せた。力が込められすぎていて、手首が痛い。
「陛下」
 疲れきって魂が抜けたような声で、カウンターの奥からシェリダンに声をかけてきた者があった。バイロン宰相。いたのか。そう言えば彼もこの旅の随行だとは聞いていたが。
「城へと戻るぞ」
 シェリダンはバイロン宰相に告げ、さらにその隣に立つ男へと視線を移した。つられてその方向を眺めたロゼウスは、妙なことに気づく。
「シェリダンに、似てる?」
 何の変哲もないエヴェルシード人の特徴である蒼い髪に橙色の瞳だが、男の容貌はどことなく自分の手を引く国王陛下に似ていた。
「邪魔をしたな。建物の修理費は後で届けさせる……クルス=ユージーン侯爵!」
「なんでしょう、陛下」
 ロゼウスの知らない名前を呼んで、その場にいた青年に手早く指示を与える。
「この酒場の復旧を手伝え。できるかぎりに早急に。そしてこの損害の賠償を。上手くゆかなければイスカリオット伯あたりを使え」
「かしこまりました。拝命仕ります、陛下」
 そしてシェリダンは再びカウンターの向こう側の男へ声をかける。ばつが悪いというよりなお厳しく、後ろめたいような厳しい顔つきで。
「罪人は引き取っていく。店は元通りになるから心配するな。不足があったらそこのユージーン候に言え。……今日は失礼した」
「待ってくれ!」
 悲痛とも取れるほどの声で、男がシェリダンを呼びとめる。
「ローを返してくれ! あの娘は悪い子じゃないんだ! 頼む! ちゃんと話をさせてくれ!」
 驚いた。ローはロザリーの愛称。男はロザリーの知り合いなのか。
 だがシェリダンは男の訴えをにべもなく断った。
「それはできない」
「国王!……いや、甥御殿!」
 甥? つまり、この男はシェリダンの叔父? こんな下町で小さな酒場を営んでいる相手が?
「それでも、駄目だ。私は……エヴェルシードの王であるから」
 ただのシェリダン=ヴラドではない。今、ロゼウスの手を引いているこの男はシェリダン=ヴラド=エヴェルシード。
 この国の王。
 そのまま後は振り返らず、シェリダンはロゼウスを引きずりながら店の外へと出た。
「待ってくれ! 王! 陛下! シェリダン王!」
 男の悲痛な叫びはいつまでも追ってくる。店の表に無理矢理乗りつけるようにして馬車が運ばれていた。入り口まで駆け出してきた男は、馬車の窓に縋り付いてまで叫んだ。
「ロー!」
 御者台に座ったリチャードが、無慈悲に馬に鞭を当てる。土煙と共に、辺りの景色が動き出し、遠ざかっていく。定員オーバーの馬車の中、ロゼウスは膝の上に気を失ったままのロザリーを抱きながら。
「ロー!」
 いつまでも止まないその声を聞き続けていた。