029
ロゼウスはまともな意識のある妹と、一月半ぶりに向かい合う。
ロザリーはエチエンヌに手を引かれてシェリダンの部屋へと入った途端、瞳に涙を溜めてロゼウスへと抱きついてきた。
「ロゼウス!」
何の悪意も含まない声音で久々に名前を呼ばれた気がする。発音は変わらないのに、シェリダンたちだって人の見ていないところでは遠慮なく本名を呼ぶのに、家族に呼ばれるそれとは全く別の響を持っていた。
「ロザリー」
「ああ、ロゼ! どうして、どうしてこんな……」
ロゼウスの背中に両腕を回し、力の限り抱きしめてくる。ロザリーはロゼウスとほとんど背が変わらない。血乏状態ではないから、非人間的な怪力は発揮されていない。締め付ける腕の力は、切ないほど優しかった。
「どうして女の服なんて着てるのよ! ロゼウス、王妃ロゼって何!? 誰!」
「ロザリー、俺は……」
この事態を妹に、それもこの妹になんと説明したものか。
「ロザリー……他のみんなは、どうしてるだろうか」
「……わからない。私は……私が目覚めた時には、ルースお姉様だけがいたわ。お姉様が私を起こしたの。そしてロゼがエヴェルシードに攫われたって教えてくれた……」
「ルース姉上が」
第二王女ルースはロゼウスと同母の姉だ。つまり、ロゼウスと同じ《死人返りの末裔》。性格は控えめで引っ込み思案なのだが、死者蘇生の能力は誰よりも強い。
その姉が生き残っていたならば、他の兄妹たちの蘇生も完璧に叶っているはずだろう。死者の蘇りは一歩間違えれば死体が動くだけの亡者人形となる。けれど、ルースがそれを間違えるはずはない。
「ねぇ、ロザリー……じゃあ、兄上は」
ロザリーの肩が揺れた。ロゼウスから体を離し、真正面から見据える。今のロゼウスは女装姿の《ロゼ王妃》状態で、目線も容貌もさほど変わらないロザリーとは双子のように見えているはずだ。
鏡のように。
「ドラクル兄上は、どうし―――」
「あんな男っ!」
その名を出した途端、ロザリーが眉を吊り上げ顔色を変える。
「あの男、第一王子はあの襲撃の日にもいなかったのよ! どうしていつも肝心な時に姿を消すの!? 雲隠れみたいに! あの時だって……!」
ロザリーがあの時というのは、ロゼウスが第二王妃にドラクルと間違えられて絞め殺されそうになった時。普段はあんなにそばにいたのに、あの時だけは姿を消して、後から現れた。
その時からロザリーはドラクルへの不信感を募らせている。
「ロザリー、ドラクルは……」
「知らないわよ! あんな奴!」
それきり、妹はそっぽを向いてしまう。
「話は済んだか?」
ところで、ここはいつもの通りシェリダンの私室だ。つまり、シェリダンもローラもエチエンヌもリチャードも……みんないる。身内の話は内密に、とか、久方ぶりの再会なのだから二人で話せるよう取り計らう、など、囚われの身には一切許されない。
何でも王族御用達特製防音扉なので、何でもかんでも言いたい放題だから内密の話はここで、ということらしい。逆に言えば、ここに入れる者というのはこの国の最大重要機密を知ることができる者でもあるらしいのだが……今は単なるシェリダンの寝室でロゼウスの寝所だ。
先日、ロゼウスのせいでシェリダンの奴隷からさらにエチエンヌの妻とまでされてしまったロザリーは、こちらの心配が杞憂で終わるぐらい元気だ。さすがのエチエンヌもロザリーには敵わなかったのか? ローゼンティア最強の女性、無敵の第四王女、白刃の女武闘家と呼ばれるロザリーなだけはある。
「そろそろ私の妻から離れてもらいたいのだが、ローゼンティア第四王女殿」
嫌味ったらしく妻を強調したシェリダンに声をかけられて、ロザリーが先程よりさらに鋭くまなじりを吊り上げる。
「何よ! この侵略者! 一体私たちの国に何の恨みがあるっていうのよ! 即位したばかりのひよこ王なんてぴぃぴぃぴぃぴぃ自国の中で囀ってなさいよ! 勝手に人の家に入り込んで喧嘩まで売ってくるんじゃないわよ!!」
「ひよこ王?」
初めて聞いたその呼称に、シェリダンの片眉が危険に吊り上げられる。
「待っ、シェリダン! ロザリーはまだ回復したばかりで」
妹の性格上止めて止まるものじゃないとわかっているので、シェリダンの方を制そうと彼と妹の合間に体を挟む。すると、シェリダンは軽くロゼウスの腕を引いて素早い手際で自分の体の正面へと抱きこんだ。ロザリーに背を向けてシェリダンと向かい合う形だったのに、シェリダンに背中を抱かれてロザリーと向かい合う形になる。
「え?」
「は?」
「ロ、ロゼウスを人質に取るつもり? そっちがその気ならこっちにも考えがあるわよ!」
それっぽい体勢にさせられたロゼウスを見て、ロザリーが部屋の隅に控えたローラの方へとちらりと視線を走らせながら言う。ロザリーの呼称を一つ忘れていた。手段を選ばない女。
だが、シェリダンは思いもかけない方法へと出た。
「ひあっ!?」
「ロゼ! ちょ、この変態王何やってるのよ!」
思わず変な声をあげてしまう。脇腹を撫ぜるように手を当てられ、耳をくわえられてロゼウスは顔面に朱が昇るのを感じる。
「なななっ、シェリダン、あんた何を!」
「お前は私の妻だろうが。夫が触れて何が悪い。しかもここは私の寝室だ」
「そうじゃねぇ!」
「ふざけんじゃないわよこの変態! ロゼを放しなさいよ! なんで男のくせに男を妻にするとか真顔で口走ってんのよこの変質者! アブノーマル! そんなに男が好きなのこの変態!!」
「ああそうだ」
こともなげに頷くシェリダン。
「女などきゃんきゃんわめくばかりでうるさい。剣の腕もないのに口だけは達者だ。顔だってお前とロゼはたいして変わらんのだから私がこれを選んで何が悪い」
「あのぅ、私も女なんですけどシェリダン様……」
成り行きを見守っていたローラが部屋の隅でぽそっと零す。
「お前は別だローラ。口は達者だが腕は立つ。胸もない」
「わぁい、ありがとうございます。最後のは余計ですけど!」
シェリダンは貧乳好みなのか? そう考えているところに、胸をまさぐられ着衣の上から乳首をつねられる。
「ひっ、あ」
「もっとも、私は女に興味はないがな」
だめだ。体中触られてそろそろきつい。体が火照り、息が乱れ。
「も、やめ……あん」
「わ、わかったわよ、引き下がるわよ、ここは」
ロゼウスの様子が少しまずいのを見て取り顔色を変えたロザリーが降参の印に両手を挙げた。顔は思い切り悔しそうで、下唇をきつく噛んでいる。
「そうか。大人しく納得したのならそれはよかった」
シェリダンは素知らぬ顔でロゼウスを抱いていた腕を放すが、ロゼウスは体中が火照って満足に息もできない。心臓がどくどくと嫌な鼓動を打ち、一人で立っていられなくてシェリダンの肩に縋り付いて顔を埋めた。
「ロゼウス……」
「ごめん」
シェリダンの肩に顔を埋めたまま、卑怯だとは思いつつ告げた。
「俺は、この人と行くと決めたんだ」
「――あんなにドラクルが好きだったくせに」
大好きな兄上。誰よりも、誰よりも。
愛している、ドラクル。血のつながった実の兄を。その想いは今でも消えない。例え裏切られたとしても。
「だから、なのかも……」
ロゼウスの言葉に、シェリダンが小さく首を揺らした。ロゼウスの顔を見て、口元をきつく引き結ぶ。
「……これで、話は終ったな」
「私」
「お前はそこにいるエチエンヌ=スピエルドルフの妻となれ。口答えは許さん。お前が余計なことをするなら、ロゼウスの身も保証はできないな」
「こ、の」
「――下がれ、薄汚い吸血鬼ふぜいが」
暴言に、ロザリーが形相を歪める。だが、何も言えずにただロゼウスを見る気配。顔を、上げられなかった。
「――いいわ。妻にでもなんでもなってあげようじゃない。薄汚い吸血鬼に血を吸われて、せいぜい後悔しなさい! 非力な人間風情が!」
叩きつけるように叫び、ロザリーが部屋を出て行った。エチエンヌが後を追い、ローラとリチャードも出て行った。
二人以外に誰もいなくなった部屋で、シェリダンがロゼウスの体を寝台へと叩きつける。不意打ちを喰らって、咄嗟に動けない。起き上がろうとしたが、すぐさまシェリダンが体の上に覆いかぶさってくる。
「―――先程のことは、どういう意味だ」
ロゼウスは兄を愛しているからこそ、この男の妻になったのだ。
◆◆◆◆◆
「かわいいもんだねぇ」
エヴェルシード王付きの侍従に給仕をさせながら、ハデスは午後のお茶を楽しむ。客人の身分でありながら城の主に放って置かれているんだから、このくらいしてもいいだろう。
「そう思わない?」
「何が、でしょうか?」
蒼い髪に橙色の瞳と言う典型的なエヴェルシード人の容姿を持つ青年が、困ったように僅かに眉をしかめた。
「シェリダンが、だよ。王妃陛下のことに、あんなに夢中になっちゃって、ね」
わざわざ彼を下町まで送り、ここにいるリチャードや小姓のエチエンヌ、その場にいたユージーン侯爵クルスの怪我まで治して差し上げたというのにハデスが昨日から放置プレイなのはそのせいだ。シェリダンは新妻が可愛くて仕方ないらしく、皇帝領からの客人のことなど忘れているに違いない。まあ、正式な使者ではなく、ハデスはこういう性格だ。そういう意味では気にはしないが。
「ねぇ、可愛らしいと思うでしょう?」
別の意味では気になるのだ。実の父親を幽閉し、妹にその父を殺させて罪を着せ、自殺へと追いやったほどの男が隣国から向かえた姫君に夢中だなんて。
しかもすでに華燭の典は挙げているから正式な夫婦であり、さらに驚くべきことには、花嫁は実は王女ではなくて王子、正真正銘の男だ。
実に面白いことになっている。
「可愛らしい、と申しますか、我らが主は、一たび手に入れたものについては完璧に全てを管理せねば気がすまない御気性でして」
つまり、シェリダンはもともとの性格が仕切り屋で神経質なんだね。あの麗しい眉をしかめてわざわざ自分のもの以外の仕事まで完璧にこなそうと頑張るのだから、全く持ってお可愛らしいとしか言いようのない王様だ。
「そうなんだ。ふーん」
勝手に問いかけて勝手に納得するハデスに、リチャードは薄気味悪そうに目の光を強くした。顔の筋肉がわずかに緊張しているようだ。
ハデスがよく言われるのは、何を考えているのかわからないということ。
いつも笑顔で、薄気味悪いということ。
たぶんいろいろな事情を抱えた人間が集まるシェリダンの周りでも、一番不可解な存在に違いない。他の人々のハデスの扱いに狼狽する様子が手に取るようにわかり、彼はこっそりほくそ笑む。
「ハデス卿にかかれば、シェリダン様も可愛らしいの一言ですみますのね」
リチャードの妻であるローラが、眉間に皺を寄せながらそう言った。彼女とそっくりな双子の弟であるエチエンヌは、今は昨日即行で決められた妻、ローゼンティアこちらは正真正銘の第四王女ロザリー殿下の手を引っ張って、自分の部屋へと駆け込んでしまった。そちらもそちらで何やかやと大変なようだ。
「もちろん君も可愛らしいよ、ローラ。そうだね、今晩の夜伽役に借り受けたいぐらいだ」
「ハデス卿! それは……っ」
悪ふざけをしたハデスの言葉に血相を変えたのは、口説かれたローラ本人ではなく、その夫であるリチャードの方だった。ローラ本人は。
「それはどうも」
眉間に寄せた皺を一層深くしながら、そう答えた。彼女は謙遜とは無縁のタイプだ。しかも実際に美人が多いと言われるシルヴァーニ人の中でも際立った容貌で、人目を引く少女である。男からの世辞など言われなれているだろうし、愛してる等の言葉は傍らで土気色の顔をしている旦那から毎晩でも囁かれているに違いない。
「冗談だよ。こんなところで女遊びしてたなんて言ったら、姉さんになんて言われるか」
「で、ハデス卿。そろそろ本題に移りたいのですが」
「いいよ。まずはそちらからどうぞ」
ハデスがここにいるのは、何も彼らに紅茶を淹れさせるためだけではない。シェリダンがお取り込み中で仕方がないから、忘れない内にこの二人にも事情を話して、ハデスの見たものを覚えておいてもらおうと思ったのだ。
《預言者》。
《黒の末裔》、《冥府の王》とも呼ばれるハデスを有名にしたのがその名。
ハデスが見るのは、今とは別の時間。これからの運命を左右する過去。これからを紡ぐことで導かれる未来。その幾つかを垣間見て、ハデスはその道筋を言葉にする。
だけど、まずは彼らの話したいと言ったことにも耳を傾けないとね。
「何故、ロゼ王妃を下町へと連れて行ったのですか? その際にあなたは何を取引したのですか? そして、あなたはシェリダン陛下が危険に遭うのを知ってらしたのですか?」
ローラが立て続けに問う。現皇帝の弟は気まぐれだと有名で、だからこそ誰もがハデスの表面上の動きに関しては気にするけれど、その内面について深く問うことはない。
さて、この場合はどう誤魔化したものか。
「せっかくみんなで城を空けていたようだから、これを機に美貌の王妃様とお近づきになろうと思ってね。聞けば、外へとなんとか出たいという話。僕もシアンスレイト城下を見たかったし、美人と二人旅も悪くないかと思って」
リチャードは無表情だが、ローラは全く信じていない様子で口元を引き結ぶ。
「真面目に答えてください」
「やだなぁ、これでも真面目のなのに」
嘘は言っていない。ただ、順番と重要度が逆なだけだ。あらかじめ目的があってそのついでにロゼウス王子と取引し、城下町見物へと繰り出しただけだ。
その目的をまだ、この国の人々に……いや、この世界の誰にも知られるわけにはいかない。
「シェリダンが危険な目に遭うのはわかっていたよ。ただ、諸々の事情あって、その運命がよほどでなければ覆らないこともわかっていたし、彼を止めても無駄だってことも僕は知ってる。だから止められそうな人を連れて行こうと思っただけだよ。幸い、あの王妃様は随分外に出てみたかったみたいで、それと引き換えにしたらあっさりシェリダンを助けることを了承してくれちゃった」
きっと取引などしなくても、あの王子ならばシェリダンを助けただろうとは思うけれど。
ローラがハデスをじっと睨み、嘘をついていないかどうか見極めようとする。負けじとハデスはにっこり微笑む。周囲からは得たいが知れないと、薄気味悪いと言われるこの笑顔。
「…………わかりましたわ」
何とか誤魔化せたようだ。
「とりあえずそういうことにしておきます。けれど、これからはあの王妃について勝手な行動は、いくら貴方様でも謹んで頂きたいのです。もしも正妃の正体がローゼンティアの王女ならぬ王子だなんて知れたら、シェリダン様は身の破滅ですもの」
「わかってるよ、ローラ。いくらなんでもそんなへまはしない」
そう、そんなへまはしない。
何故ならロゼウスの宿命を歪めるためには、彼とシェリダンを貶めるのではなく、共にいさせることこそが破滅への一歩だとハデスは予言したのだから。あの二人はゆっくりと惹かれあいながらも、その道を共に行くことで滅亡する魂なのだから。
ハデスは口元を歪める。
いつも笑みを浮かべているから、その種類が変わったことになど誰も気づかない。鋭いといわれるこの目の前の二人でさえ。
さあ、宴の始まりだ。
思う存分、その胸の暗黒に狂うがいい。