030*
「それで、ハデス卿のお話とは?」
「ああ、それは……」
◆◆◆◆◆
固まっていて一網打尽にされるよりは散開して一人でも多くが逃げ延びようと。
先行の兵士を退け小屋を飛び出した彼らは、走りながらも打ち合わせた。
アンリがエリサとウィル、一番小さな二人を逃がすためにその護衛を引き受ける形となった。アンやミザリーは、自分たちが留まり少しでも足止めをする気だったのだろう。一番後ろを走っていた。
普通なら逆だろうと思う。まだ十歳を超えたばかりのウィルやエリサを生かしてもどうなるものでもない。確実性を狙うならば弟妹を犠牲にしても姉や兄が生き残るべきだと、みんな頭ではわかっていた。でも、それでも兄妹の若い方から生き延びさせたやりたくなるのが家族の心なのだ。
この中で一番強く、王位継承に最も近いアンリも国にとっての重要性は高い。だからこそ彼に末の弟と妹を任せた。アンは他の兄妹を庇って死ぬ気だったのだろう。
ヴァンピルの寿命は長い。だからこそ余計に人々は体を鍛え、身を守る力をつける。修行時代が長いから歳が上であればあるほど、もちろん個人差はあれど一般的に強い。
「ヘンリー、そなたもさっさと逃げい」
「嫌です。でしたら姉さんこそお先にどうぞ」
兄姉たちの心を察して、末っ子の二人は涙を堪えながらアンリに先導されて逃げた。一番年長のアンリも、自分の立場をわかっているからこそ妹弟たちを見捨てて逃げるという決意をした。
もはやエヴェルシードの兵士の姿までも明らかだ。残っているのは第三王子であるヘンリーと、第一王女アン、第三王女ミザリー、第五王子ミカエラ、第五王女メアリー、第六王子ジャスパー。
「ジャスパー、メアリー、ミカエラ、お前たちも逃げろ」
「メアリー!」
「でも……でも」
「お前たちがいても役に立たない! いや、それよりミカエラを連れて行け」
「兄上!?」
「当然だ。お前は体が弱いのだから」
「だからです! こんな僕が生き残っても仕方がない! それよりも兄上たちが逃げた方が」
国のために。
だけれど。
「弟を殺してまで生き延びたくなんてない。ロゼウスだってきっとそう言うよ」
それでも救いたかった。
ヴァンピルの再生能力はもうすでに知られている。今度こそ彼らは殺されるだろう。二度と生き返ることすらできない永劫の闇に葬られるだろう。
「……わかりました、兄上、姉上、御武運を」
「どうか……どうか、お元気で」
「ジャスパー! メアリー!」
頷いたのはミカエラではなく、第六王子ジャスパーと第五王女メアリーだった。ジャスパーがミカエラの腕を引く。
弟の腕を振り払うこともできず、ミカエラが唇を噛む。
「この先でも兵が待ち受けていることはあるんだ! 一人が捕まったら、その一人を見捨ててでも逃げる決断をしろ!」
「ヘンリー!」
「兄としての命令だよ、ミカエラ」
だが言い争っている時間はなかったようだ。
「!?」
「きゃぁああ!」
目も眩むような閃光が炸裂した。辺りの土が吹っ飛ぶ。
魔術!? だがどこから、誰、が……
「カルデール?」
少し先の地面に馴染んだ面影を見つけてヘンリーは絶句する。
アウグスト=ミスティス=カルデール公爵。ローゼンティア国民でありながら、国を裏切った男。
ヘンリーの最も親しい友人であったはずの男だ。
「お久しぶりです、第三王子殿下」
言って、彼はその手元を振るう。
「うあっ!」
「ぐっ」
「アン姉様! ミカエラ!」
二人の首元に鞭が巻きつく。そして、カルデールともう一人、エヴェルシード人らしい女の下へ引きずられていった。
「何をする! 二人を放せ!」
ヘンリーが叫ぶのも構わずに、アンが声を張り上げた。
「ジャスパー! メアリー! ヘンリー! ミザリー!」
ジャスパーとメアリーがハッとする。次の瞬間、二人別々の方向へと走り出した。
『一人が捕まったら、その一人を見捨ててでも逃げる決断をしろ!』
つい先ほど、ヘンリー自身が叫んだ言葉だ。アンが促し、ジャスパーとメアリーの二人はそれを忠実に守った。本気を出したヴァンピルの身体能力にただの人間が敵うわけはない。みるみる内に二人の後姿が遠ざかる。
「バートリ公爵! あの二人は」
「追って辿り着けるの? あなたたちの足で。放っておきなさい」
ジャスパーとメアリーを追おうと走り出しかけていた兵士の言葉に、ミカエラを鞭で締め上げたまま、けだるげな美女が答えた。どうやらエヴェルシードの大貴族らしく、真紅と紺の鎧が眩しい。
「ミザリー」
「私は……」
ヘンリーは同じようにこの場に残ったすぐ上の姉に声をかけるが、彼女は動かない。
「その方が身のためですよ、お二方」
カルデールが告げる。ヘンリーはその方向を睨む。
「お姉様をこのまま絞め殺されたくなければ、投降してくださいヘンリー。我が親愛なる殿下」
「お前などにそう呼ばれる筋合いはない! この裏切り者が!」
ヘンリーの罵りにもカルデールはどこ吹く風と言った様子で飄々としている。
「ふぅん。面白い趣向よね」
一方、鞭で捕らえたままのミカエラを手元まで引きずって、エヴェルシードの女公爵がこちらを眺めながら指を伸ばす。ぐったりとした彼の体に手を添えて撫で回し、残念そうな顔をする。
「なんだ、こんなに可愛いのに男の子なのね。だったら、ルイにでもあげましょう。そうね」
ぺろりと、艶かしい赤い唇を舐め。
「あなたがいいわ。そう、そこのとっても綺麗なお姫様。弟を殺されたくなかったら、私のものになりなさい」
ミザリーを指して、女は言う。その気狂いじみた様相に恐れをなして震えるが、ミザリーは女の言葉に従った。
兄弟の仲では最もミカエラの体のことを気にかけている姉だ。ミカエラ自身はロゼウスに夢中でそれを知りもしないようだが、ドラクルについていってばかりいるロゼウスより、本当は彼女の方がよほどミカエラを思いやっている。
だからこそミザリーは女公爵の言葉に従い、素直にその人質となった。意識を失った弟の元へ行くと、その体を抱きしめて顔を埋める。嗚咽を堪えて。
「さあ、ヘンリー、あなたはどうするのです?」
アンの首から鞭こそ外しつつ、すぐ側まで引き寄せた彼女を後手に拘束しつつ、カルデールがヘンリーに問う。
「……っ」
「まだ決心してくださらないのですか? もうこの周囲は我らの兵が囲んでいます。今から逃げられるわけもありませんし、さっさと投降したらどうです? 逃げたあなたの妹弟方もすぐにラナ子爵が捕まえてくださるはずですし」
それでも、彼は動けなかった。嫌だ、この男に投降するなど。こんな、自分の信頼を裏切った男などに、いっそこのまま殺してくれた方がどんなに楽か。
だがカルデールはそれを許さなかった。
「ああっ!」
「姉上!」
カルデールは抱き寄せたアンの乳房を服の上から思い切りわしづかんだ。羞恥よりも苦痛にアンの顔が歪む。そのまま柔らかい胸の感触をしばし弄んでいたカルデールが、ふいに胸元から手を離し、襟へと指を添える。喉元をさらけ出させ、口を寄せた。ヴァンピル特有の鋭い牙が覗く。
血を吸う気だ。
「やめろ!! わかった! 投降する! だからもうやめてくれ!」
カルデール公爵家はノスフェラトゥ―――自我を失った死体人形作りに長けた一族だ。血を吸えば相手はノスフェラトゥになる。
「もう、やめてくれ」
体から力が抜け、地に膝をついた。
彼ら四人は囚われた。
「カルデール、何故こんなことを?」
エヴェルシードの軍勢とカルデールの私兵に辺りを囲われる中、ヘンリーはかつての友人に尋ねた。放心状態で立ち上がることもできないヘンリーに、彼は囁いた。
「あなたが欲しかったのですよ」
彼はただ愕然とした。
◆◆◆◆◆
しなやかな指が腹を撫でる。ロゼウスは兄の腕に身を預け。
『あ、あっ、あああああああ』
いつもくたくたに疲れて襤褸布のようになるまで抱かれた。その時間だけが、日々の甘い蜜。もちろん明るみに出てはただではすまない、究極の秘め事。
『兄上』
『名を呼べ、ロゼウス』
『兄上……ドラクル兄様ぁ!』
涙ながらに叫ぶと、長兄が口元を歪める。ロゼウスの中に自身を埋めたまま、褒美のように口付ける。
ロゼウスは恍惚としながら、また兄の名を呼ぶ。
ドラクル、その意味は竜。
蝙蝠の翼と蛇の鱗を持ちながらそのどちらにも似つかない優美にして残酷な生き物の名。
『ロゼウス』
ロゼウスはドラクルに自分の名を呼ばれるたびに、背筋にぞくぞくと快感が走るのを感じる。
ロゼウス。その意味は、薔薇色。
だが、ドラクルは違うと言う。ロゼウスの上で笑みを浮かべながら、囁くように告げる。
ロゼウスは薔薇の下の虜囚だと。
ロゼウスの名前は兄がつけた。長兄であるドラクルがどうしてもと父母に願ってつけた名だと言う。ロゼウス。薔薇の虜。だが、例えどんな意味だとしても、彼がつけたものだと思えば、この名すら愛しい。
『もっと呼んで、触って、犯して!』
気が狂うくらいに。いや、もうすでに狂っている。ロゼウスはドラクルが欲しくて欲しくてたまらない。父も母も同じこの実兄だけをただ望んで生きてきた。父よりも母よりも他の兄妹たちよりもかつての婚約者よりも、ただこの兄が愛しい。
女だったら良かったと思ったこともある。そうすれば、同父母の兄妹ではもちろん結婚することなどできはしないがそれでもドラクルの子を孕むことはできる。そうすればどれだけ幸せだろうかと。
肛門を満たし体温で温み、どろりと流れ出してくる欲望を感じながら考えた。
『もっと、して、もっと』
『淫乱だな』
辛辣な言葉を投げられるたびに一層熱が高まった。
もっと、もっと責めて。
責めて、攻めて、身体の奥の奥、腹を突き破り心臓すら侵すくらいの勢いで犯して欲しい。
ロゼウスは兄の白い胸と、汗を滴らせる綺麗な輪郭をよく覚えている。
背中はあまり見ていなかった。だが、忘れられないできごともある。
『兄上?』
ある日の昼、ロゼウスはドラクルの部屋にいた。課題の歴史をやりながら、部屋の主である兄の帰りを待っていた。しばらくしてドラクルは戻ってきたが、上着を脱いだその背に、ロゼウスは信じられないものを見た。
『ドラクル!』
鞭打たれたような傷だらけの背中。
『これ、一体どうして!』
『騒ぐ必要はないよ。ロゼ。どうせすぐに塞がるのだから』
破れたシャツを脱ぎながら、ドラクルはこともなげに告げる。
『でも』
いくらヴァンピルの傷の治りがただの人間とは比べ物にならないほど速いとは言え、それでも傷ついたら血を流すことには変わりないのだ。痛みを感じる事は、普通の人間と全く変わらない。
『誰がこんなことを!』
転んで怪我をしたという傷ではもちろんない。これは人為的なものだ。だがこの国で一、二を争う重要人物、第一王子にこれだけの傷を負わせられる相手など思いもつかない。そんなことをする者がいれば、即刻極刑は確実だ。だがドラクルがわざわざ人に見られぬよう上着を被って帰って来たということは、それはドラクルが告発できないような相手なのだ。
そんな相手は思いつかない。いや、一人だけ思い当たるには思い当たる相手がいる。だが、その人がそんなことをするわけがない。
『心配してくれるの? ロゼウス』
『当たり前だろ! ドラクル、どうして……』
兄上はまるでそれが日課でもあるように傷が消えるのを待ちながら、淡々と服を着た。
そしてロゼウスを抱き寄せると言った。
『そんなに私が可哀想だと思ってくれるなら、お前が慰めてくれる? いつものように』
ロゼウスは兄の言葉に従い、その足元に跪いた。顔を兄の股間に近づけ、彼のものに手を伸ばし、ゆっくりと口に含む。ぴちゃぴちゃと卑猥な水音をさせて、丹念に舐める。奉仕する。
『ふ、ふふふ』
ドラクル?
『ふふふ。あははははははは!』
何がそんなに楽しいのか、ロゼウスに奉仕をさせながら長兄は天を仰いで笑い出した。
◆◆◆◆◆
シェリダンの傷だらけの背中を見て、ロゼウスは真っ先にこのことを思い出した。
『ヴァンピルの傷は魔力さえ足りていればすぐに治るから……』
『だから、お前のような者は嫌いなんだ』
ヴァンピルの傷はすぐ治る。だから、よっぽどの大怪我で弱っている時でなくては、すぐにその痕まで消えてしまう。
あの時、ドラクルの背にあったのは鞭の痕らしき傷。あれはその場限りのものに見えたけれど、もしかしたら毎日同じように鞭打たれていたのではないか。すぐに消えて跡形も残らずとも、その傷は確かに存在したのではないか。
ローゼンティアは歪みの一族なのだと、かつて姉が言っていた。同母の姉第二王女ルースではなく、長女、第一王女のアン姉上だ。
彼らは誰しも、何かの歪みを抱えている。その狂気を後生大事に抱えて生きて行く。
『……ねぇ、ロゼウス。お前はずっと私の傍にいるんだよ。そうすれば、今にこの国を全て、お前にあげる』
かつてそう言った兄上。
『決して裏切るな』
では何故、あなたは俺を裏切ったのか。
その日ロゼウスは城内を駆け回り、ドラクルの部屋へと飛び込んだ。兄は寝台に腰掛け気だるげな表情でロゼウスを一瞥して、すぐに興味が尽きたように窓の外を見た。
『ドラクル!』
『どうした、ロゼウス』
どこか陰のある眼差しでドラクルが尋ねる。
『あれは一体何なんですか!』
ロゼウスはその日、怒っていた。原因はドラクルが王城を離れ、地方に移るという宣言だった。第一王子でありながら王都を離れる? しかも父上もそれを認めている。何故、一体どうして。王子が国の領地の一部をそれぞれ任されるのはよくあることだが、王位を継ぐべき第一王子がそんなことをするなんてありえない。しかも、その放棄された王都の統治権はロゼウスに譲ると。ロゼウスはそれを父王から聞かされた。
『どうしてあんなことしたんだ! 答えろよ!』
ロゼウスは初めて兄に乱暴な言葉を使った。
王都の統治権など自分はいらない。それよりも、ドラクルがこの城を離れることが嫌だ。ロゼウスを見捨てて遠くに行くことなど許せない。
ロゼウスは兄を寝台に押し倒し、その身体の上に馬乗りになって短刀を突きつけていた。
『俺と死んでください、兄上』
今になって思う。あの時の自分は異常だった。鏡を見る事は無かったから自分ではわからなかったが、きっと目は血走り、歯噛みし、悪魔のような形相をしていたことだろう。
『お願いです、俺を見捨てないで、愛して……』
あなたに見放されたら生きていけない。
けれど。
『はぐう!!』
ドラクルはやすやすとロゼウスを振り払うと、体勢を入れ替えてその首に手をかけた。
『お前に何がわかる、ロゼウス』
ロゼウスの首を絞める兄の顔は酷薄で、底の知れない哀しみに満ちている。
『生まれながらに全てを持っているお前に、私の何が……っ!』
首を絞める手ははずされたが、ドラクルはロゼウスをなおも押し倒したまま、服に手をかけた。咳き込むロゼウスは抵抗すらできず、兄に全身を探られる。服を破かれ、肌を晒され、鎖骨の辺りを乱暴に噛まれた。
『嫌だ!』
初めて、ドラクルに本気で抵抗した。だが、敵わない。この兄に本気で勝てるわけがない。
『いやっ、いやだ! やめてぇ!!』
初めて、本気で泣いた。気がふれたように抵抗し続け、それでもドラクルは止めなかった。無理矢理肛門に指をねじ込む。乳首を噛み切るような強さで噛む。そして――。
『うああああああああ――!!』
それは忘れもしない、ローゼンティアにエヴェルシードが侵略を始める三日前。ロゼウスとドラクルの最後の会話。
『お前が愛しいよ、ロゼウス』
さんざん嬲り甚振り、気に入らない玩具を壊して捨てようとでもするように抱いておいて何を今更。でも、声が出なかった。鞭や蝋燭やナイフや張型、あらゆる道具が床に転がっている。両手は初めの頃に、きつく縛られていた。
『兄、上』
『そして大嫌いだ、我が弟よ』
心が砕けそうだった。
『きら、い?』
『そうだよ、ロゼウス。私はお前を愛しているけれど、それ以上にお前が憎い。お前の腹をそのままナイフで裂いて内臓をかき回しながらその中で射精できたら、どれだけ気分がすっきりするだろうかと思うくらいに』
そして彼は凄絶な笑みを浮かべる。
『さよならだ、第四王子ロゼウス。私の愛しい、秘密の囚人』
薔薇の下には秘密と言う意味がある。
薔薇の下の虜囚。ロゼウスはドラクルの秘密の囚われ人。
そして貴方は俺を捨てた。
『あ、あ、あああああああああああああ!!』
後のことはもう覚えていない。気がついたら、自室の寝台に寝ていた。そしてあの滅亡の日までロゼウスは、ドラクルと顔を合わせていない。エヴェルシードに征服されたあの日、ドラクルは王宮にいなかった。死体を埋めた覚えもない。
どこかで生きているのですか、我が最愛の兄上。
俺はあなたを愛しています。今でも。
檻の鍵はまだ開かない。秘密の囚人はその牢獄から抜け出す事ができない、まだ。