037
ロゼウスはローラから目を離さないようにし、与えられた一室にほとんど篭もっていた。本当なら城内の散策にでも行くべきなのだろうけれど、ローラが行きたくないというので肩透かしとなった。シェリダンはジュダやクルスと何か話し合わねばならないことがあるというので、ロゼウスは蚊帳の外だ。……正直に言ってしまえば、せっかくシアンスレイト城外に出たというのに、暇で暇で仕方ない。
「ローラ、何してるんだ?」
「いえ、その……慣れない場所で落ち着かなくて。……この城にもといたころは、こんな豪華な部屋に入ったことありませんでしたから」
与えられた部屋の寝台に寝転んで、ロゼウスはふとテーブルの端に布を広げたローラの手元を見遣る。
普通なら使用人は使用人の部屋を当てられるものだが、今回はロゼウスたちの方の希望でロゼウスとローラを同室にしてもらったものだから、この部屋をどう使おうと自由だ。普通なら許されないだろう応接用のテーブルを一介の侍女が陣取って使うというのは。けれどロゼウスは別段それを咎めもしないし、ローラもそこで謙虚になっても仕方ないと言う性格の持ち主だから、王城のシェリダンの部屋でならともかく、こんなところでまで床に座ったりしない。
「刺繍? というか、それ、いつもの城での仕事じゃないのか?」
「ええ。ですが、こちらについたならばどうせいつもと変わりないか、いつもより暇になるでしょうことはわかっていましたので。せっかくですからこちらの仕事で終っていないものを、城から持って来たのです」
王城と違って床ではなくちゃんと応接用のテーブルと椅子のセットに腰掛けているが、それでもやっていることはいつもと同じだ。ロゼウスはローラの真面目さに少し感心しながら、完成した品を少し見せてもらった。
「綺麗だな……ローラは裁縫が得意なんだね」
素直にその腕に感心して褒めると、彼女は普段の本心を見せない仮面の笑みではなく、僅かだが心から口元を緩めて笑う。本当の彼女は周りを盛り上げるようにいつもにこにこと笑顔を浮かべている普段の彼女ではなく、こうして時折、春の木漏れ日のように淡く笑ってみせるこの少女なのだろう。
「ありがとうございます。ロゼ様。……私はもともと故郷のシルヴァーニでも奴隷として売られた身分のものです。それ以前も、まるで奴隷のような生活でしたけれどね。水汲みや薪割り、掃除で手を荒らすばかりで、それも性にあっているとは言いがたくいつも辛いばかりで何の取り柄もない人間だったのですけれど、エヴェルシードに……いいえ、シェリダン様のお側に来て、初めて裁縫を仕込まれて、初めて針と糸を取りました」
お針子の仕事は、上級貴族の令嬢がする仕事ではない。せいぜい許されるのは刺繍ぐらいだ。しかしもっと貧しい、と言ってしまうとまた意味合いが違うが、平民以下の暮らしをしている者にとっては、裁縫すらも贅沢な職業だ。そもそも庶民はお針子など必要としない。服は布を買ってきて自分たちでつくるものであり、少し余裕があれば染めたりボタンをつけて飾るが、それができないものはただ生成りの生地を簡単に塗って帯で留めるだけの格好をしている。それができない者たちと言うのは、主に奴隷をさす。ローゼンティアには公式な奴隷はいないが、他国にはよくあることだと言う。
ロゼウスは市井の暮らしを、直接見たわけではないが、話に聞いて知っている。ローゼンティア国民は皆吸血鬼であるから、その寿命は人間の何倍も長い。従って子どものうちにあまり詰め込む必要はなく、むしろ危険を避けるために幼い王子たちが城下へと赴くのは主に外見の成長が緩やかになる十代後半くらいだ。それまではすでに幾度も城の外へと出かけたことのある兄たちの話を聞くのみで、その兄たちでさえ王位継承権上位にいたドラクルやアンリ以外は、国の外へと出たことすらない。
ヴァンピルの国ローゼンティアは閉じた国。
けれど、ロゼウスの教師はほとんどがドラクルだった。特に剣技については、嫌と言うほど兄から学んだ。城下の話や国外の諸事情についても、ドラクルから情報を得ていた。他の兄妹は専属の家庭教師についていたのだが、何故かロゼウスにだけは、ドラクルが直接指導をしていた。そして次代のローゼンティア国王として国外の外交官とも付き合いのあった彼は、城内の誰よりも世界について詳しい知識を持っていた。
だからローラがどんな身分の人間かも、だいたいわかってしまう。ここ数年経済的に困窮しているシルヴァーニの平民の暮らしは、他国の奴隷とも等しかった。
「初めは慣れなかったのですけれど、やがて一人で言われた仕事が楽にできるようになって、そのうち私に裁縫を教えてくださった先輩侍女も褒めてくださったりして……自分にもできることがあるんだなって知って、嬉しかったです」
自らが布の上に描いた刺繍を眺めて、ローラが微笑む。その繊細な花の模様と同じく美しい彼女の容貌を褒めようとして、ロゼウスはやめた。生活に苦しむ子どもで、奴隷。さらには美しいともなれば、行きつく先は一つしかない。
玩具奴隷。
文字通りそれらは、玩具とされた奴隷。
暇な貴族は、他人にははた迷惑な遊びに手を出したがるものである。奴隷時代の彼女はきっと、能力でも人格でもなく、ただひたすらその顔立ちの美しさと身体だけを求められたに違いない。
そして、その筆頭がこの城の主、ジュダ=キュルテン=イスカリオット伯爵だという。
この城の中を歩くのをローラとエチエンヌが極端に嫌がるのはそのためだ。ロゼウスという、男であるのにエヴェルシード王妃といった複雑な事情を抱えた者が一緒であるために、連れてこられる侍女も限られていて、彼女の負担はただでさえ多大なはずだ。その中で裁縫は、彼女の心の唯一の慰めなのだろう。
一針一針、心を込めて鮮やかな色の糸を淡い色の布に刺していくローラの表情は穏やかで、どこか翳りながらも幸せそうだ。
自分にできることがあることは嬉しい、と。彼女は先程そう言った。それは確かに真実だろうけれど、彼女が裁縫をする理由はたぶんきっと、それだけではない。
「ねぇ、ローラ」
「なんでしょう? ロゼ様」
「それ、シェリダンの服だろう」
「ええ。陛下は気難しい方で、適当な仕事を嫌いますからその一部は仕立て屋の方のデザインに添って、私が縫っていますが……どうしておわかりに?」
ローラが不思議そうな顔をする。
一国の王ともなれば、普段着でさえ自然と華美になる。繊細な刺繍の施されたそれを作れるほどに、ローラの技量は素晴らしいのだそうだ。けれどロゼウスが注目したのはそんなことではなくて。
「わかるよ。だって」
だって君は。
今までずっと気になっていて、それでも言えなかったことをようやく口にする。
「ローラは、シェリダンのことが好きなんだろう?」
それはつまり、シェリダンの妻に納まったロゼウスとは敵対関係にあるということ。
ローラが針を動かす手を止める。
部屋の中から、音が消えた。
◆◆◆◆◆
『お慕いしております』
いつもの寝室ではなくて、花の咲き乱れる庭で彼女は主君にそう告げた。
報われぬ想いだとは知っていた。見返りを求めるのもおこがましいと。けれど、それでも、あなたが愛おしくて狂おしい。
『ローラ、私は――』
声をかけたのはローラからなのに返事は聞きたくないなどと、馬鹿だ。
どうせ報われないと知っているのなら口になど出さず永遠に秘めておけばよかったのにローラはそれをすでに矢のように放ってしまったあとだった。
お慕いしております。
シェリダン様。お慕いしております。あなたを。
でも永遠に報われない。
何故なら、あの方にはもう……ロゼウス様がおられるのだから。
『お慕いして、おります……』
花の庭に破れた恋が散る。
彼女たちがイスカリオット伯爵ジュダ卿の手の元から救い出されたのは五年前。まだローラたちが十歳の時だった。シェリダンとクルス、そして今のローラの夫であるリチャードは、ジュダの周辺を探っていた。それはもとは、ジュダがクルスに働いた暴行未遂が元らしい。
クルスの父はクロノス=ユージーン。エヴェルシードでは先の王の時代に名を上げた剣の名手。その子息であるクルスには周囲から多大な期待が寄せられていたが、そのクルスを打ち破る人物が現れた。それがイスカリオット伯爵ジュダ。
ただし、それは卑怯と呼んでも差し支えないほど、紙一重のものだった。
今現在、ユージーン侯爵は十九歳、イスカリオット伯爵は二十七歳。これだけを聞いてもわかるだろう。二人にはかなりの歳の差がある。今でさえそうなのだから、昔はそれがもっとはっきりしていた。十四歳の、まだ少年でしかないクルスを、二十二歳の成人男性であるジュダが決闘でこてんぱんに伸したと。文字通り大人と子どもの試合は、いくらその少年が未来の剣聖クルス=ユージーンであろうと、周囲の反感を喰らったし、何より彼の友人を怒らせた。……未来の王である、シェリダン王子を。
クルスの敵討ち、というのももちろんあるし、それ以上にその頃のジュダはとかく悪い噂の絶えない人であったし、その噂は真実でもあった。公爵から伯爵に降格されたとは言え、もとは、いや、今でも大貴族であるイスカリオット伯爵を証拠もないうちから公明正大に糾弾できる人などエヴェルシードにはいない。シェリダンの父であるジョナス王は、伯爵が優秀であればもうそれでよいというような人物だった。その代わりに動き出したのが王子シェリダン。
イスカリオット領で行われていた、不正とも合憲とも言いがたいギリギリの悪事を暴いて、ジュダを脅した。けれどエヴェルシードの現在の爵位持ちたちは、一時的な衰退期に入っているらしく、性格に問題はあるが有能であるイスカリオット伯爵をこれ以上降格するのはまずいと。
だから悪事を見逃す。そしてその代わり、確かにシェリダンがジュダの行状を知っているという証、賄賂代わりに玩具奴隷を差し出せと。
あの時、ジュダに虐待の限りを尽くされていたローラたちを指して、シェリダンはそう言った。
そしてローラと弟のエチエンヌは、イスカリオット城からシアンスレイト城へと連れてこられた。
シェリダンは彼女たちに、様々なことを教えた。苦しいこともあった。幸せなことも。特に苦しかったのは暗殺武術の訓練で、それはジュダによって薬漬けにされたローラたちの身体を丈夫にする目的もあったのだろうが、訓練は苛烈を極めた。エチエンヌは何度も泣いていた。もうイヤだ、やめる、と泣き叫んで、そのたびにシェリダンが優しくエチエンヌを抱いて慰めていた。飴と鞭。
エチエンヌがシェリダンに抱かれていた頃、ローラにはリチャードがいた。シェリダンの命によって、ローラの夫となった男。男尊女卑思考が残るエヴェルシード的には、リチャードがローラの夫になったというより、ローラがシェリダンよりリチャードへと下賜された、と言うほうが正しいのだろう。それでもローラはそんな言い方は認めない。彼女はそのやりとりも夫であるリチャードのことも何一つ認めてはいないのだから。
リチャードはローラを抱いた。五年前、まだ十歳だった少女を。今でさえ十五歳のローラと二十七歳、ジュダと同い年であるリチャードの年齢差は犯罪のようなものだが、昔はもっと犯罪的だった。
それは、本当は今でも変わらないのだろう。ジュダによって虐待を加えられ、麻薬漬けにされてぼろぼろになったローラの身体は極端に成長が遅い。シェリダンの必死の武術特訓のおかげで少しは丈夫になったが、それでもそれは、身体の成長を促すものではなかった。
十五歳と言えば、年頃と言ってもかまわないだろう。貴族の娘や、平民でもそろそろ婚礼適齢期に入るというような年頃。けれどローラの身体は、まだ十二歳ぐらいの子どもにしか見えない。なまじ弟のエチエンヌと同じく中性的な面差しだから、それらしい服を着ていなければ性別もわからなくなりそうなほど。
本当なら十五歳の、年頃の少女のはずなのに。
本当ならもう少し、シェリダン様の側に似合うだけの娘のはずだったのに。
でももう、永遠に叶わない。
だってわかってしまった。彼の隣に立てるのは、あの人だけ。
ローゼンティア第四王子、ロゼウス。見事な白銀の髪に血のような真紅の瞳。
ローラは今まで、シェリダン以上に美しい男を見た事はなかった。クルスもジュダも綺麗な顔立ちをしているし、リチャードだって悪くない。それでもやはり、誰を見ても、男でも女でもやはりシェリダンに敵うほど美しい人などいなくて。
あの藍色の髪、あの朱金の瞳。繊細な面立ちなのに、猫科の獣のような鋭い眼差し。
ローラはシェリダンが好きだ。誰よりも。
最初の頃は、そうでもなかった。むしろ、嫌っていたのかも知れない……リチャードに自分を犯させたのはシェリダンだし、そのシェリダン自身、エチエンヌを慰み者にしていた。ジュダであれシェリダンであれ、二人を玩具奴隷……性奴隷として弄ぶのには変わりなかったのだ。
だから。
私は、あの日――。
『お前はなまじエチエンヌのように吼えないから、わかりにくいな、ローラ』
寝こみを襲ったのに平然としていた。ナイフを突きつけようとローラが足を踏み出す寸前、シェリダンは自分で寝台に起き上がって。
『どうした? 欲しかったのはこれだろう?』
自分の胸元を指で指し示して言った。心臓のあるところ。命が宿ると言われているところ。部屋は薄暗いけれど月光が明るくて、口元には笑みをはいているのがはっきりと見えた。
ローラは驚いていた。起き上がる一瞬。シェリダンの背に見えたもの。あれは、あれは。
『この身体が醜いか? 恐ろしいか?』
醜いなんて、この人には似合わない。
あなたは例え、その全身を傷つけられても、皮をはいで肉と骨の塊にしてさえ決してその輝きを失わない。あなたの美しさはただ表面上だけのものではない。
その白く滑らかな背に浮かび上がる聖痕。
一国の王子の身体にあるとは思えない無残な鞭の痕に、ローラは目を奪われた。衣装を身に纏わずたおやかな裸身をさらしてローラの方へと歩み寄ってきたシェリダンに優しく頬を挟まれて口づけられても、全く少しも動けなかった。
あなたを殺そうとしたはずなのに。
ローラとエチエンヌが解放されるにはもうそれしかないと。そのための術を教えてくれたのはシェリダン、彼自身だ。彼から教えてもらったこの人殺しの腕でローラは彼を殺し、自分たちはもはや自由になろうとしたのに。
あの瞬間に、反対に魅縛されてしまった。彼以外の人の側にあろうとはもう思えない。
ローラよりエチエンヌより、ずっとずっと深い傷を抱えている少年。けれどだからこそ、その傷に近づけるのは自分たちだけだと思っていた。ローラと同じ顔でありながら男であるただそれだけの理由でシェリダンに抱かれるエチエンヌが死ぬほど羨ましくて憎らしかったが、それでもそれ以上シェリダンに近づける人物は、彼の妹であるカミラを除いてはいなかったから、無理矢理自分を抑えていた。
けれど。
『私の妻とする』
かの王子が連れてこられたその際、なんでもないことのように言い切った自分。邪魔なら排除してしまえばいいと、激昂するエチエンヌをなだめすかして誤魔化して。
違う。本当はそんなこと思えなかった。今すぐ死んでほしい。今からでいいから、消えて欲しかった。
笑いながらローラは誰よりも、他の誰よりも彼を嫌っていた。
ロゼウス様。
シェリダンの隣に立って唯一見劣りなどするはずもない人物。二人が並ぶ姿はまさに完璧な一対。だからこそ。
「私は誰よりも、あなたが嫌いです」
◆◆◆◆◆
相変わらず華美な装飾の施された廊下を並んで歩く。
「あの時は、ここを私とお前で占拠し、伯を追い詰めるために走ったのだったな」
「ええ、陛下」
滞在期間は一週間程。その間城内は好きに使っていいと持ち主であるジュダから保証され、シェリダンたちは言われたとおり好き勝手に過ごすことにした。もちろんそうすることで逆にシェリダンたちが不自然に団結しないようにとのジュダの思惑なのだろうが、それはそれでこちらにとっても都合が良い。この機会に、思う存分国の重鎮にして最重要危険人物の周辺を探ってやろう。
「あの頃に比べれば、僕たちも大人になりましたね」
今より短い足で、走っても走っても果てのない長い廊下を走りきったことを思い出しているのか、感慨深い表情でユージーン侯爵クルス卿がそう言った。
元々、今回の滞在はジュダからこのクルスへと、招待状が届いたのが始まりだった。部屋割りの変更に伴いそれぞれの相方も変わるため、シェリダンは現在普段連れているエチエンヌやローラではなく、クルスと共にイスカリオット城内を歩いている。
「ああ。五年前の私は、まだ子どもどころの話ではなかったな。しかし、いいのかクルス? イスカリオットと顔を合わせるのは、お前にとっても良い記憶ではないだろう?」
自分でそう仕向けたとはいえ、イスカリオット伯ジュダ卿を手駒に加えるのは大きな博打だった。
八年ほど前からジュダは乱心したとの噂があり、ある日突然前触れもなく実の両親と親族のほとんどを殺害し、その咎でイスカリオット家は公爵から伯爵に降格されたという事情がある。噂も何も、ジュダが両親を始めとする一族郎党を手にかけたのは事実だ。ただ、皆殺しや、理由なく手にかけた、と言うのは間違いであるらしい。
だが、どちらにしろあの男の本心は主君であるシェリダンにも、何度もジュダと力を合わせてシェリダンとの任務をこなしているクルスにも掴みがたい。さらに言えば、クルスにはできる限りジュダに近付きたくない事情がある。
「大丈夫ですよ。陛下。……あの頃は、僕も弱かったのが悪かったんです。今は、確実に五年前よりは強くなりましたよ。もうあの時のように、みすみすイスカリオット伯のいいようにされはしません」
イスカリオット伯ジュダ卿が七年前から五年ほど前になした悪行は数知れないが、その一つに、六年ほど前の「ユージーン侯爵子息暴行未遂」というものがある。
「強くなるのも結構だが、お前はその無鉄砲を治せ。誰彼かまわず試合をするのは懲りたらどうだ?」
クルスが現在侯爵を継いでいるユージーン家は、もともと武人の家系だ。特にクルスの父親である先代ユージーン侯爵クロノス=ユージーンはその代に一気に子爵から侯爵へと実力でのし上った猛者だ。その跡を継いだクルス自身も、将来は父親を越える剣豪になるだろうと期待されているほどの剣の才能の持ち主であり、実際に、国内で彼に敵う者は数えるほどしかいないと言われている。
そのうちの一人はクルス自身の父親、クロノスであり、さらにこの城の主、イスカリオット伯爵ジュダ卿だ。
ジュダは剣を使う事は知られていたが、その腕前が特に取り沙汰されることはなかった。降格された普通の貴族の青年。そう思われていた、いや、シェリダンもそう思っていたのだ。あの日まで。
シェリダンもジュダには負けているのだ。この年齢になって、ようやく身体もできてきたし、王位を簒奪したからにはこの先幾度も戦う機会があるだろう。エヴェルシードは軍事国家だ。強くならねばならないと思うし、そのための努力は払ったつもりだ。今現在、先の戦争で領土化したローゼンティアの支配を任せているセワード将軍はシェリダンの剣の師の一人でもあり、王国一の騎士と呼ばれる彼にシェリダンはその剣技の全てを叩き込まれて育った。なのに、負けたのだ、ジュダに。特に剣の技量など話題にもされない一介の貴族に。
ジュダと、彼に決闘を仕掛けたクルスが戦った時、二人には大人と子どもほどの差があった。二人の歳の差は八歳で、当時クルスは十三、四、ジュダは二十歳過ぎの青年だった。
結果は、すでにその頃大半の大人を負かして間違いなくクロノス=ユージーンの後継だと謳われ、素晴らしい才能の片鱗を見せていたクルス自身にも何が起こったかわからないほどの早業だったという。呆気なく勝負に敗れ、手傷を負ったクルスを、ジュダはその場で組み伏せて襲ったらしい。たまたまそれが親子共々の訪問で、その手の知識に疎いクルスがわけのわからぬ恐怖に駆られて喚き出し人を呼ぶ事がなければ、きっとジュダは最後までいっていたはずだとか。
イスカリオット伯爵ジュダはクルスにとっても嫌な思い出を植えつけた相手であり、彼と力を合わせよとの命令は幾度か下したがそう言った場合は領地の兵力を合わせるぐらいで、必要がなければできる限り顔を見ないですむようこれでもシェリダンは取り計らっているつもりなのだが。
イスカリオット伯爵ジュダ卿の真の価値と恐ろしさを知っているのは、シェリダンと、このクルス、そしてローラとエチエンヌ、リチャードだけだ。
そしてシェリダンたちは、五年前共にあの場面に居合わせた者でもある。あの凄惨な地獄絵図。それは阿鼻叫喚ではなく、加虐者が笑みを浮かべ被虐者が能面のように顔色を失っているからこそ増して残酷となる悲劇の舞台。
情交の名残もあらわに、裸体に薄物だけを羽織って笑みを浮かべたジュダと、ギロチンの前の全裸のローラ、イスカリオットに押さえ込まれてただ一人泣き叫ぶエチエンヌだけが唯一人間らしかった。
他国の玩具奴隷の購入はエヴェルシードでは禁止されている。イスカリオット城に囚われのシルヴァーニ人の子どもがいるとの情報によって、シェリダンたちは動き出した。
ローラとエチエンヌの存在を足がかりに、これまで誰よりも品行不良の噂を聞きながらその実態に関して誰よりも真偽の見極めがたかったジュダの行状をつかむことができた。そうであれば、シェリダンがそのきっかけである二人を引き取り、生活を保障するのも当然のこと。
他国の奴隷の売買は禁止されているが、雇用ならば許される。シェリダンは元は奴隷身分にある二人を雇ったことにして、二人を無理矢理王城へと連れて行った。それ以前、八年ほど前に従者となったリチャードのこともあり、シェリダンは奴隷ばかりを侍らせている王子だと言われたこともあった。
ローラとエチエンヌの身分は奴隷。その用途は玩具奴隷。さらにリヒベルク伯爵家のリチャードは、実兄が起こした不祥事によって投獄され、罪を犯した者の懲役刑と言う意味で奴隷身分に落とされかかった人間だ。エヴェルシードでもそう言った意味での奴隷はいる。
シェリダンは別に他人に何を言われても構わない。今更だ。あの頃からすでに父を殺すことを硬く心に誓い、その時既に手に入れた新たな双子の駒をどう使うかも考えていた。
けれど、その身勝手な理由で、二人を傷つけていることも知っている。ロゼウスのように何を考えているのかわからない、いや、むしろ何も考えていないような、飄々とした相手ならまだ困らない。シェリダンを恨んで気が済むのならそれで結構だというのに、あの双子はそうしない。
誰をも踏みつけて死体の山を築き血の川を流して全てを壊すために生きると決めたのに、断固とした決意で固められたはずの胸にきりりと柔らかな棘が刺さるのはこういったときだ。いっそ、恨んでくれれば楽なのに。自分はさも安穏を享受するにたる人間だと思い違いをしている傲慢な輩なら、引き裂くのに一切の躊躇いは生まれないのに。
ローラ。エチエンヌ。
あれだけ踏みにじったというのに、二人に真っ直ぐな視線を向けられると胸が痛くなる。だからロゼウスが二人とは違うと知れたときは、少しだけほっとした。その違いは、シェリダンの予想とはまた外れたものだったけれど。
あの中庭での、ローラの告白を忘れたわけではない。この頃触れていないエチエンヌが、いつも何か言いたげな目で見てくるのも気づいている。だが……
「陛下! あれ!」
自らの思考に没頭するシェリダンを現実へと引き戻したのは、驚愕したようなクルスの声だった。