荊の墓標 08

039

 嫌いだと言われて、はいそうですかと頷いたまでは良いものの、だからと言って一応今回は彼女の護衛の役目も言いつけられた自分が、さっさとローラの側から離れるわけにもいかない。
「俺のことを嫌いなのはわかるけど、とりあえず近くには、いてくれ。それが今回の俺の仕事だから」
 サディスティックな夫との夜伽の方がある意味重労働かもしれない、今回のロゼウスの仕事。ローラは彼女自身かなりの使い手だという話だが、実際にその腕前を見せてもらったことはない。それに、ロゼウスは半分以上、自分からその役目を言い出したのだから。
「わかっていますわ」
 嫌々と言った様子で、ローラが頷く。ジュダが苦手なローラ。それに、ロゼウスと行動を共にして守られると言う事がシェリダン直々に下した命令なのだから、シェリダンに心酔しているローラがそれを拒めるはずはない。
 お互い何を思っていようが関係ない。だから後は、ロゼウスがローラを守ればいいだけの話だ。
 ジュダがどれほどの実力者かは知らないが、ロゼウスは並の相手に負ける気はしない。シェリダンたちエヴェルシード軍にローゼンティアに攻め込まれた時はどうやら内部に内通者がいたらしく、ヴァンピルの弱点がことごとくバレていたけれど、その時の進軍に確かイスカリオット伯爵ジュダの名はなかったはずだ。
 とにかく、最初にシェリダンに負けた時と違って、今度は準備万端だ。
 針で指先を傷つけたローラが人差し指を差し出した。ロゼウスはその指先をゆっくりと口に含んで、馨しい鉄錆の味を堪能する。
 血。血液。
 全ての動物の生命の源であり、吸血鬼の主食にして麻薬。ヴァンピルに力を与え、その理性を狂わせる禁断の蜜。
「これでいいんですか?」
「ああ、十分」
 一滴の血で、吸血鬼の力は増す。後は理性を制御する薔薇の花びらを噛んで、ロゼウスは自らの状態を整える。
 血をもらうために含んだ指先を解放すると、間近で見た小柄な少女は、眉根を寄せて苦しげな顔をしていた。
「どうしたの?」
「……いいえ。なんでもないです」
「さっきの話? ローラが俺を嫌いだって言う?」
「……ええ」
 ふう、と小さく溜め息ついて、ローラはようやく頷いた。
「ロゼウス様、私にはあなたがわかりません。何故、そんなに落ち着いていられるんですか?」
「何故、と言われても」
「私はあなたの夫を慕っていると言っているんですよ」
 横恋慕を堂々と宣言して、ローラがくしゃりと顔を歪める。でも。
「だって俺は、シェリダンを愛しているから妻になったわけじゃ、ないから」
 ローゼンティア国民の命を守るため、仕方なくシェリダンの命令を聞いただけで。
 けれど次にローラが言ってきたのは、予想もしていなかった言葉だ。
「あなたの言う事は、全て本当に重さを伴った言葉なんですか?」
「……どういう意味?」
「ロゼ王妃、いいえ、ロゼウス王子殿下。私には……あなたが口で言うほど、ローゼンティアの民を気にかけているようには見えません」
 寝台に戻ろうとしたロゼウスは、足を止めて振り返り、子どもの姿の侍女を眺めた。
「シェリダン様もエチエンヌもまだ気づいていないけれど、あなたの言葉を聞いていると、私はわからなくなります。あなたは一体、いつも何を考えて生きていらっしゃるのか。兄妹は生き返ったらしいですけれど、ご両親は侵略の際に殺されて、それきりなのでしょう? 何故、もっとシェリダン様を憎まないの? 何故、私などに優しくするの? 何故……」
 何故、もっともっとシェリダンを、彼の治めるこのエヴェルシードの全てを憎まないのか、と。ローラがそう問いかけてくる。
「俺って、そんなに変?」
「ええ。変です」
 ああ、そうか。変なのか。
 昔から少しおかしいと言われていたけれど、自分の異常さなんて、自分ではわからないものだ。試しに聞いてみると、打てば響くような答が返ってくる。
 ロゼウスは結局、ローラのこういうところが好きなのだ。はっきり見たわけではないけれど、彼女が見た目より、普段のはつらつとした笑顔より内面はもっとどろどろとした澱のような少女だとなんとなくわかっている。
 エチエンヌのようにあからさまな敵意を向けてくるわけではない。ロゼウスに対してはいつも穏やかな態度を崩さなかったローラ。そのくせ、ロゼウスのことを嫌いだと言う。
 でも俺はそれなりにローラのことを気にいっているよ。一方通行だけど、好ましいと思っている。こういうのは変だって、言われることだけは知っているけれど。
「……わかんない」
「え?」
「わかんないんだ。自分がどうしてそんな変なのか。こういうとき、俺は一体どうすればいいのか。確かに父上も母上も、第二王妃と第三王妃もそれ以外の王族も殺されて、俺の兄妹のみんな以外は生き返れもしなかったみたいだけれど、でも仕方ないじゃないか」
 兄上に繰り返し繰り返し言い聞かせられた。
 この世は所詮弱肉強食だから、強い者が勝つ。喰われる側になりたくなければ、死に物狂いで強くなるしかないのだと。
「この世は強い者が勝つんだから、弱くて負けた者が何を言っても仕方ない」
 だから父上と母上が殺されても、仕方がなかった。
「……ロザリー様が泣きますよ」
「うん、知ってる。でも、どうしてなのかがわかんない」
 感情の起伏の激しい妹は、同じ状況だったら盛大に泣くのだろう。実際、ロザリーと女同士すぐに仲良くなったローラがたびたび報告してくれた。まだエヴェルシードに来て幾ばくも経っていないのに、毎晩のように泣いているロザリーのことを。
 だがロゼウスにはわからない。何がそんなに悲しいのか。
 確かに父も母も死んでしまってローゼンティアはエヴェルシードの属国にされてしまったけれど、国民の大半は生きているし、それに。
 ドラクル兄上だってまだ生きてる。
 それさえ確かなら、ロゼウスは何があったって構いはしない。ロゼウスがエヴェルシードに来て、こうしてシェリダンの奴隷と化してまで民の命を守るのも、いずれはドラクルが継ぐはずの国を、できるだけ元の形で残しておきたいからだ。そしてドラクルならば、今すぐとは言わずともいずれきっと、吸血鬼王国ローゼンティアの解放と再興を成すだろう。
 ロゼウスはそれまで適当にシェリダンの機嫌をとりながら、ただそれを待っていればいい。
「あなたにはまるで、人らしい感情が抜け落ちているのね」
「そう?」
「そう。だから、恋敵にあたるはずの私のことも、こうして平然と守るなんて言えるのよ」
 そうなのかも、しれない。
 だって俺は第四王子だから。第三王子までに何か不幸でもないと継承権に全く関係のない、いくらでも使い捨てのきく駒だから。ずっと兄にそう言われて育ってきたのだ。ドラクルが甦った今、その身代わり駒がたいして重要な役目を持つ必要もない。
 そして駒に、分不相応な感情などいらない。
「だって俺は……君みたいにシェリダンを本気で好きなわけじゃないから」
 俺が愛してるのは兄様だけ。
 だから彼が誰に愛されようが誰を愛そうが構わない。ロゼウスの彼との接点は、せいぜい共犯者であると言う事ぐらいだ。
 共犯者。その言葉を思い浮かべると、いつも同時に一人の少女の面影が浮かぶ。今目の前にいる冷静沈着で肉食獣のように強かなローラではなく、鮮やかな花であり、熱く燃える情熱の炎であったカミラ。
 彼女を共に傷つけたことだけが、ロゼウスとシェリダンの国を介さない唯一の絆だ。
 それ以上は必要ない。
「……愚かな人たち」
 誰と誰のことを言っているのか、ローラがまたしてもひとつ、嘆息する。
「ローラは?」
「何ですか?」
「じゃあ、ローラは愚かではないの?」
 ドラクルは、この世の生き物は、皆道化なのだと笑っていた。彼自身もロゼウスもみんな気ちがいなのだと。
 では目の前の少女はどうなのか。ロゼウスは離した距離をもう一度詰めてローラの前に立ち、その腹部へと手を伸ばす。指先をすっと下方に滑らせて、スカートの上から際どい部分に指を当てる。
「ここで人を殺したね、昔」
 ローラの深い悲しみは、彼女が絶えず弄ぶ刺繍針のチクチクとしたリズムでロゼウスを刺激する。
「……ええ」
 その通りです、と。ローラが小さく頷いて目を閉じた。

 ◆◆◆◆◆

 寝台の上で寝るのは苦手だ。余計なことを思い出す。
 そう考えて、いや、すぐに違うなと気づく。寝台の上でなんて枕詞は要らない。自分はただ、眠るのが苦手なのだ。寝台の上で柔らかな毛布を被り安らかな眠りを享受するだなんて、今の自分にはどんなに望んでも叶わない望みだから。
 けれどでは全く眠らないでいるというわけにもいかなくて、当然この脆弱な人の体は睡眠をとらねば呆気なく死ぬ。だから彼はこうして長椅子に寝そべるか、でなければ引っ張りこんだ奴隷や召し使いにさんざん腰を振らせて疲れきるまで淫らな遊興に耽るかのどちらかしかない。
「まあ、今日は久々に楽しませてもらったけど、ね」
 先程廊下で犯した金髪の美しい少年の、のけぞった白い喉と喘ぎ声を反芻する。五年前さんざん薬漬けで仕込んだおかげで、実年齢の割に外見が幼い。このエヴェルシードからは遠く離れたシルヴァーニから連れてきた双子人形の片割れ。
 興味深い性格をしているのはローラのほうだが、踏みにじってやりたくなるのはエチエンヌの方だ。数年前に一度、王宮で無理強いをしたときにはもっと慣れた体だったのに今回は少し無沙汰をしていたのか、久々と言った顔をしていた。
「陛下は僕が丹精してやったあの人形を抱いていないのか……」
 瞼裏にただ一人の面影が浮かぶ。二ヶ月ほど前、即位直後に先王を幽閉し、見事この国の玉座を勝ち取った少年王。海底の底の闇を掬い上げたような藍色の髪と、燃える炎を閉じ込めたような朱金の瞳。
 我が愛しい主君、シェリダン様。
 彼がローラに手をつけないということはわかっている。シェリダンは同性愛者だ。幼い頃から母の身代わりに実父に性的虐待を受け、さらにその母自身が父王に無理矢理連れ攫われた下町の娘であるシェリダンは、女性に乱暴する事ができない。殺すだけならできるだろうが、抱くことも犯すことも責め苛むこともできないはずだ。そして何よりも、孕ませることを酷く忌避する。
 だから当分は浮いた話など全くないだろうと高をくくっていたのに、まさかあんな《花嫁》を侵略先から手に入れて戻ってくるとは予想外だった。
 脳裏に、完璧な美貌の少年王の隣に寄り添う、完璧な美貌の少女の姿が浮かんでくる。
「ローゼンティアのロゼ王女、ね。あの国に、そんな名前の王女がいたっけ? ああ、でもロゼは単にローゼンティアの姫君という意味にもとれるから、あながちそれが本名というわけではないのか」
 そう、全く予想外だった。あの王女。
 シェリダンに吊りあうほど美しい女性などいるはずないと思っていたら、目と鼻の先にある隣国に意外な伏兵があったものだ。
「王の妻、か……確かに姿形は美しかったけれど、あれらの姫君は二人とも、良家のお嬢様という感じはしなかったのにね」
 それとも、やはり生まれはただの生まれであり、その人の人格を形成するに大きな影響を及ぼすものではないというのか?
 寄り添う国王夫妻の姿は水泡のように弾け、代わりに一人の女性の姿が浮かぶ。その人は吸血鬼の王女たちのように白髪も真紅の瞳も持っていないし、美の国と謳われるシルヴァーニの民のように晴れやかな金髪と緑の瞳もしていない。蒼い髪に橙色の典型的なエヴェルシード人で、顔立ちだってそんなに派手な美しさとは無縁だ。
 叔母上。
 父の妹であった人は、今ジュダの周りにいる尊き血筋の方々とは全く違って、とくに目立ったところのない人だった。イスカリオット公爵家という、エヴェルシードの名門貴族にたまたま生まれ、たまたま当主の妹であった人。人が見ればただそれだけ。
 イスカリオットの狂気に飲まれて散った女性。
 長椅子に寝そべり頭の後ろで手を組んでジュダは彼女のことを思い出す。開け放した窓より、薄曇の庭からは季節の花が悲しげに清い香りを届けてくる。
 先代イスカリオット公爵、ジュダの父は傲慢な人間であった。そもそも軍事国家であるエヴェルシードでは、強い者が勝つのが当然という考えがある。そして、男尊女卑思考が強い。女性より男性が優れているのなんて、一般的に体格や腕力等純粋な肉体的力の差ぐらいであろうに、異様に女性を軽視したがる傾向がこの国にはまだ、病のように蔓延している。
 ジュダの叔母は、そのような思考の犠牲となった者の一人だった。
 父は傲慢な人間であった。叔母は妹として、イスカリオット家の人間として、その当主である傲慢な兄についていかざるを得なかった。国で一、二を争う富を蓄えておきながらまだ財力と軍備の拡張に野心を燃やす父は、叔母に政略結婚をさせた。
 その相手もまた、名門イスカリオット家の爵位が目当ての、底の浅い愚鈍な貴族だった。結果的に富は増えたが、叔母の放り込まれた環境は間違っても幸せとは言いがたかった。挙句、たった二年で夫婦は破局を迎えようとした。それを止めたのが傲慢なるイスカリオット公爵、ジュダの父だ。結婚生活はそれからさらに八年を経て、けれど結局はそこで途絶えた。
 叔母は父とは歳の離れた妹だった。叔母が離縁して公爵家に帰って来た頃、ジュダはすでに十八歳。父は三十八歳だったが、叔母はまだ二十六。兄である父よりも、甥に当るジュダとの年齢の方が近かった。美しいとは言いがたいが、若く貞淑で物静かな人だった。
 十六から十年の結婚生活で彼女が得たのは、八歳になる息子一人。彼の親権については離婚先とさんざんもめた末に、結局は叔母に連れられてイスカリオット方で引き取る事が決まった。
 それからの二年間は、彼女にとっては地獄のような日々だっただろう。当主である兄、ジュダの父から毎日のようにいびられ、責められ続けていた。離婚の原因は相手先が兄の機嫌をとりながらも彼女を軽んじ、挙句の果てには暴力を振るったからであるのに、あの男ときたら。
 いくら陰湿な策謀で取り繕おうとしても、父の無能はとうてい隠しようがない。しかも自らのことは棚に上げて安月給でこき使う召し使いらを虐げ、離縁について何の責もない叔母にあたる姿を見ていて、ジュダはますます父を疎ましく思うようになった。
 あと二年。もうすぐ。
 せめて自分がこの公爵家の当主となれば。
 全ては変わると思った。自分は叔母を迫害などしない。叔母もその息子も公爵家の者として恥ずかしくないよう、立派に後見を努めてみせる。自分には二人に対する愛情があるのだから。
 思っていたジュダの幼さごと、今は粉微塵に打ち砕かれてしまったが。
 彼は自嘲する。
 どんなに手を伸ばしても届かないものを思うのは、苦しくて狂おしくて時々快感だ。
 王城シアンスレイトにはとても届かないが他の貴族の城に比べれば格段に贅を凝らしたイスカリオット城の中庭で、ジュダは来る日も来る日も孤独な母子の姿を眺めていた。時折叔母や甥が気づいて、手を振ってジュダを四阿へ迎えいれてつれづれに話をする。
 ジュダはその時間が好きだった。あの日々があれば、いつか公爵位を継いで戦へと出るときも全く恐ろしくなどないと思えるほど。父は剣が苦手で内政も無能の愚者であったから、せめて息子である彼はと幼い頃から文武の鍛錬に励んだ。
 その合間に中庭を訪れて、叔母と甥と何気ない会話をして笑い合って。
 今となってはもはや夢のような日々。
「イスカリオット伯」
 名を呼ばれて瞳を開けると、長椅子に横たわっていたジュダを一人の少女が覗き込んでいる。別段驚くことでもない。人の気配が近付いてきているのも、それが彼女であることも知っていた。
「カミラ殿下。こんなところを出歩いて、今は危険ですよ? 何しろ王宮の皆様がお着きになりましたからね」
「知っているわ。だからこそ、よ」
「揺さぶりをかけるのですね」
「ええ」
「では、存分に。健闘をお祈りいたします」
 まだ、この少女は踊る必要がある。その手はパートナーを求め、あらゆる人々を踊りの輪の中に招き入れる。ジュダは、その舞台を整える。
 愛しい人の手を今度こそ、間違わずにとるために。