荊の墓標 08

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 また、あの夢か。
 眠りに堕ちてすぐさま、見慣れた男の姿を目にしてロゼウスは正直、溜め息をつきたい気持ちになった。ここが夢の中でなかったら間違いなくそうしているところだ。いや、もうすでに心情としてはしっかり溜め息をついているところだった。
 あれ以来時々見る夢。
 地下室に納められた薄青い硝子の柩の夢。
 そこに出てくるのは、白銀の髪を長くのばした青年と、柩に眠る、どうやらシェリダンらしき少年。
 繰り返し繰り返しその光景を夢に見る。その夢に出てくる青年は自分ではないか、という疑惑は今も晴れない。だけれど、だからこそ夢の光景は信じがたい。
 それでもその夢はもはやこうして生活の一部となるほどにすんなりとロゼウスの中に納まってしまった。ああ、またか。そう思えるくらいには、あの光景に慣れた。
 あの美しく幻想的な、そして物悲しい光景に。
 けれど今日は、いつものその夢とは景色が違った。
 薄暗い地下室ではなく、眼下に広がるのは拾い謁見の間だ。何十人もの人間が跪いて頭を垂れて並んでいる。眼下、と言ったのは言葉通りそれが、自分よりも低い位置にある光景だったからだ。つまり、その視点は彼らが仰ぎ奉る先の玉座からのものだった。
 まるで王のようだと考えて、すぐに違う、とどこかが叫ぶ。
 違う。いくら謁見の間だって、こんなに広いはずはない。
 ロゼウスは謁見の間を二つ知っている。城と名のつく建物は幾つもあるが、その中でも謁見室をそれとして使用しているのは、国王の住まう王城だけのはずだ。国内に城砦が王城だけしかないローゼンティアはもちろん、エヴェルシードでもそうであると、確かリチャード辺りが教えてくれたのだった。
 しかし、ロゼウスの知っている謁見の間はどこもこんなに広くはない。ローゼンティア城もシアンスレイト城もそうだ。こんな、小さな通り一つ丸々納められそうなほど広い謁見の間など、ロゼウスは知らない。
 だからこの視点は王のものじゃない。そう考えて、では誰のものだろうとロゼウスは首を傾げる。
『陛下』
 だけれど答を得る前に、涼やかな声をかけられた。涼やかでそれでいてどこか甘い、砂糖菓子のような声だと思う。
 そしてロゼウスは、それに良く似た声を知っていた。
(ローラ?)
 声を頼りに顔を向ければ、そこに立っているのは金髪の美しい少女だった。そう、正しく少女だ。それはロゼウスが知るローラではなく、現実の彼女より幾つか年上のようだった。十五歳ほどの少女の姿で、ちゃんと身長もそのぐらいに追いついている。
 ロゼウスの知っている現実のローラ、そして双子の弟のエチエンヌは、薬物中毒の後遺症が酷くて、もう身長は伸びないだろうなんて言われているらしいのに。
 だが、この顔立ちは間違いなくローラのものだ。そしてそれを証明するかのように、彼女の隣に、よく似た顔立ちの弟が寄り添う。あれはエチエンヌだ。彼以外であるはずがない。
けれどもう、ローラと全く同じ顔というわけにもいかない。十五、六歳の少年少女の姿をした二人はそれぞれの性別ごとに特徴がはっきりしてきて、よく似てはいるが、別人だということは一目見ただけでわかる程度になっている。
『首尾はどうだ?』
『順調だ』
 ああ、だけど変わっていないものもあるな、と不機嫌な声音を聞いて、ロゼウスは少しだけ安堵する。玉座から問いかける声に答えたエチエンヌの口調は苦々しく、それはいつも、彼がロゼウスに向けてくるものの、特に機嫌が悪いときと同じだ。
 一方、普段は滅多に明るい表情を崩さないローラは、人形のような無表情で弟の隣に立っている。感情をどこかに置き忘れてきてしまったようなその様子を、ロゼウスは一度だけ見た。それもつい最近。
 これは、彼女がロゼウスを嫌いだと言い捨てた、あの時と同じ顔ではないか。
 そして彼女はその完璧な無表情で、腕に何か抱えている。実はさっきから気になっていたのだが、ローラがあまりにも無表情で無感動なもので、それに注目する事がどうしてか躊躇われた。
 程なくしてその正体は知れた。
 ローラが抱いた布の塊から、小さな腕が伸びたのだ。ぬいぐるみのように小さくて丸っこくていかにも柔らかそうなその手は、赤ん坊のもの。彼女はおくるみに包まれた赤子を抱いていたのだ。
 そして囁くように小さく、もう一度唇を動かした。
『陛下』
 表情はやはり変わらず、湖底の色をした深い緑の瞳には、何も浮かんではいない。歓喜も悲哀も憎悪も絶望も狂気も享楽も、何一つ。
 夢の中の十五歳標準の外見をしたローラは、美少女と言われる今よりもさらに美しい容姿をしている。さらに服装もメイド服ではなく、絹をふんだんに用いて繊細なデザインのドレスを身に纏い、でしゃばり過ぎない程度に品良く宝石を髪や耳に飾っていた。
年頃の娘らしく腕も腰も首も細く顎は緩やかに尖り、肩は折れそうな程に華奢だ。白い肌はますます白く、頬は淡い紅色で少しだけ血色が悪いようにも見える。唇は濡れたように紅く艶やかで、瞼は重たげに伏せられていた。
 その人形のような面差しが告げる。
『あなたの子です』
 そこで目が覚めた。

 寝台の上に上半身を起こして、ロゼウスは荒く息をついた。
「な、なんだ今の夢は?」
「お目覚めですか?」
「!?」
 声を掛けられて、思わず飛び上がった。今まさに夢の中で見ていた人間の声だったから。
「そ、そっか……今はローラと一緒の部屋なんだっけ」
「はい。イスカリオット伯の居城にいる間はそうするようにと、シェリダン様のご命令で……というかそもそも、最初にそれを提案したのはロゼ様じゃありませんでしたっけ?」
 昨日はあれだけ微妙な言い合いをしたにも関わらず、さすがにローラはそれを引きずらない。素知らぬ顔で身支度を整えて、さらにはロゼウスの身支度も手際よく終えてしまう。
「……どうしましたか?」
「あ、い、いや。何でもない」
 じろじろと見ていたのがバレて、勢いあまってぷるぷると首を振りすぎたけれど、ローラはさして訝る様子もなかった。彼女も昨日の事があるから、きっとそれだと思っているのだろう。
 生憎、ロゼウスの関心は別のところ、先程まで見た夢のことだったのだけれど。
(おかしいな。なんであんな夢を見たんだ?)
 まったくもって謎な夢だった。あんなものを見る理由がさっぱりとわからない。
 夢の中でローラが捧げ持った赤ん坊は、白い金髪に、血のような紅と緑が交じった瞳を持っていたのだった。

 ◆◆◆◆◆

「予定がなさすぎるというのも困りものだな」
 単調な生活に早くも飽きてそう零すと、頷く声が返る。
「そうですね……普段はなんていうか、もっとこう」
「忙しいけれど充実している、ですか?」
「そう、それですよリチャード!」
 クルスの言葉にできなかった部分を補ったリチャードが、困ったように控えめな仕草で微笑んだ。シェリダンが見る限りでも、それはここを訪れた者全員に共通する思いのようだった。
 着替えて朝食をとり、一度割り当てられた客室へと戻って来た。今現在シェリダンにあてられた部屋には侍従のリチャードと、ユージーン侯爵クルス卿がいる。ロゼウスとローラ、エチエンヌとロザリーの四人はまだ顔を出さない。朝の食卓はシェリダンとクルス、そしてこの城の城主であるイスカリオットの三人だけが席に着いた。客人全員を招くのは、晩餐の時だけだ。
 いくらイスカリオット領に招待されている身とはいえ、普通ならここでまた何か仕事があるところだ。国王が貴族の城を訪れるといったら、招いた側か訪れた側か、どちらかには何か思惑があるほうが普通だ。
しかし、今回のイスカリオット伯爵ジュダ卿の招待はただ単純に養生目的……と言ってしまうのは微妙だが、それに近いものがある。ここにいる間ぐらいは煩わしい政務を預けて休息をおとりくださいと言われては、シェリダンは何をするべきなのか。
 どうせそんなことを言ったからとて、ジュダが本気でそう考えているわけはない。予定を立てることでお互いの行動が読み易くなることを、あえて避けているのだ。何を企んでいるのかは知らないが、結構なことだ。
「リチャード、ローラの様子はどうだ?」
「はい。先程会いましたが、特に変わったところはありませんでした。ロゼ王妃様からも、特に問題ないと伺っております」
 この城の主であるジュダは、ローラとエチエンヌの双子に執着している。放っておけば何をしでかすかわからない男対策に、身体能力なら世界で一、二を争う種族、吸血鬼の二人をそれぞれにつけた。だが早くも昨日のうちにイスカリオットはエチエンヌに手を出してきたというし、その際耳に入った、姉ローラに関する言葉に彼は動揺している。
 まったく、あの娘はあてにならない。寝台の上に腰掛けながら、ロザリーの、ロゼウスに良く似た美しい顔立ちと似ても似つかないじゃじゃ馬ぶりを思い出して、シェリダンは目を眇める。
「エチエンヌなら元気でしたよ」
 考え事が顔に出ていた、と言わんばかりに、リチャードがこちらの言う事を先回りして教えてきた。今回の同行者の中で、最も付き合いが古いのは彼だ。八年前からシェリダンの従僕となった男は、頼みもしない情報をすらすらとわかりやすく伝えてくる。
「ロザリー姫が側にいることが良い安定剤となっているのでしょう。特に気落ちした様子や苛立っている様子はありませんでした。イスカリオット伯とはまだ顔を合わせてはいませんが、あの分なら大丈夫そうです」
「……そうか」
 シェリダンとしてはあのじゃじゃ馬娘が本当にエチエンヌの精神安定剤となっているのか疑わしいところだが、そもそもまだ十五歳の小姓に十六歳の隣国の王女を娶わせたのは自分だ。ここでそんなことを言うわけにはいかない。
「クルス、今日は何かしたいことはないのか?」
「え? いえ、その……ええっと……」
 話を振っては見たが、クルスもシェリダンと同じように困ってしまった。領地では精力的に書類仕事から私兵の訓練まで励む彼にとって、イスカリオット城でのだれきった生活は耐え難いのだろう。かといって、では時間があるからこれがしたい、と言えるほどクルスは積極的というわけでもない。心の底から下僕体質と言ったのは誰だったか。
 やることがなくて、困るのはお互い様だ。城主のジュダを交えて何かの遊戯に興じるにも、提案も持たずにあの男の元へ行くのは都合が悪い。向こうの計略にわざわざはまってやる必要はない。それが政治的に重大な配慮ならともかく、彼の企みはほとんどがその悪行の根幹となる、淫蕩への傾斜。一緒に滑り落ちてやる気はない。
 しかし、やっぱり、どうも、暇だ。
「ローラとエチエンヌの様子を見たいというのもあるが」
 しかし城主であるジュダから正式に招かれた立場のシェリダンの側にいれば、もっとも彼に目を付けられやすくなる。シェリダンが今回あの双子を手元から離し、ロゼウスとロザリーに預けたのもそのためなのだ。もっとも身分が高く彼の主君にあたるシェリダンがジュダに接待をさせている間は、彼も二人に手出しはできないだろうし。
「シェリダン様、それに関して少し提案があるのですが」
「どうした、リチャード」
「私に少し、伯と話す機会をくださいませんでしょうか?」
「お前が?」
 普段は影のように一歩下がって背後に仕え、あくまでも控えめな侍従のその思いがけない言葉にシェリダンは目を瞠る。
「はい。少し……個人的な話が」
 リチャードはジュダに絡まれたエチエンヌを助け出した当人であり、ジュダが一年前のローラの失踪に関して何か知っているらしいとはその場で聞いたらしい。ローラの夫である彼にとっては、いくら昔の話で、非合意だとはいえ、ローラを好き勝手にしていたジュダにいい顔はしたくないのだろう。シェリダンは勝手にその程度に思っていたのだが。
「身内の話をしたいと思いまして」
 その言葉に、思わず眉をしかめた。
「そういうことか」
「ええ。あの伯爵ではそれほど時間稼ぎができるとも思わないのですが、できれば郊外へと誘いたいと思います」
 リチャードの立場は複雑だ。彼は八年以上前、兄の犯した不祥事を着せられて投獄されそうになったことがある。元の爵位は今のイスカリオットと同じだが、その家は経済に優れた元は商人の家系で、金で爵位を買ったと有名なリヒベルク家。
 今はとっくに没落し、取り潰し寸前のその家系。長男があんなことになり、最後の頼みの綱であるリチャードがわざわざ爵位を返上して奴隷にまで身を落とし、シェリダン仕えの侍従に納まってはもうあの家は終るしかないのだろう。
「私と伯はすでに他人ですが、彼にとってもあの事件を起こしたと言う事は、簡単に無視できる問題ではなかったのでしょう。私は伯の本心というものを知りたいと思います」
「……わかった。何かあったら、私の名前を使うことを許可する」
 それは、王の名でもって伯爵を脅せ、ということだ。元の身分はイスカリオット公爵家とリヒベルク伯爵家の二人。今では伯爵と、ただの奴隷。どちらであってもジュダが優位なのは変わらないし、あの男のことだ、何をするかわからない。一応抑止力として、背後にシェリダンがいることを突きつけるくらい構わないだろう。実際、シェリダンはまだリチャードに伯爵の気まぐれごときで死なれては困るのだ。
 もともと、ローラのことで二人の関係を余計ややこしくさせた一因はシェリダンが担うべきものでもある。
「ありがとうございます」
 深々と腰を折り頭を下げて、リチャードはジュダに話をつけるために部屋を出て行った。本来なら奴隷が伯爵へ頼みごとをするなど許されず、シェリダンがついていってとりなすべきなのだろうが、あの二人の関係は一種特殊なものだった。余計な口出しをして事態をややこしくさせるよりも、リチャード本人の手腕に任せるほうが良いだろう。
目立つことを控える男だが、シェリダンはリチャードの腕を買っている。だからローラを預けたのだ。
 エチエンヌとローラの二人。出会った頃、表立って牙を向いてきたのは弟のエチエンヌのほうだった。傍から見れば感情がないように無表情なローラよりも、エチエンヌのほうがよほど反抗的に見えただろう。しかし真にシェリダンへの敵意を持っていたのは姉のローラの方だ。
 《双子人形》などとはよく言ったものだ。ローラとエチエンヌは、顔こそ似ていてもまるで違う二人の人間だ。
 その二人をいいようにしていたジュダは、ある意味エヴェルシード中でもっとも厄介な貴族だった。その有能さ故にあの事件の後も二爵位降格された程度で国に仕え続けているが、いつ手のひらを返すかわからない。最も使いやすく、最も使いがたい男。それが、ジュダ=キュルテン=イスカリオット。
「リチャードがイスカリオット伯をひきつけておいてくれるなら、僕たちは今日一日……とは言わずとも、数時間は平和に過ごせるわけですね」
 ここは一応ジュダの城であり彼が城主なのだが、表面上は平気なように振舞っていてもやはりクルスのジュダに対する警戒も抜けきっていないようだった。無理もないとシェリダンは小さく吐息し、部屋を出るために腰をあげる。
「陛下、どちらへ?」
「ロゼウ――ロゼのところだ。少し、報告をしてくる。ロゼと言うよりも、ローラへということになるが。ついでにエチエンヌの様子も見てくる。お前はリチャードが無事、伯に申し出を受諾されたと知らせてくるのを待っていてくれ」
 ジュダの性格なら、リチャードの誘いを断ることはしないだろう。招いて真っ先に自分へと向かってきた相手が一番オマケのようだったリチャードということに不服を感じるかもしれないが、そんなことはシェリダンの知ったことではない。
 何より、リチャードとジュダ自身に関する因縁を作ったのは、イスカリオット伯ジュダ卿本人だ。
「お一人で大丈夫でしょうか?」
「問題の伯のところには今リチャードが行っているんだ。それに、私は大丈夫に決まっている」
 眉の辺りを曇らせるクルスに軽く手を振って、シェリダンは部屋を出た。