荊の墓標 08

041

「あ、シェリダン。おはよ」
「おはようございます、陛下」
 やってきたシェリダンに、まずは朝の挨拶を投げかける。ロゼウスは応接用のテーブルでローラの刺繍作業を見ていた体を入り口に向けて、部屋へと入ってきた「夫」を迎えた。
「ロゼウス、ローラ、調子はどうだ?」
「特に変わったところはありません」
「俺も。結局昨日はその、イスカリオット伯って人とあまり顔合わせなかったし」
「そうか。なら、いい」
 シェリダンはローラの様子を見に来たのだ。もともと遠国シルヴァーニからジュダに買われてエヴェルシードに来た双子の姉弟は、エヴェルシード王シェリダンの奴隷となった今でも彼に目をつけられていて、何かにつけてちょっかいを出されるらしい。ちょっかいという程度ですめばいいのだが、ジュダのすることはいちいち二人の心の傷を抉るようなことだというので、今回はロゼウスとロザリーがローラとエチエンヌそれぞれについて、その身を守ることになった。
 奴隷と、名目上は捕虜とはいえ、元隣国の王女。護衛する側とされる側の身分が逆の気はするが、たまにはこんなこともあるだろう。何しろ、シェリダンは自分の懐刀である二人を本当に大事にしているから。
 シェリダンは寝台へと座り、ロゼウスもその隣に腰掛けさせられた。ローラは行儀良くシェリダンの前に立っている。
「二人とも、昨日のことは誰かから聞いたか?」
「昨日?」
 ロゼウスとローラは揃って顔を見合わせた。昨日の出来事と言えば、ここに到着してこうして部屋を与えられて、その後ロゼウスとローラの間ではちょっと傍目から見れば一触即発のように思えるだろう微妙なやりとりがあったくらいで。それだって表面上は落ち着いている。
「エチエンヌのことだ」
 ロゼウスたちの間で何があったかなど知らないシェリダンが告げた名は、ローラの双子の弟であるエチエンヌのものだった。ロゼウスは毎日、何かにつけてつっかかってくるエチエンヌはそれほど好きでもないのだが、彼の実力はそれなりに知っている。その彼が早速ジュダに襲われたということを聞いて、思わず目を瞠る。ローラの顔も強張っていた。
「いくら奴隷でも着いたばかりの客人の従者襲うなんて、なんつうクソ度胸」
「ロゼウス、言葉遣いが下品だ」
 シェリダンに口調を咎められる。
「だが、まあそういうことで間違いはないだろう。……エチエンヌも咄嗟のことで、対応する事ができなかったらしい。ローラ、お前は何があっても、ロゼウスの側を離れるなよ」
「はい」
 ローラが小さく頷いて、胸の辺りにきつく拳を押し当てる。その姿は不安というのとは違い、弟を心配しているという風でもなく、何かを考え込んでいるように見えた。
「ああ……だが、今日一日はたぶん、それほど警戒する必要もないだろう」
「どうして?」
 注意しろと言ったその場で気の緩んだことを言い出したシェリダンが思いがけないことを言う。
「リチャードがイスカリオットを連れ出している」
「リチャード?」
 それはシェリダンの最も親しい侍従の名前で、陰日向となく彼に仕える青年のことだ。ただし、ロゼウスが聞いた話ではリチャードの身分は奴隷のはずだ。
「いくら国王の侍従とはいえ、ただの奴隷が伯爵を呼び出すなんてできるものなのか? ……あ、それとも、イスカリオット伯の趣味はまさかリチャードまで」
「いや、違う。奴の趣味はいかにも儚げな風情の美人で……って、そうじゃない。リチャードとイスカリオットの関係はそういうことではない」
 一瞬脳裏に浮かんだ恐ろしい考えをシェリダンは否定してくれた。いや、確かにどちらもいい男なのだが、しいて言うならジュダの方が優男で、そんな彼が奴隷とは言え貴公子然としたリチャードにまで手を出すとなると……まあ、人の趣味はそれぞれだ。だいたいロゼウスだって兄やシェリダンとのことがある、何も言えない。
「じゃあ、なんで?」
「それは……」
 重ねて尋ねると、シェリダンが片眉を上げてロゼウスを睨んだ。余計なことを言わず黙っていろ、という仕草だが、この状況下では誰かに聞かれて困るというよりはむしろ単に説明がめんどくさいと言った様子だ。
 寝台の隣で長い足を組んで座っているシェリダンに、だからロゼウスはもう一つ言葉を投げる。
「じゃあ、リチャードがローラの夫だから何か文句でもつけにいったとか?」
 ぴくっとシェリダンが反応した。一瞬だけ目を泳がせて、結局は否定する。
「……いや、そうではない」
 二ヶ月の付き合いを経て、ロゼウスも大分彼のことがわかるようになってきた。シェリダンの顔色で考えている事が大体わかる。今のは。
「それが本題ってわけじゃないけれど、あんたはリチャードがそうするんじゃないかと疑っているって感じだな」
「……あやつはローラのことになると、目の色を変えて怒るからな」
「……申し訳ございません」
「いや、別にお前のせいというわけではない」
 軽く俯いて目を伏せたローラの謝罪に、罰が悪そうにシェリダンが再度否定した。
 ロゼウスは良く知らないが、どうやらローラとリチャードは夫婦らしい。何かの拍子に聞こえたことを繋ぎ合わせるとそうなる。となるとエチエンヌはリチャードの義弟となるわけで、道理で彼ら二人は仲が良いはずだ。
 けれど、実際にローラとリチャード自身を見ていると、その姿に夫婦という言葉が思い浮かばない。何しろローラの見かけは十二歳ぐらいの子どもであるし、実年齢だってまだ十五歳だ。それに比べるとリチャードは二十七歳で、ローラの十二歳上。どんな夫婦なのだろうと不思議になる。
 ずれた話題を、シェリダンが軌道修正する。隣に座るロゼウスは傍観者の体勢で、見つめあうシェリダンとローラのやりとりを見守る。シェリダンはローラの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「リチャードが何を考えているかまでは知らないが、表向きの名目は『身内の話がしたい』ということらしい」
「では、イスカリオット西方領へ?」
「だろうな」
 二人の会話を聞いているだけでは、何の半紙をしているかさっぱりだ。身内? 誰と誰が?
 一人だけ仲間はずれにする意味もないと思ったのか、話を聞かせることで協力させようというのか、シェリダンは簡単に説明した。
「お前にはまだ言ってなかったな。リチャードはあれでも元は貴族だ」
「え?」
「リヒベルク伯爵家。不祥事を起こして没落し、取り潰しになったがな。その事件にイスカリオットは関わりがある。いや、むしろイスカリオットのほうにリヒベルクが被害を与えたというか」
「貴族? でも、奴隷って」
「不祥事ゆえに、奴隷の身分に落とされたのだ。その後、紆余曲折を経て私の侍従に引き立てることにはなったが」
「どうりで、単なる召し使いにしては品があるなぁって……」
 常日頃はシェリダンの背後に控えて目立たない青年に対する違和感の一端が、これで解けた。
「本当なら不祥事はリチャードの責ではないのだし、兄を追放して奴が家を継げばよかったのだがな」
 それでもリチャードは、王家に仕えることを、シェリダンを選んだ。
「なんか、あんたの周りも思っていたより複雑なんだな」
「お前だってそうだろうが。王族なんてどこも似たようなものだ」
「ううん。そう……かな」
 華やかなドレスを身に纏い、見た目は少女らしくすることを命じられても、ロゼウスの実際の身分はローゼンティア王子。祖国にいた頃の貴族の勢力図を思い返そうとして……失敗した。
「特に覚えてないや」
 シェリダンが大仰に溜め息をつく。ロゼウスは興味のないものは記憶に留めておかない性質だ。
 ふと、視線を感じて僅かに首を曲げれば、ローラが感情の剥がれ落ちたような無表情でロゼウスを睨んでいた。
 ――私はあの方をお慕いしております。
 昨日の彼女の言葉を別に忘れたわけではない。
「ロゼウス?」
「……っあ、ああ。何?」
 ローラの方に注意を向けていたため、返事が遅れた。シェリダンはロゼウスの顔を見て何故か表情を険しくし、恐らくこれまでの会話の流れとは関係ない話題を口にする。
「お前、今日、どこかおかしくないか?」
 言われて、ロゼウスは内心ぎくりとしていた。確かに、今日はいつもの自分がどのように振舞っていたかがよくわからなくなってしまっている。原因はあの夢だと思うのだが。
「そんなことないよ」
 それをわざわざ、この男に告げる必要などない。だから否定した。シェリダンがついにロゼウスの腕を掴み、さらに眉根を寄せる。と。
「今日のロゼウス様は、朝方夢にうなされているようでした」
「ローラ!」
 別に告げる必要もないことをわざわざ口にした侍女に、思わず批難の声をあげた。そしてこれが、彼女のささやかな意趣返しだということも気づく。
「夢? どんな? 何を見た、ロゼウス」
「……あんたには、関係ない」
 突き放すように告げれば、シェリダンの動きが一瞬止まった。そしてロゼウスの腕を放すと、明らかに不機嫌な顔でこう言ってきた。
「そうか。なら、勝手にするが良い。私はローラとエチエンヌに気を配るのに精一杯で、お前のことまでは気が回らないからな」
 なんだよソレ。
「いいよ、別に」
 反射的に反抗的な言葉が口をついて出ていた。自分たちは二人して、自分の言った言葉で自分の行動を縛られているみたいだ。
(いいよ。別に。だって俺はシェリダンの妻ではあるけれど、この男を愛しているわけじゃない)
 だから気など遣われる必要もない。
 けれど何となく、雰囲気がピリピリとして気に障る。それはシェリダンも一緒のようで、ローラへ二、三忠告をおくと部屋の外へ出ていった。後には元通りロゼウスとローラだけが残された。
 そして不機嫌なやりとりをしたロゼウスだけではなく、間接的にそういう状態へロゼウスを陥らせたローラまでもが、何故か悔しげに唇を噛み締めていた。

 ◆◆◆◆◆

 それは初めから、いいや、初めから終わりまで、決して許されることのない《想い》だった。
 口に出すのはもってのほか、胸に抱いただけで禁忌とされる邪恋だった。
『あなたの子ではないのよ』
 宿した暗い情念ごと、耳の奥に甦るのはあの日の愛しい人の声。
『あの子は、あなたの子ではなく――』
 耳を塞いで通り過ぎることも出来ずに立ち尽くして聞いてしまったその告白。
 部屋の中には、彼女の元の夫がいた。暴力ばかり振るう彼から逃げるために叔母は離婚をしたものの、一度治まったはずの親権問題を元夫がむしかえしてきたのだ。ジュダはその下級貴族の恥知らずな傲慢さに腹が立つ。あの程度の男が、我が叔母につり合うなどと本気で思っているのか。
 だが、胸の内に義憤を宿したところで動けなかったジュダは、正しいどころか、そこに存在しないも同然だった。
 あの時、聞き耳を立てるのではなく何故その場で部屋の内に駆け込んでいって叔母の元夫を取り押さえなかったのか。
 そして愛しい人は、永遠に失われた。

「墓参りに行きましょう、イスカリオット伯爵。いいえ、ジュダ様」

 シェリダンの従者であるリチャードからそう言われたとき、ジュダは反射的に首を動かして頷いていた。あの日から癖になった狂気の微笑は口元に貼り付いていたが、内心ではちっとも笑ってなどいなかった。平静を装って馬車の支度を整えさえ、同い年の青年と共に乗り込む。
 現在のジュダの身分は伯爵。八年前の事件により凋落したとはいえエヴェルシードでも名門のイスカリオット家当主。対して、今目の前に座る青年は同い年でありながら、今ではその存在さえ忘れ去られようとしているただの奴隷。
 堕ちた貴公子、リチャード=リヒベルク。
 クルスとはまた別の意味で、シェリダンを支える懐刀の一人。
 もともと公爵家であったイスカリオットから見れば、金で爵位を買った成金貴族のリヒベルクなど、貴族のうちにも入らない。だがしかし、無能の前当主がともすれば赤字どころか借金までこしらえそうになっていた以前は、この成金貴族にもそれなりの価値はあった。
 今では、かつての栄光の見る影もない一族。その最後の当主に、ならなかった青年。
 そんな人間と伯爵であるジュダが向かい合わせで同じ馬車に乗り合わせるなど普通ならありえない。普通なら。だが、彼らの間にはとても普通という言葉で収まらない因縁があった。
「時間の流れとは、無情なものですね」
 リチャードが穏やかに話しかけてくる。その声は重さのない羽根のように、ふわりふわりとジュダの胸に落ちては降り積もる。
 そのたびに彼の胸を去来するのは、かつて二度だけ見た、彼に良く似た男の面影だ。あの男とリチャードは似ているが、似ているからこそ全然違う。あの男はこんな穏やかな喋り方はしなかった。いつでも、いっそ裏返って卑屈なほどに自分の正しさだけを主張しようと、癇に障る耳障りな響で。
「ええ。あれからもう、七年? いや、八年が経ってしまった」
 かつて伯爵になる可能性のあった男と、公爵から降格されて伯爵になった男。そんな私たちが、どうやって会話に花を咲かせろというのか。咲かせる必要もないが。
「あなたが私を殺そうとしてから、八年」
 血まみれの剣で一族のほとんどを斬り殺し、自分を狂人と罵った使用人たちの首を刎ね、なお治まらぬこの怒りと決して癒せぬ胸の痛みを軽くするために、かの男と相似の青年の血を求めた。
 振り上げた剣。
 ジュダの腕を止めた白い手のひら。
『もうやめろ。イスカリオット』
 真実の狂気も、その奥底に潜む壊れかけの痛みも貫いてまっすぐとジュダを見据えたあの朱金の瞳。
 がくん、と最後に小さく揺れて馬車がとまり、水泡のように回想が弾ける。
「旦那様。馬車がお着きになりました」
「ご苦労だったな。私たちが戻るまで待て」
 忠実な御者に待機指令をくだして、ジュダは奴隷青年を伴って馬車を降りる。辿り着いたのは墓地だった。イスカリオット領にある一番大きな墓地。
 ここには領地の民で、とくに身分の高い主に貴族が眠っている。
 ジュダの父も、叔母も、その息子も、彼ら以外の一族の者たちも。
 そしてイスカリオット領の一部を与えられていたリヒベルク家の、最後の当主であるリチャードの兄も。
「もう八年になるのですね。時の流れは本当に無情だ。日々シェリダン様のお側に仕え、あの方の成長を間近に見る私にはもうそんなに長い時間が過ぎ去ってしまったのかと、些か驚く気持ちが強いです」
 通いなれた道に案内などいらないだろうに余計な気を回した墓守をそのまま番小屋に捨て置き、リチャード一人を伴ってジュダは家族の墓標の前に行く。
 墓守が用意した花を古びた墓標に捧げたリチャードはまた、あの羽根とも雪ともつかぬ穏やかな声音で言った。
「伯爵、あなたが私の兄を惨殺してから。そして、その弟である私を殺そうとしてから」
 あの双子人形は知らない。もしも今の陛下の周囲にいる人間で最もジュダの被害にあっている人間を考えたら、あるいは彼らよりもこの青年のほうがそう呼ぶにふさわしいのだと。
「君の兄が、私の伯母上に重傷を負わせて死の淵に落としてから八年だ」
「止めを刺したのはあなたです」
「ああ、そうだな」
 リヒベルク家は大層な金持ちであり、公爵家の財産を食いつぶす浪費家だった当時の当主、ジュダの父にとってはいい縁談相手だった。リチャードの兄は彼らより十歳年上で、十八歳のその男と十六歳の、ジュダの叔母が結婚して両家に縁戚関係が結ばれた。
 リチャードとその兄は、姿形こそ似ているが性格はまるっきり反対だ。
「リチャード」
 早桶の十字に斜めにかけられた花輪は軽く、それが風に吹かれてかすかに揺れるさまを見ながらジュダは口を開く。辺りには、ほんの微かな花の香りが広がった。
「もしもあの時、叔母上と結婚したのが君の兄ではなく、君自身であればことは全て上手くいったのかもしれない」
「もしくは、私とあなたのどちらかが女性に生まれていれば」
 そういう話もあったのだ。二人は同い年。これで男女であれば問題なかったのだが。生憎とジュダとリチャードは二人ともが同性で生まれてきた。なんとか裕福な商人上がりの貴族と縁戚を結びたかった父は、最終手段として実の妹を差し出した。
 それが互いの破滅への引き金となることも知らず。
「あなたのお気持ちは察します。伯爵。我が兄はお世辞にも人格者とは言えなかったし、彼のあなたの叔母君への行動は人間として最低のものでした」
 八年前、リチャードの兄を殺しジュダ自身の身内を殺し、さらにはイスカリオット家の者へ重傷を負わせた咎を兄に背負わせられて刑場へと引き出されたリチャードを、別人だと理解しながら感情に任せて叩ききろうとした。順番的にはそちらが先で、リヒベルクがそういった手段に出るのならこちらも容赦はしないと、刑場から引き上げたその足でリチャードの兄を殺しに行ったわけだが。
 もしもシェリダンに止められなかったら、ジュダは今隣にいるこの青年まで殺していたことだろう。それを悔いる心など当然ありはしない。
 だが、彼にしてみればジュダは因縁深い相手。そしてジュダにとっても、奇妙な縁によって、また複雑な繋がりを持つことになった相手だ。
「あなたの境遇に、同情はしましょう。けれど、その痛みを誰かに振り撒くことは感心しません」
 リチャードの瞳が細められ、彼の眼にはすでに死んだ者たちの眠る墓標など路傍の石程度にも興味のないものとなる。もとからそれが言いたかったのだろう。彼は低い声で尋ねた。
 温厚で知られたリヒベルク家の次男の、それがもう一つの顔だ。ジュダは話題を察する。墓参りなど、ただ自分を連れ出す口実に過ぎない。
「半年から一年ほど前、あなたはローラに、我が妻に何をしたのですか?」
 くると思っていた。だから、正直に答えてやる。
「私がローラを誘拐したとでも思っているのか? それは誤解だよ、リチャード。彼女の方が、他に行く場所もないと私を頼ってきたんだ」
 リチャードの顔が歪む。それは八年前振り落とそうとした刃の下にはなかったもので、それを見るのなら彼を生かしておいたのも、あの双子を買ったのも間違いではない。
 まだだ。まだ私の復讐は終らない。
「一年前、君の子を身篭ったローラは、堕胎のために私に縋ったんだ」
 リチャードが瞠目して驚愕する。
 真実は時として、虚実よりも鋭い刃となると、ジュダはとうに知っていた。