荊の墓標 08

042

『ここで人を殺したね、昔』
 ええ、そうよ、その通り。
 ロゼウスの声も瞳も、ローラの胎に触れる指先も何もかも、責める声音はなかった。ただ薄っすらと微笑んで、聖母のような慈愛に満ちた表情で彼女の罪を暴いた。
 ローラは一年前を思い出す。
『ねぇ、ローラ。最近太った?』
 気づかれるのが怖くて、一人で逃げた。
 でもどこにも行くあてはなかった。途方に暮れたけれど、こんな状態じゃシアンスレイトには戻れない。
 どうしよう。どうしたらいい。考えて考えて結局はそれしか思いつけなかった。有り金もなくただひたすら歩き続けて領地に現れたローラを、あの男は少しだけ驚いたような目で見つめて、そうして自らの城に招きいれた。
 久々に足を踏み入れたその部屋は血のように紅い絨毯が敷かれ、優美な曲線と直線を掛け合わせた高尚なデザインの家具で占められ、暗緑色のワインボトルが無造作にあけられて濃い紫色の液体をグラスに注ぐ、典型的な下品で金持ちの貴族の私室だった。
 毛皮を敷いた椅子に座り、ローラに応接用の長椅子を示した男は彼女の説明を聞いてまず尋ねた。
『ふぅん。ついに孕んだか。で、誰の子だい?』
『……リチャード』
『お前の正式な夫じゃないか。喜べば良いものを。まるで死人のような顔色をしているよ、ローラ』
 産みたくないと思うローラの気持ちを知っているだろうに、ぬけぬけとジュダはそう言った。
 ローラはこの男のもとにいるときから、実の弟であるエチエンヌとだって何度もさせられていたから、それを皮肉っての言葉なのだろうが。
『他の者たちには?』
『言ってないわ。バレてもないと思う』
『シェリダン様には相談しないのかい?』
 ローラたちの主であるシェリダンは、下町の娘であった母を父である国王が無理矢理攫って作られた子ども。そのトラウマで女性を孕ませることができなくて男に手を出すあの人に、そんなことが言えるものか。
『言えない』
『言ったら、お前の望みどおりにしてくれるだろうと思うけどね』
 シェリダンならそうだろう。女の産みたくないという気持ちを無視して出産なんてさせる人ではない。けれど、せっかくできた子どもを目の前で否定するようなことをすれば、それが自分の子どもでなくたって、きっと彼は傷つく。だから。
 誰にも頼れなかった。
 よりにもよって、四年ほど前まで自分にあらゆる虐待をしていた男を頼った。
『で、どうしたい? 堕ろすの? それとも、産んでからどこか里子に出すかい』
『……堕ろしたい』
 嫌、嫌、嫌。自分の中に自分から作られた、自分でない生き物がいるというこの感覚が死ぬほどイヤだ。自分だってそうして母親の胎から生まれてきたはずなのに、そんなの受け入れられない。絶対に認められない。気持ち悪い。……気持ち悪い!
『嫌なの! 私は母親になんてなりたくない! 愛せない子どもなんて絶対にいらない! 私は自分の子どもなんて愛せないそんなのいらない気持ち悪い! ……この子は生まれてきちゃいけないの!』
 自分が母親になるなんて考えられない。それはローラがまだ十五歳で自分も子どものようなものだとか、この身体が十二歳程度にしか見えないとかそういうことではなくて。
 シルヴァーニで売られてこの城に来て、目の前の男に組み敷かれている間中ずっと考えていた。ねぇお母さんどうして私を産んだの。何のために産んだの。何のためにここまで育てて、そうして捨てたの。いらないなら最初から産まなければよかったじゃない。
 私は生まれてきたくなんて、なかったのに。
 肌を合わせる事は子を成すための神聖な行為だなんて幻想はもう跡形もなく打ち砕かれているし、それを知る前にまず肉欲を教えられた。どうしてこんな醜悪な快楽の先に人は人を成すのか。そればかりが頭を巡る。人間が生まれるということ、それこそがまず醜い。
 そうして、醜さの先に生まれてきた自分は、自分自身を愛せない。自分の生を愛せない。
 生まれて来なければよかったのに。生まれて、きたくなんて、なかった……。
『生まれてきてはいけない子ども、か』
 そこで、ジュダが一瞬だけ冷めたような眼差しをした。ローラには理由など皆目見当もつかなかったが、もとよりこの伯爵の感情の機微に細かくなりたいわけでもない。
 生まれて来なければシェリダンにも会えなかった。だがその嬉しさの代わりに痛みも苦しみも辛いのも何もないのならそっちの方が良かったのではないか。ローラはそう考える。
 人間は生まれて来ることが一番不幸。ならば、自分は絶対に子など生まない。
『おいでローラ』
 見透かしたような顔で笑いながら、ジュダが手を差し伸べた。ローラは素直に長椅子を降りて、ジュダの膝に乗る。長旅で疲れきった身体に人肌のぬくもりは心地よいけれど、その相手がこの男だと思えば、心臓が凍った。
『中絶、ね。でも教えておいてあげるよ。堕胎は母体への危険が大きい。そうすると、君が死ぬかもよ?』
『それは、いや……』
 お腹の子の父親はたぶんリチャードだろう。愛する男の子どもを殺すのなら自分も共に滅びる道を選ぶかもしれないけど、生憎ローラは、そこまでリチャードを愛しているわけではなかった。
『あの男の子どものために死ぬなんて御免だわ』
 本心だった。間髪いれずに、ジュダがこう返してくることも知らず。
『では、産むだけ産んでその場で殺そうか』
 まるで小鳥の首をもぐように簡単に。陽だまりのような微笑さえ浮かべながらジュダはそう言った。
 そしてローラは。
『…………わかった』
 ここで。このお胎で。
 人を殺したの。忘れたいと願う意志が忘却の彼方に追いやった昔。まだたったの九ヶ月前。生まれる三ヶ月前にジュダの元へと身を寄せて、生まれて三ヶ月でシアンスレイト城へ戻った。その時になっても誰にも何も言えず。
 罪だなどと思わない。リチャードがローラを無理矢理抱くように彼女が自分の都合を優先して何が悪いのだろうか? だから、生まれてきた子を殺したことなど何とも思っていない。中絶をすればローラの方が危険なのだし、産んで育てる気などまったくありえなかった。だから。
 けれど、胸の中のどこかが痛い。
 その痛みが、自分のせいだけではないとわかっているから、なおさら痛い。
 自分は生まれてきたくなかった。それでもどうしても生まれてくるなら、せめて男として生まれてきたかった。
 自分と同じ顔のエチエンヌはあんなに自然にシェリダンに触れられ、相手をしているのにどうして自分だけ。男同士なら孕むこともない。ローラはエチエンヌが酷く羨ましい。
 ロゼウスは嫌いだけど、少しだけ安心もしていた。あんなにも美しく儚げな美貌をもつお妃様のせいで、エチエンヌも今はろくにシェリダンに近寄れない。そしてロゼウスはシェリダンを愛していないのだという。シェリダンに見惚れないことは少しむっとするけれど、彼がシェリダンを愛さないことにも、ローラはほんの少し、安堵していた。
 誰も、誰も近付かないで。一国の王であるのに破滅を願う方。ローラはシェリダンがもしも誰か別の女性を愛して結婚するなどということになったら発狂してしまうかもしれない。叶わない恋情と禁断の情欲に溺れるあの人だから愛おしくて恨めしい。
 私を愛してくれないなら、いっそ他の誰も愛さないで。
「陛下、お話が――」
 足を踏み入れた部屋の中で見た光景。
 それはローラとよく似た弟を、エチエンヌを抱いて口づけるシェリダンの姿だった。

 ◆◆◆◆◆

 エチエンヌが自分で断ったというのに、やはり昨日のことでロザリーは責任を感じているようだった。感覚の鋭い吸血鬼には、表面上は平静に見えても、その裏でエチエンヌに何があったかなんてすぐにわかってしまうのだろう。部屋に帰って来た彼を出迎えた彼女が真っ先にしたことは、エチエンヌを思い切り抱きしめることだった。
「エチエンヌ!」
 ああ、僕は君の国を滅ぼした国に使える奴隷の一人なのに。なんで。
 自分より背の高い女性の柔らかな胸に抱きすくめられて、思わずほんのりと、泣きたくなった。
 妻とか恋人とかそんなものより、エチエンヌがロザリーに感じるのは、「姉」。実の姉であるローラにも感じたことのない、穏やかな母性だった。そういえばローゼンティア王家は子沢山で兄妹も多くて、第四王女であるロザリーにはその下にさらに弟妹がいるのだったか。実際に年齢もエチエンヌのほうが一つ年下だし、きっと弟のように思われてるのだろう。
 貴族の寝台は無駄に面積が広いので一人用のベッドに二人で寝ても、みっともなく手足がはみだすなんてことはない。エチエンヌはロザリーにひっついて、ふかふかの毛布に守られるようにして手足を丸めて眠った。繋いだ腕から伝わる、少しだけ体温の低い手のぬくもりに癒されて、もう悪夢は見なかった。
 そして次の日が来た。
「伯が出かけてる?」
「ああ。リチャードが連れ出した」
「墓参りですか?」
「そんなところだろう」
 朝方からシェリダンが訪ねて来た。ヴァンピルは朝に弱いと聞いたが全然平気な顔で起きて身支度もしっかり整えていたロザリーが用心のために少しだけ扉を開くと、外に立っていたエヴェルシード人はエヴェルシード人でも、ジュダではなく、彼女ですら見慣れたシェリダンの姿だった。
 そう長い時間を期待するわけにもいかないけれど、リチャードがジュダを連れ出して彼らの親戚の墓参りに行ったのなら、少なくともこの午前中は帰って来ないだろう。エチエンヌはほっとしたような、拍子抜けしたような気持ちでその報を聞いた。
「……少し、二人きりで話すか」
「はい」
 ロザリーはこの件に関しては部外者も同然だ。彼女はあの五年前のことを何一つ知らない。エチエンヌとローラがイスカリオット伯に「酷い目に遭わされた」ということを、漠然と感じているだけ。それに彼女は、ローゼンティアの王妃の中でも政略とはほぼ無縁で王の寵愛を受けた第三王妃の娘だという。きっと彼女にはエチエンヌたちの気持ちはわからない。
 虐待された子ども。
 エチエンヌの場合はそれがえんもゆかりもない他人で、シェリダンは実の父親だった。ただそれだけのこと。
 エチエンヌはローラという痛みを分け合える相手がいたけれど、シェリダンにはそれすらいなかった。クルスはシェリダンの友人のような相手ではあるが、その彼だって全てを知って、なおかつ、とめられたわけでもない。
 このどうしようもない苦しさを分け合えるのはあなただけ……
 だからエチエンヌはシェリダンが好きなのだ。
 ロザリーをもとの部屋に置き去りに、そのままふらりと外へ出た。彼らは勝手に使っていいと言い渡された客室の一つに入り込んで、シェリダンがソファに身を投げ出した。
エチエンヌはその正面の席について、久々にじっくりと主君の顔を眺める。本当はとても失礼にあたることだが、それをいちいち咎めだてするような人でもない。
「どうした? エチエンヌ」
 けれどやっぱり気にはなるようで、視線に気づいたシェリダンはエチエンヌと目を合わせた。苦笑気味のその表情は見慣れたはずのもので、シェリダンはいつでも笑っている事が多い。けれdpそれは苦笑だったり微笑だったり、決して翳りのない笑みは見せない。たいてい意地悪い笑みを浮かべているように城の者や諸侯には思われているけれど、私生活でも人といる時は、大抵穏やかに笑っているものだ。エチエンヌやローラには優しい笑顔を見せてくれる。
 だがそこまで思い出すと、同時に余計な記憶も表面へと浮かび上がってきた。
『笑う? シェリダンが?』
 それに異を唱えた相手はただ一人だけ。
『嘘だろう。だって、あいつ……』
 いつもどこか思いつめたような、切なげな顔をしていると。
 エチエンヌに教えたのは――ロゼウス。
「エチエンヌ?」
 知らず、唇を噛み締めていた。鉄錆の味がじわりと口の中に広がる。切れた箇所はピリピリと痛み、その痛みが彼を我に帰す。
「なんでも……ありません」
「そうか? なら……よいが」
 シェリダンは昨日エチエンヌの身に何が起こったかすでに知っているから、大方そのことだとでも思ったのだろう。あまり突っ込んで訪ねるのも躊躇われるといった様子で、何も聞かないうちに追求の手を緩める。
 これがロゼウス相手だったら、遠慮なくなんでもズケズケと聞いたのだろうか。
 あの悪夢のように美しい少年が来てから、シェリダンの注意はすっかりそちらに移ってしまっている。初めこそ新しい玩具を手に入れたような気分なのだろうと、エチエンヌもローラも見過ごしていたが、どうもロゼウスに対するシェリダンの態度は、エチエンヌやローラやリチャードやクルスに対するものとは違うようだ。それにはっきり気づいたのは、死んだはずのヴァンピルの王族が甦ったことを知ったシェリダンが、それを隠していたロゼウスに怒り、彼を刺し殺した時。
 すぐに生き返るヴァンピルを、自らの手で一度はその心臓を止めた相手の手をきつく握りながら、再びその瞳が開くのを待っていたシェリダン。
 あの時ほど辛いことはなかった。彼の心は、すでにあの王子に囚われてしまっていた。
 ロゼウスが美しく強く品行方正で完璧な王子……ならばきっと、シェリダンはこんなにもその魂に惹かれることはなかったはずだ。エチエンヌは並ぶ二人を見ながら思った。身の内に破滅を飼う、二人は同じ痛みを抱いていた。あの王子は、完璧な外面を裏切るほど粗暴で口が悪くて、なのにどこか危うげで儚げだ。だから目が離せないのだと。
 おかげでシェリダンはもう、エチエンヌを見ない。
 昨日、行為の最中、ジュダに言われた言葉が次々に脳裏に蘇る。
 ――だが、後ろの方はご無沙汰だったようだな。
 ――物欲しそうにヒクついて。そんなに男のものが欲しかったのか?
 ――可哀想に、エチエンヌ。まだこんなに若くて美しいお前が、もう相手にされていないなんて。あの可愛らしい奥方ともろくにしていないんだね。陛下にお払い箱にされたのが、そんなにショックかい?
 心のどこかが飢えている。
 シェリダンにまた元通り、触れてほしいと。この五年間ずっと、彼の孤独な欲望を慰めるのは自分の役割だったのに。
「陛下」
「何だ?」
「抱いてください」
 唐突な言葉にシェリダンが押し黙った。やがて、脳内に幾つか言葉を並べてさんざん迷った末に選んだかのような顔で。
「どうした? いきなり」
「いきなりじゃありません。それは、陛下の方でしょう。あいつが……ロゼウスが来るまでは、ずっと僕だけを抱いてたくせに!」
「エチエンヌ」
 あの日から五年間ずっと、胸に秘めていた言葉だ。最初の時は、シェリダンの方がエチエンヌに無理強いして、エチエンヌは泣く泣くそれを受け入れて。
 いつの間にか追う者と追われる者は逆転していた。
「あなたが、好きなんです」
「……私もお前の事は大切に想っている」
 恐らくシェリダン自身も、彼らを拾ったときに考えた以上に。けれど、エチエンヌはそれだけでは嫌なのだ。
「お願いです。抱いてください。玩具でいいんです。他の誰にもぶつけられない欲望を、ぶつけてくださるだけでいいんです。あなたの忠実な下僕であるためだけに、僕はここにいるのに!」
 愛されたいだなんて大それたことは思わない。でも、このまま、ロゼウスという代わりがいるからもうエチエンヌはいらないと言わんばかりに手を離されるのは嫌だ。
 そしてそれが代わりなんかじゃなくて――シェリダンがロゼウスのことしか見えていないというのなら、彼しかいらないというのはなおさら許せない。
 ふと、エチエンヌの肩に優しく手がおかれ、唇に柔らかな感触が触れてきた。
「……陛下」
「今は……これからは、それで我慢しろ。我慢してくれ。エチエンヌ。私は――」
 エチエンヌを膝に抱き上げて、シェリダンは優しく告げる。その声が、中途で途切れた。
「陛下? ……エチエンヌ?」
 扉の外に立っていたのは、ローラだった。