第3章 双子人形(3)
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ジュダがいないのならば何も好き好んで気の合わない相手と顔を合わせていなくてもいいだろうと、早々に部屋を追い出された。ローラもたまには一人で羽を伸ばしたいのだそうだ。念のため、クルスがジュダとリチャードが帰って来たらすぐに知らせが行くようにと、城門近くの小屋に詰めているらしい。
それでロゼウスはもはや用なし。追い出されたというか出てきたというべきか……とにかく、今の彼はこんな場所にいる。
「綺麗なお城」
エヴェルシードに来て毎回毎回そんなことを言っている気もするのだが、イスカリオット城も実に見事なものだった。王城シアンスレイトに匹敵するほどの規模と外観。エヴェルシードの城砦建築は全てこうなのか、それともイスカリオット領だけがこうなのか。
あの伯爵の性格を考えると、後者の気もする。
ロゼウスが生まれ育ったローゼンティアは、《薔薇の国》と呼ばれていた。それは吸血鬼の特殊な生態上、生活に必要不可欠な薔薇の花をいつでもどこでも育てているからだったが、他国の人間から見ればよっぽど薔薇好きな国民に見えるらしい。白い肌に白い髪に赤い瞳に尖った耳のヴァンピルたちは、吸血衝動を抑えるためにあえて自らの魔力を封じる薔薇の花を求めている。
「喉が、渇いた、な」
ローゼンティアは薔薇の国とは呼ばれるけれど、その実態はいつもどこか薄暗い雰囲気の漂う国だ。薄暗い雰囲気と言うか、実際に空がある程度翳ってからでないとロゼウスたちは動けない。日光を浴びてすぐ消えてしまうということはないけれど、やはり日の光は苦手だから。
ヴァンピルは昼間のうちは眠って力を蓄え、夜になると起きだして活動する。人間の国の使者たちは、ローゼンティアを訪れるとその昼夜逆転に驚いて、困るという。
ローゼンティア。このエヴェルシードより東の、薔薇の国。
我が祖国にして最愛の地。
今はこの世界にもうない国。エヴェルシードに侵略されて、国民の多くは奴隷にされた。貴族のほとんどは侵略の際に殺されて、王家の者で所在がわかるのはロゼウスと妹のロザリーしかいない。
今頃、他の兄妹たちはどうしているのだろうか?
ふと、気になった。ローラとエチエンヌの二人があんまりにも仲睦まじいからかもしれない。
それなのにローラの血を舐めて、少しだけ彼女の闇を知ってしまったからかもしれない。
「それか、もしくは……」
この城全体に広がる腐臭。人間の嗅覚程度は到底嗅ぎわけることの出来ない、古い血の匂いが染み付いている。
この城では何年か前、大勢の人が血を流して死んだ。自然とそう知れるような、古びて黒ずみ腐りかけた血の匂いだ。
だが、飢えた身体にはそれですら甘い果実のように惹き付けられる。ノスフェル家は使者の蘇生を行い、生者に無限の命を与えるほど力の強いヴァンピルの家系。ロゼウスと長兄ドラクルと姉のルースの母である正妃は、そのノスフェル家の生まれだった。
けれど力が強いということは、それだけ吸血鬼としての血が濃く、ヴァンピルの魔に強く支配されているということ。
第三王妃の娘であるロザリーに比べて、ノスフェルの出である正妃の子どものロゼウスは、酷く渇きに敏感だ。飲んでも飲んでも、すぐに血が欲しくなってたまらない。
それを納めるために、この薔薇園に来たのだ。
「……本当に、綺麗だな」
イスカリオット城の庭園は素晴らしいものだった。色とりどりの花が咲き乱れ、蔦を絡ませて伸びている。
「でも、薔薇がない……」
他の花はあるのに、薔薇園がないのだ。シアンスレイトにもあったし、ローゼンティア城にもあったからあるのが普通だと思っていた。でもよくよく考えてみればヴァンピルでもない限り、薔薇専用の庭など作りはしないのだろうか。
ローゼンティアの城や貴族の館は、いつも薔薇に覆われていた。門扉や壁面を薔薇の蔦が絡み付いてとりまいているので、他国の人間には重苦しく不気味な魔女の城そのものに見えていたそうだ。
シアンスレイト城やイスカリオット城を見てようやくわかったが、普通の城はそんなことないのだ。ただ豪奢で絢爛な建物だと感じる。これらを常に見ているのならば、確かにローゼンティアの建築は恐ろしげかもしれない。
けれど、まさか薔薇がないとまでは思わなかった。今回は長期間の滞在とは言わないが、一週間と言うそれなりの長さを持つ外出だから対策を練っておきたかったのだが、新鮮な薔薇を何百本も王城から持っていくのはやはり無理がある。では血液補給機……もとい、シェリダンに血を分けてもらえるかというと、彼は彼でジュダの相手をしたりクルスが常に側にいたりで、なかなか二人きりになる機会がない。
よって、現在のロゼウスは。
「欲求不満だ……」
ちょっと意味が違うような気がするが、思わずぼそっとそう零してしまう。血は吸えない。大嫌い宣言をされたローラと今までにない長時間の微妙な二人きり。この城全体に漂う臭気。
「特に強いのは……あそこか」
城の本館とは少し離れた場所に、ぽつんと塔が立っている。かなり高さのある塔で、曇りがちで霧もかかっている今日のような天候では、あの塔だけが異質で不気味だった。
と、その不気味な塔に注目していたら、塔の足元に何かが見えた。緑色の塊から、確かに薔薇の香りが聞こえてくる。
「迷路庭園?」
それは薔薇でつくられた迷路だった。薔薇でつくったというか、常緑樹の茂みに薔薇を纏いつかせている。暗い緑の植物の壁から時々白い薔薇が顔を覗かせているのが、何とも言えず可憐だ。
「こういうのは始めて見たな」
少し興味を持って、迷路の中に足を踏み入れる。迷路とは言っても、所詮は庭園のお飾り。まさか本気で迷うこともないだろうし、だいたい迷路には幾つか完全な脱出方法があるはずだ。
『いいかい、ロゼウス。迷路からぬけられなくなった時はこうしてね』
『一方の壁に手をついていけば、必ず出られるよ』
本を見ながら説明してくれたのは、次兄のアンリと三番目の兄であるヘンリーだった。基本的専門的知識はドラクルの方が上でも、二人はどちらかと言えば雑学や豆知識といった、そういったものに強かった。
また兄妹のことを懐かしく思い出してしまって、ロゼウスは首を振って頭を冷静に戻した。感傷にひたる暇などない。……このエヴェルシードで、心休まる時などあるはずもないのだから。
人一人通るだけでは随分と幅に余裕のある迷路を歩いて、その中ほどまで進んだ。どこか一目につかない手頃な場所で薔薇の花を失敬しようとした背後に、ふと誰かの気配を感じた。
驚いて振り返ろうとしたところを羽交い絞めにされ、動けないよう固定されてしまう。
だけど、この感触は。
「久しぶりだね、ロゼウス――」
「兄さ……」
正面を向いたままロゼウスはその名を呼ぼうとし、ついで目の前に現れた姿に目を剥いた。
迷路の曲がり角から現れたのは、エヴェルシードには珍しい濃紫の髪と金の瞳を持つ少女。
「カミラ――」
叫んだロゼウスの口元を大きな手が塞ぎ、ついで何か薬品の匂いがした。
そしてそこで、ロゼウスの意識は途切れた。
◆◆◆◆◆
たいして間をおかずに目覚めたようで、身体を起こしながら周囲の状況を確認すると、そこはまだあの迷路庭園だった。
「あれは……今のは……一体……?」
兄の気配を感じ、カミラの姿を見た。混乱のまま首を巡らすと、迷路の長い直線の道の向こう側に、長い髪をなびかせて佇む姿がある。
「ま……待って! カミラ!」
ロゼウスは必死で追いかけて追いかけて、けれど角を曲がったところで呆気なく彼女を見失った。彼女は足を速める素振りすら見せなかったのに、ロゼウスは情けなくも追いつけなかった。
ただ呆然とする。
あれは何? こんなところにいるはずのない兄様と、死んだはずのカミラがどうして。夢だとしか思えない。
とりあえず気のすむまで迷路の中をしらみつぶしに探したけれど、やはり何もないし誰もいなかった。白昼夢を疑いながら、ようやく入り口に戻る。すると。
「ローラ? エチエンヌ?」
中庭へ駆けてきたのは、今なんだかんだと問題の渦中にいる双子だった。
◆◆◆◆◆
あなたが本当に好きだった。
「ローラ! 待って、待ってよ! ……姉さん!」
エチエンヌとシェリダンが抱き合っているのを見て部屋から駆け出したローラを、エチエンヌは必死に追いかけている。
「待って! お願い、お願いだから!」
目にも留まらぬ速さで城の廊下を駆け抜け、階段をほとんど一気に飛び降りる。イスカリオット城の数少ないけれど完璧な教育を施された使用人たちの度肝を抜いて城内を巡り、ローラの後を追って外に出た。
勝手知ったる広い庭を、ひた走る。エチエンヌもローラも足の速さには自信がある。部屋を出る際にシェリダンも立ち上がり追って来る気配を感じたけれど、彼が追いつくまでまだまだかかるだろう。だから。
「ローラ! ……姉さん! お願い、止まって……」
イスカリオット城の、シアンスレイトに勝るとも劣らない広さの庭を駆けて駆けて駆けて……無能だが酔狂だった先代公爵が作ったという白薔薇の迷路の目前の広場で、ローラはようやく立ち止まってくれた。エチエンヌはそのすぐ隣に並んで、ようやく息をつく。
「ローラ、あの……」
口を開いた途端、視界が反転した。振り下ろされようとする刃を、首を横にのけぞらして間一髪避ける。
「ローラ!」
驚きのあまり、その名を呼ぶことしかできない。慌てて再度振り上げられた手首を押し戻し、もう片手で上体を起こし腹筋を使って身体全体を起こし、後方に跳んでローラから距離をとる。
ローラの手にはいまだ鋭いナイフが握られており、エチエンヌは自分も武器であるワイヤーを取り出した。
彼女の眼は本気だった。
向こうが地を蹴ると同時に目の前に白刃の煌きが閃き、エチエンヌはそれに頬を切り裂かれながら、構えたワイヤーを繰り出してローラの拘束を目論む。
「……っ!」
一直線に伸びたワイヤーは容易くねじ伏せられ、逆に掴まれたそれを手繰る手にエチエンヌはバランスを崩した。仕方なくワイヤーを手放し、得物のない状態で睨み合う。
「ローラ、もうやめてよ!」
戦場や任務先なら、得物を手放す事は死を意味することも同然だ。だけれど、ここはエヴェルシード国内親王権派のイスカリオット伯爵領で、相手は実の姉のローラだ。
「……」
「そんなに、怒ってるの? 僕が……」
「うるさい!」
エチエンヌの言葉を悲鳴のような叫びで遮り、ローラは乱れた金髪の間から弟を睨んだ。エチエンヌは首元の濡れた感触に思い至り、そっと首に手を伸ばした。ぬるりとした感触は先程切り裂かれた頬から流れた血だ。
ローラが僕を傷つけるなんて。
あの眼……きつく睨み付ける眼差し。
「僕を殺すの? 姉さん」
エチエンヌがシェリダンに口づけをねだったから。だからローラは……。
「僕が憎いの?」
「……ええ、憎いわ」
明らかな憎しみを燃え立たせた緑の瞳で、姉は弟を見据える。ローラからこんな眼差しを向けられたことなんて今までに一度もない。
「僕は……ローラが好きだよ」
姉さん。大好きな姉さん。
エチエンヌは男ではシェリダンが一番好きだけれど、女ではローラが一番好き。誰よりも好き。
「そんなのは欺瞞よ」
だけれど、愛しい姉は彼の言葉を鼻で笑った。その瞳が嘲りと憎悪の色に染まり、哄笑の一瞬前の顔は目尻に皺を寄せている。
「あんたはね、エチエンヌ。見知らぬ国で見知らぬ人たちの間で、誰一人味方がいないのが怖くて、それで姉である私を頼っているだけ。双子だから心まで通じ合ってるみたいに思い込んで、私に寄りかかっているだけなのよ!」
激しい叱責に、エチエンヌは立ちすくむ。一拍遅れて我に帰り、必死に弁明を試みるもローラは聞く耳を持たない。その上、彼女の言う事はいちいちもっともで抗いがたい。
「ちがっ、僕は、本当に姉さんのこと!」
「違わないわ。エチエンヌ。あんたは私が好きなんじゃないの。『姉』という存在が好きなだけなのよ。ここにいるのが私じゃなくて父さんや母さんでも、同じことを言ったのよ」
「そんなことない!」
「ある」
「絶対違う! だって、だって僕はローラを」
「抱いた、から?」
ローラの表情がスッと抜け落ちる。
「それこそが、あんたが私を《ローラ》であることを認めていない証拠でしょう?」
場所はいつも薄暗い部屋。イスカリオット城にいるときはジュダに強要されて、シアンスレイト城についてからは、どうしても寂しくて怖くて不安で。
エチエンヌはローラに縋った。
姉である彼女を本当にそのように愛していたのなら、何があっても心の繋がりだけを支えに、肉体関係を持とうなんて考えるはずもなかったのに。
エチエンヌは罪の意識で彼女を縛った。……置いていかれたくなかったから。
『ローラに捨てられたら僕は生きていけない。置いていかないでよ姉さん。僕のこと、好きだよね? ローラ。だったら……』
姉さんと呼ばなくなったのはいつからか。血の絆に縋りながら、それを忘れようとした。
庭園を吹く風には甘い花の香りが含まれていて、エチエンヌの頬から流れ出た血の匂いを洗う。けれど、そんなものよりもっと生臭い古き記憶は洗えない。
「ねぇ、エチエンヌ。私、一年前に子どもを産んだの」
「……え?」
一年前と言えば、丁度ローラが行方不明になった頃だ。子ども? ……子ども!? ちょっと待て。そんなの聞いていない。でも、そういえば。
『ねぇ、ローラ』
『なぁに? エチエンヌ』
『最近太った?』
こんな会話を交わした覚えがある。あれは、まさか――。
「ここで。イスカリオット伯に頼んでね。リチャードとの子どもよ。堕胎は母体に負担がかかるからってね。ちゃんと産んで……それから殺した」
矢継ぎ早に告げられた事実にエチエンヌは呆然としてしまう。リチャードはローラの夫だしそういうこともしてるから、妊娠ぐらいしたって不思議ではないだろうけど。でも。
「産まれるまで、私は不安だった。産まれた子どもはね、蒼い髪に橙色の瞳をしていたの。でもね」
細い腕で腹部を抱くようにして、ローラは狂ったように笑う。
「どうしようかと思ってたの。あの頃はリチャードとばっかりしてたからたぶん間違いはないだろうと思ったけど、でも、それでも金髪の子どもが生まれてきたりしたら」
エヴェルシード人の蒼い髪は優性遺伝。シルヴァーニ人の金髪は劣性遺伝であるから、リチャードとローラの間にできた子どもなら、この蒼い髪を持って生まれてくる確率が極めて高い。それでもローラと同じ金髪の子どもが生まれてきたとしたら。
それは、エチエンヌの子どもである可能性が……近親相姦で生まれた罪の子である可能性が、高い……。
「いつもいつもいつも! 苦しむのは私ばっかり! 女だからこんな思いをして、女だからシェリダン様に抱いてもらえない! どうして? 同じ顔のあんたは、あんなにも陛下のお側にいるのに……!」
ローラがシェリダンを好きだということはとっくに知っていた。それが永遠に叶わない想いだということも。
エチエンヌは男であるというだけで、その寵愛をほとんど無条件に獲得していた。ロゼウスに嫉妬するまでもなく、彼に触れてもらえる権利を持っていたのに。
「……ローラ……姉さん」
ぬめる粘膜に自身を押し込んで繋がれば一つになれるような、対ではなく、本当に完璧な一個の存在になれるような気がしていた。鏡のようなその顔を見ながら、泣いてるのは自分のほうだと思っていた。
服の一部をまくって、壁際に押さえ込んでのしかかって出し入れするだけの乱暴で単純な行為。無茶苦茶なやり方はイスカリオット城で反吐が出るほど試されたから、エチエンヌはローラと交わる時はいつもそれしかしなかった。ローラも自分を好きだから、受け入れてくれるんだと思ってた。だけど。
「大好きよ、エチエンヌ。……そして誰よりも、あんたが憎い」
ローラが泣いている。白い頬を透明な涙が滑る。女である。ただそれだけでシェリダンに抱かれることのない彼女。同じ顔のエチエンヌがシェリダンに抱かれていても、それで彼女の心を慰めることになどならなかった。
彼らは双子だから、半身ではあっても同じ人間などではない。エチエンヌが見た泣き顔はどんなに彼自身に似ていても、ローラのものでしかなかったのだ。
今更、そんなことに気づく。もう、何もかもが手遅れ。
「死んで。エチエンヌ」
それでもやっぱり大好きなローラの声を聞きながら、エチエンヌは訪れる死の瞬間を、目を閉じて待った。ワイヤーが微かに擦れる音を立ててこちらに伸びる。
頬に生暖かい血が散るのを感じて、しかし予想した痛みはいつまでもこの身体を貫く事はない。
強い、鮮やかなほどの薔薇の香り。
恐る恐る目を開けると、眼前を塞ぐのは白い肌に白い髪。俯いたその面差しはこんな時まで、絵画のように秀麗で。
「ロゼウス……?」
エチエンヌは、彼の腕の中に庇われていた。