荊の墓標 09

044

『お前が愛しいよ、ロゼウス。そして大嫌いだ、我が弟よ』
『大好きよ、エチエンヌ。……そして誰よりも、あんたが憎い』

 ああ、そうか。
 エチエンヌを見つめるローラの眼は、兄上に似ているんだ。
 俺を憎んで憎んで、弄んで捨てようとした兄様に。

 脇腹と首と左肩に突き刺さったワイヤーの鋭い先端を、筋肉を引き締めることによってなんとか止める。ロゼウスの身体自体は貫通したけれど、それ以上は飛び出ないように。
「ロゼウス……?」
 目の前には呆然と放心したようなエチエンヌの顔がある。体勢を崩して尻餅をついた彼を放って、ロゼウスは身体から針金状の凶器を引き抜いた。力の抜けたワイヤーを地面に放り出すロゼウスの身体から流れた血が、下生えの緑をぽつぽつと紅く染めた。
脇腹と肩はともかく、首筋は普通だったら致命傷だ。普通の、人間ならば。けれど吸血鬼はこの程度の怪我、怪我の内にも入らない。
「ロゼ様」
 恨みがましい声にゆっくりと振り返ると、ローラが切ない眼でロゼウスを、そして彼の向こうのエチエンヌを見ている。
「よくも、邪魔をしてくださいましたね」
「そうだな……でも」
 純白のドレスが血に染まって紅くなる。模様のないその布地に大輪の紅い薔薇を咲かせたような格好となる。
 そのドレスの裾を、庭園を吹く風が揺らす。
 花咲く庭園で風に吹かれて白い髪をなびかせ、白いドレスと白い肌に紅い花を散らす。ロゼウスの目の前の少女は濃い黒のメイド服に金髪、鮮やかな緑の瞳なので、ロゼウスがもつ色彩とは対照的だ。
 十五歳でありながら十二歳程度の子どもにしか見えないその外見を眺めながら、ロゼウスは彼女の、湖底の緑に潜むものを見る。
 愛している。
 憎い。
 大嫌い。
 大好き。
 だから。
「止めて良かったんだろう?」
「……」
 ローラは答えず、俯いて目を閉じた。その四肢から力が抜け、とうに武器としての役割を果さずしなびていたワイヤーもその手から零れ落ち、彼女は地面に膝を突いた。
 ロゼウスは血を拭うこともしないままその傍らに歩み寄り、華奢な身体を抱きしめる。震える頭を抱き寄せて、金色の髪に頬を寄せた。
「辛かったね」
 この子はシェリダンが好きで。好きで好きでだからどうしようもなくて俺が嫌いで。
「みんな嫌いなんだよね」
 ローラはリチャードとは夫婦だけれど、その夫を愛しているわけではないという。政略結婚に愛がないなんてよくある話で、政略ですらない主君の気まぐれで決められたような結婚ならなおさらだ。
 けれど。
「嫌いきれれば、よかったのにね」
 リチャードを嫌いきれていたのなら、堕胎に罪悪感など抱かなかったはずなのに。エチエンヌを本当に憎みきれていたのなら、彼を殺そうと思うどころか、最初から拒みきれていたはずだ。
 姿の見えた二人の険悪な空気を感じ、庭園から駆け寄る最中、距離が近付くにつれてロゼウスにはローラとエチエンヌの会話が聞こえてきていた。聞いてしまった。何もかも全て。
「誰も愛さなければ幸せになれたのに」
 愛しいという気持ちがあったから、エチエンヌのこともリチャードのことも受け入れたのだろう。もっとも、最初は確かに無理矢理だったかもしれないけれど。
 彼女は強い。リチャードよりもエチエンヌよりも。先程の戦いだってエチエンヌの動揺を差し引いてもローラの方が実力は上だった。ロゼウスはそう見ている。人間より肉体的に頑丈で魔力が強く、戦闘能力の高いヴァンピルは他者の力もある程度は測れる。
 彼女が本気を出せば、リチャードを跳ね除けることもエチエンヌを殺すことも、いつだって簡単にできたのだ。
 それをしなかったということは。
「そうよ……私は卑怯者よ」
 ローラの可憐な唇が開き、濡れた頬が薄曇に差し込んだ陽光に光る。
「寂しかった。寂しくて苦しかった。誰も彼もみんな殺そうとしたけど、そうするには寂しすぎた。私は強い。夜盗にだって傭兵にだってなれる。なんだって一人でできる。一人で生きて行ける。その気になればこんなところいつだって出て行けるはずなのに、そうしなかった。名目だけの夫でもリチャードがいることにどこか安心していて、エチエンヌがいつまでも変わらず私を慕ってくれることが嬉しかった……」
「……けれど身体を重ねるうちに、まるでそれだけが目的のような気がしてきた?」
 腕の中でローラが震える。それまでなすがままロゼウスに抱きしめられているだけだった彼女の方から、ロゼウスの背中に腕を回してきた。しがみつき縋りつくように。
「そう、よ。私、私は卑怯だから……二人も卑怯だと、思い込んだ」
 自分が疑っているように、相手も疑り深いのだと。
 自分が与えられている痛みを、相手は感じていないのではないかと。
 与えられた痛みに見合うものを、自分は受け取っていないのではないかと。
「望んでいたのは何なのか……もう、わからなくなっちゃった……」
「うん」
 ロゼウスは頷いて、少女の華奢な肩を抱く腕に力を込める。
「わからないんだ。自分が何を望んでいたのか。これは俺の望みだったはずなのに、相手の差し出した要求を、無理矢理呑まされているような気がして」
 それでも、身体でしか相手を繋ぎとめられないから、自らの苦痛を我慢して相手を受け入れる。
 これは自分の意志。これは自分の考え。これは自分の……望み。
「ロゼウス様」
 しゃくりあげていたローラの嗚咽は収まってきたけれど、瞳からはまたぽろぽろと水晶のように透明な涙が零れる。
「私は男に生まれたかった。男に生まれて、シェリダン様に愛されたかった」
 美しさも若さも、役に立たないなら何の意味もない。
 そして新しい命を紡ぐ胎などいらないのだと。ロゼウスはその言葉にこそ痛みを覚える。
「俺はできれば女に生まれたかった」
 ローラの肩がぴくりと反応し、バッと驚いたように顔を上げてロゼウスを見る。泣いて多少腫れた赤い目元で、まじまじとロゼウスを見上げてくる。
「身体でしか繋ぎとめられない心なら、せめてその《証》が欲しかった。俺は兄様を愛してる。でも、兄様は俺が嫌い……傷つけるために抱いたなら、せめて」
 ドラクル兄上にはどことも縁談や婚約に関する話はなかったけれども、それでもロゼウスはいつも不安だった。彼に見初められた女がその子を孕むというのなら、生まれる前に母親もろとも殺そうなんて、邪悪なことも考えた。
「願いって、誰も叶わないものなんだな」
「ロゼウス様……!」
 一層強くしがみついて、彼女の金髪に頬を寄せたロゼウスの頭を、さらにローラの細い腕が包み込む。
 ロゼウスもローラもシェリダンも、エチエンヌやリチャードやジュダも、ドラクルも。
 誰もが叶わぬ願いを抱いて、それを追い求める姿は悲しいくらい似ている。
 ざくざくと芝生を踏む足音を聞く。ロゼウスは先程から庭園の端で、成り行きを見守って立ち並ぶ人影があることを知っていた。
「……ロゼ様……ローラ」
 リチャードがロゼウスの腕の中からローラを抱き上げ、引き離す。遠くで見守っていたシェリダンとジュダ、クルスも動き出し、呆然として動けなかったエチエンヌを助け起こした。ワイヤーに射抜かれて傍目には重傷に見えるロゼウスのもとへも、シェリダンが駆け寄ってくる。
「大丈夫か?」
「こんなもん、怪我の内にも入らない」
 既に塞がりかけている首と肩の傷を軽く確かめて、ロゼウスは吐息した。脇腹だけは、まだじくじくと痛むけれどこれも間もなく塞がるだろう。
「ああ、でも……喉が渇いた」
 ヴァンピルは血を流すと、その分だけ血が欲しくなる。
「わかった。今日は部屋割を戻すという話だから、その時にな」
「うん」
 これでようやく、全てが終わったように思えた。

 ◆◆◆◆◆

 ロゼウスの血に濡れた服を脱がし、浴室へとローラを抱えて入った。華奢な身体をゆっくりと下ろし、桶に汲んだぬるま湯でその身体を流す。
 リチャード自身もお仕着せを脱ぎ、イスカリオット城の忠実な使用人から渡された布を何枚か手に取る。品良く厳しく躾られた彼らは、主が招待したこの国の王付きの侍従と侍女が二人で浴室に入って行っても何も言わない。眉一つしかめない。
 布を湯に浸し、緩く絞る。用意されていた石鹸を泡立てると、ラベンダーの香りが強く漂った。まずは簡単に埃だけでも流そうと頭から湯を被り、ローラの髪も軽く流したところで、熱気によって拾い浴室に薄い湯気が湧いた。
 エヴェルシードは一年を通して過ごしやすい気候と言うが、それも人によるのだろうなと考える。この国の気候は一年を通して「涼しい」。夜ともなれば、肌寒い。だから食事には甘いものが多くエネルギーとなりやすい糖分をよく摂取し、一日の終わりに入る風呂は人々の楽しみだ。
 けれど、それでもやはり寒さは確実に人々の心を蝕む。石造りの城の地下牢は、どれほど冷たかったことだろう、と。
 世界でも比較的穏やかな気候と呼ばれる国で、その恩恵に預かれぬ者もいた。
「……怒らないの?」
 リチャードは石鹸を含ませた布で、浴椅子に座ったローラの身体の隅々までを洗っている。シルヴァーニ人の淡い色の肌を傷つけないよう繊細に、それでいて汚れをしっかりと洗い落とす絶妙な力加減が要る。ローラの肌に傷をつける事は出来ない。シェリダンが気にするであろうし、何よりリチャード自身がそんなことは許せない。
「何を?」
 愛しい人よ。
 君が好きなんだ。
「さっきのこと……」
誰よりも……好きなんだ。
「どこまで聞いてたの? いいえ。イスカリオット伯からどこまで聞いたの?」
 リチャードは言うべきか言わぬべきか迷った。けれど結局は年下の幼な妻の視線に根負けして口を割る羽目になる。これはいつものこと。
 パシャン、とローラの身体についた泡を桶の湯で流して、答える。
「全部」
 墓参の帰りの馬車で向かい合いながら、リチャードはイスカリオット伯爵ジュダ卿から、彼が知っている限り全てのことを聞いていた。
「一年前、私たちがシアンスレイトの城で君を探していた時、君はこの城にいたこと。イスカリオット伯の勧めに従って、堕胎……産まれた子を、その瞬間に殺したこと」
 代わりにやろうか? と極自然にジュダは聞いたそうだ。
 ローラはその申し出に首を横に振って、自ら自分の産んだ子の首を絞めたらしい。
 イスカリオット城にいた頃麻薬漬けにされてぼろぼろのローラとエチエンヌの身体。十二歳ほどまで成長してようやく月経が始まったとはいえ、まだ子どもでしかないこの身体での妊娠・出産はどれほどの負担だったのだろうか。
「怒らないの?」
 それを考えれば、彼女を責められるはずがない。ローラを逸らせたのは、リチャードの未熟なのだ。
「怒らない」
 気づいて、やれなかった。
 いくらローラが体質的にあまりお腹が大きくならないタイプだとしても、いなくなった頃すでに六ヶ月。十分気づいてやれるはずだったのに。
 ローラが自分を嫌い、憎んでいることは知っている。だから理由もなく遠ざけられたり、鬱陶しいからと部屋を追い出されたり、体調が悪いと看病どころか近づくことも許されないなんてことは日常茶飯事だ。リチャードたちのやりとりを熟知しているシェリダンは彼が部屋の前で途方に暮れていると何も言わずに別の部屋を与えてくれるし、ローラにもリチャードにも奴隷の身分には過ぎた待遇だ。
 自分は今まで、周りの全てに甘えてきただけだ。二十七歳にもなって情けない。これでは兄がヴィオレット=イスカリオットに暴力を振るった返礼にジュダに殺され、リヒベルク家が没落した時となんら変わらないではないか。
 ローラの全身を流してリチャードも簡単に自分を洗い、彼女の身体を抱いて浴槽へと身を浸した。ローラが細い腕をリチャードの首に回してしがみついてくる。彼の身体にローラのほとんど平らな裸の胸が触れる。幼い身体が全身でしがみついてきた。
「すまない」
 気がつけばリチャードの唇から言葉が零れていた。
「すまなかった」
「……どうして、リチャードが謝るの?」
 彼の首筋に顔を埋め、くぐもった声でローラが訪ねる。二人とも肩まで湯につかり、疲れきったその身を暖かい安穏に浸す。
「私はいつも、君を傷つけてばかりだ」
 あの時、ジュダの乱行を諫める策をシェリダンが弄してこの城に乗り込んだとき、彼らが見たものは地下の小部屋でジュダに虐げられるローラとエチエンヌの姿だった。
 気候穏やかなエヴェルシードで唯一その恩恵たる陽光届かない地下牢で、ジュダの気まぐれから今にも手足を切り落とされようとしていた双子。ジュダの手の中で暴れもがき、彼らが助けだしてからもなお反抗し続けたエチエンヌとは対照的に、虚ろな目をして人形のようにギロチンに片腕を差し出していたローラと。
 人形のように美しく、人間と言うにはあまりにも寂しいその姿。
 だからこそリチャードは、彼女が笑えばさぞかし美しいだろうと。
 反射的にそう思った。あの時もうすでに、彼はローラに囚われていたのだ。
「ローラ。……笑って欲しい。君に喜んでほしい。私は君が好きなんだ」
 手に入れたくて、自らの年齢も相手の幼さもわかっていながら抱いた。身体を繋げてしまえばまるでその存在ごと手に入れられるかのように思って無理矢理傷つけて、永遠にリチャードはローラを手に入れられなくなった。
 あの頃、人間から人形へと化していたローラを救ったのはローラにあわよくば愛されたいと下心を抱いたリチャードではなくて、彼女たちのために厳しいこともきついことも平気な顔で課したシェリダンだった。
「愛している」
 言葉の上で幾千でも繰り返し、心の中で幾奥も唱えたその言葉。
 呪いのように彼女を縛る。
「私は」
 たゆたう湯水に裸の身を預けながら、泡沫越しに想いを絡ませる。
「私は……あんたを愛してなんか、いない」
 そこにいるだけで顔を背けるほど憎いわけではない。何かと気を配ってくれるのが嬉しくもあった、それでもダメだと。
 ローラはゆるりとリチャードを拒絶する。湯の中に、もっとも熱い涙を零しながら。
「ロゼウス様と、何を話していたんだ?」
「あんたを、憎みきれれば楽だったのにと」
「……そうか」
 望んだものとは裏腹に、返ってくるのは一欠けらの愛。
 自分たちはこのままだろう。何年経っても、何があっても。
 ローラはずっとシェリダンが好きで、エチエンヌと近すぎて遠い微妙な姉弟関係を続けて、ロゼウスはよくわからないふわふわとしたひとで。
 リチャードは、そんなローラを好きでい続ける。それ以外の未来など考え付かない。もはや暗示や思い込みでないかと考えるほどに、強く、終わりのない想い。
「愛している。……私の全てで。君を、君だけを愛している」
「私は……あんたを愛してなんかいない」
 でも、と泣き濡れた顔をまっすぐに上げてローラはしっかりと告げた。
「あんたを、嫌ってもいないわ」
 君がシェリダン様を好きだと言う事は知っている。ロゼウス様のことを、口で言うほど嫌っていないのも、弟のエチエンヌを、憎みながら愛しているのも。
 それでもリチャードにはただ、その言葉だけで十分だった。