荊の墓標 09

045

 ある部屋の前で立ち止まり、入ろうかやめようか、やめようか入ろうか深く深く悩んでいたエチエンヌは。
「ああもう鬱陶しいわね。男ならさっさと覚悟決めなさいよこの鶏」
 普通に考えれば男に対する偏見で逆セクハラだが男尊女卑軍事国家のエヴェルシードではもっともだと言えないこともない静かな暴言とともに蹴り飛ばされた。もっともだからと言って、エチエンヌも彼女も別にエヴェルシード人ではないのに。
「でっ!」
「エチエンヌ?」
 突然ノックもなしに扉をぶち破って部屋の中に突入(転んだんだから転入でしょbyロザリー)したエチエンヌを、これはまっとうなエヴェルシード人のリチャードが驚いた顔で出迎えてくれる。
「どうしたんだ? いきなりドアなんか蹴破って」
「好きで破ったわけじゃなくて……僕を蹴り飛ばしたのはロザリーで……」
 夫の背中に靴痕をつけておきながらなんとも思わないらしいロザリーが堂々と実に男前(女だけど)な様子で部屋の中に押し入り、エチエンヌを起こした(倒したのはそもそも彼女だけど)。
 そしてぐるりと部屋の中を見回し、目標を見つけたらしく部屋の一点で視線を固定する。
「ローラ!」
「……ロザリー姫」
 風呂上りと言った様子のローラが、突如やってきた弟とその妻を微妙な表情で迎えた。無理もない。だって彼女はさっき弟であるエチエンヌに戦闘をしかけ、殺しかけたのだから。
 エチエンヌだって正直言えば、さっきの今で彼女と顔を合わせるのは微妙だと思う。だけど。
 ローラは何か言いたげに顔をあげ、躊躇う様子を見せて伏せ、また顔を上げを繰り返す。
 その様子を見ていたロザリーが、見せ付けるように盛大に溜め息をついた。
「ローラ、エチエンヌと喧嘩したの?」
 そう、部屋に帰って来たエチエンヌの、先日とはまた別の意味でぼろぼろな格好を見て血相を変えたロザリーは、事情を聞いて即座にエチエンヌを引きずって部屋を出た。そしてこうして、これまでロゼウスとローラという微妙なコンビに与えられていたものから姉夫婦用にと変更された部屋を訪れ、ローラに詰め寄っている。
「喧嘩、ですませていいのか」
 ロザリーの言い様に戸惑った風に、長椅子に腰掛けたローラは顔を伏せた。彼女は部屋に入ってきて以来一度もエチエンヌのほうを見ようとはせず、普段は異様に仲の良いロザリーともまっすぐ目を合わせられない様子だ。
 同じことをしたら、エチエンヌも同じ態度をとるだろうとは思う。一度殺しかけた実の、それも双子の弟を目の前にして、ローラがどういう態度をとればいいのかわからなくなるのも、わかる。ややこしい言い方だけれど。
 だけれど、気まずいからと言ってふいと目をそらされたとき、エチエンヌの胸は痛んだ。ローラが彼を憎んでも嫌っても、エチエンヌはやはりローラが、姉が好きだから。
 リチャードも口を挟みがたいらしく、眉を八の字に下げてしまっている。エチエンヌはエチエンヌで声もなく、ローラが語尾を濁した後は誰も言葉が続かない。
 その空気をすぱっと打ち破るように、ロザリーの簡潔にして明瞭な声が響く。
「兄妹は、仲良くしなきゃ駄目!」
「……ロザリー姫様?」
 呆気に取られてぽかんと口を開けているローラの代わり、というわけでもないが、人差し指を彼女に突きつけて仁王立ちしているロザリーの真意を測りかねて名を呼んだのはリチャードだった。
 それはそうだろう。エチエンヌだって部屋に戻って身支度を整えて事情を説明してその場ですぱんとこれを言われたときには、思わず思考が停止したものだ。その直後に、考える暇もなく連れ出されてここに来てしまったぐらいなのだし。
 彼ら三人の困惑を余所に、というより全く気にしていない様子で、ロザリーはとにかく一方的に告げる。
「聞いてるの! ローラ! エチエンヌ! あんたたちが詳しくは何を考えているかなんて知らないけど、とにかく仲直りしなさい!」
「ひ、姫様」
 ようやっと治まった事態をまたかき回すようなロザリーの言葉に、リチャードが顔色を変えてそれを止めようとする。が、止めて止まるようなロザリーではない。それは夫であるエチエンヌが一番よく知っている。
 腰に手を当ててもう片方の手でローラに指をつきつけたロザリー、ローゼンティア第四王女が言う。
「ローラ!」
「は、はい」
 思わず返事をしたローラに、ロザリーの鋭い声が飛んだ。
「あなたは、エチエンヌのお姉さんでしょ!」
 双子だけどね。しかし固まったローラの様子を思わず他人事のように眺めてしまったエチエンヌにこそ、ロザリーの次の声が飛ぶ。
「エチエンヌ! あんたはローラの弟でしょ! だったらちゃんと、お姉さんを守りなさいよ!」
 ぎょっと目を瞠ったエチエンヌと、どう反応していいのかわからず呆然としてしまったローラと彼らの間で青ざめるリチャードの態度を意にも介さず、天下無敵のお姫様は告げる。
「兄妹ってのは、それだけで貴重なのよ! いるだけでありがたいの! 今喧嘩して仲直りしなかったら、いつか絶対後悔することになるんだからね!」
「ロザリー」
 エチエンヌは彼女の名を呼んだ。
 国を失ったお姫様。ロゼウス以外の兄妹の行方は知れず、両親とはもう二度と会えない。
「何よ。あんたたちなんて、仲良くするのに誰が邪魔をするっていうの? 私なんて、ロゼウスと話してれば正妃の息子と親しいなんて信じられないって陰口叩かれ、母親が同じミカエラやエリサといればどうせ異母兄妹なんて家族とも思っていないんでしょうよと陰口叩かれで、兄姉妹弟と親しくするだけでどれだけ大変だったか! あんたたちなんて、お互いに仲良くするのに必要なのは自分の気持ち一つでしょうが!」
 叱咤する言葉こそ僻みに聞こえるが、ロザリーが言いたいのはそこではない。彼女は案じているのだ。エチエンヌとローラのことを。
「こういうことは、すぐに終らせちゃったほうがいいのよ。怒らせちゃったならすぐにその場で謝って、また明日から仲良くすればいいじゃない。それで、全部綺麗に収まるんじゃない。時間を置くと変にこじれるだけよ」
 言いたいだけいうと、彼女は腕を組んで部屋の隅の応接用椅子にどっかりと腰を落ち着けた。リチャードを指の一振りで招いて、後は傍観の姿勢だ。
 彼女はエチエンヌがどう動くかを見ようというのだ。だからエチエンヌもたまには、夫としてその期待に答えようと思う。
「ローラ」
 呼びかけると姉の細い肩が戸惑うように震えた。
「ごめんね」
「エチエンヌ?」
「ずっと、傷つけてた。僕、自分がローラに甘えて、ローラを傷つけてることに気づいてなかった。ごめんね」
 ごめんね、姉さん。
「エチエンヌ……わ、私は、あんたを……」
「いいんだ」
 エチエンヌは首を横に振って、ローラの言葉を声になる前に封じる。
あの時、彼女が口走った本音は少しずつ歪んではいたけれど、決して間違ってはいなかった。またここで悪いのはローラだと全て責任を彼女一人に押し付けることなんてしたくない。
悪かったのは僕だ。姉さんを傷つけたのは僕だ。
 双子人形。同じ歳、同じ顔、同じ痛みを抱いて同じ日に生まれたそっくりな僕ら。
 だけれど、本当の彼らは人形ではなく生きた人間で、二人は違う人間だ。同じ顔をしていても違う人間なのだから、すれ違って傷つけることも……まま、あるだろう。
 けれど大事なのはロザリーの言うとおり、そこから仲直りできるかどうかだ。
 そしてきっと彼女の言うとおり、こういうことは早いほうがいいのだろう。
「だけどさ、本当に悪いと思うならローラ。一緒にロゼウスのとこ行ってよ。僕、あいつに借り作るのいやだし、一人でお礼言いに行くのもヤダもん」
 いつも通りに甘えたエチエンヌに、ローラが一瞬きょとんとした後、笑顔で頷いた。
「ええ。もちろん」
 ゆっくりと近付いてきていつものようにエチエンヌの手をとり、離れているロザリーとリチャードに聞こえないよう、小さな声で囁いた。
「あんたを嫌いって言った、あの時の言葉は本当」
 繋いだ手に一瞬だけ力が篭もる。小さな氷の針が胸を刺した。
「でもあんたが好きなのも本当よ。エチエンヌ」
 エチエンヌは微笑んで頷いた。
「うん、知ってる」
 刺さった氷針はもうすでに溶け始めている。

 ◆◆◆◆◆

『これでいいのです。叔父様。いいえ、兄様』
 少年は美しく笑って。
『愛しています。僕も、母も。誰よりも何よりも……あなたを愛しています』
 そして逝った。

 血に濡れた剣をひっさげて城中を歩いた。
『誰か! 誰か王宮へ使いを! 若様が乱心された! シアンスレイトから救援を呼んで……!』
『馬鹿を言うな! そんな醜聞をみすみす国に知らせる者があるか! 誰か! 兵を集めろ! ジュダ様を止めろぉおお!!』
 騒がしい周囲の声など耳に入る端から通り抜けて行く。今のジュダの心に留まるものは何もない。
 ヴィオレット
 ダレル
 あなたたち以外は。
 そして最初の一人は、もうこの世にはいない。
『ジュダ様』
 ノックもせずに扉を開けた彼を見て、長椅子に腰掛けた少年は一瞬だけ驚いた顔をした。けれどすぐに血まみれの剣にも、血まみれの青年にも慣れたように、いつものように穏やかに笑う。
 それはあの、談笑を重ねた四阿での一時と何一つ変わることがなく、だからこそ痛い。
 そして表向きの笑みは常と変わらず無邪気で無垢な彼の上にも、やはりその狂乱は襲いかかっていたのだ。ダレルの左頬は、無残にも青黒く腫れてしまっている。
『この頬はどうした?』
 ジュダは自らの頬に散った返り血にも構わず、また紅に染まったままの指先も拭わずに少年の頬に触れた。わずか十歳の少年は、全てを悟りきった者の揺らぎない表情で淡々と告げる。
『父様……いえ、リヒベルク伯爵に叩かれました。母様につかみかかるのを止めようとしたのですが……』
 先程のやりとりを思い返して胸が悪くなる。そしてジュダは先程のやりとりがどういう経過をたどり、今自分がこの場所を訪れたのかを思い出した。
 あの人はもういない。
 この少年の母親であるヴィオレットは……叔母はすでに死んでしまったのだ。
『今までのあなた様とも思えない、派手な行動を起こしているようですね』
 部屋の外の騒ぎ声に耳を傾けて、ダレル少年は不自然なほどに穏やかにそんなことを言ってくる。ああ、確かに派手だろうな。これまで確かに悪知恵が回ると言われたこともないとは言わないけれど、概ね健康的で健全で、誰もが認める完璧な公爵子息として努めていた男が、いきなり父と母を斬り殺し、城の使用人たちも幾人か手にかけて城内を血の海に沈めているのだから。
 血だまりを踏んで歩いたジュダの血色の足跡を辿れば、ここにいるのはすぐに明らかになるだろう。それまでにもう少し、どんなことでもいいからダレルと話をしておきたかった。もう二度と会えない少年と。
 だが、そう長くは望めないこともまたわかっていた。
『ダレル。私の話を聞いてくれ。この城の西の厩舎に馬車を一台停めてある。紋章のない一般市民用のもので、誰が乗っているかなどわからないだろう。それに必要な物資は全て詰めてあるから――』
『行きませんよ、僕は』
 ダレルは微笑んだまま、優しく残酷にジュダの言葉を遮る。ジュダが予期していた、しかし最も聞きたくなかった決意に満ちた声音で。
『ダレル』
『母様は死んだのでしょう?』
 首を横に振る事はできなかった。そんなことをしても、この聡い少年にはすぐにわかってしまうのだから。そんなことでもなければ、ジュダがこうして血塗れた刃を掲げて城内を阿鼻叫喚に突き落とす必要などないと。
『でしたら、僕だけ残るわけにもいきません。僕も、母様と……それに父上と、共に』
『ダレル!』
 たまらずにその名を繰り返す。ダレル。《愛しい人》という意味の名。叔母が苦心に苦心を重ねながらつけたその名前。
 ねぇ、ヴィオレット。あなたはどんな気持ちでこの名前をこの子につけたのですか?
 母親譲りの甘い顔立ちの少年に、今はもう亡き女性の面影を重ねながら、ジュダはこの世の絶望を思う。
『お前だけでも逃がしてやりたい。いや、生き延びて欲しいんだ』
『母も父も義父ももはやこの世にいないのに僕だけを残して、それでどうなさるおつもりですか? イスカリオット公爵。いっそ何も誰にも悟られぬくらい全てを消し去って、隠滅しておしまいなさい』
 叔母と同じ瞳をしながら、彼は言う。
 さあ、ジュダ様。いくのよ。
 あなたはあなたの道に。
 私は一足先に、あなたが来るのを地獄でゆっくりとお待ちしております。
 ゆっくりなんて嫌だ。今、共に逝きたいんだと言ったら泣かれた。あなたのいない世界になど生き残っても仕方がないというのに、あなたはそれを許さない。
 本来血縁上では目上にあたるヴィオレットなら、いくら時期公爵の身とはいえ甥であるジュダにもっと何もかも命じることができたというのに、最後の最期でようやく命じたのは彼が最も忌避したことだった。
 だから彼女のもはや忘れ形見となってしまったダレルだけでも救いたかったのに、彼は母親と同じことを言う。ジュダを置き去りにして、自分だけ母の……ヴィオレットのところへいこうとしている。
 あの日々の四阿が、今は酷く遠すぎて見えない。それは胸の中に溜まるばかりで流れない涙にいまだかすんで。
『ジュダ様』
 ダレルが呼ぶ。それは彼が呼びなれた、そしてジュダも聞きなれた名前。
『イスカリオット公爵』
 このような狂態を見せてまさか爵位までもがそのままというわけにはいかないだろうが、父亡き今では確かにジュダが継ぐべき称号。
『……お兄様』
 胸が軋むその関係。
 知らなかった。知らなかった。私はお前が自分の弟だなんて。それだけは知りたくなかった。
 それさえ知らなければ、今もきっと、これまでどおりに少しだけ窮屈で退屈なくらいに穏やかで、誰も何も変わらずに過ごすことができたのに。
 ――あなたの子ではないのよ。
 ――あの子は、あなたの子ではなく――。
 それさえ聞かずにおれば、ずっとずっと、あのままでいられたのに!
『ダレル……頼む。後生だ。生きてくれ。頼む』
 身も世もなく自分の半分しか生きていない少年の足元に取り縋り、ジュダはただ震えていた。ダレルの細い膝を抱きながら、少年の手が髪を撫でるのを感じた。
『僕も、あなたといたかった。あなたと一緒に生きたかった。あと十年、いや、五年、その時にあなたを支えるのは絶対に僕だと決めて、信じていたんです』
『今からでも遅くない。私はきっとただではすまないだろう。最悪極刑に処せられる可能性もある。けれど、もしそうでなく生き延びられたなら、お前がどうか私を支えてくれ! 私が貴族でなくなっても、お前が貴族でなくなっても、それでも生きてさえいれば、変わらず側にいてくれるのだろう?』
 たまらず見上げたジュダの視線の先で、ダレルはこれまでより一層深く優しく微笑んだ。
 それは彼の母親である、ジュダの叔母にあまりにも良く似た笑み。それが内包するしめやかな決意さえも。
 その微笑が一瞬のうちに崩れて、彼は歳相応の子どもの顔で、堰が切れたように泣き出す。
『どうせ禁じられた生まれなら、あなたを父と呼びたかった!』
 叫ぶダレルにつられて、ジュダも膝を立てた。けれど何か言おうとした一瞬が隙で、ジュダの傍らに落ちていた血まみれの剣をダレルの指が掴む。
 そのまま、少年は朱に染まった銀色の刃を自らの胸に呑み込んだ。
『……ダレル――――!!』
 叫ぶ声を、ジュダは自分のものではないかのように聞いた。
 胸に剣を収めたままの苦しい格好と痛みの中で、最期の力を振り絞って少年がジュダの頬に手を伸ばす。元々返り血で汚れていた頬を、血まみれの少年の指が文字通り血で洗った。
『これでいいのです……叔父、様……いいえ、兄様……』
 この世で最も残酷で汚れていてその上何よりも清らかで尊いその血。
 自分と父親を同じくする血。
『愛しています……僕も、母も……誰、よりも、何よりも……あなたを……愛しています……』
 少年は美しく笑って、
そして逝った。
 だからこそジュダの胸には、今も美しい少年の微笑が傷痕として残っている。