046
それは初めから、いいや、初めから終わりまで、決して許されることのない《想い》だった。
口に出すのはもってのほか、胸に抱いただけで禁忌とされる邪恋だった。
触れたいと、思うことすらなかった。ただ、見つめているだけで幸せだった。叶うはずのない想いだと……叶えることの許されない想いだと知っていたから、耐えられた。耐えていた。この命が絶えるまで、そうするはずだったのに。
叔母は美しくはなかったが、貞淑で聡明な女性だった。
ジュダが八歳の頃に十六で結婚してその二年後に一人息子のダレルを産み、さらに八年後、ジュダが十八の時に八歳のダレルを連れて夫と離婚し、イスカリオット家に帰って来た二十六歳のヴィオレット。
彼女のもとに、一年後、元夫がやってきた。
『なあ、頼む。やりなおしたいんだ』
彼女が輿入れしたリヒベルク家の長男は、どうしようもない愚物だった。叔母は彼の行動に心底から迷惑していた。
戸籍にこそ十年と残っている結婚生活は、本当は二年のうちにすでに瓦解していたのだ。成金貴族でありながら気位だけが無駄に高く、イスカリオット家の当主であるジュダの父の前ではひたすら卑屈でありながらその妹である叔母には彼女の兄に向ける分の鬱憤まで晴らすように暴力を振るったあの男に、温情など必要ない。
初めこそいい加減に鬱陶しいその男の申し出にも哀れを感じて二人きりにさせたものの、いつまで経っても堂々巡りで終らない言い争いに嫌気が差し、また叔母の身も案じて、ジュダは二人が話し合いを続ける部屋へと足を向けた。
『そんなこと言うなよ! なあ、いい加減にしないか! 俺たちの間には、子どもだっているんだしさ! ……そんなに戻って来たくないならいい! 俺はダレルだけでももらっていく! あいつはこの俺、リヒベルク伯爵の子なんだからな!』
ノックをしようと扉の前で一度立ち止まり、次の瞬間中から聞こえてきた女性の怒鳴り声に動きを止める。
『あなたの子ではないのよ』
宿した暗い情念ごと、耳の奥に刺さったのは信じられないことに叔母の声だった。
『……ヴィオレット。お前、何を……』
『あの子は、あなたの子ではなく――』
耳を塞いで通り過ぎることも出来ずに立ち尽くして聞いてしまったその告白。
そこで踵を返し立ち去るだけの器用さがあれば、ジュダはせめて、あんな惨劇を引き起こすことはなかったのかも知れない。だけれど。
『あの子は……ダレルはね、私とダミアン=イスカリオット公爵の……お兄様の子なのよ!』
どういう、ことだ。
……どういうことだ!?
思ったのはジュダだけではなく、部屋の中のリヒベルク伯爵も同じだったらしい。激しすぎて言語に聞こえない罵り声の後に、淡々とした声で説明する叔母の声が流れてきた。
『十年前、あなたとの離婚が決まりかけてた時、お兄様は反対したわ。それでもどうしてもという私に業を煮やして、こう言ったのよ。いくらお前でも、夫との間に子どもでもいれば軽々しく離婚などとは言えないだろうと。そんなものいないと言ったら、じゃあ作ればいいと……』
終わりに向かうに連れてか細くなる声を聞き逃さないようにするので精一杯で、ジュダはもう何も考えられなかった。
一瞬の放心状態ののちに、ジュダを引き戻したのは、これまでの言い争いの激しさとは打って変わってくぐもった低い、それ故に切羽詰った悲鳴だった。
『叔母上!』
飛び込んだジュダの姿に驚いてリヒベルク伯爵が部屋を出ようとした。その通り過ぎる姿のやけに赤いのすら見過ごして、ジュダは腹部を押さえて倒れた叔母のもとへと駆け寄る。
『……叔母上!』
『……ジュダ様』
『酷い傷だ……誰か! 誰か、医者を呼べ!』
あらん限りの声を振り絞って、人を呼んだ。駆けつけた小姓が大慌てで医師を呼びに走りまわる足音を遠く聞いて、ジュダは叔母の血に濡れた手をとる。その指にかすかに力が込められた。
『私は、駄目よ。この傷では助からないわ』
自分の死を語るとも思えない酷く冷静な声音で彼女は言った。だがジュダにもそれはわかっていた。絨毯を濡らす血だまりは留まるところを知らず広がって、彼女の白い頬を飲み込んでいく。
『馬鹿なことを言わないでください! 叔母上、どうか』
叫びかけたジュダの頬に、血に濡れた白い指が伸びて言葉を堰き止める。唇を塞がれたわけでもないのに、縫い付けられたように一言も発せない。身動きも出来ない。
『先ほどの話……聞いていらしたの?』
ここで嘘をつけば何かが変わるというのならどんなことでも口をついて出たのに、叔母の目にあったのは誤魔化しの利かない真摯な痛みだけだった。
『は……い』
『そう、ついに知られてしまったわね。ジュダ様にも』
腹部を刺されたというのにそこに力を無理矢理入れて、死に向かう吐息でけれど言葉を切らずに叔母はこれまで隠し続けていた真実を口にする。
『ダレルはね、私と、あなたのお父さまである私の兄、ダミアンの子』
兄と妹の間に生まれた、禁断の子。
母親似のダレルであるから、誰も気づきはしなかった。もし父に似ていたとしても、血縁だからの一言で済ませられただろう。
『兄はね、私があの人と別れるのを許さなかった……子どもでもできれば離婚などできないだろうと、それで……』
『もう、喋らないでください、叔母上』
二重の意味でジュダは叔母の口を閉じたかった。彼女の言葉の流れからも、父の性格から考えても、ジュダには九年前の真実がわかってしまった。
父は無理矢理叔母を孕ませたのだ。
あまつさえ、その子をリヒベルク伯爵の実子だと偽らせて。
そんなことがあったのならば、なおさら叔母が彼との結婚生活に耐えられずとも無理はない。
抱き起こした腕の中で、彼女の細い体から見る見る命が滑り落ちていく。一息ごとに、その温もりが失われていく。
『ジュダ』
彼の名を呼ぶ声にも力がない。だが死の間際に瀕して、その瞳はなおも輝いていた。いや……このような時だからこそ、そんな瞳をしていられたのか。
『最期だから……本当のことを言わせて。私……あなたが、好きだった』
それは初めから終わりまで、決して許されることのない《想い》。口に出すのはもってのほか、胸に抱いただけで禁忌とされる邪恋。
触れたいと思うことすらなく、ただ、見つめているだけ幸せだった。叶うはずのない想いだと……叶えることの許されない想いだと知っていたから、耐えた。
たとえ想う相手もまた、自分のことを想っていると知っていても。
『知っています』
兄と妹である父と叔母の関係も許されるものではない。そして叔母と甥であるジュダと彼女の恋も。
『私も、あなたを愛しています。叔母上。……いいえ、ヴィオレット』
名を呼ぶと彼女は、本当に嬉しそうに笑った。けれど、その瞳の焦点はぼやけ、やがて、瞼が閉じられる。荒い息の下で、ヴィオレットは告げる。
叔母から甥へ。
死に逝く者から生き続ける者へ。
『ねぇ、ジュダ。愛しいものは……ちゃんと……縛りつけておかなければ駄目よ?』
『ヴィオレット』
『二度と、離れないように……今度から、そうしてね……あなたは、どうかあなただけは……幸せに』
ああ、あなたもこの邪知暴虐のイスカリオット家の人間だ。
私に幸せになれなどと仰る。
世界中の人間全てを不幸にしてでも、幸せになれと。
あなたがいなければ幸せになどなれるはずもないのに。
ヴィオレットの怪我は助からない傷ではあったけれどもすぐに死ねるほどの場所でもなかった。楽にしてと言われて、静かに頚動脈を切った。そうして、愛しい人はジュダの腕の中で事切れ、永遠に失われた。
血に汚れながらも微笑みながら逝ったあの人が幸せだったのかどうか……今でもわからない。
叔母の亡骸を使用人の手に預け、リヒベルク家の連絡を受けて処刑場へと向かった。
息子の不祥事に困り果てた両親はけれどここで最大の愚を犯す。兄の身代わりに弟を突き出したところで、ジュダが容赦するとでも思ったのだろうか。同じ年の青年リチャードを、ジュダは見知っていた。知りながらそれで殺そうと刃を振り上げた手に、細い指と小さな重みがかかる。
『もうやめろ。イスカリオット』
真実の狂気も、その奥底に潜む壊れかけの痛みも貫いてまっすぐとジュダを見据える朱金の瞳。顔だけは知っているこの国の王子、シェリダン=エヴェルシード殿下だ。だけれど彼が何故ここへ。
疑問を持ちながらも頭は冷静に事態を判断し、王子の命で止められたならばもはやリチャードの命を奪う事は叶わないだろうと知った。リヒベルクの思惑はともかく、その後あっさりと逃亡中の伯爵本人を捕らえ、今度こそ殺した。
血塗れの姿も気にせず、父の元へ向かって真偽を問いただし、さらにこれを殺す。止めようとした父の忠臣も叩き斬り、ジュダが乱心したと城中が騒ぎ出した。
けれどざわめくその全てが、ジュダの世界から遠かった。
ヴィオレット
ダレル
欲しかったのは、その幸せを願ったのは、あなたたちだけだ。私はあなたたちさえいれば、それでよかったのに!
もはや、この世に生きていたところで何の意味もない。
心の赴くまま十年前のことに加担していたと目される一族の人間を殺しつくし、全てを終えた時、ジュダは決意を固めていた。
◆◆◆◆◆
――ねぇ、ジュダ。愛しいものは……ちゃんと縛りつけておかなければ駄目よ?
――二度と離れないように。今度からそうしてね。あなたは、どうかあなただけは幸せに。
――これでいいのです。叔父様。いいえ、兄様。
――愛しています。僕も、母も。誰よりも何よりも……あなたを愛しています。
本当ならあの後、あなたたちの後を追って私も死ぬつもりだった。
だが、それを止めた人がいた。
『死ぬのか?』
無邪気と言うにはあまりにも冷たく強く、そして無垢すぎる声がジュダをこの現世に引き止める。
『ジュダ様』
振り返った視界に二つの人影。ああ……そうだ。忘れていた。エヴェルシードでは同じ領地内の墓所は統一されているから、ジュダが殺した父や一族の者はもちろん、リヒベルク伯爵もここに眠っているのか。
律儀にも自分を陥れた兄の墓参りに花を持ってやって来たリチャードと、彼が連れた……いや、立場的にはリチャードが連れられる形となっている、その主君。藍色の髪に朱金の瞳の少年の姿を認めてジュダは振り返る。
『酷い格好だな』
ジュダの姿を一瞥して、少年はそう述べる。大変正直な感想だ。
だが今のジュダは惨殺事件を起こして爵位こそ降格されたとはいえ、もうとっくに返り血も洗い流し傷も癒え、見た目はいつも通りのはずなのだが。
『絶望が表情に表れている』
ああ、そういうことか。彼が指して言ったのは、ジュダの格好ではなく様相。何もかもに膿み疲れきって死に焦がれるこの暗い虚無。
『……だったら、何だというのです?』
自分の半分も生きていない少年相手に何をムキになることがあろうか。その時のジュダは酷く苛々とした気持ちでその少年を……エヴェルシード王子を傷つけたいという気持ちでただ反抗的にそう言った。別に彼でなくても良かったのだ。自分より幸せに見える人間なら誰でも良かった。誰でも傷つけるに値した。自分こそが世界で一番不幸だと思っていたから。
それを、あまりにもあっさりと言い当てられた。
『お前、まさか自分が世界で一番不幸だとでも思っているのではないだろうな』
まさにその通りだったので、何も言い返せない。絶句したジュダを鼻で笑って、少年は持っていた花束を乱暴に目の前の墓に叩き付けた。
そのあまりの暴挙にさしものジュダも仰天したが、止める余裕すら持ち得ない。そして誰よりもこの場で所在ない様子のリチャードが一瞬目を瞠り、ついで納得したように小さく口元を緩めるのだけ見ていた。
『馬鹿な奴らだ。お前もあの男も』
あの男、というのが誰を指すのか。心当たりが多すぎてわからない。とりあえずここではリチャードの兄であるところのリヒベルク伯爵か。
彼の行動の責任によって、リヒベルク家は取り潰しとなった。だから実質的に彼が最後の伯爵だ。本来なら生き残った弟のリチャードが何か手を回して家を再興させるべきなのかもしれないが、少なくとも彼にその意志はないようだった。
その答が今、誰よりもエヴェルシード王子の側にありながら、彼に縋ることもなくただ仕え、兄の墓参りになど来ているその姿だ。
兄を殺した男を……この自分を責めることもしないその姿だ。
『馬鹿だ。馬鹿だ。お前もあの男もリチャードも皆、馬鹿だ』
『ええ』
その通りです、と殊勝に頷いたのはリチャード。呆気にとられたジュダの目の前で、少年は……シェリダン王子はさらに告げる。
『幸せになることは簡単だ。世界中の人間を殺して、最後に自分の息の根を止めればいい』
それで何もかもが終る。もう何にも苦しむことも、苦しめられることもない。
だから幸せになることは簡単なのだ。
自分一人だけが幸せになることは。
『そうしなかったのはただのお前のエゴだろう? 何を悲劇の役者ぶることがある』
この世の全ては、自らの望みの結果。人はどうあったって、自分の望む未来以外のために行動などしないのだから。だから全て自分の責任なのだと。
ジュダや彼が、その日の食事にも事欠く程貧しく恵まれない民ならあるいは自分が不幸だと嘆くこともできたのかもしれない。だけれど、衣食住に恵まれて命と願望とそれを遂行できるまでの能力まであってそれをしない者に、何を言う資格があるのだと。
『ここで死ぬのならそれもいいだろう。それがお前の、お前だけの幸福だ。勝手に幸せになるがいい』
私はそれを、嘲笑ってやる。傲岸不遜にそう言い残し、彼はリチャードを連れて踵を返した。
遠ざかる小さくて華奢な背中を見ながら、ジュダは呆然と足元の墓標を見下した。
ヴィオレット。ダレル。二人のはかじるしが柔らかに微笑みかける、生前のまま穏やかに。イスカリオット一族のものでありながら今回の事件の発端ともみなされている二人の墓は、悲しいぐらいに慎ましやかだ。
真実を知る者は消えた。皆死んだ。ジュダが殺した。これで全てを知る者はただ、自分一人。けれど。
幸せになることは簡単だ。世界中の人間を殺して、最後に自分の息の根を止めればいい。
そうしなかったのはただのお前のエゴだろう?
自分だけを幸せにすることは何よりも簡単だ。ああ確かに彼の言うとおり、自分はそれをしなかった。
『抱いてしまえば良かったというのですか。叔母上、ヴィオレット。あなたを犯し傷つけ、ダレルと共に攫って閉じ込めて二度と人目に触れさせないようにして私のものにしてしまえば。罪を犯してしまえばよかったというのですか!?』
――ねぇ、ジュダ。愛しいものは……ちゃんと縛りつけておかなければ駄目よ?
――二度と離れないように。今度からそうしてね。あなたは、どうかあなただけは幸せに。
自分だけが幸せになるために、あなたさえも不幸にしてしまえば、良かったのだと……。
心は泣いてしまいたいのに、こんな時に喉の奥に込み上げるのは歪な笑ばかりだ。
なんだ、結局今のこの状態は全て私のせいなのか。だったら。
愛シイモノハ、チャント縛リツケテオカナケレバ駄目ヨ?
『ええ。叔母上。忠告をどうもありがとうございます』
気づけば墓石の表面にぽつぽつと雫が垂れて濡れていた。何故? 空はいっそ憎いほどに晴れて、雨など降ってはいないのに。
――ここで死ぬのならそれもいいだろう。それがお前の、お前だけの幸福だ。勝手に幸せになるがいい。
ジュダはヴィオレットを本気で幸せにしたかった。幸福になってもらいたかった。だから、ここでは死なない。
だけれど彼女は言った。
――どうかあなただけは幸せに。
ならば自分以外全ての者を、破滅へと導こう。数多の嘆きの上に、この身の幸福を築こう。
ヴィオレット。全てはあなたの望みの上に。
ダレル。お前までもがこれでいいというのなら。
そして三年の月日が流れた。
『神妙にしろ! イスカリオット伯!』
近親相姦の子を見てみたい。元はと言えばそんな動機で買い取った美しい双子人形の調教が思い通りにいかず、気まぐれにその手足でも切り落として楽しむかと地下牢でギロチンに手をかけたところだった。
見知った顔ぶれが並んでいる。そのうちの一人はリチャード。さらに先日手をかけ損ねたユージーン侯爵子息。そして。
『貴様の所業もここまでだ』
燃えるように強い朱金の瞳で睨んできたのは、あの頃よりさらに成長して、でもまだまだ子どもとしか言いようのない王子殿下。
『お久しぶりですね。シェリダン王子』
呼びかけると一瞬、呆けたような表情になった。なんだ私のことは覚えていないのか。無理もない、まだあの頃は十にも満たないほど幼かったのだし、記憶が多少混乱したり抜け落ちたりしても。
『とにかく、その二人を放せ』
『はいはい』
身分相応に居丈高な命令に従って、コレクションのギロチンから身体を離した。放心状態の少女を刃の下から引きずり出して解放する。
ジュダを見据えるシェリダンの瞳はきつく、刺すように鋭い。あまりにも美しく、それでいて儚い印象をもつ王子。
ああ、欲しいな。
その時は単純にそう思った。だが今思えば、それはすでに八年前から始まっていたのかもしれない。
勝手に幸せになるがいい。そう言われたあの日から。
ええ、殿下。私はあなたの言うとおり、あなたの魂の骸を踏み越えて。
勝手に幸せにならせていただきます。