荊の墓標 09

047

 ノックに応じて扉を開ければ、そこにいたのはこの城の主その人だった。
「イスカリオット伯爵?」
「ええ。ご機嫌麗しゅう王妃陛下」
 端正な顔立ちで微笑むジュダを部屋の中に通し、ロゼウスはお茶の用意に人を呼ぼうかどうしようか、束の間迷った。シアンスレイト城ではそのあたりの事はローラが全てやってくれるし、ローゼンティアにいた時も侍女が常に身の回りにいた。だけれど、今この部屋にいるのはロゼウス一人で、シェリダンも出かけている。自分で飲む際にはわざわざ人にさせるのが面倒だからと自分で淹れたりもするが、普通は良家の子女がお茶汲みなんかしない。
 席についたジュダは、何か指図するでもなく、ロゼウスの一挙手一投足に注目している様子だ。ロゼウスは数瞬躊躇った挙句、自分でポットを手に取った。
「無作法で申し訳ないのですが」
「かまいませんよ。王妃陛下手ずからのお茶をいただけるなど、光栄の至りです」
 陶器に茶葉を入れ、備え付けられている魔法瓶から湯を汲んだ。温めたカップに紅い液体を注ぎ、つい習慣で薔薇の香料を砂糖と一緒に淹れる。
「お茶を淹れるのがお上手ですね」
「ありがとうございます」
 何の気なしに一口飲んだジュダにそう褒められる。さあこれでロゼウスの方の第一手は終わり。今度は向こうが仕掛けてくる番だと、席について身構える。
 エヴェルシード王国イスカリオット地方の領主を勤めるこの伯爵が、どういう人物であるかはだいたいのところを周りの人々から聞いている。彼が、これまで隣国でありながらこの人間の国とは一線を画していたローゼンティア、今は植民地化されてローゼン地方とされた吸血鬼の国の王族であり、今はエヴェルシード王の妃として連れてこられたロゼウスと、まっとうなティータイムをしに来たわけがない。
「それで、わざわざこの……私に何の御用でしょうか?」
 正面に相手を見据えて、ロゼウスはまずそう問いかけた。ジュダはにっこりと笑って。
「先日のお礼とお詫びに……というのは口実で、一度、陛下とゆっくりお話してみたかったのですよ」
 のたもうた。
「光栄です」
 シェリダンは今いない。彼に一日中ついているクルスもシェリダンと共にいるのだろう。エチエンヌとローラ、リチャードにロザリーはどうしているのだろうか。
 薄曇の昼下がりは特に出かける気分にもなれず、城主であり招待主であるジュダが特に予定を作らなかったものだから、暇を持て余しながらみんな散り散りに時を過ごしているはずだ。せっかくの薄曇だけれどロゼウスはどこかに出かける気分にはなれず、一人で考え事をするために与えられた部屋に残っていたのだが、どうやら失敗したようだ。素直に庭の散策でもしとけばよかった。
 こちらの思惑を正確に読み取り、その上でいっそ小気味よいほどに無視をしたジュダが話を仕掛けてくる。
「先日は失礼いたしました。元はと言えば私の躾けた奴隷風情めが、王妃陛下にご無礼を」
 ローラの攻撃からエチエンヌを庇って、ロゼウスが怪我をした時の話だ。シェリダンやリチャードはいつものことだから気にしていないが、クルスは酷く慌てふためいていた。ロゼウスにとってはあんなもの怪我の内にも入らないし、シェリダンもそのぐらいは慣れたものだが、普通の人間にとっては、正確に急所を貫いたあれは大怪我に当たる。
「いいえ。どうか、お気になさらないでくださいますよう。吸血鬼にとって、あのぐらいの怪我は怪我の内にも入りませぬ」
「ですが、痛みは感じるのでしょう? ヴァンピルという種族について、多少ながら調べさせていただきました。その身の魔力によって、冥府からの甦りも可能な最強の魔族。それでも痛覚や五感は人と同等以上にあると聞きましたが」
「ええ。そうです。ですが、痛覚とはあくまでも死に際しての身体が発する危険信号。その危険が少なければ、当然痛みも鈍くなるというもの。私は多少も苦しい思いをしておりませぬ。伯爵が気になさる事はございません」
 そもそも、ローラとエチエンヌはもともとジュダに買われた奴隷とはいえ、今はシェリダンに雇われた侍女と小姓。
 わざわざこの伯爵が謝罪になど来る事がおかしい。
 ジュダは薔薇の香料を落とした紅茶をまた一口、口に運んで、優雅な手付きで茶器を置いた。
「……この国はいかがです? ローゼンティアの姫君。正直なところ、我が国に攻め込まれて攫われてきたも同然のあなた様にとって、エヴェルシードは居心地が悪いのではありませんか?」
 誘導だ。どこに向けての誘導なのかは知らないが。
「いいえ。そんなことはございません。一つ間違えば斬りおとされていたかも知れないこの首、国民の役に立ち、こうしてお国に招かれ王妃の座まで頂いて、シェリダン王にはよくしていただいております」
 目をそらすような事はせずにすらすらと言ってのけたつもりだったが、ジュダがこれまでの貴公子然とした様子とは打って変わった、口元を歪めるような笑みを浮かべたのでどこか間違えたのだな、と。それだけはわかった。
「目が、嘘だと言っていますよ、妃陛下」
 だからこういうタイプは嫌いなんだ。嘘をつくことに関しては多少の自信があったのに。
「あなたは嘘が上手すぎる。あまりにも自然すぎて、逆に心が篭もっていないのがわかってしまう」
「……そうですか」
「お互いに猫かぶりはやめませんか? 陛下とのやりとりを遠目に拝見するかぎりでは、あなたはそんなおとなしやかなお方ではないようですが」
 かなり失礼な台詞を、ジュダはその端正な顔立ちと甘い声音を武器にいけしゃあしゃあと言ってのける。普通の女の子だったらここで、ころりと騙されてしまいそうな魅惑的な仕草。上品過ぎないところが売りだと、老若男女をたやすく虜にできそうな。
もっとも、普通でも女の子でもないロゼウスをそうやって常人と同じように扱えると思ったら大間違いだ。
「では、お言葉に甘えて」
「ええ」
 曖昧な態度と上辺を覆うには最適な理由を持ち上げてわざわざ多忙であるはずのジュダがこの部屋を、シェリダンでもローラたちでもなくロゼウスを訪ねてきた理由。それに予測はついている。
 それを話したい……いや、違う。それが理由で、邪魔なロゼウスを何とかしたくて彼はこんなところに来たのだ。遠回しな駆け引きで彼が狙っていた事はただ一つ。ロゼウスを王妃の座から引き摺り下ろし、可能ならば処刑すること。そしてその理由は。
「あなたはシェリダンが好きなんだな」
 ジュダが僅かに目を瞠った。
 そう、知っていた。ローラもエチエンヌもリチャードもクルスもシェリダン自身も、近くにいるはずの人たちは誰も気づいていなかったその事実。
 彼はシェリダンが好きなのだ。
 軽い口調に紛らせながら、いつだって強くシェリダンを見ていた。決して外には出すことのできない、狂おしいほどの切なさを湛えた瞳で。
 そして、敵意を抱いてロゼウスを睨む。ロゼウスの嘘をこの人が目を見て気づいたように、ロゼウスも彼の瞳を見て気づいた。気づいてしまった。
「彼が好きだから、俺を側から引き離したいんだ。俺だけじゃない、ローラも、エチエンヌも。あんたがあの二人に執着するのは、二人がまだあんたの興味をひくからじゃない。自分の手を離れた玩具が、自分の好きな相手に可愛がられていることが気にいらないんだ。ユージーン候だって」
「黙れ!」
 叫ぶと同時に、ジュダの手が伸びた。椅子を蹴倒して立ち上がった彼に胸倉をつかまれ、一瞬息が詰まる。抵抗をする前にそのまま引きずられて、寝台の上に放り出された。
「あなたに何がわかる」
 ロゼウスの手首をぎりぎりと締め上げ、寝台に押し倒してのしかかる。
「この国が気にいらないのだと一言言えば、陛下にとりなして優しく追い出して差し上げたものを。王妃様。いいえローゼンティアの姫君。もうこうなれば、あなたに自分で舌でも噛んでいただきましょうか」
 暗い愉悦を浮かべて、俯いただけではできない翳りをその目元に落としてジュダは低くロゼウスを脅しつける。
「いくら侵略者の王の慰み者とされた姫君でも、夫でもない男に無理矢理抱かれるのはお辛いでしょう? 死んでいいのですよ? あなたが死んだところで誰も困らないし、悲しむ人も、もういない。滅びた国と共に、死んでしまえばよかったのに!」
 手首を締め上げる腕にさらに力が込められ、骨を砕かんばかりになる。ジュダの長い髪がロゼウスの身体にまで垂れて、さらさらと音を立てた。
 歪む顔つきのその下で、しかし彼はその魂をも軋ませている。
「すみませんね。姫君。でもあなたが悪いのですよ。あなたがあまりにも美しくて……あの人に愛されているから」
 愛されている? 俺が? シェリダンに?
 そんなわけはない。彼は何もわかってなんかいない。
 繊細なドレスの胸元に伯の手が伸びる。享楽に耽っているように言われてはいるが、ジュダの手は本物の武人の手だ。文字通り絹を裂く音を響かせて、布地を破く。
「……え?」
 あーあ、絶対あとでシェリダンに怒られるじゃないか。
 ロゼウスは驚きに力を抜いたジュダの隙をついて、その身体を思い切り吹っ飛ばした。

 ◆◆◆◆◆

 これでようやく全てが終わったと思っていた。
「やれやれ。さんざんな休暇だな」
「まったくですね」
 シェリダンの言葉に、顔色の悪いクルスが頷く。ジュダの方はリチャードが釘を刺したおかげでもう双子に手は出さないだろうし、ようやくこの城に来て落ち着けるようになったところだ。
「ローラとエチエンヌ、ちゃんと仲直りしたでしょうか?」
「したのではないか? リチャードか……そうだな、あのじゃじゃ馬娘あたりがせっついで」
 普段から仲の悪い兄妹ならともかく、ローラとエチエンヌはいつも不自然なほどにべたべたとしている。それがいきなり顔を見るのも嫌だと言わんばかりにお互いを避けるそぶりなどとられては、傍で見ている彼らの方が気になってしまう。
「僕は兄妹っていませんから、あの二人が仲良くしてるのを見てると、なんとなく微笑ましい気分になるんです」
「ああ、そういえばそうだったな」
 クルスはユージーン侯爵家秘蔵の一人っ子で、上にも下にも兄妹はいない。シェリダンとカミラは王族、それも異母兄妹ゆえにさほど親しくしたことはなかったし、リチャードと兄の関係は先述したようなものだ。身近で兄妹の話題と言うと、どうしてもあの双子のことを考えてしまう。
「ま、それも含めてロザリーがなんとかするだろう。ローゼンティア王家には、子どもが多いからな」
「ローゼンティアと言えば、そういえば……ローラの攻撃を浴びた王妃様のお加減はどうなんですか? 陛下」
「ロゼゥ……ロゼなら何でもない。大丈夫だ。あれはヴァンピルだから」
 正直、あのロゼウスがエチエンヌを庇うなど意外だった。ロゼウスは双子の内、姉であるローラの方に肩入れをしているように見えていた。もともとエチエンヌと彼との不和の原因の一つは間違いなくシェリダンが一月前に仕向けたあの陵辱があるのであろうし、それに対してどうこう言える立場でもないのだが。
「……って、何故私がそんなことを気にしなければならないんだ」
「陛下?」
「クルス、お前もロゼのことなど聞くな。あれは急所を刺されても死なないような化物だぞ? それに、我等に負けた国の王族の者など、奴隷以下の扱いで十分だ」
「シェリダン様、そんな言い方って」
「何か間違ったことを言っているか? 私は」
 滅ぼした国の王家の者を連れてくる。捕虜として、国民の命の保証と引き換えにロゼウスに自身を差し出させた。その目的はただ一つ。弄ぶためだ。シェリダンは他に妻を持たないことを対外的に遠回しに示すためにロゼウスを娶った。そして自らが征服した王国の民だから、好きなだけ責め苛むことができる。
 もともと、肉体的にも精神的にも傷つけるために連れてきた「花嫁」だ。
 何故今更になって、自分が彼のことなど気にかけねばならない。死んでないのだからそれでいいではないか。奴隷の分際で主人に心配をかけさせるなど、いい度胸……
 そこでシェリダンはふと気づいた。自身の中にありえない感情らしきものに。
 心配? 私がロゼウスを? 馬鹿な、そんな必要はない。そんなもの、あの男にはするだけ無駄なのに。
 だが、あの庭園でローラの放ったワイヤーに首筋や脇腹と言った急所を刺し貫かれたロゼウスを見たとき、心臓が止まりそうだった。
 ……違う。私は。
「……クルスお前、ローゼンティアを滅ぼしたことに罪悪感を持っているな」
「陛下……いいえ、そんな」
「誤魔化しても無駄だ。お前の性格などとうに知り尽くしている。だが、いくら隣国を滅ぼした罪悪感に追われているからと言って、ロゼやロザリーを気にかけることでそれから逃れようとすることはやめろ。お前のそれは、ただの偽善だ」
 偽善、と言い切られてクルスの顔が曇る。
シェリダンは自分の言っている事が間違っているとは思わない。だが、今ここで言うほどのことでもなかったはずだ。それでクルスの心情が楽になるというのなら、放っておいたところで何の問題もないはずの。
……わかっている。これはただの八つ当たりだ。シェリダンは自分の胸の内に潜む苛立ちを形を変えてクルスにぶつけることで、溜飲を下げようとしている。
 情けない。自分らしくない。
「すまない。言葉が過ぎた。先程のことは忘れろ……私も、今は調子が悪いんだ」
 ロゼウス、こんなことになるのも全てお前のせいだ。朝は平然としている様子を見たのに、彼は嘘が得意だからあの姿でさえ演技でないのかと今になっては思えてくる。
「調子が? 陛下? どこかお体の具合でも悪いのですか?」
「いや、そうではなく……」
 何故いきなりそっちに行くのか。多少天然入ったクルスの言葉に小さな脱力感を覚えながらも、シェリダンは長椅子の足元に跪いて熱を測ろうとする彼をそのままにしておく。
 と、控えめなノックと共に、正面の扉が開かれた。どこかこちらの様子を窺うような、少し躊躇うような間を置いて、金髪の双子が顔を覗かせる。
「陛下」
「シェリダン様」
「ローラ、エチエンヌ」
 目に見えてクルスが安堵した表情を見せる。シェリダンも同じ気分だった。どうやら、無事和解できたようだ。
 二人の背後から、リチャードとロザリーも顔を出した。
「どうやら落ち着いたようだな、ローラ」
「はい、その節はご迷惑をおかけしました……あの、陛下、王妃様はこちらではないのですか?」
「ロゼ? いや、元の部屋にいるはずだが、どうかしたのか?」
「お詫びを」
「それと僕からも一応……お礼を」
 ローラが小さく苦笑して、そっぽを向いた弟の顔を見遣る。なるほど、エチエンヌはロゼウスとの仲が良くないし、ローラはしたことがことだけに、一人で面と向かっては顔を合わせづらい。それで、二人揃って彼に会いにいくところらしい。
「私も部屋に戻るか」
「え?」
「陛下、やはり具合が」
「違う。……そうではなくてだな―――私も、あれに話があるんだ」
 実際は、話すことなどない。ロゼウスはどうやっても世間話以上のローゼンティアや王家の情報を話さないだろうし、いくら国民やロザリーを人質にとってもできることとできないことはあるだろう。シェリダンはただ慰み者として玩具として人形としてあれを抱く。それだけの関係であるはずだ。
 肌を重ねるだけでよかった。初めの目的はただそれだけだったはずなのに、今のこの虚しさは一体何なんだ。
 まるで硝子越しに手の届かない、綺麗な花を見ているように。
 透明な壁に阻まれる、この感覚がもどかしい。
「では、皆様行きましょうか」
 結局ぞろぞろと連れ立って部屋を出て、シェリダンとロゼウスに割り当てられた客室へと向かう。絨毯の敷かれた廊下を話すこともなく歩きながら、数部屋先でロザリーが顔色を変えた。
「何? なんか、もめてる?」
「ロザリー?」
 目的の部屋から争うような物音がするという彼女の言葉に全員が血相を変えて走り出した。扉を開こうとした直前、当のロザリーがシェリダンの腕を引いて背後に移動させた。エチエンヌがローラの頭を抱きかかえるようにして伏せる。
「どわぁっ!!」
 いまだかつて聞いたこともないような間抜けな悲鳴と破壊音と共に、部屋の扉が中から吹っ飛ばされた。より正確に言うなら、中から吹っ飛んできたものの衝撃で扉までが破壊されたのだ。
「イスカリオット伯?!」
 なんで城の主が客室の扉をぶち破って出てくるのか? 驚きに固まるシェリダンたちを尻目に、ずたぼろとなった彼は部屋の中へとどうにか視線を向けた。シェリダンたちも室内を覗きこんでその惨状を目撃する。
「このっ……、馬鹿伯爵!」
 暴言と共に、ティーポットがジュダの背後の壁に激突して割れた。誰にも当たりはしなかったものの、陶器が激突した端から欠片を通り越して、砂粒となるような勢いの良さだ。
「ロゼウス?」
 そこには、服の胸元が破られほとんど上半身裸となったロゼウスが鬼の形相で仁王立ちしていた。その手には椅子が握られている。
「ちょっ、待っ、さすがにそれは死にますって!」
 ぶつかった衝撃でどこか痛めたのか、身動きできないジュダが引きつった声を上げる。その彼にロゼウスが冷たく言い放つ。
「問答無用」
 お前ら一体何があった。
 あまりの事態にシェリダンもローラもエチエンヌもリチャードも呆然としてしまって声が出ない。ロザリーは愛する兄が夫の天敵である伯爵を撲殺しようと一向に構わないのだろう、平然としている。
 幸か不幸か、ロゼウスの動きを止めたのは呆然としたクルスの呟きだった。
「王妃様……男?」
 裸の胸の真っ平らなのを見つめて、彼はそう言った。ぴた、とロゼウスが動きを止める。シェリダンと双子、リチャードが頬を引きつらせる羽目になった。
 そういえば、ロゼウスが実はローゼンティアの王子、つまりは王妃という身分でありながら男であるということは、現在この国のトップシークレットだったのだ。シェリダンたちにとってはあまりにも当然のことだったので、すっかり忘れていたが。
「陛下?」
 クルスの氷点下の声が怖い。
「これは、一体どういうことですか?」