荊の墓標 10

第4章 眠り姫よ贖いたまえ(1)

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 ……部屋の中は豪奢な調度品で埋め尽くされている。柔らかな絨毯が体を受けとめ、春が来てもまだ役目を終えない暖炉がどっしりとした存在感で部屋の一角に構えている。
 長椅子には繊細な模様の施された上掛けが幾つも放り出され、ふわふわとしたクッションが部屋のあちこちに撒き散らされていた。
 エヴェルシードでもローゼンティアと国境を接するこの北方にある城は、石造りの床から寒気が這い上がってきて春になってもまだ寒い。
 その、バートリ侯爵領にある城の一部屋に、彼女は囚われていた。
「今日も美しいわね。お姫様」
 軽い口調で入ってきたのは、この城の主、エルジェーベト=ケルン=バートリ公爵。
軍事国家であるエヴェルシードでは、実力が全て。軍部における発言力はもちろん男性の方が高く、国の傾向も多少男尊女卑思考が強いが、女性は弱いというその評価を一人で覆すのがこの女公爵。
 エヴェルシード人特有の蒼い髪と橙色の瞳。長い髪は巻き毛で、鍛え上げられた肢体は強靭さと艶かしさを同時に感じさせる。顔立ちから強気が窺える美人で、望めばほとんどの男性は虜にできそうなのに、彼女はそれをしない。
 この公爵は、同性にしか興味がないと言う。
「また食事を残したのですって? ほっそりしたその姿も綺麗だけれど、あまり食べないと体に悪いわよ?」
 それは誰のせいだと思っているのか、彼女は手ずから食事を乗せたトレイを運び、ミザリーの前に差し出す。
「ほら、あーんして」
 やけに楽しそうなその顔をミザリーは虚ろな瞳で見つめながら、全く関係のないことを言った。
「……弟に会わせて」
「ミザリー姫」
「ミカエラに会わせて。あの子の無事を確認させなさい」
「いくらローゼンティアの第三王女だからって、この状況で私に命令ができると思っているの?」
 匙を置いてくすくすと楽しげに紅い唇を歪めて笑い、エルジェーベトはミザリーの腕を掴む。男性優位の軍事国家で、実力で公爵の位を得るような相手に、女性としては非力なミザリーが敵うわけがない。例えヴァンピルだとしても。
 今のミザリーの首には、吸血鬼の力を封じる銀の首輪が嵌められている。手首にも足首にも、銀製の枷が取り付けられこの部屋の外に繋がる燭台へと結び付けられ、拘束されていた。
「弟君のことが心配なら、私の言う事をよーく聞くのよ?」
 毒々しいほどに紅い唇で囁いて、エルジェーベトは自らの左手の指先を小刀で傷つけた。白い手にすっと走った紅い筋から、馨しい芳香を放つ血が零れる。
 吸血鬼の本能に逆らえず、ミザリーはその紅い輝きに魅せられた。
「欲しいでしょう? これが」
「あ……」
 震え声で拒絶しようとして、逃れきれずに頷いてしまう。笑みを一層深くした女公爵は、ミザリーの耳元に唇を寄せて囁いた。
「だったら、ちゃんとお願いしてね。ほらほら、早くしないと零れちゃう」
「あ……あ……」
 ヴァンピルなら食事はしなくても生きていける。だけれど、血を飲まずに長く理性を保つことができない。普通ならこのまま魔族の本性を解き放って暴れたいところだけれど、銀の鎖がそれも阻む。
 何より、自分にはやらなければならないことがある。彼女と一緒にこの女公爵に囚われた弟の身を案じるという。
「……ください。その血を」
「聞こえないわ」
「その血をください、バートリ公爵閣下」
「いい子ね」
 血の滴る指がミザリーの唇を濡らす。差し出されたそれに、黙って舌を這わす。
「なんて顔してるの? お姫様」
 屈辱的な行為に目尻に涙が浮かぶミザリーを眺めて、エルジェーベトが楽しげに笑う。
 流れる血を舐めとってほっと口を離したのも束の間、今度はこちらの番だと言わんばかりに、エルジェーベトが唇を重ねてくる。
「ん……っ! ぅん……」
 舌を絡ませて唾液を交換するやりとりに、多くの気持ち悪さと、ほんの微かな熱を感じる。
「さ。夜はこれからよ。あなたたちが昼夜逆転の吸血鬼でも、この城では私のルールに従ってもらうから」
 蛇のように指を蠢かせ、女公爵の腕がミザリーの身体を抱きとめる。
 ああ、どうか、神様。
 これから行われることを予感して、彼女は胸中で祈りきつく目を閉じた。

 ◆◆◆◆◆

『久しぶりだね、ロゼウス――』
『兄さ……』
 懐かしい声。懐かしい気配。
『カミラ――』
 迷路の向こうに見える人影。もはやこの世にいないはずの少女。

 ドラクル兄上。カミラ。

 どうして、あなたたちがこんなところにいる。どうして、どうして―――

 こぽりこぽりと音を立てて、記憶の泡沫が浮かび上がる。

 ――あなたは嘘が上手すぎる。あまりにも自然すぎて、逆に心が篭もっていないのがわかってしまう。
 嘲笑うような声音。
 ――あなたはシェリダンが好きなんだな。
 決して外には出すことのできない、狂おしいほどの切なさを湛えた瞳で彼を見ていたイスカリオット伯爵ジュダ。ロゼウスに向けられたその憎悪。頬に落ちた長い髪の滑らかな感触。
 ――死んでいいのですよ? あなたが死んだところで誰も困らないし、悲しむ人も、もういない。滅びた国と共に、死んでしまえばよかったのに!

 そうすれば。
 すべては、楽になったのかな。

 死ねば楽になれたのかな。
 殺せば、もっと楽になれた気がする。

 ――お前を殺すのなんか、お前だろうとシェリダンだろうと、殺すのは本当は簡単なんだ。

 なのに自分は殺さなかった。シェリダンも、エチエンヌも、ジュダも。
 
 どうして?
 ねぇ、どうして?

 こぽ、こぽり。
 自分で言ったはずの言葉に、胸の奥底から浮かびあがった疑問を誰かが投げかける。

 幸せになりたいなら、することはただ一つ。この世界の全員を殺して、最後に自分の命を絶てばいい。そうすればもう、何の憂いも恨みも残らない。
 自分ひとりだけで幸せになるのなら、本当はそれで十分なのに。

 ――シェリダン王を救ってあげてくれないかな。
 ハデスとのやりとり。
 シェリダンの命の危機を救えと言われた。
 彼が死んだら、ロゼウスは自由になれる。ローゼンティアに帰ることだってできるだろう。シェリダンがいなければカミラも死んでしまった今この国の王位は途絶え、エヴェルシードは混乱に陥りその隙であれば甦った諸侯たちと協力して国を奪い返すのもそう難しいことではない。
 女装をさせられて屈辱的な扱いをされることも、自分の部屋すら与えられず彼の部屋に閉じ込められる必要もない。ローラに嫌われたりエチエンヌに憎まれたりリチャードに同情の目を向けられたり、血を飲めずに渇きに苦しんで、薔薇を求めて彷徨うこともなくなる。ロゼウスは第四王子としての以前の満ち足りて優雅で何も不満などない生活に戻れる。兄妹に会える。家臣に傅かれる。
 だけれど。

 たまらなくなる。
 憎んで、いたはずだったのに。

 こぽりこぽりと、また水の音がする。
 景色が移り変わる。

 エヴェルシード王家の墓所。《焔の最果て》の前で誓った。
 ――俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない。
あの言葉に嘘はない。でも、それだけ。
 ――堕ちていこう、一緒に。
 一緒に生きたいとは思わない。共に在りたいというのとも少し違う。
 ――服従しろ。
 ――兄ではなく、この私に服従しろ。望みどおりのものが欲しくば、跪いて哀願してみろ。許しを請え。私に服従し、私の機嫌だけをとれ。私を……。
 なんでそんな瞳で俺を見るんだ。
 今にも泣きそうな、花曇の空のようなその表情。

 こぽこぽり。こぽ。
 記憶の泡沫。
 流れ行く水。
 その水の底で、ロゼウスは水の中から全ての光景を見ている。

 ――どうして、お前は目覚めない。どうして、永遠に私を拒む。
 何度も何度も見た夢。
 その中で繰り返し、ロゼウスは彼を失う。失って慟哭し、取り返しのつかない中で、ゆっくりと確かに狂っていくのがわかる。
 途方もないその痛み。
 終焉の来ない愚かさ。

 違う、俺はシェリダンなんか好きじゃない。あいつを愛するわけがない。俺が好きなのは兄様だけ――っ!?
 熱いものに触れたように指先が弾かれた感覚。
 ――お前に何がわかる、ロゼウス。
 ロゼウスの首を絞める兄の顔は酷薄で、底の知れない哀しみに満ちている。
 ――生まれながらに全てを持っているお前に、私の何が……っ!
 その狂気はロゼウスが生み出したものなのだと言う。
 ――お前が愛しいよ、ロゼウス。
 ――兄、上。
 ――そして大嫌いだ、我が弟よ。
 ――きら、い?
 ――そうだよ、ロゼウス。私はお前を愛しているけれど、それ以上にお前が憎い。
 ――さよならだ、第四王子ロゼウス。私の愛しい、秘密の囚人。
 薔薇の下の虜囚。
 自分は彼の囚人。
 囚われて囚われて、傷つけられて。でも、俺は、兄様のことが。

 本当に?
 ねぇ、本当にそうなの?

 こぽりこぽり、ごぽッ。ごぽぽっ。ぴしゃ。
 ああ、どこかで聞き覚えがあると思ったら。
 記憶の泡沫が浮かび上がる音は、血を吐くときの音に似ている。
 でも視界はいつも透明に濡れていて、ここはやっぱり水の中なんだ。

 ――え? 兄様、今、なんて。
 ――だからね、伯がお前を抱きたいんだってさ。ロゼ。お前もいつも私相手だけでは飽きるだろう? せいぜい楽しみなよ。
 ――そんなっ、兄上!
 ドラクルはさっさと寝台から腰を上げ、カラーシュ伯爵に場所を空け渡した。伯爵はロゼウスをベッドの上に抱き上げると、押し倒していきなり足を開かせる。
 ――ちょっ、やめろ、嫌だ! 兄様!
 ――本当にいいんですか? 殿下。
 ――やりすぎては駄目だよ。この子は私の大事な――なのだから。
 ――ええ。わかっていますよ。
 必死でシーツを掴んで挿入の苦痛を殺す。
 ――いい子だ、ロゼウス。
 ドラクルがロゼウスに口づける。聞きわけのない子どもを宥める口調そのもので。
 ――お前はいつものようにすればいいんだよ。いつも、私にやってくれているように、カラーシュにしてあげなさい。
 ――……はい、兄様。
 ――凄い調教具合ですな、ドラクル様。
 ――そうだろう。
 ――……本当に、よく調教されたことだ。
 犯されるロゼウスを見ながらドラクルが哄笑をあげる。
 ――ねぇ、気持ちよかっただろう? ――を犯すのは。
 自分は本当は嫌なのに、伯爵を拒むことでそれを命じた兄に嫌われたくなくて、大人しく伯爵の腕に抱かれる。

 ねぇ、本当なの?
 水底から浮かび上がる声がまた、問いかける。
 こんなことされても、まだドラクルが好きなの?
 
 好き。好きだよ。ドラクルが。俺は兄様を愛してる。俺が好きなのはドラクルだけだ。だから。

 だから、痛いことをされても平気。
 だから、酷いことをされても傷ついたりしない。
 俺は兄上を愛しているんだから。だから……何をされても平気。

 本当に?

 だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?

 陛下。
 硝子の柩を覗き込んで動かない後姿に向けて囁く声。
『それは全て、ただ、貴方の見た夢なのです』
 違う、違う違う違う!
 俺はこんなこと望んでなかった! 絶対に違う!
 これが俺の望み? 願い? 違う、そんなはずはない。これは俺の見た夢じゃない。これは――

「ロゼウス!」

 水の膜の向こうから聞こえてくる声を打ち消すように、その叫びだけがやけに鮮やかに耳に届いた。
「シェ……リダ……」
「どうした? うなされていたぞ」
 彼にそう言われて、ようやくロゼウスはすでに見慣れてしまったシアンスレイト城のシェリダンの寝室、寝台の上にいることに気づく。
「俺……」
 ふいに、シェリダンが目元に唇を近づけてきた。柔らかに触れた唇は、いつの間にか流していた透明な雫を拭う。

「夢…………?」
 囁く声はまだ耳に生々しく鮮やかで、背中が汗でびっしょりと濡れている。頭がずきずきと痛み、何も考える事ができない。耳鳴りがうるさい――うるさい!

 だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?

 そんなこと……絶対に、ない。