057
――兄様、兄様。
呼びかけてくる高い声が懐かしい。見かけも性格も愛らしい弟の声。
――お兄様、大好き。
小さな手で縋り付いてくる。子ども特有の柔らかい体を抱き上げてやると、常と違う高い視線に瞳を輝かせてはしゃぎだす。
妹がそれをすぐ側で見ていて、彼が少し悪戯心を起こして弟の体を揺すると、喜ぶ本人とは正反対に、我がことの様に顔を青ざめて心配していた。
――お兄様。お兄様。お兄様。
無邪気なその視線が辛くなったのはいつだったか。自分に向けられた笑顔に胸が詰まる思いをさせられるようになったのは。
そしてこの世の穢れを何一つ知らないようなその魂を、地の底に引きずり落としてずたずたに踏みにじってやりたいと思うようになったのは。
――好きなんです。俺は、あなたを……誰よりも、俺自身よりもあなたを愛しています。
自らそう思わせるように仕向けたとはいえ、必死の告白に心臓が軋んだ。
柔らかな唇、良い香りのする体。
私の大切な――薔薇の下の虜囚。
「ドラクル王子」
呼びかけられて、ドラクルは泡沫の夢から覚醒する。
「カミラ殿下。いかがいたしました?」
「いいえ。ただ眠っているようには見えませんでしたので」
「眠っていましたよ。懐かしい夢を見ていました」
「まあ……あなたでも昔の夢などご覧になるの?」
「どういう意味でしょう? それは」
「だって、過去は過去だと切り捨てて踏みつけてただ目前の理想を追いそうな顔をしていらっしゃるのだもの」
自分より十以上も幼い少女の言葉に、思わず微笑が零れた。
「……なんですの? 私、何か妙なことを言いました?」
「いいえ。ただ、随分私のことを高く買ってくださるものですから」
宵闇の濃紫の長い髪と、猫科の獣のような黄金の瞳。美しい少女に笑いかけて、本音を零す。
「過去に執着のない人間が、未来に固執したりしませんよ」
強く望むものがなければ、人は前に向かって動こうとはしない。
それは大概が、後悔や叶わない願いだったりするのだ。
私の後悔は私自身だ。
そして、あの薔薇の王子。
「イスカリオット伯がバートリ公の城へ赴いたそうですわ」
「ハデス卿から連絡があったのですね」
「ええ。ミザリー姫と何か結託して動いているそうですが」
「ミザリーなぞ放っておけばいいでしょう。あれはしょせん何もない、何も出来ない姫君だ」
「妹君に対して、随分手厳しいのですね」
「事実ですよ。他の姉妹に関しては認めていますし、王子の中でも無能には冷たいですよ、私は」
手厳しいというカミラの言葉は確かに真実だろう。だが、ドラクルは自分の観察眼を情で曇らせることなどしない。
「何もない女ですが、これでも私はミザリーを愛しているのですよ? 私の可愛い妹ですから」
そう、彼女は私の妹だ。ミザリーに関してはまだそう思っておいてやる。
だがドラクルと言葉を交わす相手にとっては、ローゼンティア一の美姫などしょせんはどうでもいい相手。
「ロゼウス王子のことは?」
先程の夢を思い出す。
ヴァンピル特有の白銀の髪、血のような紅の瞳。
間違いなくこの世で最も美しいだろう、薔薇の王子。
彼を弟として慈しんでいたのはいつまでだったか、いつから、憎しみを抱くようになったのだったか。
わかっている。本当はその正確な日付まで。だからこそこうして自らに問いかけては答をなおさらはっきりさせる。来る日の復讐の成就まで。
ドラクルを苛み続けた父親はもう死んだ。
残るはお前だけだ……愛しくて憎い、私のロゼウス。
「ロゼウスは完璧な王子ですよ、カミラ殿下」
「まあ」
ドラクルの言い様に呆れたような顔をする振りで、この愛らしい姫君はその実自らの想い人を褒められたことを喜んでいる。隠そうとして隠し切れないその青さに微笑ましいものを感じながら、ドラクルは続けた。
「剣の腕も、政治能力も。いざと言うときの厳しい決断に向かう志も、人を惹きつけるその空気も全て、彼は完璧な王子です。今まで表に立ったことがありませんから知る者は少ないですが、ローゼンティア王家に彼以上の王子などいませんよ。ロゼウスの天性のものもありますし、剣や内政の技能に関してはこの私がしっかりと教育を施しましたので」
「まあ、それは自画自賛ではありませんか?」
「ふふ、そうですよ。でもあなたも思うでしょう? 彼は完璧だと」
「ええ……それは」
本当に可愛らしい姫君だ。少し思い込みが激しく熱しやすいが、それを自覚し、自分を抑える有能な補佐を側に置けば、強い意志を持つ、良い為政者となれるだろう。
破滅を望む彼女の兄、シェリダン王などよりよほど。
ロゼウスの花嫁としても、こう言ったタイプが適当だ。あてがえばお互いの浅はかな情熱によって支えあう、完璧な一対となるだろう。
しかし残念だがカミラ殿下。あなたにロゼウスを渡してやるわけにはいかない。
あれは永遠に私のもの。このドラクルのものなのだから。
どんなに突き放しても絶望に突き落としても苦しみを味わわせても、あの子は私から離れられない。
私なしでロゼウスが生きることなどできない。
そういう風に、教育を施したのだ。その体の全てに私を刻みつけ心の奥底まで私を焼き付けた。あの子が私から逃れられるはずはない。
たとえシェリダン王がどのような人間であろうと、ドラクルからあの子を完全に引き離すことはできないだろう。
目の前の少女と少しだけ似た顔立ちの彼女の兄を思い浮かべ、彼は口元にこっそりと笑みをはく。
シェリダンにロゼウスを預けておくのも、あと少しの話だ。
そのためには下準備が必要だと思ったところで、視界を塞がれた。手が回り暗くなる一瞬前に、カミラが顔を曇らせるのが見えたことで、相手はわかる。そもそもドラクルにこのようなことをする相手など一人しかいないが。
「首尾はどうです? ハデス卿」
「あれ、なんだすぐにバレちゃったね。君の指示通りエルジェーベト卿に入れ知恵をして、シェリダン王たちを彼女の城に向かわせたよ。って、そこのカミラ姫から聞いているはずでしょ?」
皇帝陛下の弟閣下はドラクルの視界から手をどけた。そのまま背後から首筋に抱きついて、簡単に報告をする。
「ええ。そこから先を」
「先と言ってもねぇ。ミザリー姫がミカエラ王子を取り返すためにエルジェーベト卿と結託したけど、来たのがロゼウス王子だったもんで計画が狂って、さらにはその計画をミザリー姫はロゼウスたちにぶちまけちゃったくらいかな」
「おやおや。言ってしまったんですか、あの子は」
「うん」
「だからミザリーは策士には向かないというのですよ」
「そうだろうね。でもまだエルジェーベト卿にはバラしてないし、計画は続行する気みたいだよ。ロゼウスを生贄に、ミカエラ王子を取り戻す」
「やれやれ、あの子にも困ったものだな。それではミカエラの怒りを買うだけだろうに」
「だろうね。で、僕らはどうするの?」
ハデスの問に、ドラクルは彼の腕を取ることで答えた。
「連れて行ってください。バートリ公爵の城に」
「いいの?」
「ええ」
久しく会っていない弟の顔を思い浮かべる。
「そろそろ、私たちの計画も動かし始めないと」
◆◆◆◆◆
「考えてみたんだけど」
ミザリーの切り出し方は急だった。
先程の会話から約束の二時間が経過した。再びシェリダンの部屋にやってきたミザリー、どこかへ出かけていた様子だったがその時間には戻って来たハデスとジュダも加えて、五人でこれからの打ち合わせをする。
「やっぱり、バートリ公爵の下にあんた行かせようと思うのよ」
「姉様、酷い」
「いいじゃない。どうせあんた男なんだから、あのレズ公爵は見向きもしないわよ。だいたい、その女装もバレてないしね。ロザリーが来ればあの怪力娘なら手篭めにされる前に自力で逃げ出せると思ったんだけど、よく考えたらその確率はあんたの方が高いわよね」
「え?」
ミザリーのことだからてっきりあまりそりの合わない妹を本気で人身御供にして自分とミカエラだけ逃げるつもりだと思っていたのだが……一応彼女も彼女なりに考えてはいたらしい。
確かにヴァンピルの中でも並外れた身体能力を誇るロザリーなら、いくら強いとは言っても人間の女性になど負けないだろう。女性どころか、ここにいるシェリダンを始めエチエンヌ、リチャード、クルスのような凄腕の戦士も瞬殺したくらいだ。
もともと他国に攫われるほど美しい姫ならロザリーぐらいしか思い浮かばなかった、と言っていたときから何の勝算もなしに計画を温めていたわけではなかったのか、と。ロゼウスは少し姉を見直す。
一方、ミザリーのロゼウスへの評価は景気悪く下り坂をおりはじめたようだ。
「何よ、その『え?』は。あんた、私がまさか本気で妹を生贄にする気だと思ってたの?」
「いや、だって姉様」
「ちょっと今から公爵と交渉して来ようかしら。あれは使い物にならないただの男ですが、顔だけ見れば女っぽいのでどうぞ剥製にでもしてくださいって」
「わーっ! 姉様、俺が悪かった、悪かったってば!」
本気で立ち上がりかけた姉をロゼウスは必死で押さえ込み、元通り応接椅子に座らせた。ロゼウスがミザリーの直ぐ隣に座り、正面にシェリダンとハデスが座っている。席が足りないのでジュダはハデスとシェリダンの背後に立っていた。
「じゃあ、王妃陛下が生贄になっている間、私たちの方でその第五王子殿下を奪還すればいいというわけですね」
「そういうこと。問題は、ミカエラがどこに捕まってるかってことなんだけど……これは問題の時に、ロゼウスを引き渡すのと交換で教えてもらうことになってるわ」
「その必要はないと思いますけどね」
「え?」
ジュダがさらりと、重要なことを口にする。
「この城、ヴァートレイト城でしたっけ。同時代の同じ建築家の作なので私の城と構造がほとんど同じです。だから、どの辺りが捕まえた人質を閉じ込めておくのに適した場所かはわかります。それに、弟殿下は確かルイ様に囚われていると言いましたよね。あの方とは面識があるので、釣れるネタくらい知ってます」
「本当!?」
ジュダの頼もしい言葉に、ミザリーが顔を輝かせる。その表情に、さすがのジュダが少したじろいだ。ミザリーは少し猜疑心が強くなりすぎていつも険しい顔をしてるけど、こういう風に柔らかい表情をしたときは本当に綺麗だ。……いつもそういう表情でいてくれればいいのに。
「とにかく、ではロゼウスをエルジェーベトの生贄にして、私たちは第五王子の奪還に回るというところまでは決定だな。時刻は」
「今夜、ということになってるわ。私が連れ出すって約束になっていたの。さすがに相手はヴァンピルだから、力を削ぐ薔薇の秘薬と銀の枷をはめて、さらに長旅で疲れているだろう第一日目を襲うって言っていたもの」
「…………用意周到だな」
「もちろん本当に抵抗を封じられちゃ困るから、その辺の調整は、私のほうでなんとか誤魔化すか、取引を持ち出して抵抗しないよう言いくるめた、とかにしようと思っていたの」
「ねぇねぇ王女様、一つ聞きたいんだけど」
それまでテーブルに頬杖をつき、黙って話を聞いていたハデスがミザリーの方を見ながら、面白そうに問いかける。
「普通、いくら姉と久々に再会したからって、新婚ほやほやの旦那、つまり公爵の上司にもあたる国王陛下がレズで有名なエルジェーベト卿と妻を自分のいないところで会わせるわけはないよね。その辺りはどうなっていたの?」
純粋な疑問、の割にはハデスが意地悪げに問いかける。
要は、ロゼウス、もといエヴェルシード王妃が公爵に手篭めにされている間(される気はないが)、夫であるシェリダンをどうやって抑えとく気だったのか、ってことだ。
その質問を向けられて、ミザリーが急に困ったように勢いをなくす。両手の人差し指を合わせて動揺を露にしながら、もじもじと告げる。
「ええと、そ、それは……」
「うんうん。それは?」
ハデスは楽しそうだしジュダもどことなく微笑を浮かべているが、シェリダンはそのミザリーの様子に嫌な予感を覚えたのか、眉の辺りを曇らせる。
「わ、私が声をかけて断る男なんていないから、なんとかしなさいって……」
つまり。
「ミザリー姉様、シェリダンを誘惑する気だったの?」
「わ、私だってまさかエヴェルシード王がこんな真性ホモ変態だなんて思ってなかったわよ!」
「…………」
シェリダンが無言で怒っている。事実とはいえ、ミザリーの言い方が不愉快らしい。
「はいはい、さらに質問。計画ではあなたがシェリダン王を誘惑することになってた。でも、公爵ですら嫌なのに、いくら若くて綺麗でイイ男だからって、シェリダン王に抱かれるなんてあなたにとっては嫌だよねぇ? どうする気だったの?」
先程の質問のさらに上を行く質問に、ミザリーはますます困った様子になる。視線を完全にシェリダンからそらし、口元を押さえながら答える。
「いや、だって、私にとってはエヴェルシード王って祖国と両親の仇だし、エルジェーベト卿からは『主君殺されると跡継ぎいないし国を纏めるのが面倒だから殺さないどいてね』って言われてたけど、別に守る義理もないかなぁって……」
「ふぅん」
「へぇ」
「……つまり、私は殺される予定だったというわけだな」
三人は気づいていないのかもしれないけど、ロゼウスは同じヴァンピルだけに、ミザリーの思惑がわかった。口元をそっと押さえているのは、牙を確かめているのだ。いろいろと煩わしい誓約や負荷があるから最終手段になるけど、どうしようもなくなった時はそれで相手の血を吸うと言う手がヴァンピルにはある。
そろそろシェリダンの顔色が悪くなる。主に怒りで。
それにさらに油を注ごうと言うのか、ジュダが追い討ちをかけた。
「ところで、陛下、話を先程に戻しますが」
「どこにだ」
「ルイと面識があるというところまでです。まあ、そういう趣味を持つ者同士ということで付き合いがあるんですが」
ジュダがこういう風に言う場合、どんな趣味なのかは聞かない方が身のためだ。
「それで、なんだ?」
「ルイをおびき出して第五王子を奪還する手段ってのが、実はあなた様の協力が必要でして」
「……どういうことだ?」
「いえ、レズ公爵の弟はホモ貴族というわけでしてね、あなたがご同類ということで、しかも美貌で知られるエヴェルシード王が会いたいと言えば、あっさり会ってもらえるんじゃないかと思ったわけなんですが」
「……………」
シェリダン絶句。
とりあえずロゼウスとミザリーの可愛い弟であるミカエラは、なんとかシェリダンたちに助け出してもらえそうではあるが。