062
中庭の景色などもう目に入ってはいなかった。
「ロゼウス!」
誰だ?
心配そうな声。知ってる声。
いや違う、と思い直す。心配? 心配! 笑いが一人でに込み上げてくるような錯覚に襲われるけれど、心は冷たく張り詰めていて表情も喉も動かない。
俺を心配する人間など、この世にいるわけないじゃないか。
兄様だって俺を見捨てたのに。
身体が痛い。内股をどろりとしたものが伝っている。気持ち悪い。動けない。
「ロゼウ……スっ!?」
名を呼んで触れようとした誰かの手を、思わず今できる力いっぱいで突き飛ばしてしまった。
「ロゼウス……?」
尻餅ついて地面に倒れこんだシェリダンが、呆然と名を呼んでくる。不思議そうに。何が何だかわからないというように。
「あ……あ……ご、ごめ……」
でも、俺だって何が何だかわからない。
ここが何処で自分が誰で、眼の前の人間が誰で今はいつなのか。
シェリダンを突き飛ばした拍子に僅かに我に帰り、意識が戻りかけるけれどそれと同時に先程の光景も思い出してしまう。
何があった。何をされた。この体中の鈍痛とあちこちを濡らし内股を伝う白濁のぬめり。
さっき。
俺、は。
兄上に――。
「ぁ、あ、ああああああああ!」
蹲りしゃがみ込んで叫ぶ。胸の内で荒れ狂う嵐をそうして外に吐き出さないと、心が壊れてしまいそうだった。
もういや、いや、いやだ! 何も知りたくない見たくない。辛い思いも苦しい思いもしたくない。誰か助けて。
「ロゼウス――」
「触らないで!」
子どもみたいに叫んで、再び、その手を振り払う。この場に誰がいるのかなんてわからない。でも昔から俺のそばにいるのなんてたった一人しかいないじゃないか。
「もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!」
息を飲む気配を感じたような気がしたけれど、深く考える余裕がなかった。
「なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!」
いやだいやだいやだもう傷つけないで痛い思いをさせないでだってあなたは俺を。
「私だ! ロゼウス!」
強く、呼ばれて肩を掴まれた。びくついたところで、無理矢理顔を上げさせられる。けれど飛び込んできたのは血のような紅ではなく、炎のように眩い朱金の瞳だ。
眼の前に入るのはロゼウスの十歳年上の兄ではなく、同い年の少年王。
「シェ……リダ……」
ぽろりと新たに盛り上がった涙が零れ、頬を洗っていく。息を荒げたシェリダンが、次の瞬間くしゃりと顔を歪めた。
「そういう……ことか」
「シェリダン……」
ロゼウスの身体を強く抱きしめるシェリダンの腕は震えている。彼の肩越しに、ロゼウスはようやく他にも人がいることに気づいた。
「ハデス……イスカリオット伯……エルジェーベト卿……」
「大丈夫ですか? 王妃陛下。何があったのか……言わなくていいから、とりあえずもう一度湯殿へ向かいましょうね」
蹲ったままシェリダンに抱きしめられているロゼウスと視線を合わせるために屈みこんで、優しく声をかけてくれたのはエルジェーベトだ。こういうのはなんていうのか、昔、面倒を見てくれた乳母みたいな温かさだ。
ロゼウスの頭を撫でるエルジェーベトに声をかけて、シェリダンが立ち上がりロゼウスのことも立たせ、ついでに抱きかかえた。
「私が連れて行く」
「陛下、場所は」
「わからん、案内しろ」
ロゼウスを抱き上げたシェリダンの表情は硬すぎるほどに硬い。
「わかりました。こちらです」
エルジェーベトの案内で、もう一度大浴場へと戻った。
「湯を汚すぞ?」
「構いません。ですが、陛下」
「何だ?」
怖い顔をしたシェリダンとエルジェーベトが言葉を交わす。
「……いいえ、何でもありません」
けれど彼女は結局何かを飲み込んで、シェリダンはそれを気にも留めずロゼウスを抱いたまま浴室へと入った。服を脱がして、頭から湯を被せる。自分も着衣を脱ぎ落として布を手に取り、ロゼウスの身体の隅々まで洗うことに集中していた。
ドラクルの指が触れた箇所の鬱血はさすがにヴァンピルの力だけあってなかなか消えず、内股を伝う白濁と血の混合物を見て、シェリダンが忌々しげに舌打ちした。
ロゼウスの腕も足も太腿も胸も股間も髪も顔も中も細心の注意でもって触れてくるシェリダンの指が気持ちいい。やっと与えられた甘いものが、痛めつけられた身体と心を癒していく。
全身を洗い流された後、また抱き上げられて、湯の中へと入れられた。温かな湯に浸されて、シェリダンの肩にもたれかかって、ようやく安堵の息が漏れる。みっともないとか恥ずかしいとか見苦しいとか、そんな言葉も思い浮かばなかった。
「ロゼウス……」
湯の中でシェリダンの胸に寄りかかり、その肌から漂う洗髪剤の甘い香りを嗅ぎながら、心地よい声に耳を傾ける。
シェリダンの眼はちゃんと俺を見てる。誰かの代わりじゃないし、俺を通して誰かを見たりしない。
――ねぇ、ロゼウス。シェリダン王に求められた時、嬉しかっただろう?
なのに耳にあの時の声が蘇り、思わずびくりと身体が震えた。
「ロゼウス? どうした?」
気づいたシェリダンが問いかけてくるけど、一度始まった震えが収まらない。
――私に捨てられて自分の存在する意味など何もなくなったお前が、シェリダン王に望まれた。彼のものになってしまえば、お前は誰にも必要とされないという孤独から逃れられるのだから……。
違う。違う。違う! 俺は、そんなつもりじゃ……。
――なんて卑怯な考えなんだろうね。
幻の声はやまない。
「……あがるか」
シェリダンに促されて再び抱き上げられ、湯殿を後にした。部屋に戻ると室内を整えていたらしきジュダと行き違いになり、二人だけになった。
今着ているのは簡易な部屋着だ。シェリダンの方も、飾りのない上着とズボンだけの、いつもより簡素な格好だ。
「何があった?」
恐れていたその言葉をついに聞く。
「あの男……白い髪。ヴァンピルのようだった」
シェリダンの声は質問でも詰問でもなく、ただの確認だった。
「あれは、お前の《兄上》だろう」
兄と言える存在は三人いる。だけどロゼウスがただ兄上と呼ぶとき、それはただ一人だけ。そのただ一人の名をシェリダンは口に乗せた。
「ローゼンティア第一王子ドラクル、奴がお前を―――」
「やめろ!」
ロゼウスは思わずシェリダンから離れる。
「違う! 兄様はそんなことしない!」
そうだ、するわけがない。だって兄様は。
「だが現にお前はこうしてあの男に強姦された!」
「違う!」
「泣きながら、いやだと喚きながら無理矢理身体を奪うのが合意の上だと言うのか! いい加減にしろ、ロゼウス! お前はずっと」
なんで。
なんでよりにもよってお前の口から、そんな言葉聞かなければならない。
「兄に虐待されていたんだ」
違う……。
「違う。違う違う違う。俺は虐待なんかされていない。だって兄様は俺を愛しているんだから、俺だって兄様を愛してる」
でも誰かが頭の中で囁く。
だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?
「違う。虐待なんかされてない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘に決まっている!」
「何故そんなことが言える!?」
今日のシェリダンの様子はおかしい。昨日はあんなに、嘘みたいに優しかったくせに。
「愛している人間が、相手をこんな目に遭わせるはずないだろう!」
「そんなことない! それが兄様の愛なんだ!」
――ロゼウス。私はお前を愛しているけれど、それ以上にお前が憎い。
――こんなことされても、まだドラクルが好きなの?
好き。好きだよ。ドラクルが。俺は兄様を愛してる。俺が好きなのはドラクルだけだ。だから。
だから、痛いことをされても平気。
だから、酷いことをされても傷ついたりしない。
俺は兄上を愛しているんだから。だから……何をされても平気。
本当に?
「俺は兄様を愛してる!」
だってそうでなかったら、俺は、俺は何のために……
「……っ、この馬鹿! そんなの、身内の虐待被害者の勘違いの常套句じゃないか」
シェリダンが無理矢理ロゼウスを寝台に押し倒した。
「認めろ、ロゼウス。お前はあの兄に虐待されていたんだ」
「違う、絶対に違う……だって、兄様は俺を愛してるって」
拭いたはずの涙がまた零れる。
どうして。言葉を重ねるたびに胸が苦しくなるのは。涙の海に溺れ溺れて、息ができない。
「あれが、愛だと? あんなものが?」
ロゼウスを組み伏せて見下ろすシェリダンの顔に不吉な陰影がかかり、彼は酷薄に笑む。
「だったら、私だってお前を愛している」
「え……」
《愛している》という言葉が、こんなにも悲しく寂しく切ないものだとは思わなかった。
笑っているのに泣きそうな顔でシェリダンが言う。
「そんなに自分を誤魔化したいならば、そうし続ければいい。私の向こうにドラクル王子を見るお前など、私はもういらない」
だから、と彼は消えそうに微かな声で囁いた。
「私はただ……お前を犯したいだけだ。お前に私を刻みつけ、……お前は私だけを見ていればいい」
俺たちはただもつれあって、地獄に堕ちる。
◆◆◆◆◆
『お前は私のものだ』
『ああ、そうだ』
あの頃の会話が、どうしてか今は酷く遠い。
私の捕虜、私の奴隷、私の妻。
私のロゼウス。
お前は永遠に、私だけのものだ。
そのはずだったのに。
『ロゼウス――』
『触らないで!』
はっきりとした拒絶。
『もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!』
シェリダンは思わず息を飲んでその悲鳴に聞き入り、滑らかに紡がれた言葉に歪な既視感を覚えた。
『なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!』
漂う冬の花の香りが軋む。
――何でも言って。
――何でもしてあげるから。
――望む事は何でも。
ああ、そうか。
あれはそういう意味だったのか。
誰のものとも知れぬ精液で全身をどろどろに汚されたロゼウスを抱きかかえ、湯殿に連れて行った。どこもかしこも、事務的を心がけて丁寧に念入りに洗う。
この肌に自分以外の誰かが触れるなど赦せない、その相手が眼の前にいれば、たとえどんな相手だとしても千路に引き裂いてやるのに。
「何があった?」
浴室から戻り、この城に滞在する間与えられた客室に戻り寝台に並んで腰掛けながら尋ねた。
馬鹿だ、私は。何があったかなんて聞くまでもないのに。この状況を見れば嫌でもわかるものを。
「あの男……白い髪。ヴァンピルのようだった」
窓から薄暗い朝方の中庭を眺めただけだが、その白銀髪は白く目立っていた。それにヴァンピルの中でもかなりの実力者であるはずのロゼウスが抵抗すらできずに身体を許すなど、普通ならありえない。
「あれは、お前の《兄上》だろう」
男も女も兄妹が多いローゼンティア王家で、ただしロゼウスがそう呼ぶのはたった一人。彼の心の最奥に巣食う、その忌々しい男。
「ローゼンティア第一王子ドラクル、奴がお前を―――」
「やめろ!」
名前を出せば、ようやっと正気の戻って来た瞳に強烈な抗議を受ける。
「違う! 兄様はそんなことしない!」
お前は馬鹿だ。
「だが現にお前はこうしてあの男に強姦された!」
「違う!」
「泣きながら、いやだと喚きながら無理矢理身体を奪うのが合意の上だと言うのか! いい加減にしろ、ロゼウス! お前はずっと」
何故。
何故よりにもよってお前の口から、あんな言葉を聞かなければならない。
――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて! なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
私は何故こんなことを言わねばならない。
「兄に虐待されていたんだ」
――やめてください父上。もう触らないで。酷いことをしないで。私が悪いところは直します。何でもしますから、だから!
シェリダンも同じだった。十年前から今年になって即位するまで、ずっと父に虐待されていた。母によく似たこの面影のために犯される、性的虐待を。八年前に従者となったリチャードが泣きながらシェリダンの置かれた状況を説明してくれなければ、シェリダンもきっと今のロゼウスのように。
「違う。違う違う違う。俺は虐待なんかされていない。だって兄様は俺を愛しているんだから、俺だって兄様を愛してる」
私は何故お前に惹かれていたのかようやくわかった。
私たちは同じものでできている。この底の知れない悲しみと、それを埋めるための欺瞞と、でも本当はからっぽの自分。
血を求めることでしか渇きを癒せない堕天の吸血鬼。
「違う。虐待なんかされてない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘に決まっている!」
「何故そんなことが言える!?」
でもロゼウスはまだ気づいていない。
いや、気づいていて、自分を誤魔化しているのか。
――あんたは、俺を置いていったりしないよな。
――ずっと一緒にいてよシェリダン。独りは寂しいから。死ぬ時も側にいてよ。
ロゼウスを裏切ったという兄。第一王子ドラクル。
本当はわかっているのだろう。
お前は、兄から愛されてなどいない。……私が父から愛されてはいなかったように。
「愛している人間が、相手をこんな目に遭わせるはずないだろう!」
「そんなことない! それが兄様の愛なんだ!」
そうでなければ辛いんだろう?
「俺は兄様を愛してる!」
そうでなければ、お前は家族に嫌われた上に、理不尽に暴力を振るわれて可哀想な子になってしまうから。
「……っ、この馬鹿! そんなの、身内の虐待被害者の勘違いの常套句じゃないか」
シェリダンは無理矢理ロゼウスを寝台に縫い付ける。
「認めろ、ロゼウス。お前はあの兄に虐待されていたんだ」
「違う、絶対に違う……だって、兄様は俺を愛してるって」
ロゼウスの瞳からまたもや涙が溢れて頬を濡らした。
いつだって彼の言葉も態度も一定していない。いちいち状況によって変わるし、まったく安定がない。だがそれが自己保身と精神安定のための作用なのだと、ようやく気づく。
虐待されているのだという事実を受け止められず、性的虐待をそれは嗜虐趣味の愛情故だと歪めて飲み込んでいるロゼウス。
「あれが、愛だと? あんなものが?」
シェリダンに真実を教えてくれたリチャードやシェリダンのために泣いたクルスのような人間が周りにいなかったのか加害者である兄の立ち回りが上手かったのか、誰にも助けてもらえずに一人で身体的精神的な暴力に耐え続けた。
その心が捩じれてしまうのは仕方がないのかもしれない。誰にも救われずいつも一人で泣くことしかできず、心を守るために自分を誤魔化した。
だが頑なに愛を主張するその姿に、憐れよりもまず怒りが、苛立ちが、憎しみが芽生える。
心を守るために自ら狂気に陥ったその姿は儚く脆く、美しい。
壊したくなるほどに。
自分でもそうとわかるほど、シェリダンは組み敷いたロゼウスの上で酷薄な笑みを浮かべた。
「だったら、私だってお前を愛している」
「え……」
今までずっと、何かの拍子に口にしかけては、今のこの心地よい距離が壊れてしまうのではないかと飲み込み続けた言葉。
なのに、いざ口にしてしまえば、それは想像していた甘さとは正反対の苦い感慨を与える。
《愛している》という言葉が、こんなにも悲しく寂しく切ないものだとは思わなかった。
口元は笑っているはずだ。けれど、私は……泣きたかった。
「そんなに自分を誤魔化したいならば、そうし続ければいい。私の向こうにドラクル王子を見るお前など、私はもういらない」
「シェリダン……」
いらない。そんなものはいらない。
ロゼウスがシェリダンの中にどこか慕っている長兄を重ねて見ているのは知っていた。王族の世継ぎの王子として、似たところがあるのも仕方がないと思っていた。
だが彼が、自分に兄を重ねるどころではなく、自分に都合よくドラクル王子の幻影を押し付けるだけならば。
そんなものはいらない。
だったらもう、私もお前の心などいらない。
どんなに望んでも、身体を手に入れても、お前の心は永遠に手に入らないと言うのなら。
「だから」
搾り出した言葉は掠れ。
「私はただ……お前を犯したいだけだ。お前に私を刻みつけ、……お前は私だけを見ていればいい」
私たちはただもつれあって、地獄に堕ちる。