荊の墓標 12

065

 兄様。兄様。ロゼウス兄様!
 その会場で愛しい人の姿を見かけたとき、ジャスパーは不覚にも泣きそうになった。女物の衣服を身につけていたから一瞬ロザリーかと思ったけれど、違う。
 あれはロゼウス兄様だ、僕にはわかる。
『ロゼウス兄様!』
 硝子の檻の中で叫んでも届かない。ロゼウスは、ジャスパーの方を叫んで名を呼ぶ。
 奴隷市場の競売。ジャスパーは、そこにかけられた商品だった。さんざん人買いたちの嬲り者にされた挙句、売り飛ばされるこの会場で、よりにもよってロゼウスと再会するなんて。
「さぁ、こちらの奴隷はなんと、あのヴァンピル王国ローゼンティアの王子です。まずは百万からどうぞ!」
 競売が始まってしまった。会場中からジャスパーに値がつけられる。
 ロゼウスはその隣に座った綺麗なエヴェルシード人の少年と何か話している。誰だろう、あの顔、見覚えがある。
 それは鮮血の記憶と共に浮かび上がってきた。
 シェリダン王――!
 あのとき、ローゼンティア城に攻め込んできた敵の総大将だ。ロゼウスはエヴェルシードの捕虜となったとは聞いたけれど、何故こんなところにそのシェリダン王と一緒にいるのか。
 わからない。何もかもジャスパーの想像の範疇を超えることばかりだ。でも。
「六百万!」
「六百二十万!」
 競り合っていた男たちに混ざって、女性の凛とした声が会場に響く。
「七百万!」
 ロゼウスの左隣にいる女性が、ジャスパーにそう値をつけた。一対一から、三つ巴の戦いとなる。
 その戦いの隙間で、ジャスパーは会場の最後尾に佇む人影を見つけた。
 全身黒い衣装に覆われている不思議な少年。
 あの時、人買いのアジトに捕らわれていたジャスパーに、奴隷市から逃げ出すなと、まるでこのことを見越したかのような忠告を置いて去って行ったあの少年だ。
 ジャスパーは思わず叫ぼうとし、途端に喉に引き攣れるような痛みを感じた。
 少年が遠くから、ジャスパーに向けて手を伸ばしている。その次の瞬間、失語状態の時と同じく、再び声が出なくなった。
 彼が、また何かしたのか。呆然とするジャスパーの耳に、辺りに一石を投ずるような声が響いた。
「二千万!」
 会場が静まり返り、彼の買い手が決まった。いったん裏に下げられたジャスパーのもとに、エヴェルシード王に連れられてロゼウスがやってきた。
「ジャスパー!」
 硝子の檻を開けて、ジャスパーの体を思い切り抱き締める。
「ジャスパー、ジャスパー、ジャスパー」
 兄様、兄様、ロゼウスお兄様。自分も兄の名を呼びたいのに、声が出ない。そのジャスパーの様子に、すぐにロゼウスは気づいた。
「どうした、ジャスパー……お前、まさか声が」
 ロゼウスはすぐにジャスパーの体を戒める銀の拘束具を外してくれた。銀に触れている間は力が落ちるから無理矢理捻じ切るわけにもいかなかったけれど、鍵を使わなくてもその部分を力尽くで切ることぐらいはできた。人買いたちが目を剥いている。
「声が……出ないのか。なんて……」
 ロゼウスはジャスパーの状態を確認して震え出す。でも違う、違うんだ兄様。僕の声を奪ったのはあいつらじゃない。始めは確かにそうだったけれど、一度返された声をまた奪われたんだ。あの黒髪の少年に。
 声が出ないジャスパーには何も言う事はできず、ただロゼウスが抱き締めてくれるのに任せてその身体にしがみついた。相手の劣情を誘うようにと身につけられた恥ずかしい衣装とも言えない衣装のままで、ロゼウスの首筋に顔を埋める。
 そのジャスパーを牽制するように、冷たい声が降って来た。
「約束は守れ、ロゼウス」
「……シェリダン」
 ロゼウスが彼を振り返り、その名を呼ぶ。藍色の髪に朱金の瞳をした美しい少年は、やはりエヴェルシード王その人。
「お前の望みどおり、私はお前にこれを買ってやった。二千万もの大金を払ってな。今度はお前が私との約束を守る番だ。シアンスレイトに戻ったら、楽しみにしていろ」
「……わかっている」
 シェリダンはジャスパーの眼の前で見せ付けるようにロゼウスの顎を持ち上げ、その唇を奪った。
 ジャスパーの頭が真っ白になる。
 キィイイイイイイ!
 思わず、側にある今まで自分を閉じ込めていた硝子の檻の壁を爪で引っかいた。
「きゃあ!」
「うわっ! 何しやがんだっ!」
 後であの競売に参加していた女の人と人買いが何か言っているけれど、ジャスパーはシェリダンだけをずっと睨みつけていた。
 お互い耳を塞ぐために思わずロゼウスを離したシェリダンも、殺気だった目でジャスパーを睨んでくる。
「お前……不愉快だな」
 歪んだ笑みを浮かべながら、彼はその長い足で、ジャスパーのすぐ横の壁を蹴飛ばした。
「シェリダン?! やめろ! ジャスパーに乱暴しないでくれ!」
「ふん。目障りなガキだ」
 ロゼウスが背後から抱きついて、シェリダンを止める。ジャスパーはエルジェーベトの腕で檻から出されて歩かされ、会場近くに停められていた馬車へと向かう。
 そこには人影があった。
「やぁ」
 あの時の黒髪の少年!
 ジャスパーは声をあげたいけれど、どうしても出ない。彼以外の三人は、平然とその少年に話しかけている。
「ハデス卿」
「人の気配がしたからね。んー、ロゼもそっちのヴァンピル君も疲れてるみたいだし、二人纏めて治療の術をかけようか。エルジェーベト卿、馬車変わってくんない?」
「ええ。それでは、私が閣下の代わりに向こうに乗りますから。そのままシアンスレイトへ向かいましょう」
 ハデス、と呼ばれた少年が意味ありげにジャスパーを見る。馬車に連れ込まれて。極自然な振る舞いで彼が隣に来た。
「はいはい。じゃあまずは重傷のロゼウスの方から。無茶しちゃ駄目だよシェリダン王。いくら相手が男だからって、乱暴はよくないよ?」
「余計な口出しはやめていただきたい。これは私とロゼウスの問題だ」
 ロゼウスは見た目からはどこも怪我をしているようには見えなかったが、でもどこか調子が悪いらしい。それも、この王のせいで。ジャスパーはシェリダンを睨む。
「ハデス、ジャスパーの声をなんとかしてやってくれないか?」
「んー? 声?」
「そう、声が出ないみたいなんだ。怪我でもしてるのかも」
「そう? じゃあちょっと見てみようか」
 いけしゃあしゃあと頷いて、ハデスはわざとらしくジャスパーの口を開けさせて喉を見た。そんなに力が強いわけでもないのに、何故か逆らえない。
「どこも異常ないし、心因性の失語症じゃない? ほら、温室育ちの王子様がいきなり大変な環境に置かれたわけだしさ」
「そっか……」
 沈み込むロゼウスになんとか伝えたくて腕を伸ばす。だけれど、シェリダンに振り払われる。
「触るな。お前のような者は」
「シェリダン、ジャスパーはミカエラと同じ俺の弟だ!」
「いいや、違うな。あの王子とこれは違う。ミザリーでも、ロザリーでも、ルースでもミカエラでも良いが、これがお前に触れる事は許さない」
「どうして!」
「いいから、触るな」
 シェリダンに両手を塞がれて、ロゼウスが悔しそうな顔をする。ジャスパーが人買いにされたように拘束具をつけられているわけでもないのに、ロゼウスはシェリダンを振り払わない。
「ごめん。ジャスパー。事情は、向こうに着いたらゆっくり説明するから、たぶん、ロザリー辺りが」
「約束は守れよ、ロゼウス」
「わかっているってば」
 脅しつけるように低く、彼はロゼウスの耳元で囁いた。ロゼウスは疲れきったような苦悩の表情で。
「俺は……あんたの奴隷だよ」
 その言葉に打ちひしがれて目を見開くジャスパーのことなど構わずに、シェリダン王が嬉しそうに歪な笑みを浮かべる。
「それでいい」
 そしてジャスパーとハデスが同じ狭い馬車の中にいるのにも関わらず、再び濃厚な口づけを交わし始めた。
「あーらら」
 ジャスパーの隣で、その様子を楽しそうに眺めやっていたハデスが気楽そうに呟く。愕然とするジャスパーを見て、にやりと笑って一言告げる。
「何だか、大変なことになっているようだねぇ?」