荊の墓標 12

066

 石塔の高い一室には、薔薇の馨しい芳香が広まっている。
「おやおや。向こうにも随分人が集まったみたいだね」
「第三王女、第五王子に加え、奴隷市場で第六王子が合流したとハデス卿から報告が入りました」
 ドラクルは手元で薔薇の花を弄びながら、その報告を受ける。
「ドラクル王子、ロゼウス様に一体何をしたのですか? ハデス卿からは、王子の目論見どおりロゼウス様に多大な動揺を与えられた模様と伝えられましたが……」
「ふふふ。ハデス閣下もお茶目だからね。私はそんなたいしたことはしていないよ。可愛い弟を、いつものように可愛がってあげただけさ」
 そう。ロゼウスが物心ついてから毎日、寝台の上で覚えさせた、とっておきの遊びをしてやっただけで。
 その証拠にロゼウスは、いつものように泣いて喜んでいたじゃないか。
「でも、この肩の傷はなかなか深かったな。ヴァンピルである私だからこの程度ですんだものの、人間だったら立派に大怪我だ」
 顔を見せるわけにはいかなかったので振り返る事はしなかったが……エヴェルシード貴族、バートリ公爵エルジェーベト卿。男尊女卑国家で女公爵としてのし上ってきただけあって、結構な強敵である。
 あの女がシェリダン王側に、ひいてはロゼウスの側につくというのなら、面倒なことになる。からっぽの公爵の割に、いい腕をしている。
 まあ、こちらにはまだイスカリオット伯爵ジュダがいるし、戦力にはならないとはいえ、眼の前の少女の血筋はそれだけで最上の武器となりえるが。
「ドラクル」
「ルースか。首尾は?」
 石階段に靴の音を鳴らして、妹が上がってきた。
「ローゼンティアの状況なら、変わりなしよ。王権派はメアリーを保護したようだけれど、あの娘には所詮何もできないでしょう。せいぜいロゼウス……というよりも、シェリダン王に余計なことを吹き込まれたら厄介というだけで」
「そうだな。メアリー、あれも気の毒な娘だ。王家などより、どこか別の下級貴族にでも生まれていれば、こんなことに巻き込まれずにすんだのにな」
「まあ。今更だわ。それならもっと可哀想な、私たちはどうなるの?」
「私たちは別にいいだろう? お前も私も、メアリーのように弱くない。欲しいものは自分で奪い取るのだからね」
 あのローゼンティアの、愛しくて憎い薔薇の王位を。
「一つ気になる事があるわ。ドラクル」
「どうした?」
「ヘンリーとアンに関してはカルデール公爵が抑えているけれど、アンリの所在も状況も掴めないわ。ついでにウィルとエリサもね」
「三人は確か一緒に逃げたのだったよね?」
「ええ。でも、その方角にはヴァンピルが隠れられそうな場所はないのよ。まさかエヴェルシードの一般民家で、ローゼンティア人を匿ってくれる家もないでしょう?」
「となると、死んだかな?」
「あのアンリが? 一見抜けているようでいて、あの男は意外としぶといわよ?」
「知っているよ、何せアンリは、私の可愛い弟だからね」
「まぁ」
 ルースが頬に手を当てて溜め息をついた。この嫌味ったらしい姿の、どこが気弱で控えめな姫君なのだろう。これほど憎たらしい性格の王女は、ローゼンティアには他にいない。
「では、可愛い妹のルース。ここまで頑張ったお前にご褒美をあげよう」
 ドラクルが言うと、途端にルースは顔色を変えた。
 性格は憎たらしいが、ドラクルにこうして擦り寄ってくるところは可愛らしい妹だ。何しろ彼のためなら彼女は、エヴェルシード王城シアンスレイトにすら乗り込んで、シェリダンと直接対峙できるくらいなのだから。
「ああ、ドラクルお兄様……」
 ドラクルの膝に縋り付いて、うっとりと目を細める。その顎を掴んで、優しく口づけてやった。舌を絡めて唾液を交換し、唇の端から零れた分を舐め取る。
「もっと……」
「これ以上は駄目だよルース。カミラ姫が見ているからね」
 エヴェルシード唯一の王女は、射殺しそうな目でドラクルたちのことを見ていた。
 異母兄とは言え実の兄に強姦された彼女にとって、兄妹が交わる光景は激しく嫌悪感を煽る禁忌のようだ。
 そんな彼女がローゼンティアの内情を知ったなら、きっと憤死するだろう。
「次の仕事に行きなさい、ルース。今度はカミラ姫のために、ちゃんと舞台を整えてあげるんだよ?」
「はい、お兄様……」
 そう、次こそ、彼女の出番だ。
 死んだはずのエヴェルシード王妹、カミラ=ウェスト=エヴェルシード。
 あなたにもそろそろ役に立ってもらわないとね。
 ルースがまた、階段を降りていく足音が聞こえた。
 ドラクルは椅子の肘掛に頬杖をついて外の景色を眺めながら、カミラに話しかける。
「ねぇ、カミラ姫」
「はい?」
「荊姫は愚かだと思わない?」
「……は? はぁ」
 眼下の庭園には、荊で編まれた迷宮がある。先日ロゼウスが迷い込んだ、イスカリオット城の迷路庭園だ。
「荊姫、別名は眠り姫。わかるかな」
「ええ。まあ。話は知っております。ある国でお姫様の誕生を祝う宴を開いたけれど、城には金のお皿が十二枚しかなかったので、国王は十二人しか魔女を招けなかった。招かれた魔女たちは生まれたお姫様に祝福を与えたけれど、招かれなかった最後の一人の魔女が、怒ってお姫様に呪いをかけた。十五年後に糸巻きの錘に触れて死に至るその呪いを、まだ祝福をしていなかった一人の魔女が、お姫様は糸巻きの錘に触れても死なず、勇気ある若者が城を訪れて彼女に口づけを与えるまで眠り続けるという内容にすりかえた……」
「そして予言どおり姫君は十五の歳に糸巻きの錘に指を刺して、永い眠りに陥った。姫が眠りにつくと城中が荊に閉ざされ、やがてその国のことは忘れ去られていった。百年後に王子様がやってきて、荊をものともせず城に足を踏み入れ、眠るお姫様のあまりの美しさに口づけるとお姫様は目を覚まし、二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ」
「めでたしめでたし?」
「だと良かったんだけどね」
 ドラクルは薄く笑い、怪訝な顔をしているカミラに尋ねる。
「ねえ、姫。眠り姫という人間はどうもずるいと思わないかい?」
「え?」
「だって、彼女は魔女たちの祝福によって、何の努力もせずに富や才気を手に入れたんだよ。百年後に眠りから覚めるときだって、王子任せの他力本願だよね。しかも、眠りに陥った理由も馬鹿げているじゃないか。うっかり糸巻きの錘に触れて、なんてね」
「はぁ」
 眠り姫。荊姫。
 その美しさは人を惹きつけるけれど、噂を聞きつけて荊の城に向かった男たちは何人もその荊の餌食になった。
 この世で最も罪深いその薔薇。荊のような美しさの姫。
 しかも彼女は、自らにかけられた呪いのことを、何一つ知らないのだ。
 ああ、なんて滑稽な話。
「王や周りの者たちは、姫が糸巻きに触れないよう国中からそれを焼き払ったけれど、そんなことをするのがそもそもの間違いだったんだよ。彼らは糸巻きの錘が何なのかも呪いのこともちゃんと告げて、その上で姫に忠告するべきだった。だってこの世で最も罪深いのは、無知による傲慢の罪なのだから」
「……ドラクル王子?」
 手の中で弄んでいた薔薇の花を握りつぶす。
 馨しい香りが、血の芳香のように部屋中に広まった。
「そして私は、招かれなかった十三番目の魔女なんだよ」
 だから、十七年をかけて眠り姫に呪いをかけた。
 知らないということが最も愚かで、最も罪深い。
「例え知らずに犯したとしても、罪は贖わなければね」
 その目覚めのために、何人もの男たちが犠牲になった。その犠牲を、知らないでは済まされない。
 だからこそ、眠り姫よ、その無知と傲慢の罪を贖いたまえ。

 ◆◆◆◆◆

 ようやく彼らは王城に戻って来た。
 でもジャスパーとちゃんと話をする暇もなく、ロザリーやローラの留守番組、まだ詳しい事情を知らないミカエラたちと会うこともなく、ロゼウスはシェリダンに引きずられて無理矢理シアンスレイトの一室に監禁された。
「シェリダン……っ!」
「言っただろう。なんでもする、と。そして弟のためになら、この条件を飲むと」
 そこは罪人を閉じ込めて責め苛む拷問部屋で、恐ろしげな器具が幾つも揃っていた。シェリダンは問答無用でロゼウスをそこへ押し込むと、早速寝台へと押し倒す。
 ロゼウスたちがシアンスレイトへ戻って来たのは、馬車の中で一泊して次の日の朝だった。ヴァンピルの彼らですらきつい行程なのに、シェリダンは平気な顔で、ロゼウスとこうして向かい合っている。いや、平気などではない。限界のはずだ。少なくとも身体の方は。
 彼の精神を支えるのは、その大きな怒りだ。
 途中のリステルアリア城という場所でエルジェーベトとは別れ、城までつき従ったジュダに支えられて彼らは王城へと戻って来た。
 シェリダンの怒りはまだ解けない。ヴァートレイトでロゼウスの言葉の何かに怒ったシェリダンは、もはや絶対にロゼウスを許す気はないようだった。
 ガチャンガチャンと派手な音を立てて、銀の拘束具が放られる。それらにはそれぞれ鎖がついていて、身動きを封じて寝台に縛り付けるためのものだ。
 鎖の長さはさほど長くはなく、せいぜいこの部屋の中しか移動できない。
 それを、シェリダンは無造作に顎をしゃくってロゼウスに示した。
「嵌めろ。自分の手でな」
「シェリダン、俺は……っ」
「わかっているのだろう? ロゼウス。これ以上私を怒らせたらどうなるか」
 いっそ優しいとすら言える笑みで、シェリダンが言う。
 憤怒の形相を浮かべていればまだ対抗もできるのに、彼がこうして薄ら笑いを浮かべているからこそ、背筋が戦慄する。
 怖い。
 今のシェリダンは何をするかわからない。
 ロゼウスの一体何がそんなにも彼を刺激したのかが、わからなくて怖い。
 理由さえわかれば対策の立てようもあるし機嫌のとりようもあるのに、今のシェリダンがロゼウスの何に対して怒っているのかロゼウスにはさっぱりわからない。だから、今のロゼウスにはシェリダンに従うしかできない。
「言ってみろ。ロゼウス、お前は私のなんだ?」
 甘く耳元で囁く声に、力なく答える。
「……です」
「聞こえない」
「俺は、あなたの奴隷です」
「そうだ」
 悔しさに涙が滲むが、シェリダンは嬉しそうだった。ロゼウスの耳の横に落ちる髪を撫でながら、さらに強要する。
「さぁ、早くその枷を嵌めるんだ。でないと、その美しい手足を斬りおとしてでも、お前を無理矢理この部屋に閉じ込めてやる」
 ロゼウスは言われた通り、首と両手足の枷を自分の手で嵌めた。
 銀の持つ魔力によって、急速にヴァンピルの力が奪われる。これでは、か弱い普通の人間並みの腕力しか発揮できない。
「あ……」
「苦しそうだな。イイ顔だ」
 くすりと笑って、シェリダンがロゼウスの首筋に顔を埋める。襟ぐりから覗く肌を、熱い舌先で舐め始める。
「あっ、いや……」
 儚い抵抗は全て封じられ、拷問器具だけが見守る部屋の中で、シェリダンはやけに嬉しそうにロゼウスの身体を弄ぶ。
 ふと身体を離して、彼は微笑みながら優しく告げた。
「勘違いするなよ、ロゼウス」
「なに、が……」
 優しい声。でもその瞳に浮かぶのは間違えようのない狂気。
「私はお前を愛している」
 やめてくれ。その言葉は。
 そんな寂しい響を持った言葉はいらない。
「ぐっ」
 シェリダンの手がロゼウスの首へと伸びて、きつく締め上げる。呼吸が阻害され、銀の手枷に阻まれた腕ではそれを払いのけることもできず、息を詰まらせる。
 しばらくしてシェリダンが手を離すと同時に、ロゼウスは身体をくの字に折り曲げて激しく咳き込んだ。それが落ち着くのを待って、シェリダンがまた、冷めた目で言った。
「愛している」
「シェリダン……」
 彼をこんな瞳になるまで、追い詰めたのはきっと俺の罪だ。
 こんな部屋に閉じ込められるのは、だから、その罰なんだ。
「愛しているから、お前を傷つけたい。お前の望みどおり、なんでもしてやる。なんでもして壊して、お前を私だけのものにしてやる。お前のその紅玉の瞳が、私しか見つめられないように……っ!」
 歪む彼の口元は笑みを浮かべているのに、零れたのは何故か涙だった。
 人間の熱い体温。それと同じ温もりの涙が、冷たいヴァンピルの肌をしたロゼウスの頬にぽたぽたと落ちてくる。
「シェリダン……」
 出そうとした言葉は、切ない口づけに封じられた。

 罪を犯したのは、どちらだったのか。
 招かれないことに腹を立てた、のけものの魔女か。それとも。
 何も知らずにその荊の棘で一番近くにいた人間を傷つけていた、眠り姫の方だったのだろうか。
 自ら罪を犯す者たちよ、贖いたまえ。

 《続く》