070
――さぁ、お仕置きだ。ロゼウス。
――私の言うことを聞かない悪い子は、こうしてあげる。
ドラクルが怖い。
――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!
――なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
お願い、傷つけないで。
そうだ。俺は最初、兄様が怖かった。いつ怒られるかとびくびくして、何か失敗するごとに殴られて、だから怖くて兄様の言う事は何でも聞いて……そのうち俺が兄様の望みを叶えられるようになると、ご褒美だって、抱いてくれた。
痛くて気持ち悪くてでもそのうち気持ち悪いのが気持ち良くなってきて……痛いのも後で気持ちよくなるためだとドラクルに言われれば、我慢した。
ドラクルがすることは全部、俺のためなんだから。俺を愛してくれてるからするんだから。
俺もドラクルが好きなんだから。だから……痛くない。怖くない。大丈夫。こんなことなんでもない。
――認めろ、ロゼウス。お前はあの兄に虐待されていたんだ。
――違う、絶対に違う……だって、兄様は俺を愛してるって。
シェリダンの言う事は嘘だ。俺が兄様に虐待されていたなんて言って、俺を傷つけたいだけだ。だってシェリダンはローゼンティアを滅ぼした。彼なら俺にどんな酷いことをしたっておかしくない。
どんな酷いことをしたって……。
――あれが、愛だと? あんなものが?
――だったら、私だってお前を愛している。
その言葉はあまりにも深く、暗い。《愛している》という言葉が、こんなにも悲しく寂しく切ないものだとは思わなかった。
「シェリダン……」
喘ぎ続けて掠れた声を振り絞り、ロゼウスはのしかかる相手の名を呼んだ。ロゼウスを抱きしめる彼の、さんざん達して萎えたものが、まだロゼウスの中に入っている。
ここはエヴェルシード王城シアンスレイトの一室だ。鉄格子の嵌った部屋に鎖で繋がれ、昼となく夜となく犯される。王としては真面目に執務をこなすシェリダンだが、仕事が速いだけにいくらでも余暇は作れるらしい。今日の執務は終わったからと、昼からここでロゼウスをいたぶり続けていた。
部屋の隅の拷問器具に紛れた拘束具の一つに、無理矢理連れてこられた弟であるジャスパーが繋がれている。目を逸らしはしたものの、ジャスパーの視線は感じていた。けれど、それもしばらく前に消えてしまった。どうやら向こうは向こうで、気を失ったらしい。シェリダンの話によれば牢を脱出する時に暴れたというから、それも仕方ないのだろう。
もう時間の感覚は麻痺しているけれど、鉄格子の向こうから降り注ぐ陽の紅さが、今は黄昏時だと教えていた。
首を絞め肌を鞭打ち噛み付いて、ナイフで切りつけたり頬を張り飛ばしてロゼウスに暴力を振るい、それに飽きたら無理矢理犯すというのを繰り返していたシェリダンも多少の疲れを感じたのか今はロゼウスの身体に身体を重ねたまま、ぐったりと動かない。
けれど眠っているわけではないことは、気配でわかる。思っていると、彼は気だるげに髪をかきあげながら、ロゼウスの上から起きた。身体をどける間に、思い出したように唇に軽い口づけを落としていく。
そしてまた、もはや欲求があるのか惰性で続けているのかもわからなくなるほど繰り返した行為に耽るために、ロゼウスの身体へと手を触れた。
破れた服を着たまま、涙や精液でどろどろになった身体を庇う気力もないロゼウスの瞳から、最後の涙が溢れた。
「……もうやめて」
懇願の声が掠れる。
牢獄に閉じ込め鎖で繋ぎ枷を嵌め。刃物で鞭でその手指で傷つけて。
全身いたるところ、傷がない場所はない。甘く囁いた後に罵声を浴びせられて、心だってずたずたに引き裂かれた。
なのに、まだやるのか。そんなに俺を苦しめて傷つけてぼろぼろにしたいのか。
自分がシェリダンに何をしたというのだ。してないだろう、何も。祖国を滅ぼし父母を殺しただけでは飽き足らず、性別を偽らせて王妃なんて称号を与えて。ロゼウスという人格を奪って名前を封じて。それでもまだ足りないのか。
このままでは、本当に。
「これ以上は壊れ、てしまうから」
定まらない視界。
還る微笑。
「壊れてしまえばいい」
ヴァンピルの理性は血に眠る殺戮衝動を抑えるもの。いくら魔族とは言え理性を失ったら、吸血鬼はただの化物と変わらない。
そして狂気は、理性と最も縁遠いものだ。箍が外れたヴァンピルは強い。そしてあまりにも非道だ。
ロゼウスはその気になれば、本当はシェリダンを殺せる。なりふり構わなければ今すぐにだってできる。ヴァンピルという種が数千年をかけて皇帝から得た、人間と対等の世界に属する権利を手放せば、今すぐにでも。
理性を手放せばロゼウスは本能のままに周囲の人間たちを殺戮し、その血を啜り肉を喰らうだろう。甘い蜜のような人間の血に陶酔し、我を忘れて虐殺の快楽に走るだろう。
その時に最も近くにいるのは……シェリダン、彼なのだ。だから。
「あんたを……殺してしまう」
今ロゼウスが理性を手放せば、真っ先に犠牲になるのは彼だろう。その男とも思えないほどに美しい肌を引き裂いて、ロゼウスは彼の血を啜り、臓物を貪るだろう。
身体と心の痛みに病んだ精神は、心臓の裏の辺りでそれを望んでいる。胸の奥に、身体では感じることのできない切ない疼きが走る。
今のこの状態は、あまりにも苦しいから。
なのに頬に降る、涙の雨。
「だからこそ、お前など壊れてしまえばいいんだ」
さんざん弄ばれ傷つけられて、泣いていたのは自分のはずなのに。
「そうしたらどうだ?」
誘惑するように低く甘く、微かに掠れた声でシェリダンが囁く。
「私を殺してみればいい」
「そん、なの……あ」
シェリダンが唇を重ねてきた。鎖で繋がれた上、力を失った身体では抵抗できるはずも無く、ロゼウスはその口づけを受け入れる。
「シェリダン……」
「壊れてしまえばいいのに」
涙を浮かべて見つめれば、こちらも頬を透明な雫で濡らしたまま、シェリダンが小さく繰り返す。
「愛している。ロゼウス」
深く暗く。
「愛している……」
悲しく寂しく、そして切ない。
「愛している」
みたびそれを繰り返して、彼はロゼウスの胸に突っ伏した。破れているとはいえ服を着たままだから余計、布地に染み込んだ雫の熱さが身に染みた。
「シェリダン……俺は」
シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。ローゼンティアを滅ぼした憎き仇。敵国の王。ロゼウスから名を奪い、性別を偽らせ、王妃などと名乗らせて弄んだ。奴隷だと蔑んで、こんな部屋に閉じ込めて暴力をふるって好きなだけ陵辱して。
あんたなら憎める。嫌いになれる。心のそこでどんなに恨んでも問題はないと思っていた。でも。
「もう……やめて。やめようよ……」
声はみっともなく掠れて鼓膜を引っかきつつ胸の中に堕ちていく。
「戻ろうよ……また、前みたいに」
前みたいに? 今更戻れはしないのに。敵国の只中であるこの王城でシェリダンの隣で、嘘のように穏やかに笑いながら日々を過ごし。ローラとエチエンヌとリチャードと、ユージーン候やたまにはイスカリオット伯なんかも交えて。ミザリーやミカエラがいる光景は思い浮かばないけれど、ロザリーはもうすっかりここの一員と言う感じで。
側にいる。一緒に地獄に堕ちると誓った、あの約束に嘘はない。
どうしてそれだけじゃいけないんだ? 何が足りないのか、ロゼウスにはわからない。
「ロゼウス……」
病んだ心。理性を手放しかけているのはシェリダンも同じだ。けれどシェリダンが理性の一つや二つ手放したって。そんな惨事にはならない。
ロゼウスは駄目だ、ロゼウスがここで堪えられなかったら、シェリダンを殺してしまうから。
それだけは絶対に……自分を赦せない。
あんたが俺を殺すのは仕方なくても、俺があんたを殺すのは駄目だ。
「シェリダン、俺は、あんたを……」
わからないんだ、どうしても、自分のことなのに。
俺はあんたのことを、どう想っているのか。
◆◆◆◆◆
「シェリダン王の叔父上!?」
フリッツの素性を話すと、ヴァンピルの兄妹はいっせいに驚愕した。
「な、なるほど。だからそんなに似ているのか……でも、その叔父がどうしてこんな場所に?」
「悪かったな、こんな場所で」
彼らが今いるのは、フリッツの家であり職場でもある酒場『炎の鳥と赤い花亭』だ。下町は確かに王族にふさわしい場所とは言えないが、フリッツには大事な故郷だ。
「い、いや、そういう意味じゃないんだ。王族ならどうして貴族の館に住んでいないのかって言う……」
話がややこしくなるから喋る事はだいたいは兄に任せる、と小さな弟妹は黙っている。
彼らの名前と素性もフリッツは聞いた。二十歳頃の青年はローゼンティア第二王子アンリ、十二歳ぐらいの少年は第七王子ウィル、十歳ぐらいの少女は第六王女にして末っ子のエリサだという。
「隣国の誼でこんな話聞いた事は無いか? 現国王シェリダン=ヴラド=エヴェルシードの母親は、国王に見初められたために下町から攫われて無理矢理妻にされた女。彼女の名はヴァージニア=トラン=ヴラド。俺はフリッツ=トラン=ヴラドだ」
「シェリダン王の母方の……」
「ああ。しかも、公式には先代国王の手によってヴァージニアの家族は全て殺されたことになっている。俺はすでに死んだことになっているんだよ。お前らを城に突き出したら、真っ先に殺されるのも俺かも知れないな」
とは言っても、すでに甥御殿に生存も居場所も知られている。そんなのは建前だとわかっているが、フリッツはこんな場所で皮肉るしかできなかった。
「俺は見ての通りお上品な生まれじゃないからな。敬語なんて使えないぜ。王族の扱いなんてわからねぇ」
「ああ。わかっている。それより聞きたい事があります」
アンリと名乗ったこの青年も丁寧な口調は苦手らしく、時々言葉が乱暴になる。
「……あなたと、ロザリーの関係は? どうして妹を知っているんですか?」
「道で拾った」
簡潔な言葉で説明したら、簡潔すぎる、と弟王子から野次が飛んだ。
「お前らと同じだ。街道に飛び出してきたところを拾ったんだ。もっともその時のローはお前らと違って、目隠しをしていた」
「ヴァンピルの赤い瞳を隠すために」
「そうだ。名前もローと名乗り、小間使いでいいから置いてくれと頼み込んできた。だから、しばらくここで働いてもらった」
「あ、あのロザリーお姉様を」
「小間使い……給仕としてだなんて」
兄妹である三人から怒られるのか、とフリッツは一瞬身構えたが、最後にアンリが纏めた。
「そんな度胸のある……」
「オイ」
「あの矜持の高さと高慢さとますらおぶりで有名なロザリー姉様を」
「ますらお……」
それはたくましき男性に対する言葉だ。
「で、でもロザ姉様はロゼ兄様を探しに行ったんでしょ? 兄様のためなら……やるかも」
「やるかもな」
三人は深い溜め息をついた。
「そんなに凄いのか? ……ああ」
「あんたも心当たりが?」
「とりあえず、ええと……話がややこしくなるんだがいいか?」
フリッツは前置きした上で、一ヶ月以上前のことを話しだす。甥のシェリダンがこの店にやって来たことを。
「シェリダン王がな……姉さん……ヴァージニアの遺書とも言える日記帳を持ってお忍びでやってきた。それに気づいたロザリー姫が暴れて、従者の二人と警護の侯爵を瀕死においやり、シェリダン王も殺しかけた。寸でで止めに入ったお姫様がいなければ、どうなっていたことか……その場にいた得たいの知れない魔術師のおかげで全員無事だったんだがな……ローは連れて行かれちまったよ」
「そうか……ロザリー」
そこでふと、ウィルが口を挟んだ。
「ところで、そのロザリー姉様を止めたお姫様っていうのは?」
「ああ。お前らと同じヴァンピルだ。シェリダン王のお妃に収まった、ローゼンティア王族だって話だぞ? ロゼ王妃」
何故かそこでその場にいた全員が首を傾げる。
「ロゼ?」
「って、誰?」
「そんな名前のお姉様いないよ」
「何?」
フリッツは三人の反応に、どう返していいものかわからない。三人は訝りながらも、すでに答が出ているような微妙な表情でそう言ったからだ。
「だって、ローゼンティアの姫だって言われているぞ? すごい美人だ。ローにそっくりなお姫様。いないのか?」
「「「…………」」」
「な、何で黙るんだ?」
アンリが困ったように頬をかきながら尋ねる。
「もう一度詳しく尋ねていいか? その姫の特徴は?」
「国民が王妃様の名前なんかそう聞く機会もないが、俺が知るかぎりでは十七歳の王妃はロゼ様って聞いてるぜ。でもこれはローゼンティアの姫君って意味なんだとも言われてる。後は……顔立ちは、一目でわかるほどロザリー姫にそっくりだ。まさに瓜二つと言う感じだったな。この姫が暴れるロザリー姫を止めたんだ」
「ロザリーにそっくり……それで、髪は肩よりちょっと上くらいで顔の横に少しだけ垂らしてて?」
「ああ、言われてみればそういう感じだ」
ウィルとエリサは不安げに顔を見合わせ、アンリが頭痛でも覚えたかのように額に手を当てた。
「ああ、神よ……」
「ど、どうしたんだ?」
フリッツはそんなに変なことを言っただろうかと首を傾げるが、お上品な言葉こそ使えなくても、特に変わったことを言った覚えはない。
そういえば、ローはかなりあの姫様に懐いているようだったが、言った方がいいのだろうか。姉姫が口づけると同時に、妹と呼ばれたロザリー姫が力を失ったようにぐったりしたこととか。
だが注釈はいらないようだった。アンリは腹を括ったというような様子で、フリッツに向き直ると言った。
「あんたの言ったような条件に当てはまる王族は一人いる」
「そうか、ならその彼女があの時のお姫様だろう」
ここにいる三人を見ていると、みんなそれなりに似ているが誰も彼もがそっくりとは思えない。ロザリー姫に瓜二つということだけで十分なヒントになったのだろう。
「……ところで、ご主人、この国の今の王には、確か、妙な噂がなかったか?」
「妙な噂……ああ、そういえば何かあったような気もするな」
「同性愛者……つまり、その、ホモだって」
「ああ、そうだ。でもあれは誤解なんだろう? だってわざわざ征服してこれからは好きにできる敗残国の王家の姫を娶るくらいだからな。よっぽど惚れてるんだろうって……あ、悪い。敗残国なんて言って、気分を悪くしたか?」
「い、いや。大丈夫だ。そういうことじゃないんだ……」
しかしアンリの顔色は傍目にもわかるほど悪い。
「アンリ兄様……」
「何も言うなウィル。わかってる」
「ねぇねぇお兄様たち、ホモってなーに?」
「お前は知らなくていいんだよエリサ」
「えー?」
一人事態についていけていないエリサが、不満げな声をあげる。
「まあ……いいや。いや、よくはないけど、あの子がこの国の王に捕らわれて、捕虜にされていることまでは聞いていたし……それに、多かれ少なかれ、戦争に負けて俺たち王族が苦労を強いられるのは当然だと、覚悟はしていたわけだしな……」
アンリが暗い顔になる。それを受けて、ウィルやエリサも眉の辺りを曇らせた。
「俺たちは、王宮に捕らわれた兄妹を救わなければならない」
「……覚悟はあるんだな」
「ああ……何か、情報があるなら教えてほしい。王宮に乗り込むにはどうしたらいいか。俺たちがこんなこと言える義理じゃないとは思うが、頼む」
「……アンリ王子、あんた剣は使えるか?」
フリッツの言葉に、第二王子は軽く目を瞠った。
確かにエヴェルシード人のフリッツにとって、これは立派な反逆だろう。だがしかし、フリッツにとってはずっと会っていなかった甥よりも、数週間この店で働いたローの方が大切だ。
彼女が幸せになってくれるなら……その方がいい。それが例えこの国に不利になるようなことでも。
「実は、今月はこの国でこんな行事があるんだが――……」