荊の墓標 14

073

 気配だけでも、ロゼウスが日に日に弱っていくのがわかる。
「私には……何もできないの?」
 ミザリーやミカエラとは会えるが、地下に監禁されているジャスパーとも会わせてもらえない。シェリダンはロゼウスを監禁し出してから、まるで人が変わったようになってしまった。
 元から善人とは言えないローゼンティアの仇。確かにそういう意味では嫌な男だったけれど、前はそんなことなかったのに。
 バートリ公爵という人物の城で、いったい何があったのか……。
 あの時の話は結局中途半端なままで終わって、肝心なことは何も聞けていなかった。
「ロザリー」
「あ、エチエンヌ。おかえり」
 練兵場で訓練の付き添いをすると言っていたエチエンヌが部屋に戻って来た。シルヴァーニ人の少年。名目上の、ロザリーの夫。
「ねぇ、ロゼウスはどうしてる?」
 尋ねると、眉根を寄せて困った表情が返る。エチエンヌもロザリーと同じように、あのバートリ公爵領での出来事の時には、このシアンスレイト城で留守番をしていた。だから、ロゼウスとシェリダンの間に何があったのか、詳しいことは何も知らない。
 否、ロザリーとエチエンヌだけでなく、リチャードもローラもクルスも、シェリダンに親しい人々はみんなその詳しい事情を知らない。あの時シェリダンについてバートリ領に乗り込んだのは、今は皇帝への報告とかでこの国にはいない、得体の知れない帝国宰相ハデスと、あの何を考えてるかわからないイスカリオット伯爵ジュダだけ。
 こんなことなら、せめて誰か一人、ローラかエチエンヌかリチャードか、せめて一人だけでもいいからあの時のシェリダンたちについていくべきだった。
 今更後悔しても遅いと、わかってはいるが……。
「ロゼウスが勝ったよ」
 自分の考えに没頭していたロザリーは、エチエンヌの言葉にぱっと顔を上げる。
「シェリダン様と剣の試合をして、ロゼウスが勝ったんだよ。見たところふらふらなのに、凄かったよ。あいつの剣技」
 ロゼウスの事はおいておいても、豹変したシェリダンを気にかけているエチエンヌは顔を曇らせている。今のこの城では、国王と王妃のことについては触れてはならないことが暗黙の了解のようになっているが。
 でも、私はロゼウスの妹なのよ。
「その後、日光が辛いとか言って、部屋……というか、シェリダン様の部屋に戻ったんだけど」
「日光!?」
 ロザリーは慌てて窓辺に近寄り、外の景色を確認した。雲すら浮かばない快晴。
 思わず、くらりと来た。
「ロザリー!?」
 窓辺で倒れかけたロザリーの様子に気づき、エチエンヌが駆け寄ってくる。
「ちょっ、大丈夫なの!?」
「平気……あんまり最悪な天気だから、当てられただけ」
「最悪って……」
 人間である彼には、最上の気候にしか思えないのだろう。けれどヴァンピルであるローゼンティア人は、日光に弱い。人間たちが言うほど、浴びてすぐに消えてしまうほど弱いわけではないけれど、日の光は確実に彼ら吸血鬼の力を削いでいく。だから雨の日や曇りの日、それに夜の間だけ普通のヴァンピルは活動する。
 今日は特に、陽光の強い一日。こんな天気の中、ロゼウスは屋外の訓練場で剣を振るったというのか。……きっとロゼウスだからできることだ。ローゼンティアの中でも正妃の実家であるノスフェル家は特別な血統で、ロゼウスはその血を引いている。だから、か弱そうな見かけにも関わらず、ロゼウスは兄妹の中でもずっと丈夫なのだ。
 第三王妃の娘の割には身体が強いと言われるロザリーですら今日の陽光は辛いのに、こんな中を出て行ったなんて……。
「ねぇ、エチエンヌ。ロゼウスに会わせて」
「ええ?」
「シェリダンの部屋にいるんでしょ。こっそり連れて行ってよ。お願い。だって具合悪くしてるんでしょ? ジャスパーにも会えないし、どうしてるか心配なの。せめて一目顔を見るだけでもいいから」
「ロザリー……でも」
 ロザリーの頼みごとに、エチエンヌが視線を揺らす。普段なら振り払うところだろうけど、彼も心の奥底ではシェリダンのことも、ロゼウスのことも心配しているのだ。
何しろ同じヴァンピルであるはずのロザリーが硝子越しでも倒れるほどの陽光をロゼウスはしっかりと浴びてしまっている。シェリダンの最近の様子は明らかにおかしく、ロゼウスに対する態度は異常だ。
「私たちは……一体何が起こってるのかを知らなくちゃ」
 ロザリーはエチエンヌに支えられて、くらくらする頭を押さえながら立ち上がった。
「姫」
「だってそうでしょ、エチエンヌ。あなたはシェリダンの懐刀だって言ってたじゃない。なのに何も知らされず、いいように使われるだけで、私はロゼウスの妹なのに兄に会わせてもらえない。もとからシェリダンがそういう人だったのなら別だけれど、前はそんなことなかったじゃない。今の状態は、明らかにおかしいわ。そして私たちは……当事者なのよ?」
 シェリダンとロゼウスのことは二人の問題かもしれないけれど、でも、二つの国の問題や、シェリダンがロゼウスに何か取引をして強いたことがあるならば、それはロザリーたちにも十分関わりのある問題。
「今すぐロゼウスのところに連れていけないっていうなら、まずはジャスパーのところへ連れて行って。あの子は、特別にシェリダンに嫌われてる。それって、何か知ってるからじゃないの?」
「……わかった。ちょっと待って。もしもの時のために、リチャードさんにも話通してくる」
 エチエンヌも真実を知りたいのだろう、そう言って部屋を出て行った。けれど彼は実の姉であるローラではなく、その夫で同じくシェリダン付の従僕であるリチャードの名を出した。……ローラは妄信的にシェリダンを信じているから、彼女がシェリダンを裏切る事は決してないと……。
 やがてエチエンヌがリチャードを連れて戻ってきて、ロザリーたちは地下へと向かった。ジャスパーの監禁されている牢へ。
「役立たず!」
 酷い言葉を投げつけられる。
「ジャ……ジャスパー?」
 鉄格子の向こうから怒鳴り飛ばされたロザリーを気遣って、エチエンヌがジャスパーの閉じ込められた牢から彼女を引き剥がした。
「何だよ、ロザリー姉様なんて、ずっとロゼウス兄様と一緒にいたくせにみすみすシェリダン王になんて渡して、どうして兄様を守ってくれなかったんだよ!」
 ローゼンティアにいた頃の、あの大人しい弟の言葉とも思えない。ロザリーは呆然として、その場で固まってしまった。
 リチャードが鼻薬を嗅がして……いわゆる賄賂で通してもらった牢番の男が、見かねたように忠告してくれる。
「そのヴァンピルはもう正気を失いかけているそうです」
「何だと?」
「何でも、牢から脱走しようとしてもう三人くらい見張りを殺しかけて、その血を吸おうとしたんだそうで。最近ますます酷くなってるから、極力近寄るなって陛下から言われてます」
「ジャスパー……」
 ロザリーは弟の名を呼ぶけれど、彼は病んだ瞳で睨み付けてくるだけだ。
「ロザリー」
「ロザリー姫、戻りましょう。どの道これでは、まともな話など聞けそうにありません」
「……わかったわ」
 解決しなければならない問題が増えてしまった。ジャスパーをどうにか正気に戻さないと。でもどうすればいいのかわからない。
 涙が出そうになる。
 エチエンヌもリチャードも表情を硬くして、無言で歩いている。
「姉様、アン姉様……アンリ兄様」
 兄妹の中でも優しかった二人、第一王女と第二王子の名前を思わず呼ぶ。二人がいたなら、頼りない自分たちを指揮して、この場から助け出してくれただろうに。
「駄目……しっかりしなさい。ロザリー」
 自分は王女なのだから。いくら継承問題から遠い身分でも、王族であることには代わりがない。民の命を預かる王族が、弱音を吐くなど許されないことよ。
「ロザリー」
 今、この城で一番力のあるヴァンピルはロザリーだ。彼女と同じ第三王妃の娘であるミザリーの身体能力はそれほどでもないし、ましてミカエラは病弱。ジャスパーはあの様子だし、ロゼウスは囚われの身。
 自分が、第四王女ロザリーがしっかりしなければならない。
「お願い、私をロゼウスに会わせて」
 本来ならシェリダンの側に回るべき二人に懇願する。
 リチャードとエチエンヌは顔を見合わせた後、その足をシェリダンの寝室へと向けた。

 ◆◆◆◆◆

「……ロゼ、ロゼウス」
 死んだように横たわっていた兄がロザリーの呼びかけに応えてゆっくりと目を開ける。
「……ロザリー?」
 久方ぶりに聞いたその声の力なさに、ロザリーはロゼウスの寝台の端に突っ伏した。
 ここはエヴェルシード王シェリダンの私室。けれど部屋の主である彼は今、執務のため書斎にいる。代わりのように残されているのは、ヴァンピルの力を封じる銀の枷と鎖に繋がれたロゼウスで、ロザリーはエチエンヌやリチャードの手を借りて最近は絶対近寄らせてもらえなかったここまで来た。
 一週間ほど会わなかっただけなのに、ロゼウスの消耗が一目でわかる。もともと白いヴァンピルの肌がさらに血の気を失って蒼白で、ロザリーが近付いても反応しなかったことを考えると、人の気配に気づく力も残っていないのか、気づいても顔をあげることすらできないほど弱っているのか……どちらにしろ、彼の今の状態が危険であることに代わりはない。
「ロゼウス……大丈夫?」
「ロザリー……お前こそ。こんなところにいたら、今のシェリダンに見つかったら怒られるよ……」
 青ざめてなお美しい容貌の一つ年上の兄は、掠れた声でそう言った。
「そんなの怖くなんてないわ! それよりロゼウス、あなたどうして……」
 ロザリーはロゼウスのこの姿を見て、バートリ領についていかなかったことを本当に悔やんだ。こうなることがわかっていれば、ロゼウスとシェリダンに起こった出来事なんてどうやったって止めてみせたのに……どうして、後悔が先に立ってくれないのか。
 憔悴したロゼウス、野生の獣のような警戒心むき出しのシェリダン、戸惑うエチエンヌたち側仕えの者たち、役に立たない自分。
「……帰るんだ、ロザリー」
 ロゼウスの言葉にハッとする。
「ロゼ」
「今のシェリダンは、何をするかわからない。俺はいいけど……お前は、できればエチエンヌたちの手を借りて保護してもらえ……もしジャスパーみたいに、お前まで巻き込まれたら……」
 ロゼウスだけがこんな責め苦を甘んじて受ける謂れはない。
「そうだ、ロゼウス、ジャスパーが」
 先程、地下牢の中で見た弟の豹変ぶりを伝えようと思ったのだけれど、それを今のこの、弱っているロゼウスに教えていいものかと一瞬迷った。
 その迷っている合い間に、部屋の外で物音がした。続いて、エチエンヌの止める声と、この国の王の――。
「何をしている」
 冷たい声音。氷点下の詰問。
 扉の向こうに見えるエチエンヌの顔が、止め切れなかったことを悔やむように歪んでいる。
「シェリダン……」
「ロザリーか。まあ、貴様ならあの生意気なガキと違って、これにどうこうするわけはないか」
「え?」
「だが、私のものに近付くのは許さない。例えお前であってもな」
 ロザリーがその言葉に疑問を覚える暇もなく、つかつかと歩み寄ってきたシェリダンはロザリーの腕を引き、部屋の外へと強引に連れ出す。
「シェリダン……! 待って、やめろ、ロザリーにまで酷い事は……!」
「しないさ。少なくとも、お前や第六王子にするようなことはな」
 そう言って彼はロザリーをロゼウスから引き離し、部屋の外へと放り出した。自らの腕で動きを封じるように、ロザリーの背を壁へとつけて縫いとめる。
「エチエンヌ」
「……はい」
「もういい。お前は今日は下がれ」
「陛下、でも……っ!」
「下がれ、と言っているのがわからないのか?」
「……失礼しました」
 シェリダンに捕らわれたロザリーの様子を気にはしながらも、エチエンヌはシェリダンの言葉には逆らえない。未練がましい様子ながらも、彼は国王の前を辞した。
 離れるその背中が廊下の角を曲がって視界から消えたところで、シェリダンが腕の中のロザリーへと視線を戻した。
 彼女は挑むように、その眼差しを受けとめ返す。
「どういうことよ!」
 冷静に話し合おうと思っていたのに、ついつい怒鳴ってしまう。
「ロゼウスをどうしてあんな風に閉じ込めてるの!? 何でジャスパーだけ地下牢に閉じ込めたりなんかするの!? ねぇ、最近のあなたおかしいわよ……っ、自分でもわかってるんでしょ!」
 目の前の、ロザリーより一つ年上、ロゼウスと同い年の人間の男は無表情の上、無反応だ。
「何か言いなさいよ……答えてよ、シェリダン」
 彼はローゼンティアを滅ぼし、ロザリーたちの父であるローゼンティア王を殺し、母である王妃を殺した。ロゼウスを捕らえて女装させて妻になんかして、痛めつけた。ロザリーを物としてエチエンヌに下げ渡した。
 それでも、これまでのシェリダンは筆舌尽くしがたい下衆というわけではなかった。悔しいけれど、ロザリーにもそれくらいわかっている。ロザリーたちの国が負けたのは、シェリダンだけのせいではないと。国内の貴族の寝返りと手引き。対応の遅れた父王とシェリダンの能力差。
 ただ憎めたら楽だったのに、それだけではない人。だから、ロゼウスが例え女装なんかさせられて辱められても、本人が気にしていないんだからと、ロザリーも口出しを控えていた。それなのに。
 ……駄目、泣きたくなる。
「ロザリー」
 決して泣くまいと眉間に力を込めたロザリーを見下ろしながらシェリダンがふいに名前を呼んできた。
 思わず見上げた先で、熱い感触に唇をさらわれる。
「……ん、んぅ……!」
 ロザリーの顎を片手で掬い上げ、シェリダンが自らの唇を重ねていた。滑り込んできた舌に、口内を蹂躙される。
 ロザリーはヴァンピルであり、王家でも身体能力ならロゼウスと一、二を争う。銀で魔力を封じられているわけでもないし、素手のシェリダンの力くらい、簡単に振り払えたはずなのに。
 何故かできなかった。
 やがて彼の、濡れて艶めいた唇が離れると、全身から力が抜けてずるずると壁伝いにその場にへたりこんでしまった。腰を抜かした彼女を立たせて支えながら、シェリダンが言う。
「ロゼウスと同じ顔の妹か」
 今まではなんでもなかった、むしろ誇りだったはずのその言葉に痛みを覚え。
「……いっそ彼ではなく、お前の方を愛せたら楽だったのに」
 その台詞に、心臓が跳ねた。
「シェリダン……」
 まだ震える体は彼に支えられていて、ロザリーは自分より背の高い少年の、朱金の瞳を間近で見つめる。
 ローゼンティア国民はヴァンピルだから、人間とは交わらない。一部の王侯貴族は人間の国である他国とも外交政策のために顔を合わせるが、もとより婚姻で交友関係を結ばないローゼンティアの貴族の娘たちは、他国の者である人間と顔を合わせる機会など普通ない。
 それは王女であるロザリーも同じことで、必ず国内の貴族と結婚することが定められていた彼女は、皮肉にもこんなことでもなければ、人間の少年と会うはずなどなかった。
 シェリダンはロザリーの知っている誰とも違う。
 強いて言うなら表面はドラクルと似ているが、あの男はこんなに素直に心情を晒すことなど絶対にない。いつも何を考えているのかわからくて……そして他の兄や弟たちの誰とも、国内で会った貴族ともシェリダンは違う。
「……シェリダン、あなた」
 ああこの人は、本当にロゼウスが好きなんだ。
 その事実がすとんと胸に落ちてきた。首輪と手錠で拘束し、部屋に監禁して嬲るのが愛情かなんてロザリーにはわからないし、今まではそんなもの違うと思っていた。でも、ミカエラやロザリーがロゼウスに好きだと言うような、そんな気持ちとその感情は違う。
 ロザリーに今向けている、愛情と憎悪に引き裂かれて苦悶する切ない眼差しは、全てロゼウスのためのもの。そうなのね。
 聞こう聞かなくちゃと思っていたものの全てが、その葛藤の前に打ち砕かれる。
 ロザリーは当事者だと思っていた。二人の問題でもあるけれど、これは自分たちの問題でもあるのだと。そんな勘違いを一刀の下に切り捨てるような、その強すぎる感情。ただ一人に向けられる想い。
 こうして顔を合わせていても、彼の眼に映っているのは自分ではない。あの口づけは、ロゼウスへのものなのだ。
 堪えていた涙が一粒だけぽろりと零れる。
「……すまない。やりすぎた」
 我に帰ったシェリダンはばつの悪そうな顔をして、ロザリーを解放する。そして振り返らずに、ロゼウスの待つ部屋へと戻った。
「ど……して」
 どうして。
 あの口づけと眼差しで、今までただ嬲り者にしているだけかと思ったロゼウスのことを彼が本気で愛しているとわかったのに。
 何故こんなにも、胸が痛いんだろう……。