荊の墓標 14

074

 苛立ちが募る。
 先程廊下で無理に口づけたロザリーの唇の感触を思い出す。あまりにも柔らかくて、さらさらと乾いて花の香りのする唇。
 本来ならシェリダンなどよりよほど強くこの腕を振り払うのも簡単だったろうに、驚きのあまりか彼を拒絶することも忘れていた。
 ロゼウスと同じ顔の妹姫。せめて愛したのが彼女であれば、自分はもう少しは楽だったのかもしれないのに。どうせ愛されることはなくても、手に入れる事は恐らくロゼウスより容易かったはずだ。
 つい数ヶ月前まで、自分を虐待していた父を思い出す。下町から攫った娘を無理矢理犯して子を生ませ、正妃にまでした父。母が死んでも、得た子である自分を犯して、それで父は満足していたのだろうか。
 だからシェリダンは女を抱けない。もう一生女を抱かない。あの時の……カミラとのやりとりで最後だ。これ以上、この呪われた血を繋げることなど必要ない。
 しかし今となってはこうも思う。ロゼウスが女だったら良かったのに。それならば心は手に入らなくても、犯して子を生ませることができた。その体中の全てが自分のものだと刻み付けることができたのに。
 一つ年下の妹であるロザリーはロゼウスとほとんど同じ顔だ。あの顔で女性。体つきも血筋も最高のものであり、気性の荒さに目を瞑ればまさに完璧だろう。
 だけれど、シェリダンが欲しいのは花の香りの唇を持つ姫ではなく、血の味のする口づけを幾度も交わした王子。
 ロザリーを廊下に追い出してまた部屋に戻った後、シェリダンの様子がさほど変わらないのを見てロゼウスが安堵したのが憎らしい。ロザリーが無事ならば、自分には何があろうと構わないと?
「どうしたの? シェリダン、なんだかつまらなそうな顔しちゃって」
 背後からするりと伸びてきた腕がシェリダンを捕らえ、首に抱きつく。女が男にやるならばまだ愛らしい仕草かもしれないが、男が男に背後から抱きついて何が楽しいものか。
「ハデス、皇帝領に帰っていたのでは?」
「うん。帰ってた。で、今またエヴェルシードに戻って来たところだけど?」
 大陸の端から端まで一瞬で移動することのできる能力を持っている冥府の王は、寝室とは別の私室の一つでくつろいでいたシェリダンの背後に唐突に現れ、機嫌の悪い猫をあやすように首筋を撫でてくる。
「ハデス、鬱陶しい」
「酷いなシェリダンは」
 撫でる事はやめたものの、まだ身体が離れたわけではない。長椅子の背後から正面に回ってきたハデスはシェリダンの膝の上に乗り、顔を覗きこむ。
「不機嫌全開って顔してるよ、シェリダン」
「だからどうした。私の機嫌が悪いと貴様に不都合でもあるのか?」
「別に。ただ気になるじゃないか」
 飄々とした態度で額をくっつけてくる皇帝の弟の身体を鬱陶しいと振り払おうとしたところで、シェリダンはあることを思い出す。
 目の前の男は《冥府の王》、《黒の末裔》、そして。
 預言者。
「――ハデス卿、あなたにはもしかして、私たちのこれからもわかったりするのか?」
 シェリダンの言葉に一瞬こちらの出方を窺うように瞳を細めたハデスが、一拍置いてから答える。
「全部ではないけれど。……例えば、ヴァートレイト城であんなことがあるなんてのはわからなかったよ。でも、お前が下町でロザリー姫と戦って命の危機のときは見えたし、不安定なんだよ、この能力」
 不審なものを見る顔つきで彼はシェリダンの顔に触れ、瞳を覗き込んでくる。今ではもう黒の末裔と呼ばれる民族しか持ちえない不思議な漆黒の瞳で、シェリダンを……シェリダンの瞳や顔と言うより、シェリダンの心を覗き込んでくる。
「未来が知りたいの? シェリダン」
 憐れむような眼差しで、彼は言う。
「未来なんか知ってもね、一つもいいことなんてないんだよ?」
 それは幼い子どもを嗜めるような口調で、やけに真実味を帯びていた。
「それでも知りたい」
 シェリダンの唇から勝手に言葉が零れる。
「私とロゼウスの未来は、どうなっている?」
 問いかけたその言葉を予想していたかのように、ハデスは周到にその瞬間、派手さはないが端正な顔立ちから表情を消した。
「……教えてくれ。私は、ロゼウスは――」
「……言っただろう。預言者は万能なんかじゃない」
 言葉とは裏腹に彼の態度は何かを知っている者のそれで、シェリダンは咄嗟にその襟ぐりを掴む。
「何か知っているんだな!? お前は私とロゼウスのことを――」
 ハデスは答えない。それは、未来に何があることを意味するのだろう。
 シェリダンが立てた誓いの通りならいずれはシェリダンは国を滅ぼし、世界に混乱を招き、ロゼウスを道連れに死ぬ。……それが宣言どおり実行できたのなら、どれほど喜ばしいだろう。
 ロゼウス、私のロゼウス。
 なのに永遠にシェリダンのものにはならない。ドラクル王子にしろロザリーにしろ、あの男はいつもシェリダンではない誰かを見つめている。
 何故よりにもよって、こんな気持ちを抱いたのが彼に対してなのか。エチエンヌでもクルスでもジュダでもなく、どうしてロゼウスに対してでなければならなかったのか。
「教えてくれ」
 ハデスに縋るように胸元を掴んだ手が震える。
「どうすれば、ロゼウスは私のものになる……?」
 耳元でハデスが小さく嘆息した。
「本当は最初から、それが知りたかったんでしょ、シェリダン」
 ああそうだ。知りたかった。焦がれても焦がれてもどうしても手に入らないあの王子を手に入れたかった。それを知りたかった。
「そんなの、簡単じゃないか」
 甘く低く、誘うようにハデスが囁く。耳元に吐息が触れるほど唇を近づけて、言った。
「殺してしまえばいい」
 その響に心臓が飛び跳ねる。
 魂が疼くようなもどかしさと陶酔を覚える。
「……それは、もうやった」
「ローゼンティアの王子王女が生き返ったと聞いた時、それを黙っていたロゼウスに怒ってね。でもあれは本当にヴァンピルが生き返るかどうか実験の意味もあってロゼウスを本気で殺すつもりとはまた違ったんでしょ? まあ、最初は殺すつもりだったのかも知れないけど、君は彼が生き返ることを望んだんだから同じだよね。今度は違うよ」
 シェリダンの耳に唇をつけたままくすりと喉で笑うと、ハデスはさらに続けた。
「殺してしまえばいいんだよ、シェリダン王。……本当に欲しいものはね。そうすればもう他の誰も彼に触れる事はできない」
「……だが、私も触れられない」
 あの時、前に一度ロゼウスを殺した時の、何とも言えない胸の空虚さを思い返す。血のような深紅の美しい瞳が滑らかな白い瞼に閉ざされて、もう自分を見る事がないのだと思ったときの、あの焼け付くような感情。
「そうかな? 君だって触れられない? 本当にそう思う?」
 ハデスはいつの間にかその細い腕をシェリダンの肩に回して包み込み、首筋に顔を埋めながら重ねた。
「殺してしまいなよ、シェリダン。ロゼウスを犯して、殺して、また犯して、その死体を食べてしまえばいいよ」
 あの美しい肌を引き裂いて、その血を流す赤い心臓を喰らい。
「あの美しい髪も、瞳も、肌も、骨も、内臓も、皮も、何もかも全て君だけのものにしてしまえばいい。そうすればようやく、彼は君のものになる」
 細胞の一欠けらだって残さずに。
「君と彼を一つにしてしまえばいい」
 悪魔が囁くような酷薄さで微笑むと、ハデスはシェリダンから身体を離した。
「ねぇ? どうするの?」
 シェリダンは呆然として彼を見上げる。相変わらず彼は憐れむような眼差しでシェリダンを見て、そっと唇を封じた。
「たいしたことないだろう? ロゼウスを他の誰かに奪われることに比べたら、殺すくらい」
 そうか? 本当にそうなのか? 
 でも確かに、嫌だ。あの肌に自分以外の誰かが触れることも、あの瞳が自分ではない人間を映すのも。
 噛み締めた唇が破れて血の味がする。
 その錆びた鉄の香りが、ますます狂気を誘う。自分はヴァンピルでも何でもないのに……。
「私、は」
 ハデスは脱力したシェリダンを放って、部屋から出て行った。
 シェリダンはしばらく何も考えられず、何もする事ができずにその場に蹲っていた。

 ◆◆◆◆◆

 身体に力が入らない。
 あの拷問部屋からは出されたのに、最近余計に体調が悪くなっているようだ。
 銀の首輪は相変わらず嵌められたままだった。横になるたびにその冷たい金属が触れて、これが体力を削る原因の一つにもなっているのだろう。
 だけれど、それだけではないような気もする。
「……シェリダン?」
 いつものように、執務から戻ってすぐロゼウスに触れてきた少年王の名を呼ぶ。二人分の体重を受けて、寝台が軋んだ。
 あの監禁部屋からは出されたから、寝るときはいつもここだ。薄暗い牢獄とは違って、目覚める時はいつもシェリダンが側にいる。
 けれどやはりヴァートレイト城での出来事が起こる前とは違って、彼はいつ見ても、どこか苦しげな表情をしている。笑っているときでさえ、どこか悲しげだ。
 ロゼウスの頬に触れる指。
「ロゼウス……」
 片手をそのまま握りこまれ、今更抵抗なんてする気もおきないでシェリダンの好きなようにさせる。この部屋に戻ってからも拷問部屋の時と同じように、彼は様々な手段でもってロゼウスを抱いてくる。
 今宵はどんな責め苦を与える気かと一瞬身構えて、思ったよりも優しい口づけに驚き、そっと目を閉じた。
 ゆっくりと寝台に押し倒され、上にのしかかられる。
 だけれど、今日のシェリダンはそれから先にいっこうに進もうとしない。
「……シェリダン? どうしたの?」
 最近の乱暴な行為を考えれば、優しく抱いてくれるならそれはもちろん嬉しい。けれど、何かを考え込むようにロゼウスを見下ろしている彼の顔にあるのは、そんな生易しいことじゃないような気がする。
「何か、あった……?」
 体力が落ちているので、ろくに体勢を変えることもできない。そう言えばここのところ血を飲んでもいないな、と思ったら、シェリダンが傷ついた指先を差し出してきた。
 ロゼウスは白い指先を口に含み。甘く馨しいその血の味を堪能した。ふわふわと吸血の恍惚が訪れ、ふっと身体が楽になる。
 その視界に、先程シェリダンが自らの指先を傷つけるのに使った刃物の輝きが目に入った。
 彼はそれを、ロゼウスの心臓の真上で掲げている。
 朱金の瞳に、言葉で表すことの出来ないような、苦悩と葛藤が宿っていた。
「……あんたは……」
「――くっ!」
 永遠にも思える一瞬の躊躇いの後、シェリダンは刃物を寝台下の床に投捨てる。
 ロゼウスはまだふわふわとした心地のまま、それを見る。
「シェリダン」
「……も、……ない」
 短刀を投捨てた彼が、呻くように呟いた。
「殺しても、お前は私のものにはならない」
 憎んでいるかのような表情で、彼はロゼウスの首の枷を外す。
 首を絞めるなら、枷に守られていない箇所を締め上げればいいのに、今までのように。
 ふわふわとした頭でそう考えて、身を起こし、手枷も外されて自由になった腕でシェリダンを抱きしめた。
「……何故」
 彼の呟きは小さくか細く、ロゼウスにはその意味がわからない。
「なんでって……」
「何故お前は逃げない。私を殺さない。お前の力なら、いくら弱っていても私一人殺すくらい簡単だろう。殺してこの血を飲み、復讐を叶えればいい」
 どこかで聞いた台詞だ。
 ――何故そのまま、その刃で私を殺さない。
 ああ、そうだ。練兵場の闘技舞台で、ロゼウスはシェリダンに剣で勝ってその言葉を耳にした。
 そして彼に、シェリダンこそどうして自分を殺さないのかと尋ねた。でもあの時と今では、どこかシェリダンの様子が違う。
 彼は苦しげな表情のままで、ロゼウスの首筋に唇を近づけた。いつものように肌を吸うのではなく、そのまま歯に力を込める。
「うっ、あ、ああああああ!!」
 肉を食い破る感触と、激痛。肩口の皮膚を噛み千切られて、ロゼウスは久方ぶりに本当の意味で悶絶する。
 ひ弱な人間の歯で生きた肉を食い破ろうなんて、所詮は無理な相談だ。すぐに治るとはいえ、痛いものは痛い。
「痛ぅ……あ、あが」
 脂汗を浮かべて苦しむロゼウスを、口元をヴァンピルのように血で染めたシェリダンが無感動に見下ろす。その喉が上下して、わずかばかりとは言え齧り取った肉片を飲み込むのがわかった。
 殺して、しまえば。
 その相手は、本当に自分のものになるのだろうか?
 わからないけれど、シェリダンが今何をしようとしたのかぐらい、ロゼウスにもおぼろげに理解できた。
「シェリダン……今、あんた……」
 この人は自分を喰おうとした。文字通り、骨まで砕いて獣のように食い殺す気だった。
「うっ……ごほっ!」
 しかし元々食人の習慣がない人間が、正気でそんなことできるわけがない。ロゼウスの上からどいて、シェリダンは駆け出し、浴室に繋がる扉を開いた。慌ただしいその様子を、ロゼウスは動けないまま見送る。今頃は真っ青な顔をして、飲み込んでしまった血と肉片を嘔吐でもしているのか。
「……そんなに」
 そんなに、もはや言葉では表せない程度の執着を俺に抱いているのか、彼は。
 ただ殺すだけじゃ飽き足らず、その身体を喰おうなんて、まともな人間の考えることじゃない。ロゼウスたちヴァンピルや一部の魔族には人間を食べる種族もいるけれど、少なくとも人間がヴァンピルを喰らおうとするなんて話、聞いた事がない。
「……シェリダン」
 彼が消えた方向を眺めながら、ロゼウスは涙を流していた。
 身体の傷はもう治りかけている。痛みも治まって、傷口を新しい肉芽が覆い始めている。明日には傷痕も残らず完治しているだろう。
 だけど、けして癒えることがないのは心の傷。
 さんざん吐いたせいか、戻って来たシェリダンは明らかに顔色が悪かった。
 そう言えば確か明日は、彼の言っていたエヴェルシードの剣術大会ではなかったのか? 優勝者が望めば王と戦うこともあるのだという。味方が多いとは言えないシェリダンにとっては、油断の出来ない行事ではないのか?
「……っ!」
 塞がりかけたロゼウスの傷を見つめて、何も言わないまま、彼は寝台に突っ伏した。
 ロゼウスは身を屈め、その頭を抱きしめる。シーツに強く押し付けられた顔を、彼があげる様子はない。でも声は届いているはずだから、そっと耳元で囁く。
「……そんなことしなくても、俺はもう、あんたのものなのに」
 その言葉に、ぴくりとシェリダンが肩を揺らす。
「約束しただろう。俺はあんたのものになると……」
 ローゼンティア国民の命を引き換えであるその取引、契約はまだ生きているはずだ。それに最初から、ロゼウスはシェリダンを本気で拒んだことはない。できる限りの抵抗はしたことがあるけれど、ヴァンピルの本気を発揮して彼に指一本触れさせないなんて事態にはならなかったはずだ。
 兄様を愛している。
 ロザリーやミカエラにジャスパー、家族を愛している。
 だけれど、彼らの元に帰せと言った覚えはない。一番初めのときに、まだあの頃は兄妹たちが甦るという確証もなくてあまりにも辛くて苦しくて、彼らの命を返せと叫んだことはあるけれど。
 もうずっと前から、自分は……ロゼウス=ローゼンティアはシェリダン=エヴェルシードの元に。それが偽りの花嫁でも。
 ああ、俺たちはどこから狂い始めたのだろう。今となっては、その始まりが定かではない。
「……違う」
 くぐもった声で、シェリダンは俺の言葉を否定した。
「お前は一時だって、私のものになどならなかった」
 ――俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない。
「え?」
 こうして今だって毎日抱かれているけれど、それでも。
「身体だけ手に入れたところで……」
 初めはロゼウスの顔を見て、性別が男であるからとそれだけを確認して、破滅への道連れにロゼウスを見出したはずの男は言う。
「……シェリダン」
「……もういい。何をしても、殺してすら、お前は手に入らない。その命も身体も私のものなのに……永遠に私のものには、ならないのなら……」
 だから、もういい。
 震える手でロゼウスに縋り付く彼は、迷子になって泣き出す子どものように頼りない。
 やがて顔を上げた時には、多少の疲労こそあるものの、いつものエヴェルシード王シェリダンだった。
「明日は先日話した剣術大会だ。今から疲労していてはかなわないからな、今日はもう寝るぞ」
 彼は無理矢理ロゼウスを寝台に押し込み、自分も部屋着へと着替えて寝台に滑り込んだ。
「おやすみ――私の愛しい、可愛い花嫁」
 それは、まだ出会ったばかりの頃、シェリダンがこの顔でしかロゼウスを見ていなかった頃によくしていた仕草だった。