荊の墓標 14

075

「そういえばロザリー、何かおかしくない?」
「え?」
「僕、この前の牢屋で、第六王子の声、初めて聞いたよ。あの王子は、何かの理由があって口が利けなかったはずじゃあ」
「そういえば」
「ねえ」
「……一体、何があったのかしら、ジャスパー」

 それは、昨日の朝方のこと。
「ご機嫌麗しゅう、宝石王子」
 地下牢に監禁されているジャスパーの元へやってきた人影には見覚えがあった。黒い髪、黒い瞳、特徴的なその容姿の持ち主とは、人買いたちのアジトでも顔を合わせている。
「……っ!」
「ああ、そういえば、まだ声封じたままだったっけ?」
 彼が鉄格子の向こうから腕を一振りすると、ジャスパーの喉が急に楽になった。
「あ……あなた、は」
「何者かって? 帝国宰相」
 帝国とはすなわち、この世界のことだ。アケロンティス帝国。その宰相ということ、それにこの容姿。
「皇帝陛下の、弟……」
「久しぶりに声が出るようになったにしては、よく喋れるね」
「! どうして……っ!」
 何故、そんな人がここに、エヴェルシード王国にいるのか。ジャスパーのような、ローゼンティアというさほど大きくもない、吸血鬼の国という以外に特筆するところのない国の第六王子などの存在を知っているのか。
 何故彼はジャスパーが人買いに捕まったアジトでも姿を現し、ジャスパーの声をその不思議な力で封じたり解放したりするのか。彼はロゼウスとどんな関係にあるのか。何故……。
「はいはい、その辺にしてね。いくら僕でもいっぺんに答えられないから」
「心が……」
「多少は読めるけど、まあ、表面上の感情だけだよ」
 年齢はジャスパーとさほど変わらないように見えるのに、その外見を裏切る老獪な笑顔を浮かべて腕を組み、彼は口を開く。
「君の身体にある痣」
 腰の左にあるその赤い紋様をジャスパーは反射的に手で押さえた。いつの頃からかわからないけれど、ジャスパーの身体に突然現れたこの不思議な痣。彼はこの痣のことも、最初から知っているようだった。
「それはね、君がただ一人の人間のために生まれてきたという証」
 彼は鉄格子の隙間から、ジャスパーの頬へと手を伸ばす。頬に触れようとするそれを拒むために、ジャスパーは背後の壁に背中がつくまであとじさった。
「おやおや」
 しかし彼は苦笑するように小さく笑うと、あろうことか鉄格子を気にすることもなくこちらへと真っ直ぐに進んできた。鉄格子を幻のようにすり抜ける。
「!?」
「冥府の王に不可能はないんだよ。さて、これで話がしやすくなったね」
 まさしく魔術としか言いようのないもので鍵のかけられた牢の中へ入り込んできた少年は、呆然として動けないジャスパーの身体を抱き寄せる。
 背中を抱くようにしてジャスパーを膝の上に座らせ、表情を見せないまま耳元で低く囁く。
「ねぇ、ジャスパー王子。僕は君の全てを知ってるんだよ」
「何を、馬鹿なことを……」
 なまじ表情が見えないだけに見透かしたようなその含み笑いに悪寒めいたものを覚えながらも、ジャスパーは最後の矜持で強がる。
「エヴェルシードの牢番から血を吸ったんだって?」
 またすぐに変わった話題に、けれど先程の不気味な物言いを続けられるよりはマシかとのってみせる。
「ああ。牢を脱出するには必要だから」
 憎いエヴェルシード人がそれで死んだって構わない。あの忌々しいシェリダン王を殺すためなら、どれ程の犠牲を出そうとも構わない。
「ふうん。健気だねぇ……それもこれもみんな、ロゼウスに会うために」
 けれどロゼウスの名を出されて、ジャスパーの心臓がどくんと跳ねた。
「何、を……」
 カラカラに乾いた喉で呻くように言うけれど、滑らかな声で囁く帝国宰相と名乗った少年には通じない。
「言っただろう? 君の全てを知ってるって。ねぇ、ジャスパー王子。僕は君の心の中に、誰が住んでいるかも知っている」
「……っ!」
 そう言って彼は、あろうことか膝の上に抱き寄せたジャスパーの股間に手を伸ばす。
「や、やめ」
「あの時もこうやって自分で自分を慰めたんでしょう、ジャスパー王子」
 やわやわと服の上からまさぐられて、下肢に震えが走る。
「あの時って……」
「君がはじめて、尊敬していた兄の真の姿を知ってしまった日」
「……――っ」
 この人は一体どこまで知っているのか。
「思い出すよね。ローゼンティアの王城でのできごと……君は、異母兄であるロゼウスを尊敬していた」
 そう……それは、薔薇の下の秘密。
 ジャスパーはロゼウスを兄妹の中で一番尊敬していた。有能だと知れている第一王子よりも、彼と競っている第二王子よりも、その他の兄姉、弟妹たちよりも。
 第四王子と言う身分のせいでそれほど持ち上げられてもいなかったが、ロゼウスは凄かった。剣技は兄妹の中で一、二を争う実力だったし、容姿も美しい。勉強だってできたし、いざと言うときの物腰に先天的な気品があった。ジャスパーはロゼウスを尊敬していて、ロゼウスのようになりたかった。
 社交的で個性的なアンリやヘンリーのようになるのは無理だし、ミカエラやミザリーのように特に気が強いわけでもない。アンのような芸術の才能もなければ、ロザリーのような戦闘力もない。そんなジャスパーにとって、さして目立ったことをするわけでもないのにどこか人目を引かずにはいられないロゼウスは、憧れだった。憧れだと思っていた。
「でも君は、見てしまったんだよねぇ」
 あの日、一年位前のあの花曇の朝方。昼間に眠るヴァンピルにとっては、それは夜を意味する。
 ジャスパーはどうしても寝付けなくて城内を歩き回っていた。警護の兵士に見咎められない範囲と言えば兄妹たちの部屋が並ぶ同じ一角くらいで、その一室から妙な声が漏れ聞こえていた。
 音の出所はドラクルの部屋で、ジャスパーは気づかれないように薄く扉を開いて、こっそりと中の様子を窺った。長兄が起きているかどうか、その時はただそれだけを確認するつもりだった。けれど。
「ドラクル王子に抱かれるロゼウスを」
 長兄の部屋に、何故か四番目の兄もいた。当時十六歳だった第四王子ロゼウス。何故、彼が。
 ロゼウス兄様の上でドラクル兄様が……
二人のしている事がわからないほど、ジャスパーも子どもではなかった。混乱した頭でもどうにか扉を元通りそっと閉めて、一目散に自分の部屋へと逃げ帰った。
 けれど重なり合う二人の姿はなかなか脳裏から消えなかった。ロゼウスの華奢な身体をドラクルが抱いて、ロゼウスはその首に縋り付いて、白い喉をのけぞらせて、喘ぐようにドラクルの名を呼んで、綺麗な肌に汗をかいて綺麗な瞳に薄っすらと涙を浮かべながら恍惚に表情をとろけさせて、唾液で濡れた唇がつやつやと輝いていて。
 その姿を思い出して、自分は。
「感じちゃったんだよね、君は。ドラクル王子に抱かれていたロゼウスの媚態を思い出して、部屋で一人で自分を慰めたんだ。こんな風に」
 ジャスパーを膝の上に乗せたハデスが、意地悪気に手の中にジャスパーのものを握りこむ。その、痛みと快感との境目にあたるギリギリの感覚。しかし涙が出てくるのは、そのためじゃない。
「うう……」
「ロゼウスは夢にも思っていないだろうね。弟が自分に欲情してるだなんて。自分のヤってるところを見て、弟がヌいてるなんて! 君は大好きな兄上をオカズにしたんだ」
「……!」
 彼の酷い言葉にも、ジャスパーは反論できない。
 ……あの時の、ドラクルの腕の中でよがるロゼウスは、何よりも妖しく美しかった。
 憐れむように、ハデスは囁く。
「君は気づいてしまったんだね……尊敬していたはずの兄を、第四王子ロゼウスを、兄と弟としてではなく、一人の男として愛してしまっていることに」
 大好きな兄様。
 その身体も心も、自分だけのものにできたら、その笑顔も艶かしい様子も全てを自分だけのものにできたら、と……。
「絶対に手が届かないのにね」
 ハデスの言葉が、すとんと胸の中に落ちた。
「ねえ、ジャスパー王子。君がロゼウスを好きなことに、シェリダン王も気づいてるよ。だから、君をロゼウスには会わせないんだ。そのくせ、君の目の前でロゼウスを犯した」
 彼の言葉に誘導されて、胸の奥で燻っていた怒りが甦る。エヴェルシード王シェリダンは、ジャスパーにとって誰よりも憎い男だ。ロゼウスが喜んで抱かれているわけじゃないから、かつて彼との情事を繰り広げていたドラクルよりなお憎い。
「このままでは、ロゼウスは完璧に彼のものになってしまうよ? それでもいいの? 関係ない人間に遠慮なんかしてる場合じゃないんじゃない?」
 彼が言っているのは、先日ジャスパーがこの牢の見張りの兵士から血を奪ったことだろう。その気になれば食い殺すこともできたけれど、それは避けた。ある程度の量を吸血して力は順調に蓄えているけれど、ここを脱出するにはまだ後一歩届かない。……今度こそ、相手の人間を殺す気で血を奪うのでなければ。
「僕は忠告したよ」
 ハデスがジャスパーの身体を離し、もと来た時のように格子をすり抜けて外へと出る。
「じゃあね。ジャスパー王子。せいぜい頑張ることだね。大好きな兄上様をシェリダン王にとられないように」
「言われなくても」
 あんな男に、兄様を渡したりしない。僕にとって大切なのは兄様だけだ。兄様さえいれば、僕には他に何もいらない。兄様を守るのは僕の役目だ。
 彼が去ってしばらくして、今度は見知った顔が地下牢に降りてきた。大好きなロゼウスと同じ顔だけれど違う人物である彼女に、ジャスパーは復活した喉で八つ当たり気味に言葉を投げる。
「役立たず!」

 ◆◆◆◆◆

 剣術大会が始まる。
「おい、あれ、王妃様だろ?」
「それに、ヴァンピルの姫様とか王子とか」
「いつの間にあんなに増えたんだ?」
 ロゼウスは日除けのヴェールで顔を隠し、シェリダンに手を引かれるようにして国王の特別席の横へと納まった。相変わらず身体が辛く、動くのが酷く億劫だ。
 特別席と言うのは、練兵場に面した城のバルコニーだった。即席の階段が設けられ眼下が見渡しやすいように高さの作られたそこから見事な正方形に作られた闘技場を眺める事ができる。
 ミザリー、ミカエラ、ロザリー、それにエチエンヌとローラもこの場にいた。大会の間は準備に使用人たちが走り回っているから城内の警備が手薄になるという。これを機に脱出なんかさせないようにというシェリダンの配慮らしい。エチエンヌとローラは小姓と侍女の役割の他に、それを見張る意味もあるそうだ。
 バルコニーは広いので、これだけの人数が入ってもまだまだ余裕で空間があった。ロゼウスとシェリダンの席が並べられ、その両脇、シェリダンの隣にロザリー、ミカエラ、ロゼウスの隣にはミザリーがいる。こんな時でも、牢から出す方が危険だとジャスパーは呼ばれていなかった。
 幾人もの人々が慌ただしく周りを通り過ぎ、シェリダンに耳打ちをしていく。実際のところ、聴覚の鋭いロゼウスたちヴァンピルには筒抜けなのだが、侍従たちの報告は全てこの剣術大会に関することで、特に彼らに聞かせたくない話と言うわけでもなさそうだった。
「ロゼ様? お辛そうですが、具合の方は大丈夫ですか?」
 ローラが小さく尋ねてくるが、ロゼウスは薄いヴェールの向こうで苦笑を返す。日除けの黒いドレスに、顔を覆う黒いヴェールだがその布地は薄い。今にも破れそうなレースで出来ているので周りの景色も見えるし、相手からもちゃんとロゼウスの表情がわかるはずだ。
「辛いって言っても、城の中に戻してくれるわけじゃないんだろ? ならいいよ」
 ローラは困ったように眉を下げて、失礼しましたと背後に控える。
 その後、しばらくして闘技場を設置する使用人たちの行き来がなくなったと思った頃に、鐘が鳴った。
 シェリダンが立ち上がり開会の口上を述べ、大会が幕を開ける。
「始まるぞ」
 身体を支えるのが辛いロゼウスは、シェリダンにもたれるようにして席についた。
 舞台の上では審判と、一試合目の出場選手が姿を現した。
「リチャード……?」
「ああ、そうだ」
 見知った顔が選手として現れたのを見て、ロゼウスは思わず声をあげる。体がだるいのでぼんやりとした様子に見えるらしいが、そのくらいはわかる。
「王の御前試合だからな、大抵の出場者は貴族だが、それでは面白味がないし、貴族に手練がいない場合、無能な者たちばかりを集めて試合をさせても意味がない。そこで、貴族は様々な牽制の中で出場者を決め、平民と奴隷には予選を設けて勝ち残った者を試合に出すようにしている」
 そして厳選された出場者だけが舞台に上がるのだと言う。貴族でも一応の予選はあるらしく、金と権力に物を言わせて出場しようとした者は、金と権力とさらに強さを兼ね備えた者に落とされるのがオチだという。
「とは言ってもリチャードの奴はリヒベルク家を再興させる気はないらしく、毎回平民と奴隷に交じって予選を勝ち抜いて出場する」
 見慣れた青年が、いつもの従僕の格好に剣を持って立っている。対戦相手は貴族らしくぴかぴかの鎧をつけているだけに、落差が激しい。
「エヴェルシードに、無能の大貴族などいらない。この大会の成績如何で爵位が一つ上がることもあるから、出場者は必死だ。大貴族に腕利きの剣士がいない場合は、他の候補に抜かれる場合もあるからな。だが」
 シェリダンは顔を舞台の隅に描かれた対戦表へと移す。そこにはエヴェルシードに来て日が浅いロゼウスにもわかる名前がずらずらと並んでいた。
 腕さえ立てば平民だろうが奴隷だろうが、働きによって爵位を授けるエヴェルシード王国。
 しかし今回の剣術大会の対戦表にしっかりと記された名前の人物が、平民が優勝するのを阻止しているのだと言う。
「バートリ公爵があのエルジェーベトである限り、それ以外の貴族が勝ちあがってくることはないからな」
「あの人……そんなに強いのか」
「ああ、強い。ここ七年、初めて出場してからエルジェーベトはずっと負けなしだ。準優勝や三位は組み合わせの悪さによって左右されるが、決勝だけはそうも行かない。例えそれまでにどんな相手と当ったところで、最後に勝てばそこで優勝なのだから」
 大会の対戦表は厳正なる抽選……つまり籤で決まるのだと言う。
「五年ほど前だかに、二年連続で優勝を掻っ攫ったエルジェーベトを潰そうというバカ貴族たちの目論見があったらしい」
「そんなことまかり通るものなの?」
「全員で示し合わせたという。一人でも反対する者がいればそんなことにはならなかったのだろうが……十四ではクルスはまだ出場していないし、イスカリオットは悪ノリしてな、貴族たちに協力したらしい」
「それで?」
「エルジェーベトは雑魚を倒す時となんら変わらない余裕の表情で優勝台に昇った」
「……だろうな」
 姑息な手段で勝ちを攫えると思っているような貴族に、バートリ公爵エルジェーベト卿は負けてやるほど親切ではない。
「この七年、最高の武闘家の称号はエルジェーベトのものだな。セワードも三年前に一度出場したが、エルジェーベトに負けた。あの時は白熱したな」
「そうか」
 ロゼウスは気のない相槌を打つに留めた。そのセワード将軍が何故今回の大会に出てこないか、その理由はわかっているからだ、彼はローゼンティア侵攻の最高責任者であるから、まだ向こうの支配に時間をとられてこんな大会に出場している余裕がないのだ。
「勝者! リチャード=リヒベルク!」
 雑談を交わしている間に、あっさりと第一試合は終わってしまった。リチャードの圧勝だったらしい。闘技場周囲の観客たちから歓声が上がる。
 従僕のお仕着せに染み一つ、ほつれひとつ残さずにリチャードは悠々とした足取りで控え室に帰還する。一度、こちらへと視線を向けた。ロゼウスの背後に控えるローラを見たのだろう。
「それでは、第二試合の出場者前へ!」
 そして次こそ、その最強と名高いエルジェーベト卿の出番だった。