079
クルスが実父クロノスを打ち破り、決勝戦はエルジェーベト対クルスという組み合わせとなった。
ここで二度目の休憩が入り、シェリダンたちもまた観覧席から離れ部屋へと下がる。
「ついにクルスが父を超えたか」
「来てしまいましたね。新しい時代が」
エルジェーベトに負けて今日の試合は全て終わったイスカリオット伯爵ジュダも休憩の最中こちらへと顔を出しに来た。
「本日の主役のご登場ですよ」
エチエンヌの案内で当事者であるクルスとエルジェーベトがここまで上がってきた。わざわざ三階にあるこの部屋まで上がるのは面倒だろうに、真面目な臣下だ。
ついでにエルジェーベトが来た途端ミザリーとロザリーがそそくさと部屋の隅に避難したが、気にしないことにする。さらに言えばシェリダンは、エルジェーベトを呼ぶ役目はいつもエチエンヌに任せる。同じ顔でもここはローラにさせてはいけない仕事だ。
「大健闘したな、クルス」
「陛下、父を越えまして正式にユージーン侯爵の称号を継ぎ、これからも末永く陛下の剣となるべく精進いたします」
長椅子に座ったままのシェリダンの目前に来て跪き、手をとって彼は誓う。
……いつになっても、いつであってもクルスは真面目なことだ。
だから言えない。お前には。
シェリダンは破滅を望む。この国に災厄を持ち込む。末永く、という言葉が胸に突き刺さる。彼がその誓いどおりシェリダンの剣であろうとすればするほど、エヴェルシードの滅びは早まるだろう。
「陛下?」
「……なんでもない」
シェリダンは首を振り、ゆっくりとクルスの手を離した。逆の手は長椅子の隣に座るロゼウスの手を握っている。先程の休憩のように駆け出されては困るので、最初からこうして捕らえていた。
ひらひらと舞い遊ぶ移り気な蝶に紐をつけて繋ぎとめるかのように、シェリダンはロゼウスの手を握る。クルスはその意味に気づいてはいないようだが、ジュダやエルジェーベト、それにローラやエチエンヌ、リチャード、ロザリーなどはこの意味をよくわかっている。
長椅子に座り、シェリダンの肩にもたれているロゼウス。乱暴な扱いをするようになってから、以前より口数が減った。おかげで、初めからわかりやすいようでいてどこか掴みがたかった彼がますますわからなくなる。
それでも繋ぎとめたかった。シェリダンに彼が理解できなくとも。
「それにしても」
椅子の一つに勝手に腰を下ろしたエルジェーベトが、クルスを眺めてにやりと笑い告げる。
「ユージーンの坊やは本当に強くなったわねぇ」
彼女の椅子の背に腕を乗せるような形で背後に立ったジュダもその発言に乗る。
「そうですね。クルス君は幼い頃に比べて随分強くなりましたよ。今では僕でも勝てるかわかりませんね」
この二人にタッグを組んでかかられると弱いクルスは、たじろぎながら礼を言う。
「あ、ありがとうございます」
その様子からすでに決勝の勝敗は見えるような気もするのだが、今は突かないでおこう。
「でも、強いといえばそういえば第一試合の相手」
丁度良く話題が切れたところで、エルジェーベトが思い出したように髪をかきあげ口を開いた。
「あんな人、今までいたかしら? 他の奴隷と平民はここ数年の常連だけど……なんだっけ? あの一回戦の私の相手」
「アウゼンリード、ですか?」
自らの対戦相手のことすらおぼえていない様子で、エルジェーベトが口を尖らせる。この調子ではジュダ本人の目の前で、準決勝の相手は誰だったかとでも言い出しかねない。代わりにクルスがその名を出した。
「……単純に、年齢の問題ではないでしょうか? あの人、確かに初めて見る顔でしたけれど見たところ僕と同じかそれぐらいでしょう。それでしたら今回が初出場ということでもおかしくはないと思いますよ」
しかしそのクルスの言葉に、エルジェーベトは相変わらず気だるげな表情のまま、首を横に振った。
「いいえ、そのアウゼンリードとやら、少し毛色が違ったわ」
「と、言いますと?」
興味深そうにジュダが彼女の背後に立ったまま尋ねる。
「エヴェルシードの剣技っていうのは、だいたい荒っぽいものだし、どんなに基本に忠実に鍛えても戦場に出ればそれぞれの癖がついてしまうものでしょう、でもね、あの男の剣は綺麗だったのよ」
「綺麗?」
「そう。ちゃんとした師についてお上品に稽古を重ねればああなる感じ。そう言った剣は弱いのが通例だけど、あの子の剣はそれを正確に極めて、だからそれなりの実力を持っている、というところ。あれは自己流を決めた市井の人間の戦い方じゃないわよ」
一回戦第二試合を思い出す。エルジェーベトの対戦相手、アウゼンリード。確かに見ない顔だった。
そういえばあの試合の最中、何かがあったような……しかし、よく覚えていない。
「まぁ、どうせ今日はもう試合には出てこないんだけど」
「でも、腕が立つ相手とわかっているなら、今から声かけをしておくべきではないのですか?」
エヴェルシードでは、優秀な軍人を多く募る。大抵は貴族だが、実力さえあれば稀に平民も登用する。その実力を測る主な機会がこの御前試合、剣術大会だ。
しかしエルジェーベトはまたもや首を横に振った。
「腕が立つ、っていうのとはちょっと違うわね。……女の勘という言葉を使っても良いというのならあれは……そう、厄介という感じよ」
「厄介? どのように?」
「それがわからないから勘なんじゃないの」
エルジェーベトとクルスのやりとりを眺めながらシェリダンはその男の顔を思い出そうとする。
だがよくわからない。あの時は確か……別の話題をしていたのだったか。
それが、ちくりと意識のどこかを刺した。
(まさか……)
あの時はエルジェーベトのドレス姿の派手さというものに話題がずれていたが、その前に舞台を見て、ロザリーやミザリーが驚いた声をあげていた。それは何故だ。そしてそれを……。
ロゼウスが誤魔化した。
「っ……」
握った手に力を込めると、ロゼウスがはっとしたようにシェリダンを見つめてくる。だが何の話だかわからないという様子で、小首を傾げる。
その表情はあまりにも無防備で、逆に問い詰めようという気勢を削がれた。
「シェリダン? 何か言いたいことでも……」
「いや、ない」
シェリダンは手の力を緩め、けれどそれ以上にも増して、一本一本の指を深く絡ませる。
「くだらんことだ。気にするな」
そうくだらないことだ。誰が何をしようと、ロゼウスが何を企んでいようと。
この手をずっと握り締めておけば、失うものは何もないのだから。
◆◆◆◆◆
エルジェーベトとクルスの戦いは予想通り、エルジェーベトの圧勝で終わった。
クルスの剣の腕前は、国で敵う者も滅多にいない名手。しかし《殺戮の魔性》と恐れられるあのエルジェーベトの変則的な強さの前には敵わなかったようだ。
これで御前試合の全ての対戦が終わったと、人々はそう思っている。それは、あの玉座という特別観覧席に座るシェリダンでさえ。
「さぁ、殿下―――」
いつの間にやってきていたのか、背後の闇からハデスが声をかけた。
「ええ。わかっています」
カミラは、舞台に向かって一歩一歩ゆっくりと歩みだす。
エルジェーベトが優勝者の名誉を国王から受け、その後の試合の意志を確かめられているその時。
ざわめき出した会場内にこの姿を見せつけるように。
◆◆◆◆◆
クルスの剣の腕前は誰もが認めるところだが、さすがにあのエルジェーベトには勝てないだろうと誰もが予想するところの通りに、決勝戦はエルジェーベトが決めた。
クルスは少し悔しそうな顔をしていたが、舞台から去り際、エルジェーベトが何か声をかけていたようだ。ここまで聞こえる事はないが、それによってクルスの方もどこか自分を宥めるような雰囲気があって、全ての試合はその幕を閉じた。
閉会する前に、シェリダンは優勝者、今回の場合はエルジェーベトに声をかける。観覧席から思いきり見下ろしての会話だが、これが騎士と王との距離と祖先の誰かが決めたのだから仕方がない。
大会の優勝者には、国王と戦う権利が与えられる。そして王に勝てば、玉座を得る権利すらこの国では与えられる。だが実際にそうして玉座を奪った者はいない。これはただ王への忠誠や王の威光、そう言ったものを見せつけるだけの慣例だ。これまではそうだった。今回もそうだと思っていた。
シェリダンはバルコニーの端に立ち、今大会の優勝者であるエルジェーベトに声をかける。
眼下の舞台の中央で片膝をつく騎士の礼の姿勢をとっていたエルジェーベトは、この玉座を望むかと言うシェリダンの問に、緩く首を振って否定する。否定しようとするところだった。
ここで何もかも恙無く、全てが終了するのだと思っていた。
しかし会場から湧き上がったのは勝者に送られる祝福と興奮の歓声ではなく、不穏なざわめきだった。
「……何だ? いったい何が……」
エルジェーベトの背後から誰かが歩いて来る。纏う衣装こそ戦装束だが、体格からして女のようだ。緩く波打つ長い髪――。
バルコニーの端に立ったシェリダンの背後で、ロゼウスが重い樫の椅子をも驚きのあまり蹴倒して立ち上がる。
「……カミラっ!」
濃紫の長い髪。
「……嘘だ」
エルジェーベトから少し離れた隣に立って、シェリダンを見上げるその姿。
こちらに真っ直ぐに向けられた黄金の瞳に滾る、見慣れた憎悪。
だが、彼女は死んだはずだ。
自分が殺した。追い詰めて罠にかけ、心をずたずたに引き裂くようにして犯し、自殺に――。
そこで気づく。シェリダンはカミラが死にたくなるようなことをした。彼女が死を選んでもおかしくないほどのことをした。だから死んだと報告を聞かされた時も何ら不思議なこととは思わなかったし、事情を聞かされたらしき侍女がシェリダンにだけはカミラに触れてほしくないと拒絶した時も、それを受け入れた。
シェリダンはカミラの死体を見ていない。
国葬を上げ、喪に服しはしたがそれだけだ。
死んだとは言葉だけで伝えられたこと。
シェリダンを睨む妹の瞳にある憎悪は本物だ。霊魂など信じない。あれは生身の人間が持つ、息苦しいほどの憎悪。
偽者や何かでないことは、誰よりもシェリダンが知っている。
そしてシェリダンの背後で、半ば放心状態ながらどこか合点がいく部分があったらしいロゼウスの取り乱した声を聞く。
「カミラ……そうかっ、あの時」
お前が何かしたのか、カミラに。
もともとシェリダンの知らないところで、カミラとロゼウスは繋がっていた。二人の間に何があったのか、シェリダンはほとんど知らない。ただ彼の知らないところで心を通わせる素振りを見せた二人が気にいらず、一番残酷な形で引き裂いた。……よりにもよって、他の誰でもない二人が寄り添う光景は見たくなかった。許せなかった。
舞台上ではさすがのエルジェーベトも固まり、誰も動き出すことができない。当のカミラは衆目の前でも平然とした様子で、優雅に膝を折って一礼する。
そして口を開く。
「お久しぶりです。親愛なる兄上――エヴェルシード国王シェリダン陛下」
その声も記憶にあるものと違わない。
「カミラ……お前は、死んだはずだ」
告げてみたそれに妹は歪に笑う。口の端を酷薄に吊り上げて、シェリダンが今まで見たことのない壮絶な笑みを浮かべた。
「その通りです。そして私は冥府の国より戻ってまいりました、陛下。私の手にあるべきものをいただくために」
王城で生活していた時は華やかなドレスしか身に纏うことのなかったカミラが、今は何故かその体にぴったりとした騎士の装束を着ている。腰には剣を佩き、長靴を履いていた。
それではまるで、今から戦いに赴くようではないか。
折しもここは御前試合、王の前で剣を披露する大会の会場。
優勝者は王と、その剣で玉座を争うことができる。
「バートリ公爵エルジェーベト卿」
隣に呆然と立つ女に向けて、カミラは声をあげた。
「私と戦ってください。そうして私が勝ったら、あなたの権利を譲ってください」
「……何の」
息をすることも忘れた様子で、エルジェーベトがそれだけを問い返す。本来王族に対するべき礼を失しているが、辺りはそれどころではない。
この国の頂点に立つシェリダンが動けないのだから、他の人々も動けるわけがない。けれど彼らに指示をすることすら忘れ、シェリダンはただ眼下のやりとりを見つめて立ち尽くしていた。
「王に挑戦する権利」
カミラの声に、強く記憶が呼び覚まされる。あれは自分が言ったのだ、ロゼウスに。
――大会の優勝者が国王との試合を望み、王に勝った場合、その者には玉座が与えられるという慣わしだ。
――だって、そしたら挑戦者に負けたらあんたは……。
――だが、実際にそうして王位を剥奪された王など数えるほどしかいない。その慣習で本気で玉座を引き摺り下ろされた王もいるにはいるが、それは兄弟から継承権を奪うために直系の王族などがしかけるそうだ。
直系の王族。
正妃の娘、カミラ=ウェスト。
ああ、そうだ。彼女ならシェリダンから玉座を奪う資格がある。資格だけならば……。
「バートリ公爵!」
カミラに何を聞くにしても、まずはこの場を収めねばならない。シェリダンはこの国の王なのだから。
この茶番を終わらせなければ。
「はい! 陛下!」
我に帰ったエルジェーベトがカミラではなくシェリダンの方を見て返事をする。
「戦ってやるがいい」
「陛下!?」
辺りからいっそうのざわめきと驚愕が漏れる。
剣を握れもしないあのカミラが、エルジェーベトに勝てるわけはない。こんなくだらん茶番は早く終わらせるべきだ。大会を閉じ、カミラの身柄を押さえ、事情を聞きだす。しかしそれに至るまで、段階を踏まねばならない。どうせ今この場ですぐさま兵を動かすわけにはいかない。
「シェリダン陛下!」
「バイロンか」
バルコニーの奥から、ようやく事態を聞きつけたらしい宰相バイロンがやってきた。シェリダンはエルジェーベトに試合を始めるよう合図をしてから、部屋を飛び出して階下へと降りる。兵の指揮をするならば、現場にいなくては話にならない。
「シェリダン!」
制止するようなロゼウスの声を振り切った。
あれが本物のカミラであることを、シェリダンは心のどこかでまだ疑いたいのだ。こんな距離ではその顔を見る事はできない。シェリダンに向けられたその憎しみが本物だとしても。
だから、それを確かめるだけのつもりだった。
まさかカミラがエルジェーベトに勝つはずがないと、高を括っていたから。
もう一つの誤算。
会場へと降り立ったシェリダンが見たのは、カミラの一撃によってエルジェーベトの剣が宙を舞うその瞬間だった。