080
ああ、そうか。
これは俺の間違いだ。
「……カミラっ!」
濃紫の長い髪。黄金色の瞳。華奢な体つきを騎士の装束に包み、細剣を腰に佩いて舞台に歩いて来るその姿。
「……嘘だ」
エルジェーベトから少し離れた場所に立ち、こちらを見上げる。シェリダンが放心したように呟いた。
カミラ……カミラ=ウェスト=エヴェルシード。
だが、彼女は死んだはずだ。
ロゼウスが殺した。ロゼウスとシェリダンは共犯者だ。彼女の心を引き裂いて、死に向かわせた――。
ああ、でも。
一瞬だけシェリダンからロゼウスの方へと向けられた、その切なげな眼差し。
思い出せばイスカリオット伯の城でも彼女を見かけた。あれは見間違いでも幻でも幽霊でもなく、本当に彼女自身だったのか。
生きていたのか、カミラ。
あの時と同じように彼女は美しい。長い髪を靡かせて佇むその姿は可憐な地獄の使者のように。
ロゼウスが憎くて、ロゼウスとシェリダンが憎くて、だから甦ってきたのだろうか。
「だ、誰? ……シェリダンに似てる」
彼女に会ったことのないロザリーは、驚きながらその姿を見ている。ミカエラやミザリーも同様だ。だけれど、彼女が死んだことを知っているロゼウスやシェリダン、それにエヴェルシードの人々はそうもいかない。
「何故、カミラ様が……」
「だって、葬儀はあげられたはずでしょう?!」
エチエンヌとローラも驚愕を隠せない様子だ。二月ほど前の出来事がじわじわと甦る。
薔薇園での邂逅。他愛のないやりとりを交わすだけの逢瀬。
カミラの命を狙った刺客……あれは一体何の目的があったのか、ハデスが変化したもので――。
そこまで考えてロゼウスは気づいた。自分が彼女に何をしたのか。
――古のヴァンピルの血よ、ロゼウス=ローゼンティアの言葉に従い、目を覚ませ。
――この者に、新たな命を――。
吸血鬼の力を使って彼女に新たな命を与えた。
「カミラ……そうかっ、あの時」
ロゼウスはカミラを甦らせた。死の淵から呼び戻した。
だが、どんなに上手くやろうとも死者を呼び戻すのにはリスクが伴う。術の効力が強いほど生前の人格は保たれるが、術者の力が足りなければ、《死人返り》……意志も理性もなくしただ殺戮によって血の渇きを癒すだけの化物となる。
あの時、全身全霊を込めたロゼウスの術でカミラは甦った。見た目は、彼女にそれまでと変わったところなどなかった。
けれど、間違いなく黄泉の府から舞い戻った影響は彼女にもあったのだ。
死ねなかったのか、カミラ。
彼女が死を思うほどに追い込んだのは自分、自分とシェリダンだ。あの流れですんなり彼女がこの復讐劇を思いつくとは思えない。一度臨死の体験をして次から自分の体が吸血鬼並みの頑丈さを誇るようになったなど、普通は考え付かないだろう。
どんな思いであなたはそこに立っているのか。その細い腕に剣など似合わないのに。
「カミラ……」
かつて確かに愛し、今も好ましく想っている少女。
その彼女は、憎悪と愛情の入り混じった瞳でロゼウスを見る。そして視線をそらし、シェリダンへと目を向けた。
舞台上ではさすがのエルジェーベトも固まり、誰も動き出すことができない。当のカミラは衆目の前で堂々とした様子で優雅に膝を折って一礼する。
そして頭上のシェリダンに向けて口を開いた。
「お久しぶりです。親愛なる兄上――エヴェルシード国王シェリダン陛下」
その声も、ロゼウスの記憶にあるものと寸分違わない。鈴を転がすような可愛らしい声。
「カミラ……お前は、死んだはずだ」
シェリダンの言葉にその妹は歪に笑う。口の端を酷薄に吊り上げて、ロゼウスが今まで見たことのない凄絶な笑みを浮かべる。
「戻ってまいりました、陛下。私の手にあるべきものをいただくために」
正妃の娘であるカミラの手にあるべきもの――この国の、王冠。
折しもここは御前試合、王の前で剣を披露する大会の会場。
優勝者は王と、その剣で玉座を争うことができる。聞いたばかりじゃないか、その言葉を。
直系の王族。
正妃の娘、カミラ=ウェスト。
「バートリ公爵エルジェーベト卿」
突然出てきたカミラの言動に思考が働かない様子のエルジェーベトに、その混乱の元凶たる少女は言った
「私と戦ってください。そうして私が勝ったら、あなたの権利を譲ってください」
「……何の」
息をすることも忘れた様子で、エルジェーベトはそれだけを問い返した。公式の場、公衆の面前だというのに口調が素に戻りかけている。表向きは冷静な様子に見えても、彼女も十分混乱している証だ。
今戦ったらまずい。
「王に挑戦する権利」
今のエルジェーベトでは、カミラには勝てない。何故なら《死人返り》の者は、普通の人間よりも強靭な身体能力を得るのだ。剣技で及ばなくても、その身体能力と周囲が混乱したこの状況でなら、カミラだってエルジェーベトに勝ててしまう。
そういう意味では、一番相性の悪い相手だ。ヴァンピルの血によって素早さも腕力も上がった彼女に、元々技術こそ優れても女性であり力で劣るエルジェーベトは……。
「バートリ公爵!」
だけれど、シェリダンは鋭く眼下へ声を投げる。
「はい! 陛下!」
我に帰ったエルジェーベトがカミラから視線を外し、シェリダンの方を見上げた。
「戦ってやるがいい」
「陛下!?」
辺りからいっそうのざわめきと驚愕が漏れる。
駆け込んできたバイロン宰相と共に一言二言話した後、シェリダンは舞台の二人に合図を出してバルコニーを駆け出す。
「シェリダン!」
制止のための声をあげるが、シェリダンは振り返らない。傍目には落ち着いているように見えても、見せても、彼だって十分に動揺しているのだ。……他の誰よりも。
「待て! シェリダ――」
「駄目だよ」
軋む身体をおして慌てて後を追いかけようとしたロゼウスを、背後から羽交い絞めにするように誰かの腕が伸びる。
「駄目だよ、君は動いちゃ……ロゼウス王子。今日の舞台の主役は君じゃなくて、カミラ姫なんだから」
「ハデス――」
耳元に聞こえてきた声に、身動きを封じられる。
おかしいじゃないか、自分はだって今。椅子から立ち上がったところで、背後には誰もいなかったはずなのに。
ロザリーもミカエラもミザリーも、一様に驚いた表情で固まっている。
「駄目だよ、君たちも動いちゃ。いい子で待っていれば、君たちに悪いようにはならないからさ」
「ハデス卿! 一体何を……っ!」
「エチエンヌ、陛下に報告を――」
「君たちも動いてはダメ」
ハデスの指の一振りで、異常事態に動こうとした双子の動きが止まった。エチエンヌとローラは、糸でも、切れたようにその場に崩れ落ちた。
「エチエンヌ!」
ロザリーが悲鳴をあげる。だけれど、これだけバルコニーで騒いでいるというのに誰も駆けつけて来ないし、誰も注目なんかしない。こちらに気づかない。
「いいから黙って、大人しくしててよ」
ハデスは悠然とした表情でロゼウスたちを正面に、舞台の方へと顔を向かせる。
彼がロゼウスの身体から腕を離すと、その代わりのように黒い糸が全身に巻きついた。髪の毛のように細く、鉄のように頑丈なそれはヴァンピルであるロゼウスの力でも振り切れない。
「何……っ? ハデス、何をする気だ!?」
「まあ見てなって、すぐにわかるよ。別に君たちにとっては悪い話でもないだろうし」
ハデスの言葉に大いに不安を覚えながらも試合に目をやれば、死人返りとして超人的な力を得たカミラの剛力によって、エルジェーベトの手からその得物が弾き飛ばされたところだった。さらに彼女は、武器を失ったエルジェーベトの腹部に細剣を刺す。
舞台に朱が散った。
「バートリ公爵!?」
「エルジェーベト!」
控え室にいたクルスが名を呼んで駆けつける。ちょうどシェリダンも階下のその場所へと辿り着いたところのようだった。
クルスとジュダの二人が飛び出して、エルジェーベトの救護に駆けつける。
それを横目に、カミラは血塗られた剣を、真っ直ぐに舞台の外のシェリダンに向けた。
「さあ、殺し合いましょう。お兄様」
嬉しそうなそれはもはや疑いようもなく、禍々しい狂気の笑みだった。
◆◆◆◆◆
「さぁ、殺し合いましょう、お兄様」
その剣から滴る酷薄な紅とは裏腹に優しいとすら言える笑顔で、カミラは言った。
「カミラ……本当に」
エルジェーベトを刺した彼女は容赦も躊躇もない様子で、シェリダンに剣を向ける。
表向き向けられたのは剣でも、その奥底に潜むのは白刃よりも眩く煌めく殺意だ。
ロゼウスを愛し、シェリダンを憎む少女は今まさに己の手でその二つの願いを成就させようとしている。
階下を目指して一気に駆け下りてきたのは失敗だったか、シェリダンはエルジェーベトがどうやって負けたか見ていない。ただ、舞台に辿り着いた時には彼女の手からその得物が弾き飛ばされていた。
カミラによって流血の負傷をさせられたエルジェーベトはクルスとジュダによって手当てを受けている。細剣での攻撃だからさほど致命傷でもなさそうだ。
だが、人の心配をしている場合ではない。
カミラは自分を殺そうとしているのだから。
「……ああ、わかった」
一つ息を吸ってシェリダンは覚悟を決め、答えると共に腰の剣を抜いた。舞台の上に上がり、エルジェーベトの身体から流れた血もそのままの赤い床に立つカミラと相対する。
避けられない。逃げられない。
予想はまったくしていなかったが、一度事情を理解してしまえば、いつかは必ず来る瞬間だったのだ。
「……カミラ」
「……お前に名など呼ばれたくない!」
憎悪の眼差しで睨み付けられる。記憶にあるよりもずっと強いそれに、どうしてこの瞳を忘れられていられたのかと自分を呪う。
「シェリダン、お前など死んでしまえばいい。卑怯な手段で玉座を得た、汚らわしい男。私はお前を殺してこの国の玉座を、そしてロゼウス様を取り戻す!」
ひやり、と。
ロゼウスの名が出たところでシェリダンの首筋にもはっきりと何が突きつけられているかわかった。この冷たい刃が。カミラが自分から奪おうとしている物が何なのか。
「渡さない」
「何ですって」
「渡さない。お前にロゼウスも、この国も」
それが例えお前であっても、渡すわけにはいかない。カミラが望むのが玉座だけであれば、その資格は十分だと認めることもできたが、出てきた答がそれならば私は絶対に許す事はない。
カミラはロゼウスを愛している。ヴァンピルでなく人間ではあるが、女である彼女は間違いなく「ローゼンティア第四王子ロゼウス」に相応しい相手だ。
だけれど、今観覧席と言う名のバルコニーでこの様子を見ているはずの少年はもう、「エヴェルシード王妃ロゼ」。
あえて振り向かない。振り返りロゼウスの中に自分を拒み、カミラと共に行くことを望む光など見つけてしまっては、もう立ち上がれないから。
わかっていても見たくないものはある。今だけは目をそらし耳を塞いでそれを拒絶する。
「あれは私のものだ」
ロゼウス自身が私をどう思っていようと―――憎み嫌おうとも、あの男は私のものだ。
例え側にいることでお互いを喰らいあい壊すことしかできなくても、それでもシェリダンにはロゼウスが必要だ。
「いいだろう。カミラ=ウェスト=エヴェルシード。全力でかかってくるがいい。私も全力でお前を殺す。今度は骨となるところまで見届ける」
何故だろう。昔は確かにシェリダンはこの妹を愛していた。閉じた白黒の世界で唯一黄金の輝きを放つ彼女が眩しかった。
だがカミラ、もう私の世界にお前はいらないんだ。白と黒を越えた果てに、紡がれる深い紅を知ってしまったから。
醜い黒と人を狂わせる白の奥から流れる紅い血。それだけだ。欲しいのは、ただそれだけ。
それを奪われないためならなんだってできる。――かつて愛したお前を殺すことさえ。
「そう来なくてはね」
妹であった女は美しく、そして禍々しく笑う。
「私はあなたを殺す、殺してロゼウス様をいただく」
舞台の外で凍り付いている審判をせっついて、試合を始めさせた。
「死んで! シェリダン!」
「断る!」
一撃目を受け止めてシェリダンはそのあまりの重さに驚いた。何だこれは、手が痺れる。なるほど、エルジェーベトではこれを受けとめきれないわけだ。
先程のロゼウスの驚きようからすると、カミラがここにこうしているのは何か彼の介入の結果らしい。つまり、カミラはシェリダンもその全貌を知らないヴァンピルの秘術によって何事かの力を得たのだ。それがこれか。
腕力も速さもそれまでのカミラとは大違いだ。剣術としては洗練されたものではないが、そもそもシェリダンはこれまでカミラが剣を振るうところなど見たことがなかった。そしてその技量を補ってあまりある程に、身体能力が違う。
「ぐっ……!」
連続でただ斬りつけるだけの無茶な攻撃に圧倒される。一撃一撃が重く素早いその剣は、ついていき防ぐのがやっとというただそれだけでシェリダンを苦戦させる。
「どうしましたの? 兄上。あなたらしくもない。私ごときにそんな顔をするなんて」
爛々と黄金の瞳に殺意と悪意を光らせて、復讐姫は王を嘲笑う。シェリダンを殺すためにその手を血に染めることも厭わなくなったカミラ。相手を殺す必要はない御前試合で、得物を失ったエルジェーベトを躊躇いなく刺し貫いた。
お前に負けるわけには行かない。
「くっ!」
防戦一方の状況を回避するために足払いを仕掛けた。カミラは軽々とかわすが、その瞳に剣呑な光を湛えている。
「王ともあろう者が落ちぶれましたわね。ここは剣術大会の舞台でしょう? シェリダン」
「出場申請なしに優勝者からその権利を奪って挑んできたお前に言われたくはないな」
カミラの言う事は正論だが、やっていることの無茶さについてはお互い様だ。一度体勢を立て直し、一気に攻勢に転じる。
「ちぃっ!」
今度はカミラが苦鳴をあげる番だった。腕力を封じるなら一撃に力を込めさせなければいい。その前に、相手に反撃する隙を作らせなければいいのだ。
クルスと戦った後のエルジェーベトと違い、シェリダンはまだ体力がある。絶好調とまでは行かないが、やり方を間違えなければカミラには負けない。負けるはずがない。負けたりしてはいけない。
そのはずだった。
しかし何とか息継ぐ間もない攻撃で先手を打とうとしたシェリダンの足を、投げられた爆竹が止める。会場中で悲鳴が上がり、耳を突き刺す爆音と煙が上がった。
続いて、声が。
「ロザリー! ミカエラ! ミザリー!」
ローゼンティア王家の兄妹を呼ぶ声だ。若い男の声。その聞こえてきた方向に嫌な予感を感じて振り返れば、観覧席に人影が見える。
「っ! ロゼウス――」
薄汚れた襤褸を身に纏う、蒼い髪の青年が今まさにロゼウスの身体を抱きかかえてバルコニーから飛び立つところだった。あれは確か、一回戦でエルジェーベトと戦ったアウゼンリード。
他にも幼い顔立ちの白い髪の少年がミカエラを抱え、さらに幼い同じく白髪の少女がミザリーとロザリーの手を引いていた。そして彼らヴァンピルたちは、飛び降りて人込みに紛れ、それも抜けて一気に姿を眩ます。
エチエンヌとローラの姿が見えないことが不自然だ。
「なっ――っ!?」
何をやってる、誰か追え! あげようとしたその言葉は込み上げてきた鉄錆の味に封じられた。
「余所見も油断も禁物ですわ、シェリダン」
すぐ近くで声がする。甘い少女の声が囁く。
シェリダンの身体の中央を差す細剣の感触。灼熱感。
ずるり、と刃が引き抜かれる。
「陛下!」
クルスが悲鳴をあげた。
口元から紅い滴りが零れた。腹が熱い。
しかし、それよりも。
「クルス!」
「シェリダン様!」
「何をやってる! さっさとヴァンピルを追え!!」
「っ――!」
喉も裂けよと絶叫して指示するシェリダンの言葉に一瞬迷う姿を見せた彼は、すぐにシェリダンとエルジェーベトのことをジュダに任せて会場を抜け出した。その後姿が逃げた吸血鬼たちの跡を追うのを見て、ようやく気が抜けた。
その途端にまた襲ってくる痛み。叫んだ拍子にさらに傷口を痛めたらしく、もう立ってはいられない。白い石で作られた床を紅く汚しながら、その場に膝を突く。
「無様ね、兄上」
カミラが頭上で剣を振り上げるのがわかったが、動けない。
「そこまでにしていただきましょうか、カミラ姫」
目の前に影が差して、誰かがシェリダンとカミラの間に割り込む。その声がジュダのものだと思った瞬間、意識がふっと遠ざかった。
「どうして――」
カミラのそんな言葉を聞いたと思ったが、薄れ行く意識の中では定かではない。