荊の墓標 15

081

 俺は、その手を振りほどけなかった。

「シェリダン……カミラ……」
 ハデスの術によってその場に縫いとめられたロゼウスは、一歩も動く事ができずにその戦いを見ていた。特別観覧席、シアンスレイト城の見晴らしの良いバルコニーは御前試合を王が観覧するために最上の場所として選ばれ整えられている。
 眼下ではまさに高度な試合が行われていて、この場所はそれを眺めるに相応しい席だった。
 けれど、それはロゼウスの望みではない。できるなら今すぐここから飛び降りて、二人の争いを止めさせたい。
 かつて愛した少女と、ロゼウスを「愛している」と言った少年が戦っている。
 二人が望むのは一つの冠で、今はシェリダンの頭上にあることが正しいそれを、カミラが勝てば彼女のものにできるのだと。エヴェルシード王になりたいカミラは、シェリダンを殺して玉座を手に入れるつもりだ。
「ハデス……っ! 俺を離せ! 二人の戦いを止めさせるんだ!」
 彼の紡ぎ出した黒い糸に縛り付けられながら、ロゼウスは必死にハデスに呼びかける。
「このままじゃ、シェリダンもカミラも……」
 不用意にロゼウスが血を与えてしまったせいで、カミラの身体能力はもはやヴァンピル並だ。ただの人間であるシェリダンが持ち堪えられるのもそう長くは続かないだろう。そして彼には、退路など与えられてない。負ければカミラがエヴェルシード王の座に着く。そしてこれまでの確執を考えれば、その後彼女がするだろうことは一つ。
 それはシェリダンの抹殺だ。
 負けるという選択肢はシェリダンには与えられていない。それは彼の死を意味する。
「止めなきゃ――」
 だから、止めなければならない。誰かが――俺が。
 今、名目上この国でシェリダンについで身分があるのはロゼウスなのだ。エヴェルシード王妃。妃殿下ではなく、妃陛下という敬称がその権力を現している。王とほぼ同等の地位を持つということを。
 なのに、身体が動かない。ロゼウスよりもシェリダンよりも本当は途轍もない権力を有しているはずのハデスは何故かロゼウスを足止めするように、この場に魔術によって縫いとめている。
「止める? どうして?」
 王家の兄妹の玉座を争っての殺し合いを止めさせようと、動かない体でもがいて足掻くロゼウスを気だるげに見つめ、憐れむような微笑さえ浮かべてハデスは言い放った。
「止める必要なんてないじゃない。このままじゃ、どちらかは死ぬ。あるいは両方が。そのどんな結果になっても、君が困ることはないだろう、ロゼウス」
「な、に」
「シェリダン王が死ねばローゼンティアに有利に働く。二人が共倒れになってくれればなお有利だ。カミラ姫はヴァンピルの力の影響でこれ以上死ぬ事は無いから負けたところで失うものはないし。彼女は君が好きなんだから君を害するわけはないし。ね、君が特に介入しなきゃならない事態でもないでしょ?」
「ね、って……」
「それでも止めたいの? 言ったよね、カミラ姫は死なないって。だから本当は姫が死んだり共倒れの選択肢なんてない。結果は一つに決まっているんだ。その最初で最後にして最大の一つを、君は止めたいの?」
 カミラは死なない。不死身と言うわけでもないが、人間が通常受ける傷くらいで死んだりはしない。だから彼女がシェリダンに殺されることはない。
 ならば、あの舞台の上で死を可能性として持っているのは誰だ。
 何かを失う事がある者は。
「君は馬鹿だね、ロゼウス。こんなにされても、まだシェリダン王を助けたいの?」
「ハデス――」
「僕が知らないことなんてこの世にないんだよ、ロゼウス」
 彼は指を伸ばし、ロゼウスの胸に指を突きつける。心臓の真上に置いたその指で、見えない棘を植え込んでいく。
 黒レースのヴェールはまだ被っていたけれど、それをハデスが突きつけている指とは逆の腕でするりとはいだ。途端に、今まで鈍かった視界がはっきりとし始める。ヴァンピルの視力ではほとんど不都合もなかったが、やはりこの薄布一枚で世界がこんなにも違う。
 エチエンヌとローラはハデスによって昏倒させられている。ロザリーやミカエラ、ミザリーも動けないようだ。
 シェリダンが死ねば、この状況から解放される可能性が高い。何故ならローゼンティア侵略を行ったのはエヴェルシードでもシェリダンについていた一派だから、その逆派閥を味方につける必要のあるカミラは自然、シェリダンとは逆にローゼンティアと親政をとるはずだ。
 その第一手としてまず考えられるのは捕らえた人質、つまり王族であるロゼウスたちの解放。そしてシェリダン派であるローゼンティア残留のエヴェルシード貴族を粛清し、シェリダンとは全く違う方向で政策を進めるだろう。
 ならば、ロゼウスたちはこのまま動かない方が得策だ。わかっているから姉たちは動かない。
 シェリダンが死ねば解放される。何もかも解放されて、これまで持っていたものの一部は取り戻すことができる。
 シェリダンが死ねば――。
 改めて突きつけられたその事実に、ロゼウスは我知らず打ちのめされた。ハデスはロゼウスを愚かしい子どもでも見下ろすように見て、胸の上の指を離す代わりに手でその顎を捕らえた。彼の目を真っ直ぐに見つめさせた。
「可哀想に、ロゼウス王子。そんな格好させられて、あなたはシェリダン王の体の良い玩具にされたにすぎない」
 ロゼウスを見据える黒い瞳の酷薄なひたむきさに、ぞくりと背筋が総毛立つ。
 誰だ? 
 これは一体誰だ?
 見慣れたはずの面影が、急に掴みがたいものになる。
「ねぇ、彼を憎まないの? ロゼウス王子。無理矢理犯されて辛かったでしょ? 国民を人質に取られて何度も脅されて揺さぶられていいように弄ばれた。君には彼を憎む権利がある」
 そう。ロゼウスはシェリダンに無理矢理奪われた。踏みにじられて引き裂かれた。
 でも、どうして。
 何故今更、押さえ込んだはずのそれをよりにもよって彼に思い出させられる羽目になるのか。
「ハデス」
「なんだい? ロゼウス王子」
 自分をただのロゼウスではなく、王子と呼ぶこの少年姿の帝国宰相の声。
「あなたは誰だ」
 その瞳に確かに潜む、暗い憎悪。
「っ!」
 問を突きつけた途端彼は鼻白み、その瞬間他の人々の精神にかけられた呪縛も解かれたようだった。一早く我に帰ったロザリーが声をあげる。
「惑わされないで、ロゼウス!」
 苛立った様子のハデスが凄い剣幕で彼女を振り返り、乱暴にその髪を掴む。
「黙れっ!」
「きゃあ!」
 不意打ちにロザリーが悲鳴を上げ、ロゼウスは止めようとして自分の身体が動かないことを思い出した。この黒い戒めの糸が忌々しい。なんとか断ち切れないかと再びもがく耳に、唐突な爆竹の音が飛び込んできた。
「ああ、ようやくか――」
 ハデスがロザリーから手を離し、エチエンヌとローラを抱えて観覧席の奥へと消えた。
 会場中には、爆竹の煙で薄い煙幕が張られる。その煙を掻き分けるようにして人影が飛び込んできた。
「ロザリー! ミカエラ! ミザリー!」
 蒼い髪のアウゼンリード。いいや。
「アンリ兄上!」
 兄の声に叱咤されて、ロゼウス以外の三人は我に帰った。バルコニーに降り立ったのはアンリだけではなく、兄妹の末の二人であるウィルとエリサも一緒だった。
 ウィルはさして体格の変わらないミカエラを軽々と抱え、エリサは戸惑う二人の姉の手を引いた。最後の一人、アンリは思い切りロゼウスに抱きつき、ロゼウスを抱えあげる。不思議なことにハデスの魔力によってロゼウスを拘束していた黒い糸は、アンリに触れられた途端、すうっと溶けるように消えていった。
 そしてロゼウスの身体からは力が抜ける。これまでも限界だったのに、あの拘束から抜け出そうと随分力を使ってしまったから。
「ロゼウス! 無事だったか!」
「あ、兄上……」
 温かい腕。何の下心もない、穏やかな家族の抱擁。
「すぐに逃げるぞ! こんなところにいちゃ駄目だ!」
 九つほど年上だが外見はロゼウスとそう変わらない年齢に見える兄、アンリ。彼の手は守るように強くロゼウスを抱きしめて。
 振り解けない。
 涙が出るほどに餓えていた、この、ぬくもり。
 でも。
「に、兄様、待って、待ってくださ……」
 眼下ではまだシェリダンとカミラの戦いが続いているのだ。それを止めないと――。
「駄目だ。すぐに脱出するぞ!」
 冷静な兄はロゼウスの言う事を聞かず、すぐさまバルコニーからロゼウスを抱えて飛び降りた。他の兄妹たちも続々とその後を追ってくる。一度駆け出してしまえば、人間の足では容易に後を追えないはずだ。
「シェリダン――」
 口から零れた言葉は風に攫われて、誰の耳元にも届かず儚くなる。
 アンリの手引きにより、ロゼウスたちローゼンティアの兄妹は無事にエヴェルシード王城を脱出した。

 ◆◆◆◆◆

 そろそろいいかな。
 魔術でぱっとその場に作り出した拡声器を持って、重傷のシェリダン王に代わりこの場はハデスが収めてあげることにした。
「静まれ! 皆のもの!」
 だてに何十年も帝国宰相なんて御大層な地位についていたわけではない。このぐらいの混乱を治められない自分でもない。
「我が名はハデス=レーテ=アケロンティス! アケロンティア帝国宰相なり!」
 この世界《アケロンティス》、またの名をアケロンティス帝国を統べる皇帝デメテルの弟。
 ハデスの価値がただその一片にしかないものだとしても、その威力は絶大だ。
「こたびの最終試合、優勝者であるバートリ公爵から奪い取ったカミラ殿下を名乗る逆賊の所業によるため、王権の移行は無効となる! 会場の臣民は迅速な場の撤収に勤め、これまでよりシェリダン陛下への忠誠を一層のものとせよ!」
 都合のいいときだけ宰相の名を持ち出し、要約すれば「今回の事は忘れてさっさと帰れ」と会場中の人間に言いつけてハデスはバルコニーから降り立った。
 舞台横にいた傷を負ったシェリダンとすでに手当てのされたエルジェーベトのもとへ駆け寄り、気楽に話しかける。
「あーあ、大変そうだねシェリダン」
「ハデス……」
 腹部からどくどくと血を流しながら彼はハデスを睨み付けて来る。
「何故、ヴァンピルを止めなかった……」
「僕は別にずっとあの場にいたわけじゃないけど? シェリダン」
 傷を治しながらもさらりと嘘をついて、まだ疑う様子のシェリダンから離れてエルジェーベトの傷を癒す。エルジェーベトは礼を言って立ち上がったが、ハデスのことを不審そうに見る。
「それにもしも僕があの場にいたとして、止められると思う? 吸血鬼七人相手に」
「七人……?」
 襲撃者は三人だ。アウゼンリードの名で試合に潜り込んでいたアンリ王子、小姓や給仕として雇われていた末っ子二人のウィル王子とエリサ姫。
 しかしシェリダンは大事なことを忘れている。
「あのねぇ、シェリダン王」
 ハデスはわざと、出血のせいで思考が働かない彼が無防備に晒した心の柔らかい部分に棘を刺すように言葉を刺す。
「今までさんざん君に苛められていたロゼウス王子、それに妹姫のロザリーだってそうだよね、後の二人は来たばかりでよくわからないけれど……その彼らが、いくら国民を人質にって前提があるとは言え、君と、危険をおして助けに来てくれた他の兄妹とだったら、どちらを選ぶと思う?」
「――っ!」
 愕然とした顔でシェリダンはハデスを見つめる。いくら頭で言い聞かせても、実際に現場を見れば胸が痛いのだろう。
「ロゼウスが……私を裏切った?」
「もともと彼は君の味方じゃないしね。この機会にこれ幸いと逃げ出しても、彼を責めるのはお門違いじゃない? 逃げてほしくなかったのなら、逃げ出さないよう厳重に、鳥籠に閉じ込めておかなければいけなかったんだよ」
 傷ついた心と身体に染み込ませる言葉と言う名の毒。
「ねぇ、シェリダン、僕言ったよね」
 血の気を失ってさらに真っ白になった頬に指を伸ばし、悪意を注ぎ込む。
「誰にも渡したくないなら殺せって」
 ――どうすれば、ロゼウスは私のものになる……?
 ――そんなの、簡単じゃないか。
 ――殺してしまえばいい。
 ――殺してしまえばいいんだよ、シェリダン。……本当に欲しいものはね。そうすればもう他の誰も彼に触れる事はできない。
 あの時のやりとりを思い出し、シェリダンが震えながら目を見開く。
「諦めなよ。君の詰めが甘かったんだもん」
「……諦められるものかっ!」
 悲痛な叫びに、ハデスは気づかれないようほくそ笑む。誘導成功。
「エルジェーベト!」
「なんでしょう、陛下」
「まだ走る気力はあるか?」
「ええ。ありますとも」
 エルジェーベトは頷き、高価なドレスの布地を景気良く裂いて裾を短くする。
「クルスなら何らかの目印を残しているはずだ。それを追う」
「了解いたしました」
 二人とも腹部を刺し貫かれる重傷を負って、傷が癒えたばかりだと言うのに元気が良いことだ。
 それまでエルジェーベトの傷の手当をしてからは何をするでもなくこの現場に佇んでいたイスカリオット伯爵ジュダがハデスの方へ歩み寄りこっそり話しかけてくる。
「ああ、イスカリオット伯。カミラ姫の方は?」
「ドラクル王子が回収しました……が、どういうことですか? ハデス閣下」
「どういうことって?」
「このまま、カミラ殿下に王位を奪わせれば良かったのでは? その方が早く僕らの計画の達成になる」
 いくら年齢の割に老獪で底の読めない狂気の男だと恐れられているとはいえ、彼はまだ二十七歳だ……ドラクル王子も二十七歳だけど。
 彼らの計画は二人には十分理解できないものらしい。
「わかってないね、イスカリオット伯。こういうのは焦らしに焦らさないと駄目なんだよ。それとも君はシェリダン王を舐めてる?」
「いえ、そういうわけでは……」
「シェリダン王にも言ったけれどね、今の君も同じことだよ。今、無理に相手を手に入れたところで、本当に相手は自分のものにはならない」
 ドラクルに会ったことでロゼウスの心を揺さぶり、シェリダンはそれによって自分を見失いかけるほど激昂して、今回のカミラのことでまた二人に亀裂をもたらし、ロゼウスをシェリダンから引き離す。
「ここで終わりだなんて、まだ甘い」
 一度ならず二度までも他人がロゼウスに触れることを許してしまったシェリダンは、もう他の人間にロゼウスを渡すなんて耐えられないだろう。見事彼がロゼウスを取り戻した暁には、今度こそ誰の手にも渡らないようロゼウスを監禁するか、もしくは……。

 誰にも渡したくないのなら。
 殺せばいい。

 注ぎこんだ毒は、鮮やかにその身体を巡る。
 もともとがドラクルを愛し、ローゼンティアから無理矢理攫われてきたロゼウスのことだからシェリダンにどんな敵意を持っても不思議じゃない。その事実と、派生しうる現実がさらに二人を引き裂く。けれど人間は、逃げられれば追いたくなる。
 手に入らないものほど欲しくなる。
「これがあるからこそ、計画の達成度が高くなるんだよ、伯。シェリダン王は馬鹿じゃない。とんとん拍子だと逆に作為的なものを感じて警戒するタイプだ」
「しかし、伯」
「焦らない焦らない。まだカミラ姫の出番は終わったわけではないんだよ。シェリダン王とロゼウスが焦りのあまり自分から足を踏み外すくらい、追い詰めて追い詰めないと」
 そこまで追い詰めたのなら、後はちょっとその肩を奈落へ向けて押すだけ。
 話し合っていた彼らのもとへ、伝令の兵が駆け込んでくる。
「帝国宰相閣下」
「何だ?」
「陛下はどちらへ?」
「今は御前試合に潜り込んだヴァンピルの行方を追っている。用件は私が聞くが?」
 一瞬の躊躇いを見せた後、その兵はハデスに告げた。
「実は――……」
 ああ、ついに。
 もう一つの運命も動き出そうとしている。
 ハデスの役目は今に始まっていて、まだまだ先まで終わらないというわけか。
「わかった。そちらは私に任せてもらおうか。シェリダン王に代わって対処しよう。城の鎮静化に対してはバイロン宰相を頼むように」
「はっ……かしこまりました」
 また二、三の指示をそこいらに出して、シアンスレイトの混乱を治めるのに協力する。伝令の兵士が持ち場に戻りその姿が見えなくなってきた頃、隣に立つジュダが声を潜めて尋ねてきた。
「どうしたのですか?」
 バイロン宰相の号令によって御前試合の会場の片付けは着々と進んでいて辺りは駆け回る召し使いの姿でいっぱいだ。まだ爆竹で張られた煙幕が晴れきらず作業しにくいその中で作業する彼らは、彼らの話になど注目する暇もない。
 だから先程と同じように、なんでもないことのように告げた。
「第六王子が動き出したよ。これでさらにロゼウスを足止めできるね」
「逃がしたくせに、最初から捕まえさせる気なんだから意地が悪い」
「君もね」
 ハデスはジュダを伴って、先回りをする。アンリたちがロゼウスを連れて行く先の検討は、彼とカミラとの会話でついている。
 このために彼女には何も知らせずにいたのだ。せっかくシェリダンを刺して、今にもトドメを刺すところを止められたカミラは悔しそうだったけれど。
 しかし今のところはまだ、ハデスとドラクルの計画の範囲内。
「さぁ、舞台は整えた。役者たちも出揃った。そろそろ踊ってもらうよ」
 ロゼウス、お前にこの《世界》は渡さない。
 ジュダやドラクルの思惑は都合がいいから利用しただけ。カミラでさえも、舞台を盛りたてるための装置。哀れなヒロイン、復讐姫。
 そうして僕は、彼らを美しく、悲劇的に躍らせる――。
 それはなにもかも、ロゼウスを追い落とすための演出。
 
 さぁ、終焉への宴を始めよう。

 《続く》