荊の墓標 16

第6章 忘れ果てた痛みの先に(1)

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 これは十年以上前のこと。
 場所は故郷であるローゼンティア王城で、警護の兵を捕まえて、アンリは兄の居場所を聞いた。ドラクルに用事があったのだ。小難しいことの相談相手はやはり長兄に限る。
 長兄も何も、アンリからしてみれば兄は彼一人だけだ。ローゼンティアの兄妹は十三人。アンリは第二王子。第一王子であるドラクルだけが兄で、第一王女であるアンが同い年の姉。生まれたのは向こうの方が早いらしいが、新年と同時に皆一つ年齢があがるこの帝国では意味がない。そしてあとはみんな、アンリにとっては弟と妹。
 ローゼンティア王国第二王子、アンリ=ライマ=ローゼンティア。それが彼の名前。彼の肩書き。第二王子と言うと第一王子との継承権争いが壮絶かと思われるが、実際にはそんなこともない。何しろアンリより一つ年上の兄である第一王子ドラクルは、その能力と言い血筋と言い健康と言い、おまけに顔まで最高の男だ。彼を差し置いてアンリがローゼンティア王になるなんて、どう逆立ちしたって考えられない。
 十四、五歳ぐらいまで、アンリは確かにそう思っていた。ドラクルには敵わない。兄は完璧なヴァンピルだと。
 あの現場を見るまでは。
『なあ、ドラクル、ここなんだけど――』
 母親違いとはいえ年子の男兄弟の気安さから、アンリはノックもなしにドラクルの寝室を開けた。そこにいるとは聞いていたけれど、いなかったらかなりマヌケな図だし、何よりノックもなしに相手の部屋に入るなんて王侯貴族は普通やらない。その辺の神経の細やかさがアンリは足りないのだと普段から怒られていたが、そのせいでこの日も、彼はとんでもないものを見る羽目になった。
『アンリ?!』
 扉を開け放ったアンリの目に入ったのは、薄暗い室内に二つの人影。吸血鬼の王国ローゼンティアでは、夜が昼のようなものだ。どんなに明かりを灯してもどこか薄暗い室内に、部屋の主である第一王子と、何故か弟である第四王子がいた。
 ドラクルは同母の弟であるロゼウスを溺愛している。父王直々に弟の教育を任されて、剣術、武術は勿論学問に関しても様々なことを教えていた。二人でドラクルの部屋に篭ってよく何かをしていることもある。まだ年端もいかないロゼウスだが、何をやらせても筋はいいと、この頃から褒められていた。
 それはただの、二親血の繋がった弟への多少強すぎる愛情故だと考えていたアンリは、だからそれまで、ドラクルのロゼウスへの可愛がりようについて深く考えることなどなかった。
 その時、珍しく慌てた声をあげたドラクルと視線が合い、アンリは何の気なしに彼らの様子を見て……愕然とした。
手に抱えた書類についての相談事が頭の中から吹っ飛ぶ。
『なっ……何やってんだよ!』
 持っていた書類を取り落として、アンリは慌てて寝台に駆け寄った。その端にちょこんと腰掛けていたロゼウスを慌てて抱きあげ、ドラクルを睨む。
『ドラクル! お前、一体何をやってたんだよ!』
 アンリは見てしまった。
 何も知らないロゼウス。まだ五歳ほどの無邪気な弟に、彼と十歳も違う兄が何をしていたかを。
 ドラクルは寝台にロゼウスを腰掛けさせ、その可憐な唇を大きく開かせて自分の服の前を開き――。
 何がなんだかわからなかった。
 どう考えたっておかしいじゃないか。なんで兄が、血の繋がった弟にそんなことをさせる。それも、こんなまだ年端も行かない第四王子に。
 あれは十年も前のこと。アンリが知ってしまった、第一王子である兄と、第四王子である弟の秘め事。
 とにかくその時、アンリはその場からロゼウスを連れ出した。重要書類をドラクルの部屋の入り口に落としたまま、自分と十ほども違う弟を守るように抱きしめて、部屋へと戻った。
 腕が震えた。声が出なかった。
『アンリにいさま?』
 自分が何をされていたかも知らず、無邪気に小首を傾げて問いかけてくるロゼウスの様子が痛い。
『ロゼウス……』
 確かにこの弟は可愛らしい。成長すれば、きっと兄弟の誰も敵わないくらい美しくなるだろう。生まれもノスフェル家の出だけあって、何をやらせてもできないということがない。継承順位だって兄である第三王子ヘンリーを抜いて三位につけている。
 だけれど、その、血筋だけで言えばアンリよりもよっぽど恵まれているはずの弟が、アンリはむしょうに可哀想で仕方なかった。
 可哀想。可哀想なロゼウス。
『……もう、ドラクル兄上に近付いちゃ駄目だよ』
『どうして?』
 何度も言い聞かせたけれど、ロゼウスは聞く耳を持たなかった。あれから歳月が過ぎ、大方の予想を裏切らず愛らしさを絶世の美貌に変えて成長し、自分があの時ドラクルに何をさせられていたのかわかるようになっても、ロゼウスはドラクルに懐いていた。
 アンリにとっては不可解極まりないその様子。自分が兄の玩具にされていると知っても側を離れようとはしない、その献身とすら呼べる一途さ。
 だいたい、ロゼウスにとって兄はドラクルだけではないし、ドラクルにとっても弟はロゼウスだけではない。なのに何故、互いの存在にあんなに固執するのか。確かにドラクルはロゼウスの同母の兄で、ロゼウスは彼にとって弟だけれど、それだけでは説明できないような気がする。
 アンリは当然、あの日のことについてドラクルに詰め寄った。しかし、長兄は酷薄に笑うばかりで何も答えようとはしなかった。十六だったアンリに、十七の兄がしようとしていたことはわかったけれど、それがどんな感情の動きから来るものかはさっぱりわからなかった。
 ドラクルは何を思い、何を考えてあの時ロゼウスを弄んでいたのか。
 その答えを知ったのは、もう少し後のことだ。
 アンリの母であるマチルダ=ライマ王妃が起こした事件。王位継承権第二位のアンリを次の国王にするために、あの母は第一王子であるドラクルを亡き者にしようとした。
 けれど、その思惑の危うく犠牲となりかけたのはロゼウスだった。母が殺そうとしていたのはドラクルだったが、実際に殺されかけたのはロゼウスだったのだ。
 あの日、ドラクルは自分の部屋にロゼウスを招き寄せていた。二人には十歳の年齢差があるけれと、顔立ちだけ見ればそっくりだ。なまじヴァンピルは十代も半ばを過ぎると容姿の成長が止まって顔立ちが変わらなくなるから、外見上二人の年齢は五、六歳しか離れていない。薄暗い室内で見れば……間違えるのも無理はない。
 アンリは母が起こしたその事件で頭が痺れるように痛んでいたが、それでも見た。
 傷つけられたロゼウスを見て、ドラクルが酷薄に微笑むのを。
 ……ロゼウスが可哀想だ。
 ロゼウスがドラクルへ向ける愛は、博愛も兄弟愛も通り越してむしろ自己犠牲とすら呼べるほど強いもの。自分を甚振る兄をどうしてそこまで愛せるのか。自分を憎んでいる兄を……。
 アンリはロゼウスが可哀想で仕方ない。母親違いだとしても、あの子も自分の大事な弟だ。アンリにとってはロゼウスだけでなく、ヘンリーもミカエラもジャスパーもウィルも、みんな可愛い。
 なのに、ロゼウスはどこか違うのだ。他の彼らとは。
 幸せにしてやりたいのに、できない。だってあの子は自ら火の中に飛び込もうとする。
 ドラクルをどんなに愛したって無駄なんだよ。それは兄弟だとか男同士だとかそういうものではなくて、もっと根本的な……あの男があの男である限り、永遠に報われないものだ。
 あの現場を見てしまったあの時から、アンリにとってドラクルはただ無邪気な尊敬の対象ではなくなった。確かに彼の有能さは認める。彼の能力は自分よりよっぽど優れている。でも。
 一度汚い面を見てしまえば、ドラクルの悪い噂なんて耳に入ってくるのはすぐだった。貴族平民男女問わず、火遊びに余念がないと言われていた第一王子。
 誰よりも完璧な存在でありながら、彼は誰よりも病んでいた。そしてその痛みを、実の弟に向けていた兄。
「ロゼウス……」
 アンリは今、あの頃よりずっと成長してそれでもまだ羽根のように軽い弟を抱きしめながら、その名を呼ぶ。
「アンリ兄様」
 エヴェルシードの王に囚われの身となっていた弟は、虚ろな目でアンリを見上げた。
 あの頃よりさらに艶を増したような、いっそ凄まじいまでの美貌。だけれど、こんな風にぽろっと不安な声音を零すところは相変わらずだ。
「迎えに来たんだよ、お前を」
 ああ、どうか、お前もドラクルも、他の皆も。
 それでもどうか、幸せになってほしいんだ。