083
「ロゼウス……」
「アンリ兄様」
「迎えに来たんだよ、お前を」
ロゼウスはぼんやりと兄である第二王子を見上げた。
「ここって……」
「炎の鳥と紅い花亭!?」
どこか見覚えのある風景を見回そうとしたロゼウスが気づくより早く、ロザリーが声をあげた。二階に繋がる階段から人が降りてくる。
「意外に早かったな。誰にも見られなかったか?」
「途中で着替えたし、ばらばらに裏口から入ったから多分大丈夫」
アンリ兄上と平然と言葉を交わす男性の顔にも見覚えがある。ロザリーが悲鳴とも歓声ともつかぬ声をあげ、その人に抱きついた。
「マスター!」
「ロー、元気だったか?」
柔らかに両腕を広げて彼女を抱きとめる様子を見て、ロゼウスは思い出す。その面差しがどこかシェリダンに似たこの男性は、以前ロザリーがこの国に入り込んだとき世話になった酒場の店主で、シェリダンの叔父でもあるという話だった。
「ロー、いや、ロザリー姫と呼ぶべきか? 手紙ありがとうな。おかげでだいたいの事情はわかったよ」
「マスター、これはどういうことなんですか? どうしてアンリ兄上と……」
「拾った。まあ、つまりそういうことだ」
どういうことなのかロゼウスやミカエラ、ミザリーにはさっぱりだが、この店主とそれなりに付き合いのあるロザリーにはそれで十分伝わったらしい。
アンリが補足を入れる。
「俺たちはローゼンティアの王家の墓所で甦った後、エヴェルシードとローゼンティア国内の追っ手に追われて散り散りになった。そこまでは知ってるな? 俺とウィルとエリサは三人で国境付近をうろうろしてたんだけど、そのうち警備兵に見つかって俺が深手を負ってな。ぎりぎり王都の範囲内の街道で行き倒れてたら、フリッツさんに助けられたんだ」
ロゼウスを椅子の一つに座らせ、その隣の席に座りながら兄上は言った。
第二王子、アンリ=ライマ=ローゼンティア。何を考えているのかよくわからないと言われるドラクルとは違って、ある意味最も兄らしい兄。
優しい兄上。ロゼウスにとっては、ドラクルとはまた別の意味で、大好きな兄様だ。
彼はロゼウスを迎えに来たのだと言った……。
「おい、そっちの多分……王妃様、あんた具合が悪いのか?」
ロゼウスはまだ頭がぼんやりとしているし、相変わらず身体が辛い。その様子を見咎めたのか、フリッツと呼ばれた店主が声をかけてくる。
だけど、シェリダンに似たその顔で気遣われるのは、今のロゼウスには痛すぎた。
「なんでも……ありません」
「そうか。アンリ王子……って言うとマズいんだったか? アンリ、俺は外した方がいいか?」
「いや、不足の事態になった時対応してもらいたいし、できればここにいてくれるとありがたい。客が来たときここに人の気配がしてたのにあんたが上にいたとかになったら不自然だろ?」
「はいはい。わかったよ、人使いの荒い王子様」
「ありがとう、店主殿」
フリッツ氏はカウンター内の椅子を引いて、その中でグラスを磨き始めた。御前試合での混乱からすぐにここまで来たけれど、時刻はまだ昼間と言っていい時間帯だ。酒場であるこの店の営業時間までは、まだ十分あるらしい。
「アンリ、状況を整理してもいい?」
この現状を理解するだけでいっぱいいっぱいのロゼウスやミカエラと違い、比較的冷静なミザリーが言った。
「このシェリダン王に似た店主があの人の親戚だってことまではいいわ。その人にあなたたちが何となく拾われたってのも話の流れからわかった。だけど、シェリダン王の親戚なら何故わざわざ私たちローゼンティアに手を貸すの? それと、さっきのあの事態はどこまでがあなたたちの計画で、どこまでが予想外?」
「あ、そうだ! そういえば俺もロゼウスに一個確認しなきゃいけないことがあったんだ!」
「もう! 細かい事は後にして! とりあえず私たちにも現状を把握させてくれないといざというときすぐに動けないじゃない!」
「ご、ごめんミザリー」
アンリはミザリーより四つほど年上だが、このやりとりを見ればどちらの方が押しが強いかは推して知れる。
「とにかく、皆で情報を出し合って現状把握に努めましょう。それによって、すぐにここから移動するのか、二、三日匿ってもらってから逃げるのかも決まるでしょ!」
ミザリーの言葉により、とりあえずはそういう話の流れになった。これだけの人数がいると逆に話辛いということで、口を開くのはロゼウスとアンリ、ミザリーの三人になった。その合い間に、絶妙なタイミングでフリッツが先を促すような言葉を挟んでくれる。
「まずは最初から行きましょう。ロゼウス以外の王族、つまり私たちはエヴェルシードによって国が滅ぼされた時に一度死んだ。それをルースの手によって生き返らせてもらった」
「……その間、俺はシェリダンと取引をした。俺が人質となる代わりに、ローゼンティアの民には手を出さない、と。なんだかんだあって、ロザリーとも合流した」
ロゼウスはフリッツを見る。
「確かあなたはシェリダンの母方の叔父上で、姉君をシェリダンの父である先代王に略奪されて……」
「ああ、そうだ。俺の姉であるヴァージニアは先代ジョナス王に無理矢理城へと連れて行かれたし、それに逆らった両親は殺された。今のシェリダン王に直接どうのこうのされたわけじゃないが、それでも俺にとって王族は敵だ」
だからローゼンティア国民……エヴェルシード人にとっては敵であるロゼウスたちを助けたのだという説明にミザリーとミカエラも納得という顔をした。もともとシェリダンは即位後すぐに父王を幽閉した王であるし、エヴェルシード王家の確執に関しては多少予備知識があった。
そしてさらに話は続く。
「俺たちは甦り、でも追っ手……エヴェルシードの女公爵」
「バートリ公爵よ……そういえば、兄上、戦ったのによくバレなかったわね。まあ、あのレズ公爵は男には興味がないから……」
「そ、そうなのか? とにかくその公爵と……うちの国のカルデール公爵により、追われて散り散りになった」
「私の知るかぎりではアン姉上とヘンリーが今もカルデールの元にいるのではないかしら? 最後に見たとき、私とミカエラはバートリ公爵に、あの二人はカルデールに捕まっていて……」
「俺はエリサとウィルを連れて逃げ、いったん国境付近にまで落ち延びた。けど、途中で警備兵に見つかり、そこで深手を負ってさらに逃げたここで店主殿に助けられた」
「シェリダンのところにいた俺たちの元には……ルース姉上が来た。そしてミザリー姉様とミカエラがバートリ公爵のところにいることを教えられて、二人を迎えにバートリ領に行った」
「ちょっと待って、ルースについて、私たちも詳しいことは聞いてないわよ?」
「そういえば……ここからは話してないんだっけ」
「最近はそれどころじゃなかったし」
「でも俺たちも詳しいことは知らない。ルース姉上はシェリダンと話して……その後普通に帰ったみたい」
「帰るってどこに? ローゼンティアはもうないのよ?」
「それは……わからないけど」
ルースとシェリダンの間には、何らかの密約が交わされたと考えていいだろう。だけれど、その内容はわからない。
考えてみれば、ロゼウスたちは何も、自分たちのことなのに知らないことばかりだ。
「……とりあえず、ルースは無事ということはわかった。ドラクルは?」
「っ……」
ロゼウスはヴァートレイト城でのことを思い出す。あれは確かにドラクル兄様で……
「無事……なんだな?」
ロゼウスの顔色からどう読み取ったか、アンリはそう言った。
「そうね。あのドラクルが死ぬとは思えないわ」
「ドラクルお兄様なら、世界が滅びてもきっとぴんぴんしてます」
ミザリーに加え、口を開かないはずのエリサまでもが声を揃えて長兄のことを横に流した。しかし次のアンリの言葉に、ロゼウスとミザリーだけでなくミカエラとロザリーまでもがいっせいに叫んだ。
「じゃあ後は、メアリーとジャスパーか」
「「「「あ!」」」」
特にロザリーが頭をかきむしり、顔色を悪くして言う。
「あの子回収するの忘れてた!!」
「え?」
今度はアンリとウィル、エリサの三人が目を丸くする番だった。
◆◆◆◆◆
「どうしようロゼ、ジャスパー、シアンスレイトに置いてきちゃった……」
ロザリーとミザリー、ミカエラにロゼウスの四人は御前試合の観覧にもつき合わされたが、その頃ジャスパーは牢の中。
「ちょっと待て! ジャスパー!? いたのか、あの城に!」
エヴェルシード王の捕虜となっていたローゼンティア王族は、今日の御前試合、なんでも死んだはずのシェリダンの妹が生き返ってしかもシェリダンに試合を申し込んだとかで混乱が生じた隙に、ここにいる全員にとって兄である第二王子アンリと、末っ子のエリサとウィルによって王城から助け出された。
そこまでは良かったのだ。しかし。
「あ、兄上。ジャスパーはシェリダン王の手によって地下牢に監禁されていて……」
「何だか理由はよくわからないんだけど、御前試合の前までシェリダン王凄く機嫌悪くて、ジャスパーはその王に特に嫌われてて……」
顔色の悪いミカエラとミザリーが事態を説明しようとするも、ちゃんとした説明になってない。説明しようにも、そもそも彼らにもわからないことだらけだ。
ロゼウス。シェリダン。
ロザリーはあの時、シアンスレイト城に留め置かれていたから、今でもその詳細を知らない。二人にバートリ公爵の城で何かあったのはわかったが、肝心のその「何か」がわからない。
それまではまだ、王妃らしい体面をロゼウスに守らせていたシェリダン。なのに、あの後帰ってきてから様子がおかしくなってしまった。
本当に大事で重要なやりとりはロザリーの耳には入って来ない。……ロゼウスとシェリダンの間には、彼女は入れないから。
「監禁? どうして? いや、おかしくはないけど、でも、お前たちはああして捕虜でも賓客待遇なのになんでジャスパーだけ……」
さすがのアンリも呆然としてしまっている。首尾よく人質となっていた兄妹全員を助け出せたと思ったら、まさか一人残っていたなんて……
「兄上」
それぞれが動揺しているためにぼろぼろになりそうな場を鎮めるほど凛とした声で、ロゼウスが口を開いた。
「俺は、あの城に戻るよ」
「ロゼウス!? お前何を言って……」
アンリが血相を変える。椅子に座ったロゼウスの前に跪くような感じで、その膝に縋る。
「正気になれロゼウス! あんなところに戻ってどうするんだ!?」
「俺がいる限りは、シェリダンはジャスパーに酷いことをしないと思う」
あの王は約束は守るだろうと。
「それに俺は……シェリダンと約束をしてしまったから」
「約束?」
思わず鸚鵡返しに繰り返し尋ねてしまったロザリーに、ロゼウスが淡い微笑を浮かべて告げる。
その笑みは儚いのに、それが訴えるものは誰にも変えられない強い覚悟。
「内容は秘密」
「ロゼ」
ロザリーは今までこの世で最も美しいのは、ロゼウスのその笑みだと思っていた。でももう、あなたがそれを向ける相手は私では……私たちではないのね。
「じゃあ私もこの国に残る」
「ロザリー! あなたまで何を言い出すの!?」
「ねえさま」
ミザリーとエリサが両脇からロザリーの腕に抱きつく。
それでもロザリーは真っ直ぐ正面を……アンリの背中の向こう、背筋を正して座っているロゼウスだけを見ていた。
「だってロゼだけ王城に残すなんて心配だもの」
半分は本当。でも残りの半分は……。
「ロザリー、お前……」
何かに気づいたようにロゼウスが軽く目を瞠る。ロザリーは疚しいことをしたような、そんな気持ちで彼を見つめていた。
兄妹の中では、ロザリーが一番ロゼウスに似ている。顔だけを言うなら、それこそドラクルよりずっとロゼウスに似ているのだ。そして似ているからなのか、自分たちはいつも、お互いの気持ちがよくわかった。まるで二人で一人みたいに。
でももう、違うのね。あなたはあなたの片羽を見つけてしまった。そしてそれは……。
「ごめんね、ロザリー」
そんな切ないような顔つきで言わないで、ロゼ。私、悲しくなってしまうじゃない。
彼らを二人きりにしておきたくはない。ロザリーは理由こそ知らないけれど、ロゼウスの魂が傷ついている事は知っていた。そしてそれはシェリダンも……彼も同じ。だから二人を二人だけで放っておくのは嫌だ。目を離した途端ふっと霧のように消えてしまうんじゃないかと、そんな不安に駆られるから。
ロゼウス、シェリダン。大好きなの。
あなたたちの世界が二人で完結していても、そこに入る隙がなくても、それでも側にいたい。その深い絶望と望む破滅への、少しでも歯止めになりたいから。
おかしいとはわかってる。本当は何を犠牲にしてもシェリダンを殺してローゼンティアを再興しなきゃいけないはずなのに、でも、それでも。
「アンリ兄様」
ロゼウスが決意の瞳で、顔を兄に戻す。
「兄様たちは、ミザ姉様とミカエラ、ロザリーを連れてこのまま逃げて。……ローゼンティアを復興するも、このまま国を捨ててどこかへ潜伏するのも、兄様たちに任せるよ」
「ロゼウス!」
「俺は、この国に留まる。もしもそれによってローゼンティアに何らかの不利益が起こるなら、その時はどうぞ見捨ててください、第二王子殿下」
兄である人を殿下と呼ぶ。敬称でその名を呼ぶと言う事は、自らは同等である立場を捨てるつもりだということ。ここにいるのはローゼンティア第四王子ロゼウス殿下ではなく、ただのロゼウスだと。
「駄目だロゼウス、そんなの許さない」
アンリ兄上は青ざめて、必死でロゼウスを説得しようとする。
「ロゼウス兄様、何故そんなことを仰るのですか?」
ミカエラとミザリーもなんとかロゼウスの意志を翻そうと、彼に加勢する。
「ジャスパーの事があるから、心配なのはわかるわ。でも、一度身を隠して後からあの子を奪還しに行ってもいいと思うのだけど」
「そうですよ、兄様がわざわざこの国に残る必要なんて――」
「ミザリー姉様、ミカエラ、ウィル、エリサ、アンリ兄様」
一人一人の名を呼んで、ロゼウスは笑みを浮かべる。
「ロザリー」
ロザリーはその表情を見て、もう本当に駄目なのだと知る。今の彼は神ですら止められない。
「元気で」
離別を予告するそれはロザリーの気分を重たくし、他の皆から言葉を奪った。耐え切れなくなって俯いたロザリーの耳に、マスターの声が届く。
「……さっきから聞いてれば、一つどうしようもなく気になることがあるんだが」
シェリダンの叔父に当たるマスターは、ロゼウスに目を向けて尋ねる。
「王妃様、本当の名はロゼウスか。あんた、男なんだな」
「はい」
「それで、今ここの王族兄妹を捨てて、うちの甥のところに戻ろうとしてる」
「そうです」
「やめておけ」
「何故?」
「あれは、共に生きるということができない人間だ」
この場の誰よりもシェリダンに近く、それでいて遠い人の言葉は簡単には無視できない重みがある。それでもロゼウスは三度、首を振った。
「だから、です」
ロゼウスがシェリダンに望んでいるのは共に生きることではない。
「俺は王城に戻る。ジャスパーを解放してもらう。そしてシェリダンと……」
「駄目だ!」
もはや誤魔化すとか身を隠すとかそういう意志もなく、アンリはロゼウスの言葉を遮る勢いで叫んだ。
「俺はそんなの許さない。絶対に認めない。なあ、ロゼウス。お前、俺が一言も今のお前の格好について言わないからって、それについて気にしてないとでも思ってるのか? 俺だってこれでも王族だ。汚いことだって色々知ってるから、この様子を見ればお前があの王に何をされて、どんな目に遭わされてるかもだいたい想像がつく。あんな男のもとに、もう一秒だっていさせることはできない!」
立ち上がり彼はロゼウスを抱きしめる。アンリはとっくに気づいていたのだろう。エヴェルシードにいたローゼンティア王族の中で、ロゼウスが一番傷ついて弱っている。それが誰のせいなのかも。
「ロゼウス、俺はお前の兄で、お前は俺の弟なんだ。弟の幸せを願わない兄なんかいるもんか。あんなお前を幸せに出来ないような奴にお前を渡すなんてできない。お前は俺たちと、ローゼンティアに戻るんだ」
「アンリ兄上」
第二王子である兄の愛情は温かく、それはロゼウスにとってはいっそ痛いほどで。
その時、一陣の風と共に勢いよく扉が開いた。
「あなた方が何と言おうと、この方は返していただきます」
「エリサ!」
「ユージーン候……!」
ヴァンピルであるロザリーたちにもさほど劣らない素早さで店内に飛び込んで来たのは知った顔だった。彼は一番輪の外にいたエリサを抱え込んで、その首元に剣をつきつける。
「投降してもらいましょう、ローゼンティア王族の方々。……王妃様を返してください」