荊の墓標 16

084

「王妃様を返してください」
 クルスははっきり言って辛い。あの方に、彼を再び引き合わせるのは。
 こんな突然、誰が見ても明らかに攫われたのがわかるような形ではなく、人知れずいなくなってくれたのならどれだけ安堵することか。思いながらもこの手を止めることはできない。
 シェリダンが望んでいるのならクルスはそれを叶えねばならない。初めてお会いしたあの頃に誓ったのだから。
「ロゼウス殿下」
 クルスの呼びかけに応え、ロゼウスが立ち上がる。膝に縋るような形だったアウゼンリード……いいや、彼の恐らく染めであろう蒼い髪から覗く瞳は朱色で、耳は尖ったヴァンピルの耳です。恐らくローゼンティア王族の誰かであろう、その人を突き放して、酒場の入り口へと歩み寄ってくる。
「ロゼウス!」
 ロザリーがロゼウスに呼びかけるが、彼は真っ直ぐにクルスを見つめたままだ。それを見て、クルスも小さな少女を抱え込む腕を緩め、彼女を解放した。
 その、至高の鳩の血色の紅玉にも似た紅い瞳で射抜かれる……ロゼウスは本当に美しい人だ。けれどだからこそ、クルスは彼が怖い。
「王城に戻ってください、ロゼウス様。シェリダン様がお待ちです」
「一つだけ約束して欲しい」
「何でしょう?」
「ここにいる他の六人……それに、まだ城の地下牢にいるはずのジャスパーは解放してくれ」
「ロゼウス兄様!」
「お兄様、何を!?」
 クルスだけではなく、ロゼウスの兄弟である皆も驚いている。よくよく見れば、室内にいた二人の子どもも尖った耳と紅い目をしていて、蒼い髪で誤魔化しているとはいえヴァンピルだとわかった。この場所でエヴェルシード人は酒場の店主であるシェリダンの叔父のフリッツと、クルスだけのようだ。
「俺は、シェリダンの元に戻る。継承権上位の第四王子だ。人質扱いを考えても、俺さえいれば、満足だろう?」
「ええ。多分……」
 シェリダンに話を諮る時間はなく、継承権や人質問題はクルスはこれまで関わってこなかったので軽はずみなことは言えないが、それでもシェリダンの気持ちを考えれば……
 彼は、ロゼウスさえ側にいればいいのではないかと思う。
「ユージーン候? 約束してくれるか? ここにいる六人には……それに店主殿にも手は出さないと。それと、俺がシアンスレイト城に戻ったら弟のジャスパーを解放してほしい」
「……僕の一存では決められませんが、善処しましょう。陛下に打診してみます」
 クルスがそう答えると、ロゼウスはほっとしたような顔をした。今のシェリダンがクルスの言う事を聞いてその弟王子とやらを簡単に解放してくれるかはわからないが、ヴァンピルをあまり増やしたくないのはクルスの望みでもある。できる限りのことはしよう。
「さぁ、こちらへ、王妃様」
「うん」
 クルスは手を伸ばし、ロゼウスは頷いた。どこか怪我でもしているのか身体が辛い様子だが、外には城門を出る際警備兵から無理矢理借りてきた馬を待たせてあるので、少しの辛抱で済むだろう。伝令を走らせて後はゆっくり城へ戻ればいいのだし、この様子では彼は逃げられない上に、逃げる気もないだろう。
 けれど彼自身の意志とは関係なく、その他の人々が彼を引き止める。
「ちょっと待て! ロゼウス! お前をあそこに戻すのは許さないぞ!」
「……アンリ兄様、まだそんなことを――」
「そんなこととはなんだ! 大事なことだろ! ……ロゼウス、お前、正気なのか……ッ?!」
 アンリと呼ばれた青年がロゼウスの肩を掴んで引きとめ、二人の言い合いが始まった。ロゼウスは声を荒げるでもなく、ただ痛いような顔つきで兄王子の言う事を受けとめている。
 彼はシェリダンが、ローゼンティアから無理矢理攫ってきた王子だ。しかもいくら美しいとはいえ女装までさせて奉仕させ……人間より身体能力で優れるヴァンピルがシェリダンに勝てないはずはないのに、奇妙なほどロゼウスは従順で。
 クルスはそれが怖くて、でも嬉しくもあった。父王に虐待を受けていたシェリダンの心の中にあったのは常に憎しみで、父である先王を憎むことでしか自分を繋ぎとめられなかった彼の、新たな楔になってくれると思ったから。
 けれどクルスの最初の考えとは裏腹に、いまやロゼウスの存在はシェリダンにとってかけがえのないものになりすぎた。もう……シェリダンは、ロゼウスがいないと生きてはいけない。
 それも、愛し合っているとかお互い好きあっているとか、そういうことではないのだ。傍から見ていれば異常としか思えないほどに強い執着。傷つけて痛めつけて、そういうことでしか相手の存在を得る事ができないシェリダンを、縛り付ける頚木。
 本当は怖い。人間よりさらに強い力を持つヴァンピル。こちらの奇襲が成功したとはいえ、彼らが本性を現せばすぐにエヴェルシードなど滅ぼし返されてしまうと思う。女性であるロザリー姫にさえクルスは太刀打ちできなかった。本気になったロゼウスにも、クルスは指一本触れられないだろう。
「ロゼウス様」
 兄王子の手を振り払い、とうとう正面にやってきたロゼウスにクルスは言葉を向ける。
「どうしたんだ? ユージーン侯爵」
「……あなたは、一体何を考えておられるのですか?」
 わからない。他の誰でもない、彼の考えが。シェリダンをあまり憎んでいる様子もなく、かといって仲が良いというわけでもなさそうで……。
 ふわふわと掴みどころのない霞や霧のようで、触れれば切れてしまいそうな刃の如きシェリダンより、クルスはずっと、この外見だけはたおやかな王子が本当は恐ろしかった。
「……ヴァンピルであるあなた方をこの国に入れることに、最初僕は反対でした。だから、ローゼンティア侵攻の際も召集をかけられませんでした。実際にあなたにあって、魔族がそれほどの恐ろしい化物ではないと知っても、それでもやはり……あなたの存在は異質だ」
 あの方の腕に抱かれながら、熱く冷めた目をした王子。
 一度殺されかけたロザリー姫より、僕はあなたの方が怖い。
「あなたはシェリダン様をどう想っているのです?」
 自分は何を聞きたいのだろうか。我に帰ってももう遅く、問と言う矢は放たれた。意表を衝かれたように目を丸くしたロゼウスが、次の瞬間妖しく口の端を吊り上げる。
「どうって……あなたはそれにどう答えてほしいわけ?」
 質問に質問で返されてクルスは戸惑い、その戸惑いを見透かしたようにロゼウスは笑う。
「俺がシェリダンをどう想っていると答えたら、あなたは満足する? ユージーン侯爵クルス卿。もともとはこんな間柄で、俺と彼の間にどんな感情もあるはずないのに」
「え……」
 それでは何故、兄妹と別れてまで陛下のもとへ戻るなどと……。
「俺は……」
 けれどその答えを聞く事は叶わなかった。
「ぐっ!」
 突然、油断していた鳩尾に衝撃が来て、クルスは床に倒れこんだ。首の皮に何かが当る感覚。それが鋭い爪だと気づいた時には、もう手遅れだ。
「ジャスパー!」
 その両腕を真っ赤な血に染めた少年が、クルスの首に刃物よりも鋭い爪を突きつけていました。

 ◆◆◆◆◆

「やっと見つけた」
 すぐ下の弟はその手を血に染めていた。
「ジャスパー……お前!」
 ロゼウスが叫ぶ。ミカエラもアンリもミザリーもロザリーも、ウィルやエリサはもちろん酒場の店主も、そしてジャスパーが押さえ込んでいるエヴェルシードの貴族クルスも。
 動くことが出来ない。
「血……」
 ジャスパーの両腕を染めているのは紅い血だ。みすぼらしい格好なのにやけに派手なのは、彼の腕を中心として体中いたるところに飛び散ったその鮮烈な赤のせい。
 ジャスパーの血ではない。
 この甘く馨しい香りは……人間の。
「ジャスパー、あなた、まさか人間を殺して血を吸ったの!?」
 ミザリーが口元を押さえて叫び、ただの人間であるエヴェルシード人の二人、フリッツとクルスが顔色を失っていた。
 ジャスパーはきょとんとした顔でミザリーを見つめた。けれどふいと視線をすぐに逸らして、クルスのことも放り出した。首の後ろに思い切り手刀を叩き込まれた少年貴族が昏倒する。
「ぐっ……」
「ユージーン候!?」
 先程の言葉のせいで血を吸われると思ったのか、青い顔をしたフリッツがカウンターから駆け出して彼を支えた。ぐったりと力を失った彼とそれを支えるフリッツには見向きもせず、ジャスパーはこちらへと歩み寄ってくる。
 牢に入れられていたという通りに、まともな格好などしていない。けれどそんなことどうでもよくなるぐらい紅く紅く、第六王子は血に濡れていた。
 そして普段の大人しい態度からは及びもつかない彼の態度に首を傾げていると、その瞳に白痴じみた狂気の光が浮かんでいるのが見えた。
「ロゼウス兄様」
 甘ったるい、あまえるような声でジャスパーは呆然としていたロゼウスに駆け寄った。アンリも思わず動けず、ジャスパーを通してしまう。
「ジャスパー……どうして」
 ロゼウスは自分も血に汚れるのに構わず弟の身体を受けとめて、放心状態で呟く。
 ミカエラは喉が渇くのを感じた。吸血鬼の本能が、ジャスパーの纏いつかせる血の匂いに反応して疼き出す。
 ここに来るまでにこの弟は、一体何人殺したのか。
「おい! どういうことだ!? ロー、王子、これは……」
 フリッツが手頃な位置にいたミカエラの腕を掴み、ロザリーの名前を呼んで問いただす。しかし、彼らとて全然事情がわからないのは同じだった。
 あの大人しくて聡明で、兄妹の中で一番穏やかな性格をしていたジャスパーが何故。
「狂い始めてる」
「え?」
「あの子、必要以上に大量に人間の血を啜ったんだわ」
 人の血は彼ら吸血鬼にとって、生きるために必要な食事であり、身体を生かす糧であり、そして麻薬でもある。
 あまりにも多くの人を殺しその血を吸いすぎると、ヴァンピルの理性は狂いだすのだ。
 だからこそ彼らローゼンティア家の祖先はヴァンピルだけの国を作って、人間から離れた。ヴァンピルが《帝国》制度の確立に参加した一族でありながら、数百年前まで建国をしなかった理由がそれだ。
 そして今のジャスパーの様子は……。
「理性を手放していると……?」
「ええ。そうでなければ、あの子があんな態度とるはずないでしょ!?」
 後半は悲鳴のように、ロザリーが叫ぶ。
「兄様、兄様、会いたかった」
 当のジャスパーはと言えば、狂っているというロザリーの指摘も強ち間違いではない様子で、あれだけの返り血で身を染めながらなお幸せそうに兄王子であるロゼウスに抱きついて喋りかけている。
「もう離れない。ずぅっと兄様と一緒にいる!」
「ジャ、スパー?」
 血の匂いのする弟に抱きつかれたロゼウスは戸惑うばかりだ。当然だろう。
 これまでジャスパーがロゼウスを好きな素振りなんて、表に出す事はなかった。ミカエラやロザリーとは違って、始終ロゼウスにくっついてロゼウスと手を繋ぐ権利をとりあったりなんてすることなかったはずだ。
 恐らく誰も、ジャスパーのそんな気持ちを知らなかっただろう。これは吸血の副作用なのか? 末っ子のエリサよりも稚い仕草でロゼウスに縋りつくジャスパーは、わけのわからない言葉を連ねる。
「ずっと、ずぅっと、兄様と一緒にいる。兄様大好き。だって僕は兄様といるために……」
「やめろ!」
 突然態度が豹変したジャスパーに本能的な危機感を覚えたのか、ロゼウスが彼を突き飛ばす。
 酒場の床に尻もちついたジャスパーはまん丸く目を見開いて、ロゼウスを見上げた。ロゼウスだけを。
「どうして?」
 同じ場所にいるアンリもミカエラも、ミザリーにロザリーとウィルとエリサも目に入っていない。
「どうして、拒絶するの? ひどい。だって僕は兄様のために」
「やめろ! 俺のためにとか言うな!」
 ロゼウスが鬼気迫った様子でジャスパーの言葉の続きを拒む。頭を抱えて床に蹲った。
「だって、だって本当に……」
 兄様に突き放されたジャスパーはぽろぽろと涙を流しながらロゼウスを責める。
「やめろ、ジャスパー」
 ミカエラは背後からジャスパーの肩を掴んで振り向かせようとする。
「もう何もロゼウス兄様に言うな。一方的な愛情の押し付けなんて意味がない……」
 相手から返る愛情を当然だと思うことも、逆に全く愛情が返らなくて良いと思うことも相手を本当に想ってはいないということだ。一方通行の思いや勝手な期待と憶測がどれだけ苦しいかミカエラは知ってる。
 説得しようとしたミカエラの言葉を遮る勢いで、後からミカエラを突き飛ばす手があった。
「ミカエラ!」
「うわっ」
 押されて倒れこんだミカエラは、その手の主に文句をつけようと口を開きかける。しかしそこで、それまでミカエラがいた場所に鋭く尖らせた爪を繰り出して短く舌打ちするジャスパーの姿を見た。
「な……」
「今のあの子に何言っても駄目よ。正気を失ってるんだから、聞く耳持たないわ」
 ミカエラを突き飛ばしその腕の中に庇ったロザリーの言うとおり、ジャスパーは常の彼とは比べ物にならない低く暗い呟きをその唇に乗せた。
「僕の邪魔をする者は……僕から兄様を奪う相手は誰だろうと許さない」
「ジャスパー……」
 その深紅の瞳が爛々と澱んだ狂気の光を浮かべる。
 誰か。
 誰かあの子を止めてくれ。誰か――。
 心で祈った言葉に答えるかのように、ロゼウスが立ちあがった。腕を伸ばして一度は突き放したジャスパーを引き寄せると、口づけながら囁く。
「ロゼウス=ローゼンティアの名によって命じる。暗き狂気の血よ、眠れ――」
 一瞬、その言葉に抵抗するようにジャスパーが呟いた。
「いや……。僕は、このままで――」
 普段大人しすぎるジャスパーは、本当はずっと自分の気持ちを言えない自分が嫌いだと以前言っていた。
 だがこんなのは、本当の彼ではない。
「眠れ。《――》の名の下に」
 ロゼウスの腕の中で、かくんとジャスパーの首が揺れる。意識を失ったようだ。
「これで……」
「これで終わったというわけだねぇ」
 慌てて全員が振り返ったそこには、また新たな人影が姿を見せていた。次から次へとよく現れる。
「ハデス」
「はぁい。迎えに来たよ、ロゼウス」
 黒髪黒い瞳の少年がそう言った。