荊の墓標 16

085

「あーあ、可哀想に」
 歩み寄ってきたハデスがジャスパーの首を抱き寄せ、労わるように囁き、嬲るように呟く。
「拒絶しちゃったんだね。この子を。酷いお兄さん。彼は君だけを追ってきたのに。君だけを」
 ロゼウスの術により気を失ったジャスパーの身体はぐったりと弛緩し、なすがままハデスに抱かれている。
 ――どうして、拒絶するの? ひどい。だって僕は兄様のために……
 ――僕の邪魔をする者は……僕から兄様を奪う相手は誰だろうと許さない。
 ――いや……。僕は、このままで――。
 先程の狂乱した弟の様子を思い出す。ヴァンピルの血と魔力を押さえ込んで正気に戻したつもりだけれど、またあんな風に詰め寄られたらと思うとぞっとする。
 ジャスパーはロゼウスの弟だ。それ以外の何者でもない。
 しかし先程、彼がロゼウスを見てきた瞳は家族のものではなかった。あれは……。
「酷い男だね、ロゼウス」
「ハデス……」
 ジャスパーの身体を抱いたまま、彼の視線はロゼウスへと向けられていた。
「彼は君のために生まれてきたのに」
 ジャスパーはロゼウスのために生まれてきた。
「何を言ってる? ジャスパーがって……そんなこと……」
「ありえないって? 彼が君の異母弟だから? 甘いね。それを決めるのは人じゃなくて神だ」
 ハデスの言葉は意味深で、ロゼウスには欠片も理解できない。
 ジャスパーは第二王妃の子どもで、ロゼウスの母である正妃とは何の関係もないどころかむしろ敵対関係だ。王族にとって兄弟が増える事は利点もあるかもしれないが、継承権争いの相手が増えるのは一般的には良くないことだろう。
 なのに、ジャスパーがロゼウスのために生まれてきただって?
 兄様のために生まれてきた。
 ジャスパーはそれが言いたかったのだろうか。ロゼウスのために生まれてきたのだと。
「本当はお前だってもうわかっているのだろ? さっきこの子の力を封じるとき、なんて言ったか覚えてる?」
「俺、俺は……」
 普通ヴァンピルが血を介した魔力を使うときには誓約の言葉を述べる。
 ロゼウスの異称は《薔薇の王子》。だからロゼウス=ローゼンティアの他に、薔薇王子の名の下に……と唱えることもある。しかし。
 ――狂気の血よ眠れ。《――》の名の下に。
 ハデスに指摘されて気づく。ロゼウスはあの時いつもの名を使っていなかった。ヴァンピルが力を振るう際に鍵となるもう一つの名前。ロゼウスにとって、その名は――。
「まあ、御託はいいや」
 ロゼウスに混乱と疑惑を与えておきながら、ハデスはその言葉で続く思考を遮った。
「とにかくさぁ、シアンスレイトに戻らないと。君がいないとシェリダンがかんかんだし」
 相変わらず全身黒ずくめの得体の知れない格好をした彼は、床にジャスパーの身体を横たえるとロゼウスに向かって手を差し伸べた。
「僕の魔術だとこれだけの人数をいっぺんに運ぶのは無理だし? できれば僕か弱いからこんな大勢の吸血鬼と喧嘩なんてしたくないし? 君が大人しく戻ってくれれば一番なんだけど」
 踏み出しかけたロゼウスを、横から細い手が掴む。
 ミザリーが首を横に振り、エリサが今にも泣き出しそうな顔でロゼウスの腕に縋っていた。
 血まみれのジャスパーを抱きとめたロゼウスの腕は血に染まっている。そんな場所を掴んだら、美しい彼女たちの白い手だって汚れてしまうのに。
「ロゼウスおにいさま……」
「行っては駄目よ、ロゼウス」
 アンリも立ち上がり、ロゼウスの目を真っ直ぐに見つめた。
「ローゼンティアのことなら、これだけ王家の人間がいればなんとかすることもできる。お前一人人身御供に保身を図ったって、ちっとも嬉しくない」
「ロゼウス兄様がこちらにいるかぎり、むしろ僕たちも他のローゼンティア人も動けません。多少の犠牲はやむなしと言っても継承順位の高いあなたがその役目を果すわけには行きません」
 本来激情家であるミカエラが冷静に事実を述べる。
「ロゼウス」
 ロザリーはただ一途に彼の名を呼ぶ。最後に末の王子であるウィルが、アンリの腰から剣を抜いた。
「そこを退いてください」
 ハデスに向けて言い放つ。ウィルはこう見えても王国内でも上位の実力者だ。年齢の都合で御前試合に選手として潜り込むことはなかったようだが、アンリより本来なら彼の方が強い。
 でも彼は優しすぎるから、本当は剣など振るいたくないはずだ。
「ウィル、お前……」
「兄様が僕たちと来れないというのなら、無理矢理でも連れて帰るだけです。そのための障害は全て、排除させてもらいます」
 朱色に近い赤の瞳に決意を滾らせて、ローゼンティア第七王子ウィル=テトリア=ローゼンティアが言い放つ。
 しかし相手は、まだ幼いウィルにとってだけでなく、ここにいる全員にとっても一筋縄ではいかない相手だった。
「へぇ? 僕に剣を向けるんだ。この帝国宰相ハデス=アケロンティスに」
「帝国宰相……!?」
 その言葉に、すでに事情を知っているロゼウス以外全員が息を飲む。フリッツ店主もハデスの顔こそ見た事はあるがそこまでの事情は聞いてなかったらしく、驚きをその顔に浮かべた。
「勝てると思ってる? 《冥府の王》に」
 余裕の漂う表情を浮かべて、ハデスは腕を組む。見かけこそ少年でも皇帝の身内である彼はその何倍もの歳月を実際は生きている。たかだか十数年から二十数年生きただけのロゼウスたちが簡単に勝てる相手ではない。
 そして。
「ハデス。その必要はない」
「ロゼウス!」
「兄様!?」
 ロゼウスはジャスパーの剣を押しとどめ、ハデスの元へと歩み寄った。本当ならまだ昨夜までの被虐の影響で歩くだけで辛いのだけれど、それでも歩かねばならなかった。だって。
 シェリダンが待っているのだから。
「……いい子だ。ロゼウス」
 ロゼウスは耳元で声を潜め、他の兄妹はともかく、フリッツの耳に入らないよう囁いた。
「初めからこうして捕まえに来るなら、何故あの時俺たちを足止めし、兄上たちに逃がさせた」
「カミラ姫のために決まっているじゃないか。ああ、安心していいよ。戻るのは君だけだロゼウス。君さえいればまだもう少し時間が稼げる」
 これは演出の一環だと彼は薄く笑う。
「カミラ殿下が国王になった暁には、ちゃんと君のことも助け出してくれるだろうさ。どうせだったらそれを待てば?」
「……あんたはシェリダンの側じゃなかったのか?」
「僕はいつだって僕の味方だよ?」
 おどけた道化の振りで笑うハデスを睨みつけて、ロゼウスは酒場を後にしようとする。ハデスは意識を失って倒れているクルスを介抱に向かい、ロゼウスは先に外に出ようとした。
 けれどその腕を、もう一度だけ掴まれる。振り返れば鏡で見る自分とよく似ていて、それでもやはりどこかロゼウスよりは線が細く甘い顔立ちの妹がいた。
「私も行く!」
「ロザリー……」
「ロゼウスだけ行かせるなんて、そんなのできない! 兄上たちの方はミザリー姉様だってミカエラやウィルだっているけど、ロゼウスは一人になっちゃうじゃない!」
 妹の紅い瞳にあるのは、真摯な心配と恐れだった。そのないまぜになった複雑な感情の根源にあるものをも読み取りながら、それでもこの手を離せない。
「……わかった。一緒に行こうロザリー」
 ロゼウスは妹の背中に手を回して抱きすくめ、そのまま兄に告げる。
「兄上、他の皆をお願いします」
「ロゼウス!」
「ジャスパーのことも」
 気絶したまま床に放り出されている弟に視線を移して、アンリがはっとする。
「今の俺は……あの子と一緒にはいないほうがいいと思うから。でもジャスパーを一人で放り出すことも出来ない。カミラのことも……」
 カミラの名前が出て、アンリはさらに顔色を変える。彼らがロゼウスたちを助けに飛び出してきたのは彼女とシェリダンが刃を交し合っていた場面だったが、やはり何か関係があるのだろうか。それともアンリたちは混乱に乗じただけで何の繋がりもないのか。
 今はまだ、大事なことは何一つ話せないまま。
「それでも俺は……」
 選んでしまった。ロゼウスは兄や姉、弟妹たちではなく彼を。
「ごめんなさい、兄様。どうか、幸せに」
「ロゼウス……!」
 回復したクルスを伴ってやってきたハデスが姫君にするようにロゼウスの腕を取る。傍らのロザリーに視線を移し、仕方ないとでもいうように溜め息つきながらも頷いた。
 魔術による移動の瞬間ロゼウスは目を閉じて、再び開けたときそこは先程の『炎の鳥と紅い花亭』からさほど離れていない場所だった。
 そして、彼がいた。

 ◆◆◆◆◆

 エルジェーベトを伴い、傷はハデスに塞がれてすっかりよくなったのを幸いとシェリダンは門衛から馬を奪って城門を出た。クルスは細かく目印となる何かを残していったために、追いつくのは簡単ではなかったが難しいわけでもなかった。ユージーン侯爵兵たちはシェリダンたちが行くまで、所在なげに指示された位置で馬と共に立っていたようだ。
「この先の酒場へ向かうそうです」
「わかった」
 途中、最後の一人から聞いたその言葉に不穏な予感を覚える。城下町シアンスレイトの酒場。さほど数が少ないというわけでもないが、酒場と言われるとあの店を思い出す。
 そしてそこの店主――フリッツ=トラン=ヴラドであればシェリダンに恨みを抱いてヴァンピルと共謀したとて何ら不思議はないのだ。
「陛下、いかがいたしました?」
「何でもない。気にするな。それより――」
 足の速いヴァンピルたちを追うのに必死だったらしいクルスは、ゆっくりとした手がかりを残す余裕もなかったようで、自らが率いていた兵を途中途中の持ち場に留まらせた。それほど多くの人数を連れて行ったわけでもなかったので、途中で目印役にする人間もつきたのだろう。最後の一人だと名乗った兵が告げた言葉から推測できる酒場は二箇所ほどある。この辺りはあの時の事件の折に調べたからわかるのだ。叔父であるフリッツに会いに行き、思いがけずロザリーと出会った。
 そのどちらに向かうべきか、エルジェーベトをもう一方に向かわせる方が良いだろうと声をあげかけたところで、馬の前に突然飛び出してきた人影に気づく。
「きゃあっ!」
 よりにもよって女!? 声に動揺したシェリダンは、翻る白髪に相手を知って胸を撫で下ろす。
「ちょっと! なんてところに放り出すのよ!!」
「ごめんごめん。ちょっとした手違いってやつ?」
「危うく死ぬところだったじゃないのよ!」
 威勢よくハデスを怒鳴りつけている女はロザリーだった。彼女と、責められているハデス、そして困った顔のクルスの影に隠れた、ロザリーとよく似た顔立ちだが髪の長さが違う少年を見つめて名を呼ぶ。
「ロゼウス!」
 紅い瞳がシェリダンを捕らえて無感動に返す。
「シェリダン」
 シェリダンは馬を降り、四人に駆け寄った。何か言いたげな様子のロザリーだが結局は口を閉じて、シェリダンをロゼウスの前まで通す。
 響く、乾いた音。
「シェリダン!?」
「シェリダン様!」
 ロザリーの驚きの声と、クルスの叫び、目を丸くしたハデスの顔。そして、シェリダンに頬を打たれて横向きに俯いたロゼウスの静寂。
「陛下」
 同じように馬から下りてきたエルジェーベトが諫めるようにシェリダンを呼んだが、視線を向けなかった。ただ一人だけを見ていた。
「この期に及んで私に逆らおうとはいい度胸だ。ローゼンティアの民がどうなってもいいのならば話は別だが」
 古い、そもそもの取引を持ち出す。
 違う。そうじゃない。ただ私は……
 だが言えない。口に上りかけた言葉を飲み込む。私が欲しいのは……だがローゼンティアの人質という立場でなければ、彼を繋ぎとめておくことはできない。それさえなくなれば、ロゼウスがこの国に生きる理由も留まる理由もないのだから……私が何を言ったところで……
「ちょっとシェリダン! ロゼウスは……」
 兄に駆け寄ったロザリーがロゼウスを庇ってシェリダンを睨む。続いていつものように怒鳴りつけるのだろうと思われたロザリーの様子が変だった。
「あんたって男は……、それだからロゼウスは……」
 何だ? 調子の違いに面食らいながら言葉の続きを待つが、彼女は悔しげに唇を噛んで押し黙った。ロザリーらしくない行動に戸惑うが、それよりも顔を上げたロゼウスの態度が気になった。
「シェリダン」
 シェリダン程度の力で打った頬など、すぐに癒えてしまう。いつも通りの顔色で、ロゼウスは短く言った。
「今回の事は、取引を知らなかった他の兄妹が起こした事。俺の意志じゃない」
「ならば」
「俺は、あんたのもとを離れる気はない」
 その深紅の瞳は、やけに冷静な眼差しで告げた。思わずこちらの姿勢が崩される。勢い任せに頬を叩いたはいいものの、その後の行動が出てこない。本当なら取引を破棄したとも言えるロゼウスの行動に対して、自分はもっと責めるはずだった。責めなければならないはずだった。
 シェリダンを厭わしく思い、泣いて拒絶するロゼウスを腕が抜けるようにでも無理矢理引き戻して責め苛まなければならないはずだったのに。
「……他のヴァンピルは?」
「アンリ兄上……アウゼンリードが連れて行った。残ったのは俺とロザリーだけ。これじゃ不満?」
「……ああ。不満だな。本来なら甦った王族は片端から捕らえて処刑するものだ。お前らはどうせ甦るのだから監禁という形にしているが、本来ならあの逃げた二人と、試合に潜り込んでいた三人ともども捕らえねばならないんだ」
「逃げたのは三人。ジャスパーがいるから」
「ああ、そういえばそうだね」
「!?」
 第六王子? 地下牢に監禁したはずのあのガキまで脱出したのか? あっさりと頷くハデスに怒りの方向を転換し、シェリダンは少年姿の帝国宰相を睨む。
「ハデス。これはどういうことだ? あっさりと逃がしたくせに、何故今ここにいる?」
「やだなぁ、シェリダン。君がこうしてちゃんとロゼウスを迎えに来れるよう向こうさんを足止めしに行って、首尾上場で攫われたお姫様を連れて帰ってきたところじゃないか」
「何故、先回りができた? 私が城を出たときにはあの場にいたはずだろ」
「瞬間移動術があるもん」
「だったら何故……!」
「僕が言い出す前に君が行ってしまったんでしょうが」
 飄々とこちらの問いをふざけてかわすハデスにこれ以上つきあっていたら日が暮れる。どうせこの男は、元からロゼウスを逃がす気などなかったのだろう。シェリダンが負傷し、隣国の人質であり王妃たる人物を奪われる失態を見過ごすくらい、冥府の王にとっては娯楽の一つに過ぎないのだろう。
「あ、あの……シェリダン陛下。申し訳ありません。自分は役に立たず、宰相閣下が全てを成し遂げてくださった次第です」
「クルス……お前、怪我は?」
「いいえ。これは……ジャスパー王子の身体についていた血です。何人か殺したという話が本当なら、城で被害が出ているのやも……」
 犠牲者は牢番か警護兵かその他の使用人か。シェリダンは舌打ちし、クルスは押し黙る。ロザリーは口を開くのを躊躇う様子で、ハデスは得体の知れない笑みを浮かべて成り行きを見守っている。
 シェリダンはロゼウスを見つめた。こんなことがあったのに、やけに冷静なロゼウスを。
「元はと言えば、人質であるお前がその役目を放棄して拉致されるのが悪い」
 おかしいことを言っていると頭ではわかる。だが、今はきちんとした言い回しが出てこない。ロゼウスを連れ去ったアウゼンリード。先程のロゼウスの口ぶりとあの様子からするとローゼンティアのアンリ王子であるらしい彼がロゼウスたち観覧席にいたヴァンピルを攫ったのは周到でいて、救出される本人たちには知らせていない秘密の計画だった。ロゼウスが素直に頷いて彼について行ったようでは、この様子ではないようであるし。
 もしもそうであったとしてもなかったとしても。
 何故、戻ってくる必要がある。お前は私を憎んでいるはずなのに。
逃げたいと常に思っていても、本当に逃げても責められるいわれなど彼にはない。取引など一方的なものであり、シェリダンが約束を守る保証もない。民の安全などには無責任な国主だって大勢いる。
 このやりとりは何もかもが滑稽で不合理で理不尽。
 それを彼だってわかっているだろうに……。
「陛下……とりあえずは王城に戻りませんか?」
 エルジェーベトの言葉で、シェリダンたちは自らが往来で立ち尽くしていることに気づいた。シェリダンはロゼウスを抱き上げ、ロザリーがそれを支える。
「ちょっと待ったシェリダン王。僕が送るよ」
「では馬はクルス、お前が連れて帰れ」
「はい、かしこまりました。僕が乗ってきた馬は閣下が帰してくれましたので」
 ハデスの瞬間移動という便利な術を最大限活用して、王城に戻る。クルスとエルジェーベトはこれまで道標に立っていた兵たちに声をかけて城に戻るという。
 抱き上げたシェリダンの腕の中で、ロゼウスは身じろぎもしなかった。