荊の墓標 16

086

「どうしてちゃんと引き止めておかなかったのよ! あなたあの人の兄でしょう!?」
 怒られた。
「ああああ。こんなことならシェリダン抹殺なんて後にしてさっさと私がこちらに回ればよかったわ! ロゼウス様――!!」
 というか、何故自分がこの人に怒られているんだろう……。
「ねぇちょっと、あんた誰ですか?」
「見てわかりませんか? さっきの御前試合でシェリダンと戦った相手ですけど?」
 不機嫌なカミラは、同じく不機嫌なミカエラを睨み付ける。あの後、人が集まり始めた『炎の鳥と紅い花亭』からアンリたちを連れ出したのはこの王女殿下だった。正確には王妹殿下か。カミラ=ウェスト=エヴェルシード。
 明らかにエヴェルシード人であり、さらに困ったことにはフリッツ店長とは別の意味でシェリダン王に良く似たこの姫が現れて、他の兄妹たちは度肝を抜かれていた。他の兄妹というよりもまずアンリ自身が驚いた。
 彼女が連れであるもう一人のエヴェルシード人の青年と共にアンリたちに用意した隠れ家は破格の待遇だった。隠れ家というか、貴族の屋敷の一つだろう。それを裏付けるかのように、カミラ姫の隣にいる男は御前試合で見た顔だ。
 ジュダ=キュルテン=イスカリオット伯爵。
「一つ聞いていいか? あんたはシェリダン王側の人間じゃなかったのか?」
「さぁ? 私はいつだって私の利益のためにしか動きませんよ」
 この青年はエヴェルシード貴族の中でも、特に国王の側近だったはずだ。国内で一、二を争う財力と領地を持つイスカリオット家。不祥事によって公爵から伯爵に降格されたらしいが、それでも普通の貴族の何倍もの権力を握っている。落ち目などと言う言葉も出ない。
「イスカリオット伯、ここの屋敷は自由に使えるの?」
「ヴォルテス子爵とは話がついています。どうせ私もこうなったからには何だかんだと王城に呼ばれるでしょうし、その際にクルス君……ユージーン侯爵との連携を求められるでしょう。彼の領地に近いここを別荘の一つとして利用する事はすでに申請してありますし、ちょうどよくバートリ公爵もリステルアリアに移動したところですから、さほど目立たなくてすみました」
「そう。では、ローゼンティア王族の皆様にはここを使っていただけばよいのね」
「ええ。というか皆様だけでなく私たちもしばらくはこちらに留まりましょう」
「あえてイスカリオット領より王都に近い土地を選ぶなんてね」
「灯台下暗しというやつですよ」
 彼らは簡単に言ってくれるが、この屋敷は相当なものであるし、アンリたちの人数も相当なものだ。
 ローゼンティアの王族、第二王子であるアンリと、第三王女ミザリー、第五王子ミカエラ、第七王子ウィルに、第六王女エリサ。
 そして吸血の狂気から毒気を抜かれてまだ昏々と眠り続ける第六王子ジャスパーの六人がカミラとイスカリオット伯爵ジュダ卿の案内でエヴェルシード王都シアンスレイトに隣接した街、リステルアリアに留まっている。
「バートリ公爵はわざわざ領地内の他の貴族の屋敷なんか訪ねないでしょうし、ひとまずは安心でしょう」
「安心も何も、あそこでさっさとシェリダンを殺してしまえば話は早かったではないですか。どうして私を止めたのですか?」
「文句はあの人とハデス卿に言ってくださいよ。あなたを一度止めてもう一度ロゼウス王子を返すよう指示したのはあの二人ですから。ですが、カミラ姫。シェリダン王を殺すことに関しては、私との契約違反ですよ」
「どうでもいいじゃないあんな男」
「あなたにとってはまあ殺したいほどにどうでもいい相手でしょうが、私にとっては違うのですよ」
 ……カミラとジュダのやりとりは、アンリたちにはついていけないものだった。駄目だ。貴族なんてのは皆多かれ少なかれ建前と本音を使い分けて権謀術数のやりとりをするものだけれど、この国は酷すぎる。王もその死んだはずの妹も一番の財力を持つ伯爵家も、彼らに関わる帝国宰相もみんな私利私欲で動いているではないか。
 彼らの辞書には「国のため」や「国民のため」なんて言葉はないのか。
「アンリ兄様……」
 隣に座ったミカエラが不安そうにアンリの服の袖を握る。別の長椅子にはミザリーとウィル、エリサの三人が座っていて。ジャスパーは別室に寝かされていた。あの子には後で話をしよう。
 それよりも今は、この二人とのやりとりだ。
「……本題に入りたい」
「ええ。いいですよ。まずはどのお話からいきましょうかね」
 ジュダの隙のない身のこなしに戦慄しつつ、アンリは言葉を紡ぐ。戦ったら勝てない相手。しかし、ドラクルはもちろんロゼウスにだってウィルにだって敵わないアンリの武器は剣じゃない。
 知略王子の名の下に。考えるんだ。アンリの思考は人に指摘されるとおり、腹の探りあいには向いていない。それでも他者の心を読み取ることには長けている方だ。ずっと何を考えているのかわからない人もいたけれど。
「あなたたちは何を求めている? 何故シェリダン王から離反して俺たちを助ける? あなたたちにとって、この国は何で、俺たちの国は何だ?」
 何が目的なんだ? 教えてくれと頼む。頭を使うと決意した瞬間これかと自分が情けなくもなるが、それでもアンリたちには情報が少なすぎる。
 そして、少ない情報がただそれだけだと合点するには早すぎる。
 ここにいるのがエヴェルシード人であるカミラとジュダだけなら、あるいは納得できるのかもしれない。アンリたちローゼンティアの吸血鬼は隣国の揉め事に巻き込まれて、全ては領土と国力を巡る駆け引きの一つに過ぎないと。しかし、それだけでは終わらない何かを今回のできごとは秘めているのだ。
 その可能性を示すのは――帝国宰相。
 アケロンティス全土の治安を維持し、皇帝を補佐するのが勤めである彼が何故こんな、皇帝領薔薇大陸から最も遠い場所に位置するローゼンティアとエヴェルシードの諍いなどに顔を出す。ローゼンティアはエヴェルシードよりも弱いから負けた。よくある戦争の勝利国と敗残国との力関係。それだけならば、帝国宰相が顔を見せる理由などない。
 何かが。
 アンリたちがまだ誰も知らない、もっと重要な何かが隠されているはずだ。
 それを、目の前の二人に問う。姿勢を正して長椅子に腰掛け、真っ直ぐに相手の顔を見る。
「あなたたちは何を知っている?」
 ぴくり、とジュダが眉を揺らした。カミラはそちらも訝しげに瞳を眇めるだけでたいした反応はない。辺りは男の方か。
「私たちはただ――んぐっ!」
「殿下?」
 ただ自分たちの欲のために動いてるとでも言おうとしたのか、アンリの質問をあっさり切り捨てようとしたカミラが突然口元を覆って立ち上がった。
「も……申し訳ありません。ちょっと、気分がわる……ぐっ」
 かなり具合が悪そうな彼女の顔色は真っ青だった。
「洗面所は部屋を出て右です。この部屋の隣についています」
 ジュダの指示に礼を言う余裕すらなく、彼女は駆け出して行った。
 慌ただしいその後姿を眺めながら、ジュダが何事か考え込む様子だ。
「まさか……」
 だが彼はすぐにそちらから思考を切り離した様子で、アンリへと向き直った。
「さて、姫がいない間にこちらはこちらで話を進めておきますか」
「ってことはやっぱり、あんたはあのお姫様よりは何かを知ってるわけだ?」
「そうでもありませんよ。僕が知ってるのはただ一つだけ。それ以外はただ単にあの二人の尻馬に乗っていると言われても仕方のない、ただのついでなんですよ。自分たちのそれぞれ欲しいものを手に入れるために、利害の異なる人々がそれぞれ手を組んだというわけです」
 そう言うと彼は、憐れむような、蔑むような眼差しをアンリたちローゼンティア王家の兄妹に向けた。
「あなた方は何も知らないのですね」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ」
 得体の知れない笑みを浮かべて、ジュダは口を開く。
「ローゼンティアを滅ぼしたのは、シェリダン様の望みだと思っているでしょう?」
「当然だ」
「違いますよ。確かにあの方は戦争がしたかった。何かを破壊して搾取・略奪して血を求めた。でもそれが別にローゼンティアである必要性など、この国にはどこにもないのですよ。むしろ吸血鬼なんて扱いに困るだけで植民地化してもろくな利益もない」
 鼻白むアンリたちに、彼は言った。
「あの国を本当に滅ぼしたかったのは、あなた方の兄上――ローゼンティア第一王子、ドラクル殿下ですよ」

 ◆◆◆◆◆

「陛下!」
「陛下! 首尾はどうなりましたか!?」
「あのヴァンピルたちは!?」
「カミラ殿下のことは!!」
「シェリダン陛下……」
「どうかお答えを……」
 城に戻ると、廊下ですれ違うたびに言葉をかけてくる臣下の兵や大臣たちの声が鬱陶しい。湯殿に直行しようとしたところを、先程の騒ぎの収束を求めた人々に捕まった。事後処理に追われているうちにクルスとエルジェーベトも城の方へと戻り、中途で終了してしまった御前試合会場の片付けが終わったと思ったら城内で成り行きを見守っていた輩からの質問攻めだ。ああ、苛々する。
「煩い!」
 遂にその感情が爆発した時、シェリダンの叱責を浴びたのは牢番だった。地下牢から例の第六王子が逃げ出したらしい。それはそれで問題だが、今は他のヴァンピルだって逃げ出してここにはいないのだ。どうせ彼らの元へ向かったのだろう。だからそれがどうしたという。
「陛下。どうかお気を鎮めて。苛立つのはわかりますがここで踏みとどまれなくては臣下の信用を失いますよ」
「シェリダン様……」
 エルジェーベトに諫められ、クルスに気遣いの込められた瞳で見つめられて多少冷静になった。
「ああ……」
 そうだ。思い出せ。
 私は王だ。この国の主。私がしっかりせねばエヴェルシードは成り立たない。
 先程怒鳴りつけた兵士に改めて言葉をかけ、指示を与える。
「すまなかったな。今のはただの八つ当たりだ。気にしないでくれ」
「陛下」
「牢から逃げたヴァンピルに関しては、追う必要はない。目的はわかっているから、すぐに害になるわけではないとわかっている。それよりも地下牢の処理と、殺された兵の遺族たちへの救済措置を頼む……ユージーン侯爵」
 牢番の兵を下がらせてユージーン侯爵クルスの名を呼ぶ。
「はい」
「バイロンと共に、今日のできごとを調査し、明日の朝までに報告書を纏めて提出しろ。カミラのことも、これまでの潜伏先や現在の居所、それに協力者をできる限り探り出せ」
「御意」
「陛下、わたくしは手伝わずともよろしいのでしょうか?」
「バートリ公爵、お前も本日は私と同じように傷を負った身。帝国宰相の厚意で怪我こそ癒してもらったとはいえ、無理はするな。十分に休養をとった後は逃げたヴァンピルたちの捜索を依頼する」
「かしこまりました。お気遣い感謝いたします」
 二人を下がらせてロゼウスと共に浴室へ向かう。シェリダンもエルジェーベトと同じく怪我をした身で、着替えることもなかった服はその時の血に汚れたままだった。そして怪我こそないものの、ロゼウスの服も何故か血に濡れている。詳しいことを聞き出すのは後にして、とにかく身を清めようと湯殿に足を踏み入れた。
「陛下、お手伝いしましょうか?」
「ローラか」
「はい、ロザリー姫の方にはエチエンヌが。……まぁ。ロゼウス様、お怪我を?」
「いや、これはロゼウスの血ではないそうだ。細かい事情は後回しにして、今は身を清める。お前は替えの服と寝台の準備を」
 ローラは何かを察した様子で、行儀よく一礼すると姿を消した。シェリダンは何も言わずについてきたロゼウスの服を脱がせる。自分も衣装を脱ぎ捨てて湯殿に踏み込んだ。
「ロゼウス」
 名を呼んだ声に反応して振り返った彼の唇を奪う。
「ん……!」
 滑り込ませた舌を引き抜き、口づけから解放すると薄く涙を浮かべた紅い瞳がこちらを見つめていた。戻ってきてからようやく、彼がこちらを向いたことにようやく安堵を覚える。
「……」
 乱れた息を整えた後はまた何も言わなくなるロゼウスの肩を抱いて、浴槽の縁へと連れて行った。
 白銀の頭に桶で汲んだ湯を被せる。洗髪料を手にとって、まずはさほど汚れていない髪から洗ってしまう。ロゼウスのものも、自分のものも。
 身体を洗う番になり、傷がないか確かめるように慎重に、白い肌をなぞった。シェリダンの傷はハデスの得体の知れない術によって完璧に塞がれており、痕も残らない。
 ハデスか。そう言えば、彼の行動も不審と言えば不審だった。だが彼については行動を調べようにも、権力的にも能力的にも向こうの方が上等すぎて嗅ぎまわる手段がない。
 それについてはとにかくまた、今回のことが収まってからだと思考を切り替える。突如御前試合に乱入した、死んだはずのカミラのこと。ロゼウスたちを攫っていったヴァンピル。そして。
 一度は兄妹に救出されながら、何故かこうして戻って来たロゼウス。
 お前は一体、何を考えている? ぼんやりと夢うつつのような眼差しでシェリダンの手に身を預けるロゼウスを見る。
 その表情はあのヴァートレイト城での一件以来癖になったような、憂いの色を宿している。
 湯の中で長居してはのぼせるだけだと、身体を温めた後はローラが持ってきた着替えに袖を通してさっさと湯殿を後にした。
「ロゼウス……」
 既に夕刻と言える時間帯も過ぎ、しっかり夜となっている。晩餐の時刻はとうに過ぎているがこれから何かを食する気にもなれない。シェリダンは部屋の入り口に立ち尽くしているロゼウスを寝台の上に手招いた。
 彼は痛みを堪えるように眉を顰めて歩み寄ってきた。
「まだ身体の調子でも悪いか」
 尋ねるシェリダンに、ロゼウスは首を横に振る。城に戻ってから彼はシェリダンのやりとりをぼんやりと眺めるばかりで、何も言わない。思わず、強くその腕を引いて寝台の上に引き倒した。
「あっ!」
「ふん。声は出るようだな。何故何も言わない」
「俺は……」
 覇気のないロゼウスの口調を耳にして、浴室で清めたばかりのその身体を寝台に押し倒す。
「シェリダン……」
「どうやら、仕置きが必要らしいな」
 襟を引き摺り下ろし、あらわになった鎖骨に赤い痣をつけるようにきつく吸う。小さな痛みに顔をしかめるロゼウスを見下ろしながら、シェリダンは問いかけた。
「答えろ、何があった」
「兄上……第二王子が、第七王子のウィルと、第六王女のエリサを連れて御前試合に潜り込んでた。俺たちを助けに来たって……」
「カミラのことは?」
「兄上は……何も……」
「何故戻って来た?」
 シェリダンにとってはこれが一番……カミラのことよりも、重要な問いを向けるが、ロゼウスはそこで躊躇うように押し黙った。
「答えろ、ロゼウス」
「それは……」
「それは?」
 馬鹿なことを。こんなことを問いただして何になるのか。国民の命を人質にとって脅している彼がシェリダンの元へ戻ってくる理由などそれに限られているだろうに。それでも都合の良い言葉を期待している。
 けれどロゼウスは答えず、シェリダンは自らの苛立ちを抑えられずに彼の頬をまたはたく。下町で合流した時も合わせてこれで二回目。
「理由はどうであれ、お前が私を裏切ったのは確かだな……その代償は、支払ってもらうぞ、ロゼウス」
「……」
 頬を紅くしたロゼウスは動じず、彼の身体に馬乗りになったシェリダンを見ている。その深淵のような紅の瞳を見ていると、眠っていたはずの嗜虐心が湧いてくる。
 もう駄目なのだ。今までのようなやり方では。だから。
「今度はローゼンティアから民を一人ずつ連れてくるか」
「……え?」
「お前が私を裏切るならば、目の前で一人ずつ切り刻んで殺していく」
「なっ……!」
 さすがのロゼウスもこれには驚いて言葉をなくし、勢いよくシェリダンの胸倉を掴んだ。体勢としてはシェリダンが彼の上に乗っているのだからさほど脅しの効果もないが、見下ろす先の紅い目は怒りに燃えている。
「ふざけるな。民は関係ないだろう。俺はあんたとの約束どおり、ここに戻って来た。それで十分なはずだ!」
 ああ、やはり民のためか。
「お前こそ思い上がるな」
 それならば別にそれで構わない。当初の目的を思い出せばいいのだ、私もお前も。
「お前は妃と言う名の奴隷で、人質で、ただの敗戦国の肉人形だ。目の前で無辜の民が死ぬのを見たくなければ、二度と私を裏切るな。私を怒らせるな」
「シェリダン……俺は……」
 どこか苦しげで切なげな様子の彼を封じて、シェリダンは言った。
「お前に感情などいらない。ただ絶望して私のそばにいろ」
 告げて、言葉の続きは奪うように荒々しく口づけた。着替えたばかりの衣装を引き裂いて、その身を犯す。
 溺れる。もはや一瞬たりとて離れることは耐えられない。その瞳が自分の方を向く事はなくとも、せめてこの身体だけは掌中に収めておかなければ気がすまない。
 私のロゼウス。
 他には何もいらない。以前はあれほど滅ぼしたかった世界にも、今は手を伸ばすのが億劫だ。考える事が面倒で、王という地位も破滅と言う名の野望も全てを投げ出したくなる。
 この瞬間を永遠にするためならば、世界の何もかもが消えてしまえばいい。