荊の墓標 17

第6章 忘れ果てた痛みの先に(2)

087*

 シェリダンは御前試合のときのことをクルスに調べさせたようだが、結局、カミラについては何一つわからなかったようだ。
「だが、あれはカミラだ」
 シェリダンは断定する。
 そしてロゼウスは。
「対外的にはカミラの名を騙る偽者だという情報を流した。しかしあれは間違いなく、私の妹のカミラだった」
「うん」
 短く頷いて、寝台の上に腰掛けたシェリダンに寄り添う。冷たい冬の雨に打たれたみなしごたちが身を寄せ合うように、ぴったりと身体をくっつけた。
「調査は続けさせている。お前の兄妹を探す捜索の手もエルジェーベトに。周辺諸国の動きが安定しているからすぐに国内外が乱れることもないだろう。問題と言えばローゼンティアのことぐらいだ」
「うん」
「だからお前は人質として必要だ」
「うん。わかってる」
「ロゼウス」
 お前は捕虜だ人質だと、繰り返しシェリダンが言い聞かせるのはロゼウスにと言うよりも、むしろ声に出して告げることで自分に言い聞かせているようだった。重ねた手に指を絡めながら、ロゼウスはその言葉を聞く。
 嘘つき。
 愛していると言ったくせに。あんなにも狂おしい瞳で。
 馬鹿だ馬鹿だ。俺も、あんたも。
「何?」
 名を呼ばれ、振り向く。彼は寝台の端に腰掛け、ロゼウスは完全に寝台の上に上がってシェリダンの右肩に体を寄せている。
「お前はあれから、何も言わないな」
「いくら人質だって言っても、俺の国が不利になるような情報を、何故あんたに与えなきゃならない?」
「そうではない。そこまでしろとは言わない。だが……」
 こうして身を寄せ合って喋っていると、余計な感傷まで湧き上がってきてしまう。シェリダンはそれが困るというように、ふいと顔をそらした。ロゼウスはその視線を追わずに、ただ彼の肩口に頭をもたせかける。
 今の距離は、最初の頃、最初と言っても侵略国の王と敗残国の捕虜の王子と言う最悪の頃ではなく、そこから少し過ぎて、それなりに二人でいることにも馴染み、ロゼウスがこの国にいることもごく自然に受け入れられるようになった頃……あの時と似ている。
 だけれどやはり、何もかもがあの頃と一緒ではない。ヴァートレイト城での一件以来シェリダンの機嫌が悪い事は変わらず、ロゼウスが彼の知らぬ場所で別の男に……ドラクルに抱かれたと言う事も、その後シェリダンを拒絶したということも消えてなくなるわけではない。
 それでもロゼウスはここに帰ってきた。
 ここに、シェリダンの側に。アンリの手を断り、ミザリーやミカエラ、ウィル、エリサに悲しい顔をさせてまでもこの場所に。ロザリーだけは結局この選択につき合わせてしまったけれど。
 そしてジャスパー。緩やかな狂気に飲まれてふわふわと夢見心地で下から二番目の弟が口走った衝撃的な言葉。
 ――兄様、兄様、会いたかった。
 ――もう離れない。ずぅっと兄様と一緒にいる!
 ――どうして、拒絶するの? ひどい。だって僕は兄様のために……。
 彼はロゼウスのために生まれてきたのだと、ハデスは言った。
 シェリダンに教えるべきだろうか。ハデスのこと、カミラを蘇生させたのはロゼウスだということ。でも、その前に……
「ロゼウス」
 その声に意識を向ける間に、柔らかな寝台へと押し倒される。
「……ん、んぅ……」
 貪るような口づけ、服の合わせ目から滑り込んだ手に感じながら、ロゼウスは身体の力を抜く。女物衣装の裾をまくられ、恥ずかしい部位をあらわにされる。シェリダンは自らの服の前も開け、さらに身を摺り寄せた。
 性急ながら丁寧な愛撫。久々の感覚に、頬は紅潮し思わずじわりと目の端に涙が浮かぶ。
 あのヴァートレイト城での一件以来、ずっと鎖に繋がれて酷い目に合わされていた。窓硝子の奥に鉄格子が嵌められた部屋で、酷く粗雑に扱われた。不義を働いたロゼウスを責めるように、愛していると口では告げながらシェリダンはロゼウスを加虐していた。
 あの頃は、このまま耐え続ければいつかは気が済むだろうと思っていた。
 やがてその狂気、彼の胸の奥の渇望には果てがないことに気づいた。こんなものでは収まらないのだと。
 最後にはロゼウス自身が、そしてシェリダンが壊れそうになった。壊れる手前でシェリダンは正気に戻ろうと、強いてロゼウスへの関心はただ肉欲だけに絞ろうと自分に言い聞かせていた。
 でも、それじゃ駄目だ。誤魔化しきれない想いはいつか必ず溢れてしまうものだと知ったから。
 ジャスパー、俺はお前には応えられないよ。俺はお前が、俺をそんな風に見てることさえ知らなかった。お前は可愛い弟。でもそれだけ。
 そしてこの目の前の少年は。
「あっ……」
 胸元に顔を寄せたシェリダンが、口づけで濡れそぼった紅い唇に胸のものを含む。ぬらぬらとした舌に嬲られて、言いようのない痺れが背筋をかける。同時に、下のほうも彼の手の内に閉じ込められた。
「ひあっ!」
 先端を指で扱かれると、やけに甲高い声が出た。先走りで濡れた指を、シェリダンが後に沈める。
「うっ……」
 小さな異物感の後に、慣れた快楽。自らの身体を他人の手で開かされ、かき回されているという興奮。指先がある一点を突くと、自分でもどうしようもない快感が走る。
 十分に慣らしてから、シェリダン自身を受け入れる。道具も使わず、根元も縛らず自然な形で行うのは、本当に久しぶり。
 目元に浮かんだ涙を、シェリダンが舌で舐め取る。ちらりと見つめた顔立ちは朱金の瞳の目元が紅く染まり、ロゼウスを抱くシェリダンの方も何かに溺れたがるかのように、飾り気のない快楽を貪っていた。
「あっ――」
 頭の中が真っ白になる。全身から力が抜ける。内部を埋めていたものが引き抜かれ、途端に物寂しくなるなんて現金なことを考える。
 でも、こんな形で肌を重ねるのはまた当分――もしかしたら二度となくなるかも知れないようなことをロゼウスは口にした。
「シェリダン」
 こちらも事後の倦怠感に息をついているシェリダンが、けだるい視線を向けてくる。
「もう一度、俺をあの部屋に閉じ込めて。でなければ、あの銀の拘束具を」
「ロゼウス? 何を考えている?」
 あの部屋。拷問器具が並べられ、窓に鉄格子の嵌った監禁部屋。そして、ヴァンピルの力を封じる銀の枷。
「俺は……たぶんこれから、悪夢を見る。それで目覚めた時に、ちゃんと正気を保てるか自信がない」
「ロゼウス」
「だから、閉じ込めて。間違ってあんたや、周りの人を傷つけないように」
 正気を失ったヴァンピルが何をするかは、『炎の鳥と紅い花亭』で暴れたロザリーや、牢番の血を吸い殺したジャスパーを見れば明らかだ。その上、ロゼウスは二人よりもずっと能力が強い。
 でもその《夢》を乗り越えなければ、ロゼウスには明日はない。ロゼウスにもシェリダンにも。
 ――だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?
 ああ、そう。ここは涙の池。ロゼウスは自らの流した涙で溺れようとしているのなら。
 俺は……俺も向き合わなくちゃ。そこにあるものが、何であれ。そうでなければ、アンリ兄様の手を断ってここにいる意味がない。
 ロゼウスにとってのローゼンティアを、そしてエヴェルシード王シェリダンを見つけ出さないと。
「答を」
 敷布の上に投げ出されていたシェリダンの手に手を絡めた。
「俺はあんたへの、答を探している」

 ◆◆◆◆◆

 さらさらと書類を書き綴る手をとめずに部下の報告を聞く。
「陛下、ハデス卿と連絡がとれないのですが……」
「放っておきなさい」
「ですが、帝国宰相がそのように軽々しく陛下のお側を離れるなど、本来あってはならないことです!」
 頑固な側近の一人に、デメテルは微笑みかける。彼らはあくまでも気づいていないのだから。彼らのその不満と愚痴を言う時間が、デメテルの執務にかける時間を削っている。
「ハデスは外見こそ子どもの姿をしているけれど、あれであなたたちの何倍もの時間を生きているのよ? よっぽどのことでもなければ彼自身に何かあることはないし、こちらにだって重要な議会の折にはちゃんと顔を出しに帰って来てる。それで十分よ」
「ですが、それでは陛下の執務に差しさわりが……」
「そうでもないわよ。私だってもう皇帝になって……何年だったかしら。形ばかり帝国宰相を置いてはいるけれど、ハデスがいなくても何とかなることはなるのよね。いてくれた方が勿論助かるのは確かだけれど」
「デメテル様」
「放っておきなさい」
 食い下がる侍従の一人に、忠告する。
「それに、迂闊にあの子の行動に干渉しない方がいいわよ。《冥府の王》ハデス=レーテの名は伊達ではないのだから」
 デメテルの後ろ盾があろうとなかろうと、ハデスは好き勝手にやっている。厳しい修行の果てに習得した万能に近い力、《魔術》を利用して常人には不可能な現象・結果を生み出している。
 デメテルがそれに口を挟むのは、あの子があからさまな形でデメテルの邪魔をした時だけ。自分の必要としない者には容赦がないとデメテルはよく言われるのだが、それも仕方のないことだ。この状況では。
 私は世界皇帝なのだから。
 アケロンテを治める者、アケロンティス。デメテル=レーテ。
 デメテルのどこを見て神が皇帝にと選んだのかは不明だが、とにかくやれることはやらないと。その見返りとして得られるもののためにも。
 側近くに控え、まだ不満そうな顔をしている部下の一人に言ってやる。
「そんなに、ハデスの勝手が気になる?」
「……あの方は帝国宰相です。我々如きが口を挟めるお方ではありません」
 こうして仕事の合間にデメテルに弟に対する愚痴を言いにくるくらいなのに。
「心配しなくていいわよ」
「デメテル陛下?」
 デメテルの言葉の意味をまだよくつかめていない彼に告げる。
「要らなくなった時は、私がこの手であの子を殺すから」
 デメテルは自分では微笑んだつもりだったのだけれど、そんなに怖い顔になっていたのだろうか。先程まで険のある顔つきで意見に来ていた侍従は目に見えて怯え始めた。
「いえ、そんな……我らはデメテル陛下の弟君に、不満など……」
「なら、いいじゃないこのままで。心配しなくても、あの子が出かけている先はわかっているし、皇帝領を出て他の国々の統治者と話をしているのならばそれは職務放棄じゃないわよ。……ああ、できた。はいこれ」
「は、はぁ……こちらに関しましては、確かにお預かりいたします」
 怯える男たちが、できあがったばかりの書類を持って執務室から下がる。
 デメテルは立ち上がり、窓枠へと寄った。あくまでも窓は開けず、薄布が下ろされたむこうの景色に目だけをやる。
「早く帰っていらっしゃいな、ハデス」
 愛しい愛しい、弟の顔を思い出し、デメテルはひっそりと笑みを浮かべた。

 ◆◆◆◆◆

 そろそろこちらにも戻らないと不都合があるだろうと思って帰ってきたのはいいのだが。
「要らなくなったら、ね」
 先程の盗み見た執務室での光景を思い出し、ハデシは眉間に皺を寄せる。相変わらず、ここの奴らは鬱陶しいのばかりだ。ハデスが空間転移の術で好き勝手に出歩けるからといって、嫉むなど。
 そんなに自由な帝国宰相の地位が羨ましいというのなら、いつだって譲ってやる。その代わりに、ハデスに相当の権利をくれるのならば。この忌々しい皇帝の寝台に侍る権利共々、押し付けてやる。
 ――要らなくなった時は、私がこの手であの子を殺すから。
 デメテルの言葉を思い出す。ハデスの姉、第三十二代世界皇帝デメテル=レーテ=アケロンティス。別名を大地皇帝。
 彼女の物言いは弟であるこのハデスを、挿げ替えのきく玩具のように見ている。価値があるから利用するだけの道具。そしてそれは実際に当っていた。
 ハデスはデメテルのために生まれた。
 世界皇帝自身には何の印もないが、その皇帝を選ぶ選定者には神に与えられた印がある。選定紋章印。ハデスの右腕に浮かび上がるこの印がそう。
 選定者は皇帝のために生まれてくる。
 それは紛うことなく、神によって定められた宿命。
 選定者は普通、皇帝に逆らえない。だが皇帝は選定者を害することができる。選定者に皇帝を殺す事はできないが、皇帝には選定者を殺すことができるのだ。
 選定者は普通、次期皇帝となる者の身内から生まれてくるのが普通だ。それが身内ならば皇帝を裏切ることはないだろうという神の配慮かは知らないが、選定者は皇帝のすぐ側に生まれてくる事が運命だ。
 そしてデメテル……三十二代皇帝の選定者は、本当はハデスではなく父親だった。
 要らなくなったら殺す? ああ、そうだろうさ。デメテルは実の父親でも殺した女だ。父を殺してその腕の皮膚を切り取り、弟である生まれたばかりだったハデスに移植して選定者の名前を与えるような怖い女なんだ。
 ハデスはデメテルの道具。そのために生まれてきた。
 ハデスはデメテルの玩具。そのために望まれた。
 皇帝は即位した時から退位の日まで不老長寿の力を得て人間の理を超えて永く生きることとなる。けれど、その家族までもが皇帝と同じように不老となるわけではない。皇帝が認めた者はまるで神のように若い姿のまま数百年も、即位が永い皇帝の側近であれば数千年も生きることになるが、誰も彼も不老長寿を与えているわけでもない。
 皇帝デメテルの愚かな両親は、自らの娘が不老の皇帝となることが明らかになった時、自分たちにも永遠の命をと望んだ。
 姉さんはその時、両親に言った。自分を補佐する最も近い血族、弟を生んでくれたら両親に不老長寿を約束すると。
 ハデスは両親の顔を覚えていない。どんな人間だったかも、話に聞いただけだ。
 何故ならハデスが生まれたと同時に、デメテルは両親を殺したのだ。
 そして死んだ父親の腕の皮をはぎ、赤ん坊だったハデスへと選定紋章印を移植した。腕に出た紋章だったからさほど大きくもなく、多少歪だが選定者の証として今もハデスの腕にあるそれ。
 これこそが、ハデスが皇帝デメテルのものであるという証。選定者は皇帝のために生まれてくる。選定者は皇帝のためのもの。だから、逆らえるはずはないと。皇帝を選ぶのは選定者だけれど、選定者の運命を決めるのは皇帝だ。
 デメテルは父親に虐待されていた。だから、本当の選定者は父親だったけれど彼を殺して……そのくせ身内の情に飢えていたから、わざわざ弟であるハデスを両親に新しく自分のために作らせて、選定紋章印という名の呪縛で一生縛り付けた。
 しかし皇帝に牙を向けない選定者と違って、皇帝は選定者を好きに扱える。
 いつかデメテルがハデスに飽きたら、ハデスはすぐにでも殺されると言う事だ。
「そんなこと、許せるものか」
 ハデスは偽りの選定者。移植された紋章では効果がなかったらしく、こうして皇帝への反逆心を抱いている。
 そのために《冥府の王》の称号を得て、エレボス、タルタロスの魔物たちと契約までしたのだ。今更あんな女の気まぐれで殺されてはたまらない。
「あなたの治世ももうすぐ終わりなんだよ姉さん、神はもう次の皇帝を選んでいる」
 段々と薄くなっていくハデスの腕の紋章印。これがその証だ。
 そしてハデスの代わりに選定者として、身体に選定紋章印を浮かび上がらせたのがローゼンティア第六王子、ジャスパー。
 タルタロスの魔物たちと契約して、その身を魔物に差し出す代わりにハデスは様々な術を使えるようになった。《預言者》という称号もその一つにちなむもの。未来を見ることのできるこの力によって、ハデスは次の選定者と、選定者に尽くされる皇帝を見つけた。
 だけれど、いらない。そんな存在はいらないんだ。デメテルを殺して、次の皇帝になるのはこのハデスなのだから。
 大地皇帝デメテルも、次の選定者も次の皇帝もいらない。
「お前なんていらないんだよ、ローゼンティア王子、第三十三代皇帝ロゼウス」
 だから僕は、姉さんを殺して、彼も殺す。
 それは神への謀反。