荊の墓標 17

088*

 窓枠には鉄格子。この身には手枷。そこから伸びる鎖は、寝台の端に結び付けられている。監禁部屋の寝台の上。
「これでいい」
 ロゼウスはうっそりとそれを眺めながら、絹の敷布に身を横たえ、夢の中に堕ちようとする。
 夢はヴァンピルにとって特別なものだ。今でこそ昼夜逆転と薔薇の花で吸血衝動を抑える以外は人間のような生活を送っているが、皇暦が始まる前――つまり世界皇帝が誕生し、帝政が始まるまでは魔族は人間によって迫害され、蔑まれていた。魔族も人間を襲った。
 ヴァンピルは人の血なしには生きられない。今だってヴァンピルたちは大量の薔薇を食し、それ以外に少しだけ、交流のある人間の国から血液を分けてもらって自我を保っている。
 血を吸いすぎれば魔族として……魔族が魔族と呼ばれる前、魔物と呼ばれ恐れられ蔑まれていた頃の残虐性が甦って狂気に陥り人を襲うようになるけれども、血を全く吸わなくても自我を保てない。
 シルヴァーニのような慢性的な飢饉の国に血を求めれば国民が死んでしまうから、富裕なウィスタリアやチェスアトールから血液を輸入していた。一番近い隣国エヴェルシードもその国の一つだった。ローゼンティアは国土はそれなりにあるけれど、国民の数は人間の諸国に比べて圧倒的に少ない。おまけに前記以外の国とは交流を持たない鎖国気味の国だ。だから、なんとかなっていた。それでも血液が足りない場合は、ヴァンピルたちは自らを眠りに落とした。
 血を吸わない吸血鬼は夢を見る。
 薔薇を敷き詰めた棺桶に横たわり仮死状態になるのだ。そうして自らの命を温存する。いつか魔族の夢見る世界が来るまで。ローゼンティア王城の地下には、そうして冬眠した吸血鬼たちの寝台である棺桶が無数に並んでいる。知らずに侵略したシェリダンはそれを見てかなり吃驚したと言っていた。
 そうしていつ終わるとも知れない仮死の眠りの中で、ヴァンピルは夢を見るのだ。
 自らの人生、過去を何度も何度も夢として見る。夢の中で過去を繰り返す。楽しい夢ばかりを見られればいいが、そういうわけにもいかない。人は嫌なことばかりを覚えているものだから。
 荊に閉ざされた国の民たちは、柩の中で、哀しい過去を幾度も幾度も夢見る。そうしてまた苦しまねばならない。
 それは、初代皇帝の即位の際に力を貸した、ローゼンティア王族の祖先、その時はまだ王国ではなく、ただの一種族の長の血筋であったロゼッテ=ローゼンティアの悲嘆の名残だと言われている。
 しかしロゼウスは真実を知らない。そんな大昔のことなど興味ない。どうだっていい。
 そういえば帝政を始めた最初の皇帝、アケロンティス始皇帝はエヴェルシード人らしい。古い文献に名前の残る男の名はシェスラート=エヴェルシード。ローゼンティアの祖先が本当に彼の即位に協力したのであれば、ローゼンティアとエヴェルシードの縁もかなり古いということになる。それでも関係ない。エヴェルシードなんてどうだっていい。
 シェリダン。
 ロゼウスが知っているのは、ロゼウスが一番エヴェルシードとして認識しているのは彼だけだから、他のことはどうだって構わない。
 そのシェリダンもこの部屋にはいない。頼んで、寝所を別にしてもらった。別に伽役を嫌がるわけじゃない。そうではなくて。
「俺はたぶん……悪夢を見る」
 昔のことを夢に見る。
 そうして、《自分》を取り戻す。
「兄様……」
 ――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!
 ――なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
 ヴァートレイト城で、恐慌状態に陥った自分の叫びが耳に甦る。あの時、自分は何と言ったのだったか……
 ――泣きながら、いやだと喚きながら無理矢理身体を奪うのが合意の上だと言うのか! いい加減にしろ、ロゼウス! ……お前はずっと、兄に虐待されていたんだ。
 ロゼウスを叱咤するシェリダンの声。
 ああ、認めるよ。シェリダン。俺は逃げてた。いつも、本当は真実から逃げていた。
 そのことに気づいたのは、「炎の鳥と紅い花亭」での出来事が切っ掛けだった。
 ――兄様、兄様、会いたかった。
 ――ずっと、ずぅっと、兄様と一緒にいる。兄様大好き。だって僕は兄様といるために……。
 ――どうして、拒絶するの? ひどい。だって僕は兄様のために。
 ロゼウスはジャスパーを拒絶した。振り払った直後の彼の、呆然とした紅い瞳が瞼裏に貼り付いて剥がれない。
 知ってる。涙に震えた声。これは俺だ。ロゼウスはジャスパーを見ながら、良く似た自分を思い返していた。
 思いの押し付け。決して報われない愛。
 自分の姿をジャスパーの手によって鏡に映すようにまざまざと見せ付けられて気づく。ロゼウスはあの時、心底ジャスパーが怖くて疎ましかった。可愛い……可哀想な弟のジャスパー。それはそのまま、自分の姿だった。
 ドラクルはロゼウスなど見ていない。それがわかったのに、ロゼウスはどうしてまだこんなに、兄に執着しているのか。あの人を忘れられないのか。
 ――ねぇ、ロゼウス。シェリダン王に求められた時、嬉しかっただろう?
 ――私に捨てられて自分の存在する意味など何もなくなったお前が、シェリダン王に望まれた。彼のものになってしまえば、お前は誰にも必要とされないという孤独から逃れられるのだから……。
 ――なんて卑怯な考えなんだろうね。
 ドラクルの哄笑は今も脳裏に反響する。
 ――違う。違う違う違う。俺は虐待なんかされていない。だって兄様は俺を愛しているんだから、俺だって兄様を愛してる。
 今まではそう思っていた。でも誰かが頭の中で囁くのだ。繰り返し繰り返し。

 だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?

 段々と強くなるその声を、ロゼウスはずっと無視し続けていた。でも気づいたんだ。
 あの声を発しているの自分自身。
 ――愛している人間が、相手をこんな目に遭わせるはずないだろう!
シェリダンの必死な叫びはロゼウスの胸を衝いた。
 ドラクル兄様、あなたの言うとおりだ。そう、俺は嬉しかった。シェリダンは俺を必要としてくれるから、俺だけを見てくれるから。
 シェリダンはドラクルとは違う。
 第一王位継承者として、同じ世継ぎの王子として教育を受けていた二人はどこか似ている。これが王となる者の威厳なのだろうかと思うくらい、二人の共通点は多い。それでもシェリダンはドラクルとは違うのだ。
 ――ロゼウス。私はお前を愛しているけれど、それ以上にお前が憎い。
 ローゼンティアが侵略される直前の、最後の逢瀬でドラクルはロゼウスに言った。その言葉の意味を、ロゼウスは永く受け止められずにいた。考えたくなかった。
 ドラクルの《愛している》は、紛い物だ。
 それを認めたくなかった。
 ――こんなことされても、まだドラクルが好きなの?
 自分の中で、もう一人の自分が囁いてくる。過去に置き去りにしてきた自分。自分が自分として存在するために、お前は不都合だったんだよ、もう一人のロゼウス。
 でも今なら向かい合える。本当のお前を拾い上げることが、できる。
 好きだと思ってたよ、ドラクルを。
 だから、痛いことをされても平気。
 だから、酷いことをされても傷ついたりしないと。
俺は兄上を愛しているんだから、何をされても平気なのだと。
 そう思っていたけれど。
 ――あれが、愛だと? あんなものが? ……だったら、私だってお前を愛している。
 シェリダン、俺は《愛している》という言葉が、こんなにも悲しく寂しく切ないものだとは思わなかった。お前に出会うまで知らなかった。
 お前の言葉はこんなにも深く、鮮やかに俺の胸を射るんだ。

 ◆◆◆◆◆

 はじまりの記憶は、もうかなり朧げだった。
『にいさま?』
 ロゼウスは寝台の縁に腰掛けるように言われ、足をぷらぷらと揺らしながら兄を見ていた。十歳ほど年上の兄、第一王子ドラクルは、いつだってロゼウスの憧れだった。
 最初の時は、十年前? 八年前? もう覚えていない。けれど、ドラクルの腰ほどにも満たない幼い頃のロゼウスは退屈しきって、ドラクルの手元を見ていた。優雅な手付きで彼は何か書き物をしていて、それが終わるまでそこでロゼウスに待つようにと言いつけていた。
 大人しく兄の言いつけに従いながらも、やはり子どもだ。どうしても黙っている事ができず、しきりにドラクルの後姿へと話しかける。
『どうしたの? ロゼウス』
『これから何をするの? どうして明かりをつけないの?』
 それは明け方だったが、ヴァンピルにとっては夜にも等しい時間帯。ロゼウスはドラクルの寝室で、これから日が昇りどんどん明るくなるはずだとはいえまだかなり暗い室内で、ドラクルの用事が終わるのを待った。
『さぁ、これでいい――』
 ようやく手紙を書き終えたドラクルは、ロゼウスの方を振り返り微笑む。
『待たせたね。ロゼウス』
 ドラクルの言葉に、ロゼウスは喜んで彼の足に抱きつく。今の自分よりもう少し幼いくらいのドラクルがロゼウスを抱き上げて、幼いロゼウスの額に唇を落すのを、にこにこと受けとめた。
 ドラクル兄様。大好きな兄様。
 ドラクルはロゼウスにとって兄であり、教育官でもあった。普通王族の教育にはそれなりの教師を雇うものだが、何故だかロゼウスの面倒に関しては、国王である父はほぼ全てをドラクルに任命していた。それに従って、ドラクルは四六時中ロゼウスの側にいて面倒を見ていた。
 物心つくまで、ロゼウスは彼にべたべたに甘やかされて育った。それはきっと、周囲から見たら異常なほどの溺愛ぶりだっただろう。とはいえ、ドラクルはもともと妹弟には優しかった。ロゼウスを特に可愛がってはいたが、他の弟たちのこともちゃんと面倒見ていた。
 けれどその行動が、ロゼウスが物心つく頃になって変わる。
『さあ、ロゼウス』
 足に飛びついたロゼウスを優しく引き剥がし、彼は再びこの身体を寝台に腰掛けさせた。暇をもてあましてまたぷらぷらと揺らしそうになる足をそっと手で押さえ込んで、ロゼウスの唇に軽く指を当てて開かせる。
『にいさま? なぁに? なに、するの?』
 何もわからず、尋ねるロゼウスに彼は薄く笑みを見せた。世界は暁闇が最も暗く、その闇の中でも浮き上がるように白い肌の兄を、ロゼウスはきょとんとして見ていた。
 ロゼウスが見ている前で、ドラクルが自分の服の前を開ける。自らのものを取り出して、ロゼウスの眼前に差し出した。
『にいさま?』
 自分よりもよっぽど大きな男の体……それも性器を目の前に突きつけられて、いくらもののわからない子どもだったロゼウスでも不安を覚え始めた。
『これをその口で優しく咥えてしゃぶるんだよ、ロゼウス』
『にいさま、なに……いやっ!』
 首を振ろうとするロゼウスの頭を、ドラクルが無理矢理に押さえつける。
『やだ……やだよぉ……』
『駄目だよ、ロゼウス。拒む事は許さない。ああ、いいのかな、別にそうしたら私は。ロゼウスを嫌いになってしまうけれど』 
 嫌いになる。その一言に、ロゼウスの身体は凍りついた。
『やだ……やだやだやだ! にいさま、おれのこと、きらいにならないで!』
 その頃のロゼウスにとって、ドラクルは絶対だった。ロゼウスの世界は彼でできていた。
 勉強も剣も、全てを彼が見てくれる。今日何を着るのかということさえ、ドラクルがやってくれる。食事もドラクルが食べさせてくれる。みんなやってくれる。そうして、彼はロゼウスの耳元で囁く。
『大好きだよ、ロゼウス』
 俺も、俺もドラクルが好き。
 何度も何度もたどたどしい言葉で、兄が自分に向けるようにその言葉を繰り返した。ロゼウスの世界は彼に始まり彼に終わっていた。そこに付け入る隙なんかなかった。
『にいさま、ロゼウスのこときらいにならないで……』
 五歳のロゼウスは涙ながらに懇願し、その様子に気を良くしたドラクルが、冷たい眼差しから一転して優しい表情に戻る。
『可愛いロゼウス。……なら、わかっているね』
 うん、わかってる。
 ロゼウスはおずおずと目の前に差し出されたものに唇をつけ、うまくもないそれをしゃぶり出した。初めて口にするそれ自身と、その行為の異様さに思わず目の端に涙は浮かんだが、ドラクルはロゼウスに奉仕を止めさせなかった。
『そう……それでいい。ロゼウス。私の可愛い、薔薇の下の虜囚』
『にいさま……』
 だんだんと硬くなっていたものから出された苦い液体。べとつくそれで顔中を汚して、涙ながらにドラクルに訴えようとするが、その時の彼は何を言っても聞く耳は持たないようだった。そして。
『さぁ……ロゼウス。次はお前の番だよ』
 ドラクルの指が今度はロゼウスの身体へと伸びてくる。普通は触らないような変なところにばかり触れられて、思わず悲鳴をあげて泣きじゃくった。
 そのロゼウスの様子にいらついたドラクルが、ついに癇癪を起こす。
 パシン、と乾いた音が頬で鳴る。ロゼウスはじんじんと痛む頬に手をやり、火がついたように泣き出した。
『……ちっ』
 いったん泣き出すととまらなかったロゼウスに、これ以上の無理強いは無理だと悟ったドラクルが仕方なしにロゼウスを抱き上げて、あやすように背中を叩く。いや、ようにではなく、本当にあやしているのだ、手のかかる子どもだったロゼウスを。
 幾度かそんな夜明けを繰り返すうちに、やがてロゼウスは学習した。
 ドラクルが何かを言ってきたら、ロゼウスは逆らわず、黙ってそれを聞けばいいんだ。始めこそ変な感じがした怪しい行為は、繰り返すうちにだんだんと、言葉にしがたい快感を伝えてくるようになった。
 恥ずかしくて苦しくて痛くて気持ち悪いけれど、でもどこか気持ちがいい。ドラクルはその感覚と、時折思い切り叩く頬の痛みとでロゼウスを翻弄し、征服していった。
『わかっているね。ロゼウス。私に逆らったらどうなるか――』
 ――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!
 ――なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
 それでもロゼウスはドラクルに逆らえない。父親よりも他の兄妹よりも、あの頃はいつも彼が一番自分の側にいてくれたのだから。
『なあ、ドラクル、ここなんだけど――』
 その秘め事も、完全には隠し通せない。
 ドラクルに用があったらしくいきなり部屋にやってきた第二王子、二番目の兄であるアンリに、現場を見られたのだ。
『アンリ?!』
『なっ……何やってんだよ!』
 持っていた書類を取り落として、アンリがロゼウスに駆け寄ってくる。いつものように寝台の端に腰掛けてドラクルへと奉仕していたロゼウスを、慌てて抱き上げたアンリがドラクルを睨む。
『ドラクル! お前、一体何をやってたんだよ!』
 用事だった書類も床に落としたままで、アンリはロゼウスを抱きかかえたまま彼の部屋へと戻る。
 ロゼウスは状況がよくわからず、アンリの震える腕の中でただ首を傾げていた。
『アンリにいさま?』
『ロゼウス……』
 二番目の兄は何か痛々しいものを見るような眼でロゼウスを見つめて、言った。
『……もう、ドラクル兄上に近付いちゃ駄目だよ』
『どうして?』
 ロゼウスはその忠告を聞かなかった。
 それでもドラクルは大好きな兄上で、それに「嫌いになる」と脅されればロゼウスはいくら心のどこかが嫌がっていても、また身体を望まぬ快感で満たすような行為のために兄の部屋を訪れないわけにはいかなかった。
 ドラクル。始まりはただそうだったんだ。
 俺はただ、あなたに嫌われたくなかった。