荊の墓標 17

091

「あら、ユージーンの坊や。あなたも陛下に用事?」
「あ、いえ、その……」
「じゃあ、王妃様に用事?」
 にっこりとバートリ公爵エルジェーベト卿は笑う。クルスはまずい人にみつかってしまった。
「一応、そうです……」
「そう。じゃあ一緒に行きましょうか」
 どうにも誤魔化せずクルスが頷くと、有無を言わせずバートリ公爵は隣を歩き出した。
 エヴェルシード王城シアンスレイト城内だ。クルスはこっそりロゼウスに会うためにここに馳せ参じたのだが。
「王妃様、また牢獄のあの部屋にいるそうよ」
「え?」
 思いがけないことを聞かされた。エルジェーベトはその腕に見事な大輪の薔薇の花束を抱えている。エヴェルシードきっての美女である彼女がそんな様子で、服装もシンプルだけれど彼女の艶かしい体つきをひきたてるようなドレスで歩いていると、ここが煌びやかな王城内であっても人目をひく。
「牢獄って……あの……」
「そう。つい先日、あの御前試合別名剣術大会前までずっと陛下が王妃様を監禁していたあの部屋。なんでも今回は、王妃様が自分から入りたいって」
「ええ?」
 何がなんだかわからなくなってきた。そもそもクルスはここ最近の動きはずっと蚊帳の外で、重大なことは何一つ知らされていなかった。
「あの方は、あの方なりに陛下のことを想ってるのよ。でもそれは、陛下が望むものとは微妙に違うの」
 寂しげに言うエルジェーベトは、こうしてみればとても美しい女性だ。
 腕に抱えた、いっそ毒々しいくらいに紅いその薔薇はロゼウスに捧げるためのものなのだろうか?
「……バートリ公爵は、僕よりも今のこの状況に詳しいのでしょうね」
「ユージーン候?」
「何故、あの方に貢物をするのです? あなたが特別王妃様に優しく見えるのは、あなたがあの方に何があったのか知っているからですか?」
 クルスは立ち止まり、半歩ほど前を歩いていたエルジェーベトも足を止めた。クルスと同じエヴェルシード人一般的な、橙色の瞳がクルスを見下ろす。彼女の方が身長が高いのだ。
「私もたいしたことは知らないのよ、ユージーン侯爵クルス卿」
「ですが! あなたは僕よりは詳しいでしょう! 陛下が王妃様への態度を変えたのは、あなたの城に滞在してからのことです!」 
 思わず瞬間的に湧き上がった激情に流されてクルスはエルジェーベトに強い口調で言い放った。
 一瞬遅く我に帰るが、一度出た言葉はもとには戻らない。
「す、すいません」
「別にいいわよ。あなたはこのエヴェルシードでただしく武家の名門たるユージーン家の侯爵閣下なのだし。私程度にそんな口きいたところで誰も責めやしないわ……ねぇ」
 彼女自身がそうは言っても、やはり彼女はバートリ公爵……このエヴェルシードで最も強く、権力もある貴族であって。
「あなた、何をそんなに不安がってるの?」
「――っ!」
 クルスの心の裡がざわめいて混沌としていることを、彼女はすぐに見抜いた。
 廊下の途中で立ち止まったクルスたちに使用人たちは困ったような顔をして通り過ぎますが、クルスは動くことができなかった。
「だって……だって陛下は……あの人のせいで」
 あの方の……ロゼウス様のせいで、シェリダン様は変わってしまわれた。
 昔は穏やかだけれどいつもどこか寂しそうで、父王への恨みに時々冷たい憎悪の瞳をして、クルスへの態度は変わらないが、それでもシェリダンが変わってしまったことはわかるのだ。それまでは父王に代わってこのエヴェルシード国王に即位してから周りの状況を正しく彼自身の力とその威光によって改革しようとしていたものが、表面上は変わらないけれど、その内面は確かに変わった。
「確かに。シェリダン様はロゼ様が来てから変わられたわね」
 エルジェーベトは何事もないように言って、再び歩き出した。クルスも彼女の後をついて、ロゼウスのいる監禁部屋へとむかう。
「ねぇ、変わることって、悪いことかしら?」
「公爵?」
「あなたはシェリダン陛下がそれまでとどこか変わったことを不安に思うようだけれど、私はそうは思わない。今までの陛下は、見ていて痛々しかったわ。だから、あんまりお側によって、あの人を知りたくなかった。今もそれは変わらないけれど、けれど前よりは、その痛々しさの種類が違うわね。だから、こうして王城近くに今回移ろうと思ったわけ」
「……バートリ公爵?」
 クルスにはエルジェーベトの言っていることがよくわからない。シェリダンが痛々しい? 確かに不幸な境遇の人ではあるけれど、彼はそれを自身の力によって変えようと努力していた。その姿が痛々しい?
「たぶん、あなたにはわからないのでしょうね」
「……ではあなたは、わかるのですか?」
「わからないわよ? わかるわけないじゃない。私はシェリダン陛下じゃないもの。でもたぶん、あなたよりは陛下に近い。それは心の距離じゃなく、精神の近似値が」
「似ていると?」
「理不尽な理由で突然家族を失ったことはないでしょう? ユージーン候」
 唐突に、彼女は話題を変えた。家族、と言う言葉にクルスは尊敬する父と、厳しくも優しい大好きな母の顔を思い浮かべた。
 けれどエルジェーベトは、切なげにその瞼を伏せる。そして声を潜め。
「……そして家族を、手にかけたこともないでしょう」
「何故、それをあなたが……」
「知っているのかって? 聞いたからよ、シェリダン様に。おかしい?」
 薔薇の花を一輪、花束から引き抜いて彼女はクルスに渡した。
 その花の芳香は馨しく、けれどどこか甘い痛みを伴う。花束にされていたというのに鋭利な棘は切られておらず、クルスは指先を傷つけないようにそっと緑の茎を握った。
「ロゼウス様は不思議ね。あの方は、相対する人間の忘れ果てた痛みを……強いて封じ込めようとしていた傷を鮮やかに浮かび上がらせる」
 その力は尊く、気高い。彼の前では、誰もその心の裏側に秘めた欲望をさらけ出さずにはいられなくなる。真実の支配者。絶対の王の資質。この世に歪んだものがあることなどまるで許さないような断罪者の顔をして。
 だからなのか、ロゼウスに惹かれるのは純粋な心持ちの人が多い気がする。誰から見ても不純であるイスカリオット伯爵ジュダはさほどロゼウスには興味がないなんて軽口を叩いていた。ロゼウス自身の兄妹でも、居丈高なミザリーよりも、気さくなロザリーや口調は偉そうだけれどどこか憎めない純粋なミカエラがロゼウスに惹かれていた。あの二人は、ロゼウスと向き合っても引きずり出されて苦悩する暗い自我などないから。
 では僕はどうなのだろう?
 視線を手の中の花へと落すと、エルジェーベトが言った。
「薔薇の花は美しいけれど、手に入れるためにはその棘に指を傷つけられなければならない。目で見て愛でるだけなら誰にでもできるけれど、本当にその花が欲しいならば、その者は自らも血を流して花と向き合わねばならない」
 いつもふざけた態度の女公爵が、予想外に真面目な顔つきでそう言った。
「あなたは、シェリダン様に血を流させるのが嫌なのね。ユージーン候」
「だって」
「でもそれじゃあ、あの方は本当に望むものを手に入れることはできないわ。真綿にくるんで守っているだけではね」
 エルジェーベトの言う事は正論だ。でも知ったような言い振りに少しだけ腹が立つ。
「さぁ、我らがエヴェルシードの大切な王妃様に、お会いにいきましょう」
 そのわだかまりも消せないまま、クルスは監禁部屋の扉を開けた。

 ◆◆◆◆◆

「殿下、殿下」
 優しい声。
 優しい指先。
「眠っておられるなら、また別の日に伺います。ご所望の、ローゼンティアの土地に咲いていた薔薇の花、ここに置いていきますね」
 昨夜の悪夢が後を引いて、起き上がれない。銀製の手枷もヴァンピルの能力を奪うからまずかったのだろう。この上なく優しい春の雨のように降るエルジェーベトの声に、目を開けることもできない。
 声音こそは優しいが、その手は剣を握る武人らしく皮膚が硬く、あちこちにたこができている。けれど女性らしく細く整った指先で頬を撫でられると、その心地よさにふと泣きたくなった。
 ――……お母さま。
 彼女の柔らかい声音に、思い出すのはそういう存在だった。けれど、ロゼウスの母親は、真実を言うならこんなに優しくはなかった。ローゼンティア第一王妃クローディアは野心家で、夫である国王ブラムスの寵愛を得て次代の王を生み育てることに必死だった。そしてドラクルがいるから、ロゼウスは用なしだった。構ってもらえなかった。
 愛されなかった。
 だからロゼウスはあんなにも、ドラクルの偽りの愛情に縋ったのだろうか。国王であり政務に勤しむ父とは滅多に会えないし、母はロゼウスのことなどどうでもいいようだったから、ロゼウスをあまやかして目をかけてくれたドラクルだけが、ロゼウスにとって唯一の、実の家族だった。
 家族の愛情が欲しかった。
 本当はただ、それだけだったのに。
「おやすみなさい、ロゼウス様。失礼しました」
 待って。行かないで。世の中で言う、母親のように優しい声をしたエルジェーベト卿に追いすがりたいけれど身体が動かない。身分とか立場とか敵同士だとかそんなこと全て忘れて、幼子のようにその膝に縋り付いて眠りたかった。
 ようやくの努力で、最後にうっすらと目を開ける。
 だけれど、そこではたりとロゼウスは動きを止める。
(……ユージーン侯爵?)
 相変わらず身体は動かないし声は出ずに起き上がれない。けれど、何とか薄目だけは開けることができた。エルジェーベトはすでに部屋を出たようで、寝台に横たわったロゼウスを、退室間際に振り返ったユージーン侯爵クルス卿が見ている。けれどどこか、彼はいつもと様子が違う。
 どうしてそんな目をするんだ?
 そんな哀しい目を。
 まるで――でも見るような目を。
 思わずその表情に釘付けになるが、体は動かず候を引き止めることもできず、虚しく扉が閉ざされたのを見送った。
 後には静寂が残され、ふわりと枕元に置かれた花束から懐かしいローゼンティアの大地に咲く薔薇の香りが漂ってきた。敷布の波に横たわったまま、ロゼウスはその香りを嗅ぐ。
 涙が出てきた。
 懐かしい、あまりにも懐かしいその花。
 吸血鬼の王国にして薔薇の王国ローゼンティアに咲く花は、北の大地にしては見事な大輪の薔薇の花が咲いた。特に王城の庭に蔓延る荊は、毒々しいほどに紅く深い、見事な薔薇を幾つも幾つも咲かせていた。
 今となってはもはや、あまりにも懐かしいあの国の記憶。
 もう帰ることはできない昔。
 どうしてあの国がなくならなければならなかったのだろう? 皇歴が始まるより昔から、ヴァンピルは魔族ではあるけれど、どうにか人間たちと対等の世界で生きて行こうと必死だった。だから、人間の血を飲まずともほとんどは薔薇の花で飢えを凌げるようになった。だから、人との違いを際立たせる蝙蝠の翼は退化して、背に現れることはなくなった。だから、弱い陽光なら昼間でも生活できるようになった。だから……。
 けれどローゼンティアが滅びなければ、ロゼウスはシェリダンと会うことも、エルジェーベトやローラにエチエンヌたちとも会う事はなかった。
 そして、カミラにも。
 ロゼウスが運命を変えてしまった愛しい少女。ごめんねカミラ。でも俺は、君とはいけない。
 この道は、荊這う墓標にしか繋がってはいないから。
 後から後から涙が溢れてくる。
 後から後から溢れてきて頬を濡らす。
 その涙はロゼウスが気づかぬ内に硝子の檻に溜まって、やがては広い湖となる。
 その中で、ロゼウスは溺れる。
「兄様……兄様」
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ようやくわかった。ロゼウスは自分が何を求めていたのかを知った。
 俺は、兄様に……
「ロゼウス?」
 思考を遮るかのように扉が開いて、シェリダンが顔を出した。かき集めた想いが霧散し、ようやく開いた瞼の視線が彼に釘付けになる。
「シェリダン」
「……何を泣いている」
 ロゼウスの様子を見咎めた途端、彼は不機嫌になったようだ。つかつかと靴音も高く近寄ってくると、寝台に寝そべっていたロゼウスを無理矢理起き上がらせた。
 そしてゆっくりと、その唇をロゼウスの顔へと近づけてくる。溢れて頬を濡らす涙を、唇で丁寧に吸いとった。ふわっとした唇が柔らかく押し当てられる心地よさに、ロゼウスは自然と瞳を閉じていた。
「ロゼウス?」
「……シェリダン、それ、とって」
 挨拶はもちろんその他の言葉すら掛け合うこともなく、ロゼウスはいきなり用件を告げた。手枷に動きを封じられているロゼウスの視線に気づいたシェリダンが、薔薇の花束を拾い上げてその一輪を引き抜く。
 馨しい芳香を一瞬だけ深く吸い込んだ後、彼はその花びらをちぎり始めた。
 毟った花弁を一枚ずつ、ロゼウスの口元に運ぶ。餌を与えられる雛鳥のように、ロゼウスはそれを待った。
 今更かける言葉などない。かけられる言葉なんて。
 優しいほどに丁寧な手付きでシェリダンはロゼウスが薔薇を食するのを手伝ってくれるけれど。
 大輪の紅い薔薇も一輪全てが丸裸の緑の茎だけになると、ロゼウスはもういい、と首を横に振った。
 とりあえずは満足した様子のロゼウスを見て、シェリダンは薔薇の茎を放り出そうとする。
 と―――誤って、その指先が傷ついた。白い指先から、薔薇の花にも負けない紅い、紅く美しい血が滴った。
 その薔薇よりもなお馨しい香りに、ロゼウスの理性が蕩ける。シェリダンの短い舌打ちが、どこか遠い。
「舐めるか、ロゼウ―――うわっ!」
 考えてみれば、もういつから人の血を吸っていないのか、目の前の血液の香りに一瞬我を忘れて、ロゼウスは手枷に繋がれた手のままでシェリダンを寝台に押し倒していた。
 傷ついた指先もさることながら、その白い喉首が綺麗だ。男の肉は硬くて不味いのは常識だけど、それでもシェリダンの首筋は白くて欲しくて滑らかで、どうしようもなくおいしそうだった。
 このまま、その柔らかな首に牙をつきたててしまえば。
 全ては終わる。祖国の復讐を、両親の仇をとれる。
 それでも。
 ロゼウスはシェリダンの首筋から目を逸らし、その傷ついた指先をそっと口に含んだ。今にも零れそうだった紅い雫を舐め取る。唾液が染みるのか、シェリダンが少しだけ眉をしかめた。
 その表情のまま、彼は尋ねる。
「……吸わないのか、この血を」
 指先の傷ではなく、彼もロゼウスがずっとその首筋に視線を釘付けにされていたことに気づいていたのだ。
「吸わない」
 ロゼウスは答える。
「吸わない。殺さない。あんただけは」
 それを望んでいる自分に、俺は気づいてしまったから。