荊の墓標 18

093*

「鋭いね、エチエンヌ」
 抱き合う金髪の少年とヴァンピルの少女の様子を、城の中庭の木の上で覗き見しながら一人ごちる。今は嵐の前の静けさ。わかっている。もうすぐ全てが終わり、全てが始まる。
 エチエンヌの言っていることは正しい。
 ロゼウス=ローゼンティアとシェリダン=エヴェルシードは、出会ってはいけなかった。
そもそも始皇帝即位のロゼッテとシェスラートの時代から、この二つの一族の関わりは最悪の方向へ向かうと決まっているのに何故学習しないのか。
「運命なんて皮肉なもんだね。その血に何が流れているかなんて知らないけど、結局いつもエヴェルシードの者はローゼンティアを手に入れられない……もっとも、僕にとってはその方が都合がいいか」
 近い未来、必ず離別の時は訪れる。それが誰と誰のものであるのか、誰から何を奪うのかはまだ、何もわからない。
 ただハデスにわかるのは、その道は新たなる皇帝の時代へと続いているというだけ。
 そしてその皇帝の治世に関する未来だけは、まったく何も見えやしない。
「かわいそうに。シェリダン、君は、ロゼウスと出会ってはならなかったのに」
 今はまだその運命を知らない少年に、憐憫と嘲笑を向ける。彼の力が大きければ大きいほど、それを思い通りに操った時は見返りが大きい。何せ彼だけが、薔薇皇帝ロゼウスの運命を左右できる存在なのだから。
 悲劇の引き金を引くのが彼だと言うのならば、自分はせいぜい、それを利用させてもらうだけだ。

 両手を縛り、首に枷を嵌める。
「ん…………ぅう、」
 首輪から伸びた鎖を弄び、目の前に跪かせたロゼウスに奉仕させる。シェリダンのために、股間に顔を埋めて逸物に必死で舌を這わせるロゼウスを見つめながら、達する感覚に短く呻く。
 喉を鳴らして吐き出された白濁を飲み込んだロゼウスの様子は、特に変わったところは見られない。シェリダンを憎んでい《た》男は、今はもうシェリダンに対して何らの感情もないように振舞う。表情にこれまでのような絶望の翳りはないが、どこか空虚な印象が常に付きまとう。
 それが本心なのか演技なのか、シェリダンにはまだ見分けがつかない。
 シェリダンと、彼の兄であるドラクルは違う。そのことをようやく理解したというロゼウスは、それでもシェリダンが繰り返し囁く言葉に応えを返したわけではなかった。
「愛している、ロゼウス」
 首輪の鎖を強く掴み引き寄せた。多少苦しげな顔をしたロゼウスの様子を見ても、心が痛むようなことはない。
「愛して、いるんだ」
 一度だけぽろぽろと心からの涙を流したロゼウスは、それ以来シェリダンに気を許すようなことはなかった。自分の思い――兄からの虐待の事実を捻じ曲げたくて、似たようなことをするシェリダンを兄の分まで憎悪の対象としていたこと、シェリダンに常にドラクルを重ねて見ていたこと。それらを自覚してからは、シェリダンに対して逆に素っ気ない態度をとろうとしているのが丸分かりだ。
 シェリダンにとってもはやロゼウスはかけがえのない想いを向ける対象であるのに、ロゼウスにとってシェリダンはただの兄の身代わりで、その事実を認識した瞬間興味をなくして距離を置きたくなるような相手なのか。
 もし本当にそう思われているのだとしたら、苛々することこの上ない。誰がこれ以上、ただ彼の都合のよい存在でいてやるものか。
 ロゼウスにとっては、シェリダンは今でも憎い敵だろう。自分にとって都合の良い部分を削ぎ落としたシェリダンに残るのはただローゼンティア王国の仇だという間柄。
 これまでとは違った意味で、憎んでも恨んでもおかしくはない。相対している際にどこかが噛み合わない違和感こそ消えたものの、わだかまりはまだ残っている。
 そしてそのわだかまりまでは、シェリダンにはそれを消す方法がわからなかった。
「あっ!」
 ひらひらとした女衣装の裾から手を差し入れ、下穿きの中までを探る。
 自身に触れられ、刺激を与えられて先走りの雫をこぼしはじめると、彼は苦しそうに口を開いた。
「うっ……ふ、ぁ……シェリダン……」
 今ではドラクルと比較したシェリダンではなく、ただのシェリダンである彼のみを見てロゼウスが切なく喘ぐ。
 だが、その艶めいた表情すらも誰か他人の手によって作り出されたものだと思うと腹が立つ。例えどんなことがあっても、ロゼウスは私のものなのに。
「たいした淫乱な身体だな。お前は兄に一体何をされた?」
「そんな……ひっ!」
 胸中に渦巻く嫉妬としかいいようがない感情をわざと隠しもせず、先走りで僅かに濡れただけの指をいきなり後に差し入れるとロゼウスが痛苦に呻いた。
「ちょ、いたっ」
「答えろ、ロゼウス。兄に何をされた?」
「言いたくない……」
 差し入れていた指を引き抜いてこれ見よがしに舐め、仕方がないとでも言うように告げる。
「言わなければ、前に言ったことを実行するか。ローゼンティアの民を連れて来て殺す」
「! ……っやめろ!」
 異物が引き抜かれて一瞬は安堵した様子のロゼウスは案の定シェリダンの言葉に血相を変え、その意志を押し留めようと、枷に繋がれた腕を無理に動かしてシェリダンに攻め寄った。しゃらしゃらと鎖の擦れる音がする。
「いい加減にしろ。まだ怒ってるって言うのか? 俺は自分に関する事は真実を全部あんたに言ったし、これからここを出て行く気もない。それだけじゃ不満だっていうのか?」
「ああ、不満だな」
 即答すれば、ロゼウスが鼻白む。その顎を捕らえて、噛み付くように口づけた。
「ん、んんっ!」
 無理矢理舌を引きずり出して唾液を啜る乱暴な口づけに、ロゼウスが涙目になってシェリダンを突き飛ばした。荒く息をつき頬を紅潮させ、涎の垂れた口を拭う姿が何とも言えず艶っぽい。
「言ったはずだ。私はお前を愛している。お前のことなら何でも知っていないと気がすまないし、お前が私以外の人間に心を許すのは気に食わない」
「そんな……」
「私の言う事を聞け」
 くしゃりと顔を歪めるロゼウスに構わず、その額に唇を当てた。ちら、と視線を走らせれば銀の枷が嵌められた手首が擦れて赤くなっている。その手をとり、枷を外さないまま傷口をなぞるように舌で撫でた。
「あっ」
 傷口独特の敏感さに襲われているらしいロゼウスの戸惑い揺れる顔を見ながらほくそ笑む
「ん、あ……」
 微かに血の味がする傷に舌を這わせ、唾液を刷り込むようになぞる。そのたびに、腕を握られているロゼウスがどこか官能的な吐息をした。
「答えろ、兄に何をされた?」
「兄様には……」
 閉じた瞼に睫毛が震え、やがてロゼウスが語りだす。その声に耳を傾けながら、彼を犯す。
「ふん、なるほどな、それが今のお前を作った根本か」
 目隠しに手錠、玩具ぐらいなら許せるが獣姦とはな。さらには兄のためだと言い聞かせられて、幾度も別の男にも、あるいは女にも抱かれた。ロゼウスがこういう風に育つわけだ。
 ロゼウスは自らの歪みをこれまで自覚していなかったが、それは間違いもなく自分の精神を守るためだった。誰一人味方のいない状況で、そんなことを真っ直ぐに受けとめたら壊れてしまう。
 それでも今は、全てを思い出した。だから。
「憎めばいい。兄を。私を」
「……え?」
「私を憎めばいい。お前を犯した兄を。世界の終焉まで、徹底的に嫌え抜けばいい」
 私が父に対してそうしたように。
「その方が楽になる。自らを傷つけるよりも、相手を憎む方が」
「シェリダン……」
 手枷に傷つけられた皮膚に口づけし、シェリダンはロゼウスを抱きながら思い出す。
 自分自身の、あの頃の痛みを。

 ◆◆◆◆◆

 ――やめてください父上。もう触らないで。酷いことをしないで。私が悪いところは直します。何でもしますから、だから!
 その頃は地獄だった。
『おいで、シェリダン』
 父親の大きな手は、大抵の人間にとっては子どもを安心させるものだろう。
 だがその頃のシェリダンにとっては違った。
『どうした? こちらに来なさい』
『っ……!』
 夜更けに父王の寝室に呼び出されて、シェリダンは入り口で顔を歪めて佇んでいた。寝台の上に優雅に腰掛けた彼はまさに軍事国家エヴェルシードの国主にふさわしい、堂々とした体格の持ち主だ。
 父と母の血を比べるならば、シェリダンは完璧に母親似だった。父は整った顔立ちをしていたがそれは精悍というべきもので、線の細さや優面という言葉とは無縁だった。
 彼は、ジョナス王は母――ヴァージニアを愛していた。
 母上は父上を愛していなかった。
 父は下町で見初めた母を、その両親を殺し彼女の実家を潰すことで無理矢理攫った。召し上げたなんて言葉では表現できない、それはまぎれもない略奪であり、蹂躙であり、陵辱だった。
 そしてヴァージニアは憎悪を孕む。
 シェリダンは、夫を恨み憎む女の胎から生まれた。
母はシェリダンを産んで三ヶ月で亡くなった。……自殺したのだ。
 その頃、ジョナス王には妻が一人いた。正妃ミナハーク。シェリダンの一つ年下の妹であるカミラ、彼女の母親。
 しかし父の愛情はミナハーク第一王妃には向けられず、全面的にシェリダンの母、第二王妃ヴァージニアに向けられていた。
 当然のようにして、ミナハークはヴァージニアに嫉妬し、憎悪した。高名な貴族であり正妃である彼女よりも下町生まれの最下層の平民の娘に王の愛情を独占されることに、矜持の高いミナハークは耐えられなかった。
 その状況が、決してヴァージニアが望んだどころか、彼女から両親を奪い実家を奪い不幸の底へと叩き込むほどの忌まわしきものであるなどということはミナハークには関係なかった。彼女はただ、ヴァージニアが憎かった。
 正妃の復讐は苛烈を極めた。ヴァージニアへと行われた嫌がらせの数々は酸鼻の言葉も生温いものだったと乳母は教えてくれた。
 王の忠臣であったシェリダンの乳母。彼女はすでに亡くなっているが、その彼女もミナハークから、生まれたばかりのシェリダンを殺せと言う命令を受けたのだという。それが王の耳に入ったために、赤子だったシェリダンへの護衛は強化されて事なきを得た。
 国王ジョナスはそれでもミナハークに憐れを覚えたのか、彼女に一人だけ子を産ませる。それがカミラ。
 だが彼女の子どもが息子だったのならばまだしも、生まれたのは娘。正妃の娘であるカミラと庶出の第二王妃の息子であるシェリダンの王位継承権は、複雑なものであった。
 それでもエヴェルシードは完全武力重視の軍事国家の男尊女卑思想のために、男児であるシェリダンの継承権がかろうじて上だった。ミナハークにとってこれほど目障りなこともなかったろうが、それも十年前、シェリダンが七歳、カミラが六歳で彼女が死んだ時に終わる。
 そして正妃が亡くなって間もなくして、シェリダンの悪夢が始まる。
『こちらへ来なさい、シェリダン』
『……はい、父上』
 王の寝室に呼び出され、シェリダンは寝台に腰掛ける父のもとへと歩み寄った。まだ七歳のシェリダンの身体を父は抱き上げ、頬に手を添える。
 ここで拒否すれば、余計に酷いことをされるとわかっていた。シェリダンは肌を撫でる男の不快な指の感触に耐えながら、息を詰めて父を見つめていた。
 その橙色の瞳に灯るのは、歪んだ愛情。
 ヴァージニアを失って向ける場所をなくした熱すぎる想いだった。
『美しいな、そなたは』
 父が口の端を持ち上げて微笑む。
『日に日にヴァージニアに似てくる。ああ、お前が成長する日が待ち遠しい』
 男子は母親に似ると言われる。だが俗説というにはあまりにも、まるで何かの呪いのようにシェリダンは母親ヴァージニアに生き写しの容姿をしていた。
 蒼い髪に橙色の瞳のエヴェルシード人においては、多少毛色の違うこの藍色の髪も朱金の瞳も、目や鼻のつくり唇の紅さまで全てが母親似。
『もっと美しくなれ、シェリダン。ヴァージニアのように。あの美しい女のように、私を楽しませてくれ』
『父上……』
 自分を抱き上げて恍惚とした、自分ではない人の姿を見つめる父はもう正気ではないのだと知っていた。政治や軍略に関してはこれまでと同じように王としての手腕を発揮しているけれど、それを支える精神が均衡を崩してしまっている。
 寝台に押さえつけられて、服に手をかけられる。機嫌の悪いときには盛大に破くそれを今日はゆっくりと脱がして、男は笑う。その顔は父親の顔ではない。
『父上……っ』
 露にされた肌を、きつく吸われる。首筋から鎖骨の辺りに赤い痣が散る。
 いやだ、と。やめてくれと叫ぶこともできず、シェリダンは吐き気のするほど忌まわしい行為に沈められていく。
 鞭の痕が背中に増えるたびに、心を絶望が満たした。それでも父の腕は力強く子どもの腕では振り払うこともできない。純粋な暴力、横暴な権力、そして、そんなことをされてもまだ求めていた――父の愛情。
 願うことすら愚かな願いはこの世にいくらでもあるのだと知った日。
 イスカリオット家と問題を起こして凋落したリヒベルク家の次男……新たにシェリダンの筆頭侍従となったリチャードは少年のその背を見て、この身体に残る傷を見て泣いた。
 その、包み込むような温かな腕を抱きしめる力の強さにようやく安堵を覚えた。
 ああ、私はやはり理不尽なことを強いられているのだと。
 知った。どこの父親が血の繋がった実の息子を寝台に侍らせたりするものか。それは虐待だと吐き捨てるリチャードの言葉に、じわじわと押さえつけられていた自我が目覚めていく。
 ああ、私は泣きたかったのだ。
 夜毎寝室に招かれて卑猥な奉仕を繰り返させられながら思う。水音、濡れた感触。内股を這う男の指。口腔を犯す怒張。異物感。痛み。後孔をかきまぜる感触。快感と嫌悪感。
 昇りつめて堕ちていくその行為は、堕天という言葉にもっとも相応しい頽廃。
『あっ』
 さんざん弄られて腫れ上がった乳首を無骨な指が抓む。玩具でも弄るように無造作に刺激を与えられて、堪えることもできずに唇から甘い喘ぎが漏れる。
『や、やめてください、父上……』
『何を言う? こんなに喜びおって……』
 たくましい手がシェリダンのものを握り、剣だこのできた指で丁寧にしごく。無理矢理高めさせられる感覚に不快を感じながらも覆いかぶさる相手を本気で押し返すことはできない。
 そのうちに、たまらずに濁った精を自分のものを刺激し続けた手のひらに吐き出す。無理矢理前髪を掴まれて、それを舐めるように強制させられる。指に絡んだ自らの白濁を舐め取るシェリダンの様子を、男はにやにやと笑ってみている。
 こうしてしつこく甚振り続けるのが彼のいつものやり口なのだ。身分だの権力だの立場だの面倒なことは全て考えるのを放棄して、今すぐにこの男を殴り飛ばすことができたなら。
 後孔を責められて喘ぎながらそんなことばかり考えている。幼い頃はただただ嫌で辛くて哀しいばかりでしかなかった行為は、年齢を重ねるたびに不快感と嫌悪感と憎悪に移り変わっていった。
 十五を過ぎた頃からは、むしろ夜伽を命じられている以外の自由時間は自分自身で勝手に振舞うようになった。こんな育ち方をして、まともな人間ができあがるわけはない。
 死の間際にヴァージニアが半狂人のようだったと言われるように、自分もこうやって狂っていくのかと思った。
『なぁんか、大変そうな顔してるねぇ。エヴェルシード第一王子シェリダン=ヴラド殿下』
 たまたま見つけた城下町の、特に雰囲気が良いというわけでも上手い酒を出すというわけでもない何の変哲もない酒場。身分を隠して遊び歩いていたはずなのにいきなり名前を言い当てられたことに動揺して振り返れば、そこにはシェリダンとさほど年齢の違わない黒髪に黒い瞳の少年が座って杯を傾けている。
 ……初めて見た顔ではない。数日前にも別の酒場で出くわした。ただしその時は偽名で。
『力になってあげよっか? って言うとうさんくさいか。こっちも君に協力して欲しいことがあるんだけど、どう? 何か問題事があるんだったら、お互い力を出し合って解決しない?』
 いかにも怪しげな笑みを浮かべるその少年にシェリダンは警戒を解かない声で返す。
『貴様は誰だ』
『帝国宰相ハデス=レーテ=アケロンティス』
 シェリダンは父からの解放をハデスに願った。
 そしてハデスの願いと言うのが、シェリダンにローゼンティアを滅ぼさせることだった。