荊の墓標 18

096

「大人しくしていてくださいよ?」
 イスカリオット伯とかいう男のそんな言葉に、まさか従うわけもなかった。
「で、わざわざあんな回りくどい手段まで使って僕を呼んだのかい?」
「文句あるのか? 約束は守るって言ってるだろ?」
「それは嬉しいけどねぇ。困ったなぁ。姉さんに怒られちゃうよ」
「勝手に怒られていろ」
「酷いなぁミカちゃんは」
「その呼び方やめろ!」
 ヴァートレイト城で出会ったルイ=ケルン=バートリは相変わらずだった。末弟のウィルを連れたミカエラは、イスカリオット伯爵ジュダの屋敷を抜け出てこっそりとこの男に会いに来た。
 シアンスレイト郊外、ユージーン侯爵領に近いこの街の裏路地。ミカエラはウィルの手を握り、フードを注意深く被って彼と相対する。
「ミカエラ王子? でも、そんな呼び方をしたらすぐにバレちゃうよ? だいたいエヴェルシードではミカエラとかミカエルとかついでに君のお兄さんたちの名前なんかもあんまり一般的じゃないんでね」
「じゃあ、どうしろと?」
「ミカでいいじゃないか。平民なら二文字から三文字くらいの名前が普通だからね」
「……わかった」
 ルイの言葉にミカエラは渋々と納得する。
 ロゼウスを助け出すのには、兄妹以外にも、外部の協力者が必要不可欠だ。けれど、あのイスカリオット伯という男は信用できない。誰よりもエヴェルシード国王に近い位置にいながら、平然と王を裏切る事ができるあの神経は信じがたい。
 この国の奴らはみんな頭がおかしい。
「僕は、兄様を助け出す。そのために力を貸せ」
「はいはい、僕のミカ。君のために力尽くしましょう」
 歩き出しながら言って、バートリ公爵エルジェーベトの弟であり、彼女からバートリ領の統治を任されているルイは目を鋭く細める。
「それに、君の話が本当ならば、この国にとっての一大事でもある。エヴェルシードの民としては、王への反逆を見過ごすわけにはいかないな」
「ルイ」
「残念だけど、カミラ殿下は王の器ではないよ。自ら動き始めたということはこれまでの何もできないお姫様からは進歩したみたいだけど、あの方に国を任せるわけにはいかないね」
「……お前」
 ミカエラは使い魔の蝙蝠を使って、伝書鳩ならぬ伝書蝙蝠にしてルイに連絡を取った。
 ジュダがシェリダン王を裏切り、王の妹であるカミラ姫と共謀していること、ローゼンティアとエヴェルシードの間には何らかのやりとりがあること。
 建前上ミカエラたちはジュダに匿われているが、あの男は信用できない。ロゼウスとロザリーを助け出すのに、ジュダを信用してはいけない気が、ミカエラの中で強く警告を発する。
 だから手段を講じたのだ。一種の賭けだが、ルイの姉であるバートリ公爵はシェリダン王に反する様子は見えない。ロゼウスがシェリダンの側にいることは、いくらシェリダンの意思だといっても彼のためにもならないはずだ。
 シェリダンを害するためにロゼウスを利用しそうなジュダやカミラと手を結ぶくらいなら、シェリダンに与するため邪魔なロゼウスを遠ざけたいルイたちに協力した方が……たぶん、マシだ。
「この辺でいいんじゃない?」
 うらぶれた酒場の一つに、ミカエラたちはルイと共に入った。ミカエラが抜け出す前に見咎めて、護衛のためだと剣をローブの内側に下げてついてきたウィルが眉を下げる。まだ十二歳の弟のために、いかがわしい店を兼ねていないことだけが救いだ。
 店の奥にある薄暗い席の一つについて、酒精のない飲み物を酒場でわざわざ頼んだルイと改めて顔を合わせる。
「そっちの子は? 弟の一人だね。見たところ相当腕が立つようだけど」
「……末弟のウィルだ。ウィル、こっちがバートリ公爵の弟、ルイ」
「……はじめまして」
「はじめまして、第七王子殿下。君は兄上の護衛ってわけだね」
「あなたが誰であろうと、兄様に手を出したら、殺します」
「あっはっは。多分君の手を出すと僕が考えているものはチガウだろうけど、今はどちらもしないと約束しよう」
 ウィルもミカエラも、ルイに対して信用など全くしていない。けれど、その他に頼れそうな人間もいないし、シェリダンに近すぎる人間に関わるのも危険だ。これ以上の相手は望めない。
 ひとまず、本題に入ることにした。
「王家の兄妹は他に誰がいる?」
「ロゼウス兄様はまだ王のもとに。第四王女のロザリーもそこに。第二王子アンリ、第三王女ミザリー、第六王女エリサ、僕とウィル、それと第六王子ジャスパーがイスカリオット伯の屋敷にいる。後の第一王女アン、第三王子ヘンリー、第五王女メアリー、第一王子ドラクルと第二王女ルースに関しては全く消息がつかめない」
「うーん、芳しい状態とはとても言えないね。半分弱が行方不明か」
 ルイは首を捻った。
「とりあえず、いまイスカリオット伯のところにいる手勢だけで彼に歯向かうのは控えておいた方がいいね。君はもちろん、ミザリー姫も無力な姫。末っ子のお姫様だってまだ十歳だろう? 第二王子と第六王子がどれほどのものかは知らないけど、立場上シェリダン王もユージーン候も、イスカリオット伯もカミラ姫もみんな敵に回さなきゃいけないこちらとしては、動くのは機を見てからじゃないとね」
「……協力してくれるのか?」
「さぁ。まだ姉さんと相談してないからなぁ? でもまぁ、今はどことも事を構える必要はないみたいだから、多少の余裕はあるし、協力してあげてもいいかなー、とは思うんだけど」
「はっきりした返事が欲しい」
「今は無理だ。僕の権力は僕のものじゃない。姉さんのものだからね。近いうちに返事する」
「……」
「まあまあ、そんな顔をしないでよ。表立って協力はできなくても、助言ぐらいはしてあげられるから」
「助言だと?」
「うん。まあ、手駒を増やせってことと、機会に乗じろってことだけど」
「……どうやって」
「前者については、ばらばらになった王家の兄妹を集めたり、とにかく信頼できるヴァンピルの協力者を作れってこと。こっちの方が難しいかな。もう一つは、これはまだ確定情報ではないんだけど、姉さんから聞かされた話がある。それを利用しよう」
「……それはどんな話だ?」
「近々、この国に皇帝陛下が来る」
「え?」
「世界皇帝がですか!?」
 それまで黙っていたウィルでさえも声をあげた。うっかり大きな声をあげかけてしまって、慌てて自分の口を塞いでいる。酒場の客たちの視線が集まるのを、ルイがごめんね早速酔っちゃって~などと言って誤魔化している。
「……気をつけてよね」
「……ごめんなさい」
 気を取り直して、ルイは先程の言葉を続けた。
「皇帝陛下が来るとなれば、その準備に王城は慌ただしくなるはずだ。その隙を狙おう。決行日は、ずばり歓待晩餐会の当日」
「そ、そんなこと……」
「いや、そのぐらいじゃないと。陛下が来るまでは警戒が厳しいし、来た後は緊張状態になる。準備と警戒の狭間でちょうど緊張が緩む一瞬の隙を狙わないと」
 ミカエラは息を飲んだ。
 ルイが言ったのは途方もない計画だ。今の状態では、いくらアンリとウィルがいるといったって、到底実現できそうもない。
「……難しい、ですね」
 彼らにはまだ、何枚もの駒が足りない。

 ◆◆◆◆◆

 ミカエラとウィルがジュダの目を盗んでどこかへ出かけたようだ。
「ちょっと! アンリまでどこか行くの!? やめてよ! 私一人になっちゃうじゃない!」
「仕方がないだろう、ミザリー。いくらあの二人に協力するって返事したとはいえ、何もかも任せるのは危険だ。俺たちは俺たちで、ヤツラの弱味を掴むか、俺たちを有利にする何かを作っておかないと」
「だからって、アンリ……」
「一人じゃないだろ、ミザリー。エリサがいるし、それに」
「ジャスパー……でも、あの子は」
 ミザリーが悲しげに目を伏せ、祈るように手を組んだ。
「……お前が面倒を見てやってくれ。なんとか、するから。エヴェルシード王の弱味か何か掴んで、ローゼンティアを取り戻せれば……そうすれば元通りとは言えないけれど、きっと良くなるから!」
 アンリが言葉を連ねると、ミザリーはその、王家の中でも最も美しいと言われる顔をくしゃりと歪めた。
「わかりました、第二王子殿下。アンリお兄様。……私は、エリサとジャスパーと共に、皆様のお帰りを待ちます」
「すまない、ミザリー。だが、お前くらいには残ってもらわないと」
 さすがに美貌を謳われるだけあって、第三王女ミザリーの存在感は圧倒的だ。彼女一人でローゼンティア王族のオーラを放っているので、一人二人いなくなっていても少々の嘘で誤魔化せてしまうだろう。
 それに、ジャスパーの面倒を見る人間はやっぱり必要だ。
「……アンリ兄様」
「ジャスパーを頼むよ、ミザリー」
「身体の方は、大丈夫なのよね」
「ああ、どこも悪いところはない。ロゼウスのおかげで、狂気も抜けている」
 彼女が言っているのはジャスパーのことだ。基本的にロゼウス以外の弟に対しては面倒見のいい彼女だから、下から二番目の弟が大騒動を起こした際も心を痛めていた。吸血の副作用であるヴァンピルの狂気に陥ってしまったジャスパーは、ロゼウスの魔力から目覚めて正気を取り戻したが、それ以来自らのやったことを省みて落ち込みやすい日が続いていた。
 今では体調は完全に戻っているが、与えられた部屋に閉じこもって出ようともしない。
 重ねて彼女に弟の面倒を言いつけると、ミザリーは潤んだ眼差しで請け負った。
 それを見届けてアンリは窓から屋敷を抜け出そうとしたが、ふいに訪れた人の気配に足を止める。コンコンとノックの音がして、こちらの返事を待たずにするりと身を滑り込ませる影があった。
「アンリおにいさま~」
「エリサ」
 彼らが自由に使ってよいとジュダから与えられた部屋に、どこかへ行っていたエリサが戻ってきたところだった。外套を着たアンリの姿に目を丸くする。
「おにいさま、どっか行くの?」
「ああ。内緒にしておいてくれよ、エリサ」
「うん、わかった」
 元気よく返事した末の妹の笑顔と、控えめに微笑んだ美しい三番目の妹に見送られて今度こそアンリは屋敷を抜け出す。
 エヴェルシード王都シアンスレイトにほど近い、この屋敷。シェリダン王の要請にすぐに赴けるようにとの理由は表向きで、ここはジュダがシェリダンの動きを見張るために手に入れた館らしい。
 王都に近い事は、便利であると共に諸刃の剣だ。情報収集はしやすいが見つかって王城に捕まる可能性も高い。それでも、王都を離れてしまえば城の噂などまったく聞こえては来ないから、ここは確かに内乱を企む者が玉座を監視するにはうってつけの位置なのだろう。自らの行動はぎりぎり伝わらない範囲、自分が情報を得たいときは少しだけ遠出すればいい。
 そしてヴァンピルであるアンリにとっては、数時間で行って帰って来れる距離だ。馬車も馬もないが、自分の足で屋敷を抜け出し、王都へと戻る。こういうとき、アンリは力こそ弱いが吸血鬼王家の人間でよかったと思う。
 今回は髪を染めるほどの時間はなかった。もともとアンリの瞳の色は朱色っぽくて、エヴェルシード人とも近い。彼らの瞳の色は本来夕焼けのような橙色でもっと明るい色だが、何しろ国王であるシェリダン=ヴラド陛下は朱色がかった金という変わった色合いの目をしていたのだから、誰かに見咎められると言う事もないだろう。
 外套を着込みフードを深く被って、アンリは用心深く街中を歩く。王都の大通りに出てしまえば、出店の鮮やかさがふと目を引いた。
 市井の人々の暮らしは、どこの国でも変わらない。アンリたち吸血鬼の国ローゼンティアでは昼夜が逆転しているから、顔を隠す意味だけではなく日差しをも防いでくれるこの外套がなければ街中を歩くなんてことはなかったが、それでも星の綺麗な夜、ドラクルに連れられて城下町を歩いたことなどを思い出す。
 ああ、懐かしい。あれはもう、十……何年前だろう。アンリがすぐ上の兄である第一王子を無邪気に信じきっていた頃。ドラクルがロゼウスにしていることの実態を知る前。
 才能溢れる第一王子として厳格に育てられた割には、ドラクルの生活は自由だった。しょっちゅう仲間の貴族と街に出ては、身分を隠して遊んだり、危険な賭け事に手を出したりしていたのだという。おかげであの兄は王子の癖に、よくわからない様々なコネが城の内外にあった。
『一緒に来るかい? アンリ』
 手を、ひかれて歩いた。真夜中こそヴァンピルたちの時間。建物の間に張り巡らされた糸へ吊るされた明かりに道は照らし出され、幻想的な空気と庶民の暮らしの活気が広く狭い大通りに混ざり流れている。ドラクルは懐から財布を取り出して、アンリがあちらこちらで王城では見ることのないような珍しいものに視線を奪われている隙に、小さな菓子の詰め合わせを買ってくれた。
 安物の装身具を売る出店。おいしそうな食べ物の匂い。人込み。はぐれないようにと、繋がれた手。ぬくもり。ふいにこんなところまで来てしまっていいのだろうかと不安になって隣を見上げれば、『なんだい?』と穏やかに聞き返す笑顔。
 兄さん。
 ドラクル。
 あんたは確かに優しかった。優しい人だと思ってた。優しくしてくれたんだよ、俺には。
 なのになんで、ロゼウスにはそうしないんだ? 俺みたいな異母兄弟じゃなくて、二親血の繋がった実の弟なのに、なんで。
 今、ここにドラクルがいたらどうなっただろう。いや、そもそもドラクルがいれば、こんな事態に初めからならなかったに違いない。ローゼンティアが侵略されたのはシェリダン王の軍略が優れていたからかもしれないが、国内に裏切り者をいくらも出して、追っ手に追われて兄妹散り散りになるなんてことはなかったはずだ。
 そういえばアンリはドラクルが殺されたところは見ていないし、墓を暴いて甦りを確認したわけでもない。ルースが言っていたことを簡単に聞いただけだが、ドラクルは今どこにいるのだろう。
 甦ったのは間違いないとはいえ、そういえば彼は、《死人返り》のノスフェル家にしては、再生能力が低かった。弟のロゼウスが一度や二度くらい殺されかけてもぴんぴんしているのに比べたら(比べる方が悪いかもしれないが)繊細だとも言える。だから、あの時も兄妹で揃うことはできなかったのだろうか。ドラクルが死なずに指揮を取り続けていれば、結果は何か変わっただろうか。
「……駄目だな」
いつの間にか埒の明かない結果について考え込んでいたことに気づき、アンリは自嘲を浮かべながら顔を上げた。
 過ぎ去ったことを言っても仕方がない。考えなければならないのは常にこれからのことだ。自分がしなければいけないこと、した方がいいこと。どんなに考え込んだって今現実にここにドラクルがいないのだから、他の兄妹の安全に関しては一番年長であるアンリが全ての責任を負う。
 彼にできることはそのくらいしかない。アンリは奇人王子のヘンリーほど策謀に富むわけではないし、ロゼウスやロザリーほど身体能力的に強いわけでもない。何か、ローゼンティアの再興と人質の身柄と引き換えになりそうな価値あるものを持っているわけでもない。
 考えることだけが、アンリの武器。
 しっかりしろ、知略王子アンリ。ローゼンティアそのものを奪還するとまで大きくは出られないが、それでも今ロゼウスとロザリーを救えるのは俺たちだけだ。
 アンリの剣の腕は人並み程度だし、ウィルは兄妹の中ではドラクル、ロゼウスに次ぐ実力を誇るがそれでも病弱なミカエラや無力なミザリー、エリサを守らねばならないことを考えるとリスクの方が大きい。腕ずくで行動は無理だ。かといって、今いる兄妹では連携をとって作戦を行うのも難しいだろう。
「せめて、もう少し情報と人が揃えば……」
 道を行き交う人々の様子は平穏そのもので、時折いかめしい顔立ちのごろつきが通るのをついつい眺めてしまう。身につけていた装身具の幾つかはまだ処分せずに残してあって、それを売れば相当な金になるはずだとは昔ドラクルに夜遊びに連れて行かれたせいでわかっている。その金で、彼らのようなごろつき連中を雇うのはどうだろうか? 考えて自分で駄目出しする。危険が大きすぎるし、エヴェルシード人がヴァンピルに協力してくれるとは思えない。シェリダンはアンリたちを一応懸賞金付きで、体裁だけかも知れないが探しているのだと言う。どう考えてもそちらにアンリたちを売った方が得だと普通は考えるだろう。
 ああ、八方塞り。
 いかにも粗暴な一人のごろつきを眺めながら、どうにか丸めこめたらなぁ……などと考えて歩いていたせいでアンリは道を行く誰かとぶつかった。女性の小さな悲鳴があがり、ついで慌てた男性の声がする。
「きゃわっ!」
「姉上!?」
「あ、申し訳な……い?」
 自分と同じようにフードを目深に被っていた二人組に軽く謝罪の言葉を述べようとしたアンリは、その彼らの顔を見て思わず動きを止めてしまう。
「ヘンリー!? アン!?」
「アンリ!?」
「兄上!」
 吸血鬼も歩けば弟妹に当る。
 顔を隠しながら連れだって歩いていたのは、アンリ同い年の妹である第一王女アンと、六つほど年下の弟である第三王子ヘンリーだった。
 最後の駒が、この手に揃う。