荊の墓標 18

097

 そんなことがあったことすら、本当は忘れていたかったのに。

 胃の奥に溜まるような吐き気が消えない。
「うっ……うぇ、ごほっ……」
 酷く体調が悪く、洗面所から離れられない。こめかみや首筋に汗をかいてしまって、長い髪はこういうとき鬱陶しくなる。頬に垂れかかった一房まで汚さないよう指で押さえてから、カミラはもう何度目になるかもわからない嘔吐を繰り返した。
「うっ…………気持ち、悪い……」
 整理的な涙は浮かび、すでに頬を伝っている。それでも胃の中のものを吐ききってようやく納まったのか、少しだけ体中の嘔吐感は軽くなった。気づけば首だけでなく、肘の内側や脇の下、様々な場所に汗をかいている。鬱陶しい。気持ち悪い。どうにかさっぱりしたい。
 口の中を丁寧に水で漱いで、顔を洗ってようやく人心地つく。嫌なにおいを早く追い出したくて、部屋の窓を思い切り開け放つ。  
 ここ数日、ずっとこんな風に身体が辛かった。シェリダンを殺すために御前試合に乗り込み、結局ロゼウスを取り戻すこと叶わずローゼンティア王家の数人の人々だけを連れてイスカリオット伯が王都郊外に手に入れた屋敷であるここに、移ってから。
「カミラ姫、私ですが、入ってもよろしいでしょうか?」
 寝室に戻ると、丁寧で優雅なノックの後に、そんな言葉が聞こえた。カミラは長椅子に横たわりながら、どうぞ、とだけ答える。
「あれま、相当お辛そうですね」
 屋敷の主人であり、共犯者であるとはいえ来客のイスカリオット伯爵ジュダ卿。彼がわざわざ部屋まで足を運んだにも関わらず横たわった状態で出迎えたカミラを見て、ジュダはぱちぱちと長い睫毛を瞬かせた。
「気分が……全然よくならなくて」
 だるい、まだ吐き気がする。起き上がるのが辛くて、椅子に座ってさえいられない。けれどこの時間から寝台に寝転がるなんてことも抵抗があって、しかたなくカミラは長椅子に軽く身を横たえていた。
 彼女の様子をじっと見ていたジュダは、その手に何かを持っている。
「お食事の方は」
「無理。食べ物の匂いを嗅ぐと、気持ちが悪くて……」
「……ああ、そうでしょうね。そうだろうと思って、こちらを用意しました。どうぞ殿下」
 彼は本来自らの手で荷物を運ぶなどせずとも良いような身分ではあるが、カミラと二人きり、もしくはハデスやここには今いないドラクルなどを交えて三、四人で話す時にはこうして自ら給仕の役を買って出ることもある。
 ジュダがカミラの目の前に置いたのは、よく冷やされて水滴の浮いた硝子の器に入れられた飲み物、どうやら水らしかった。
 薄水色の硝子細工が涼しげで何とも心地良さそう。その風情に惹かれるようにカミラはふらふらと手を伸ばし、その飲み物を手に取った。
 冷たい器に唇を触れて液体を口に含むと、爽快な酸味と共に心洗うような潤いが弾けた。
「おいしいわ……」
「単なる檸檬水なんですがね。ただの水よりはこちらの方がお気に召すのではないかと思いまして」
 思ったよりも渇いていたようで、一度口に入れると後は止まらなかった。ごくごくとその器を飲み干してしまう。
「まだおかわりはありますから、そう焦らずに」
 気遣いとは裏腹にどこか冷めたような眼差しをしたジュダがそう言う。
 気のせいか、彼の視線は椅子の上で身を起こしたカミラの身体の下のほうに向けられている気がする。
「どうしたんですの?」
「いえいえ。別に。ただ、男である私にはわからない感覚でしょうからね」
「何を言っているの?」
 彼の言っている事がわからない。相変わらず伯爵の視線は、カミラの下腹部辺りに向けられている気がする。これが普通の男性なら好色な意味合いを危惧するのだろうが、生憎とこの伯爵はカミラに関してそういう興味は全くないと常から言い放っている。
 その彼の次の言葉に、だから彼女は息を飲んだ。
「話にしか聞いていませんけど、悪阻って相当辛いらしいですね」
 息が、止まる。思考も。
 手の中から力が抜けて、檸檬水の入った器を取り落とす。床に落ちた硝子が無惨に砕け、きらきらと凶悪なまでに光り輝きを反射する。
「な、今――」
 この男は、一体なんて言ったの?

 私はあの方を愛している。心の底から、あの方を手に入れて閉じ込めて二人で生きられたらどんなに幸せだろうかと想っている、ロゼウス様。
 けれど彼は、私にとっては殺すなどと生温い、未来永劫の地獄に突き落として絶望させたいほど憎いシェリダンの手の中。
 
 そしてこのお腹の子は、世界一愛しい男と世界一憎い男、そのどちらの子なのかわからない。

 《続く》