第7章 湖底の王家(1)
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「裏切ったな、クローディア」
男はそう言って、妻の首筋に剣を突きつけた。女の優雅にして繊細な印象を与える細い喉首に、一筋の朱が走る。室内に一瞬香った鉄の香りは、えもいえぬほどに馨しい。
そして女は嫣然と笑う。
「ええ。裏切りましたわ。それが?」
だからどうしたと男の激昂をなんでもないように受け流して、さらりと女は言った。夕餉の時間に食卓を共にする息子に今日一日の成果はどうだったと尋ねるほど自然に、気がなく、うっすらと微笑みすら浮かべて聞き返した。
「ふざけるな。貴様はとんだ売女だったな。まさか私を裏切り、フィリップと通じていようとは」
「ヴラディスラフ大公は素晴らしい方でしたわ。さすがあなたの弟君です」
「殺されたいのか? その忌々しい口を閉じろ」
「私が何を言っても、殺す気なのでしょう? だったらせめて言葉を紡ぐことくらい自由にさせていただけません?」
「クローディア」
名を呼ばれ、女の喉からはひくりと引きつった音が漏れる。
あからさまな嘲笑いの響を乗せて、女は狂ったように笑い続ける。
「あははははははは! いい気味だわ! やっと、やっとあなたにそんな顔をさせることができた! これで私もこの国に、あの家に、生まれてきた甲斐があるというものよ!」
女は笑う。
狂ったように笑う。
すでに狂っている。
それを、男は憎悪の念の篭もる眼差しで見つめていた。
裏切り者の女は、それでもなお弾劾をやめない。裏切り者の女は、自分の行為は当然だと正当化し、自分を裏切りに走らせた男を責め続ける。二人の間に愛情などと言うものはもはやなく、二人は夫婦であるのに他人だった。いや、夫婦だからこそ、他人だったのかもしれない。
「あなたは、いつも私を見ない」
「……ディア」
「いつもいつもいつも、政略結婚で嫁いで来た私に恥をかかせるほど蔑ろにして、あのアグネスだけを見ている。アグネスだけじゃないわ。マチルダだって、私以上に二人を可愛がってそうして満足なのでしょう」
「お前には十分な暮らしを約束している。望みのものがあれば、何でも与えた。屋敷も、使用人も、宝石も、美食も、衣装も、美しさを保つ薬液も、社交界の重鎮たちとの晩餐会も開いた。そこまでしてやって何が不満だ!」
ついに、男は女を怒鳴りつけた。初めは鋭いばかりで冷たかった声音に、今は煮え滾るマグマのような感情が宿っている。
男は嘆く。
泣きはしない、けれど心が嘆いているようだった。どうしようもなく痛みを訴えている表情だ。その痛みすら隠して、歪な笑みを浮かべて男を罵り続ける女の首筋に剣を当てていた。
女の白い喉からは、紅い雫がすでに鎖骨の辺りを濡らすほど零れている。けれど彼女はそれを気にした風もなく、ただ酷薄な微笑を浮かべて夫を見ていた。
ここで殺されるのなら、それが本望だとでも言うように。
女は間違いなく男を愛していた。そして同じくらいに憎んでいた。
殺してやりたいくらいに、憎い。
愛していると言えないほどに、愛している。
だから裏切ったのだ。当然の報いだ。女はその表情で告げる。
夫以外の男との間に子どもをもうけ、その子どもを厚顔にも堂々と、夫の子どもだと偽って育てさせた女の顔には母親としての情など全くなかった。彼女はその細胞の隅から隅まで、夫であった男への憎悪に囚われていたのだ。
「あの子、は」
そこまで割り切ることのできなかった、愛してはいなかったが愛されているとは思っていた妻の裏切りを知った男は呆然と呟く。
「私の子では……なかったのか」
男は自室の応接用のテーブルに用意されていたワイングラスを、ふらつく体をそのテーブルに手をついて支えた拍子に倒す。毛足の長い絨毯に受けとめられてグラスは無事だったが、転がったそれは、女の足元まで届いた。
男が買い与えた華奢な靴の爪先にあたったグラスを女は侍女を呼ばず、自らの手で拾い上げる。スプーンより重い物を持ったことがないと言われるその繊細な指先が、割れてはいないが小さく皹の入ったグラスを持ち上げ、それがまだ使えることを確かめてから絹の手巾で丁寧に拭った。
男は気づかない。
皹の入ったグラスを拭う女の口元には、また今までとは違った笑みが浮かんでいる。それは寂しげで切なげで、今にも消えそうな儚い幽鬼の未練だ。
彼女の三人の子どものうち、二人は父親に似た。一番初めの息子と三番目の子どもである二番目の息子は父親に。そして二番目に生まれた一人娘は、彼女自身に似ていた。風が吹けば倒れてしまう可憐な花のような風情。それを美しいと見るか、鬱陶しいと考えるかは人それぞれの好みによるだろうと言われた容姿の、彼女と。
女は満足だった。今更裏切りが明かされたところでなんだと言う。正妃の彼女を差し置いて夫が妾を作ってから、もう彼は彼女には必要最低限しか触れる事はなかったのだ。今回のこれで、もう完璧に触れることはなくなるだろう。だから。
女は皹の入ったグラスを手巾で曇り一つなく丁寧に拭い終わると、それをそっと、まるで何か神聖な儀式でも行うようにテーブルの上に戻した。そして、代わりにテーブルに置いてあったワインの壜を手に取る。
「私が憎いのならば、どうぞ裁いてください。陛下」
滾々と悲しみの泉は湧き出て、胸を溺れさせる。ああ、湖の底で、息ができない。
男がテーブルに近付く。女がテーブルに近付く。
男がワインボトルを持ち上げる。女がグラスを持ち上げる。
男が壜の中身を注ぐ。壜自体の色は翡翠のような濃い緑だったが、流れ出た色は血のように紅い紅い葡萄酒だ。
女は透明なグラスに、その紅い液体を受け取る。たぷたぷと硝子の杯の中で揺れる液体は、不自然なほどに美しい。
そのグラスを、女は再びテーブルの上に戻した。
そのグラスに、男が手を伸ばして、懐から取り出した何か紙包みを開き、白い粉を混ぜた。
紅が揺れる。透明な硝子の世界のような器がその紅に染められ、水面は凪ぐこともなく揺れ続ける。
毒杯。
目の前で行われたそれをどう誤魔化すのか隠すのか煙に巻くのか。
しかし、そんな必要はなかった。何故なら女は知っていた。それは男がこの女のためだけに用意したとっておきの美酒なのだ。責めるつもりも探すつもりも追求する気もないから放置し、白々しく微笑んで再び杯に指を伸ばす。
白い指が、紅に染め抜かれるような幻視が一瞬目の前を覆った。しかしそんなことにはならない。あの紅は透明な硝子の中にあるのだ。硝子の壁で阻まれている限り、こちらが濡れることはない。当然だ。わかっていた。けれど幻視は女がその杯を煽った一瞬後に、現実となる。
指と同じように細く白い喉を精一杯艶かしくのけぞらせるようにして、女はその酒を一息に飲み干す。致死量の毒が、その内部から焼いた。すぐさま拒絶反応が起こり、女は胃の内部から競りあがってきた大量の血液と共にその液体を吐き出した。
ガシャンとけたたましい音がしてグラスはその手から取り落とされ、ふらついた彼女がぶつかったせいでテーブルの上の、まだ半分以上中身の残っていた壜までもが倒れた。
紅に、濡れる。
アイボリーの絨毯も、女の薄青いドレスも、白い指先も、薔薇色の唇も、何もかもがその紅に染め抜かれている。禍々しいほどの紅に包まれて、女は数瞬、命を失う。
「……クローディア」
男が声をかけると、女は緩慢な仕草で顔を上げて彼を見つめ、言った。
「これで一度、死にましたわ」
「ああ」
「いくらノスフェル家の者だと言っても、私にはもういくらも再生能力がありません」
「ああ」
「次に死んだ時が、この命の終焉となりましょう」
「ああ」
哀れな吸血鬼よ。
人に近付くためにいつの間にか退化した翼の一族よ。
彼女は口元を緋色の凄惨に染め抜き。
「次にあなたが裏切られた時が、私の《死》となりましょう」
あまねく憎悪と寂寞と後悔と欲望を抱えて、還らない死人。
「ああ」
男は、凪のような声音で小さく頷いた。
テーブルの上で倒れた葡萄酒の壜は、血のように紅い水溜りを作り、その雫をいつまでも床へと零していた。じわじわとその紅いかいなは広がっていく。獲物を絡めとる蜘蛛の巣の執拗さで、床を這う。
それはさながら、紅涙のように。