荊の墓標 19

099

「皇帝陛下がいらっしゃる?」
「ああ」
 ロゼウスはその話を、練兵場でシェリダンとの剣の稽古が終わった直後に聞いた。兵士たちの休息と同時に彼らも休憩をとり、水の入った器を片手にシェリダンの言葉に耳を傾ける。
 ロゼウスとシェリダンの距離は微妙なままだが、前のように監禁されることはなかった。その代わり、何か特別じみた言葉をかけられることもなくなった。ただ、シェリダンの求めるままに体を差し出す日々が続いていた。そしてその一方で、ロゼウスはエヴェルシードに来てから放置状態になっていた剣の稽古を再開させられた。
 それはシェリダンにとって、諸刃の剣どころでない危険な賭けだ。ロゼウスが彼を守る気があるのならば腕が鈍らないことは良いことだろう、けれどロゼウスがもしもシェリダンを害する気があるのならば、ロゼウスに剣を持たせるのは自殺行為。そしてこれまでの彼らの関係で、ロゼウスがシェリダンに好意を抱くなんて、普通に考えたらありえない。
 それでも現実は理屈で図れないということなのか、ロゼウスはシェリダンを殺さなかった。
 いつかロゼウスに斬り殺されるのではないかと思い、それを受け入れている様子のシェリダンに気づきながら、当たり障りのない会話、当たり障りのない行動をして日々を送る。
 前みたいには戻れない。だけど、今更憎むこともできない。
 そしてこれ以上、二人の間で何かを失うのは嫌だった。
 愛してほしいと期待して、愛されていると勘違いして一方通行の空回りに絶望した挙句の醜態を晒すのは、ドラクル相手だけで十分――。
 ロゼウスはもう、誰のことも想わない。ジャスパーのことも受け入れられない、自分が誰かを思ったり、思われたりするわけにはいかないんだ。だから。
「ああ、第三十二代世界皇帝、デメテル=レーテ=アケロンティス陛下だ」
「いつ来るの?」
「来週の頭だ。ハデス卿から連絡があった」
 友達とは少し違うけれど、普通の同年代の少年として当たり障りのないように……ロゼウスがシェリダンとの間に望むのは、当たり障りのないものばかりだ。
 話題はそのまま、練兵場の端の長椅子を一つ占領してこれからこの国を訪れるという世界皇帝のことを続ける。
「アケロンティスの神、世の絶対の支配者、世界皇帝か」
「今のデメテル皇帝陛下は、治世百年を越している。歴代の皇帝の中では中堅から名君に評価があがったところらしいが、これからさらに彼女の治世が長引けばその名は華々しく歴史に残るものとなるかもしれないな」
「セラ=ジーネの奇跡の灌漑政策、サジタリエンとラウザンシスカの紛争調停、それからセレナディウスの第二王子との一方的恋物語……」
 最後の一つだけ何か違うが、現皇帝はそれなりに華やかな功績を世界に残している。その即位から波乱万丈で、平民から皇帝に選定された彼女が、自らの本来の選定者を拒否して弟のハデスに譲ったという逸話はどこの国でも有名だ。
 そしてもう一つ、彼女には人々に噂されるような特徴がある。
「黒の末裔から、皇帝になった人か……」
 アケロンティス、バロック大陸の外れにある存在すら否定されている小さな大陸。もともと黒の末裔は、そこから移動してきた民族だという。それ故、歴史の当初には彼らに対する差別も少なくはなかった。
 黒の末裔は、総じて不思議な力を持つ。
 魔力。
 それは本来ロゼウスたちヴァンピルや、セルヴォルファスのワーウルフ、そして帝国に加盟していない、国を持たない幾つかの小部族のような魔族だけが持っている力だ。人間はほとんど魔力を持たない。
 しかし、黒の末裔は違った。彼らは魔族と同じように、自由に魔力を操り、不可思議なできごとを起こすことができた。それでいて姿形はその髪と瞳の色が際立って神秘的な黒髪黒い瞳であることを除けば、人間と全く同じ。それゆえ彼らは大陸にて異質な存在として恐れられていた。
 長い歴史の中で、黒の末裔と呼ばれる民族は迫害されたこともあれば、その魔力で大帝国を造り上げ逆に他民族を支配したこともある。しかし最終的には大陸の覇者の座を追われ、帝国が始まってから長い迫害の宿命を辿ることとなった。
「黒の末裔、今ではそう呼ばれている黒の民だが、もともとは何と呼ばれていたか知っているか?」
「……知ってる」
 暗黒の末裔。
 そのように呼ばれて、迫害されてきた人々がかつてこの地にはいた。
「人間とは醜い物だな、ロゼウス」
「ああ……俺は人間じゃないけど」
「しかし、魔族は黒の民を魔族とは認めなかったんだろう?」
「仕方がない。だって彼らの力は、俺たちとは別の理の中で動いているものだ」
 醜いのは人間だけではない。ヴァンピルやワーウルフ……人狼のように、極めて人間に近い姿をとれる魔族はその心の動きも人間と近しい。ロゼウスとシェリダンは全く別の生き物のはずなのに、こうしてみれば全然変わらない、同い年のただの少年同士だ。
 休憩時間が終わり、兵士たちが続々と練兵場へ訓練に戻る。それでもシェリダンが動き出さないので、ロゼウスも座ったままでいた。そもそも場内にいっぺんに全ての兵士が入ってしまえば人で溢れかえってしまうので、適当に休む人間がいるくらいでちょうどいい。
 その適当加減は優秀な指揮官が、それぞれの疲労度や模擬戦闘の組み合わせの事情、強さなどによって考慮する。しかしそれも、ロゼウスの隣にいる少年、この国の王、シェリダン=ヴラド=エヴェルシードに関しては例外だった。
 ロゼウスは水を飲み干したグラスを置いて、シェリダンの反応を待つ。ロゼウスは基本的にシェリダンとしか対戦を許されていないから、彼が動かなければ動けない。
 自分は命以上に大切なものを、彼に握られている。
 他の人間と試合ができるのは、シェリダンが認めた場合だけだった。それもただの一般兵と当るのではなく、大抵が名のある将軍相手だったりするので性質が悪い。ロゼウスが勝ったり相手が勝ったり結果はまちまちだけれど、その全てをシェリダンは有効活用しているようだった。
 確かに、強さと真面目さはいつでもイコールでないとはいえ、エルジェーベトのようにエヴェルシードに対して従順な兵士ほど訓練に手を抜かないためか、強い。唯一の例外はイスカリオット伯爵くらいのものだ。彼の剣には、ロゼウスもさすがに本気を出さないと勝てないだろう。そしてヴァンピルの本気とは、通常出してはいけないものなのだ。
 ざわざわと、ロゼウスは自分の体の中で血が騒ぐ感覚を覚える。御前試合の一件以来、変わったことはとくにない。それなのに何故か、ことあるごとに落ち着かない気分になる。
 まるで幼い頃病を得た時のように、自らの身体がだんだんと作り変えられていくような不快感。なのに、ロゼウスは自分ではそれをどうすることもできない。
 それは、人の血を吸うこともなく、薔薇を食むことによって狂気の吸血欲求を抑えることもなくなった時に発現するヴァンピルの力が覚醒するときと似ている。
 けれど、違う。
 これは、違うものだ。
 その何か違うものが、今ここでシェリダンから大地皇帝と呼ばれる黒の末裔から出でた皇帝の名前を聞いた時、少しだけ疼いた。
「……何はともあれ、皇帝陛下が来るんだ。弟で帝国宰相のハデスと一緒にな」
「ハデスはいつも来てると思うんだけど」
「形式上だ。彼は帝国宰相と言うより摂政と言ったほうが正しいような位置にいる。それもどこまで仕事をしているのかは謎だが、皇帝陛下がただ一人で責務をこなすことはほとんどないというのだ」
「え? 何それ」
 皇帝なのに、世界の君主なのに政務を行わない?
「世界皇帝とは神に選ばれし者。その神がラクリシオンであろうとシレーナであろうと関係ない。皇帝とはどれだけ優れた技量を持って世を統治するのかではなく、ただそこにいることこそが重要なのだろう」
 する、ではなく、在る、ことこそが重要となる。それはまさしく存在そのものを渇望されている存在。
「そしてその皇帝陛下は、我が花嫁―――つまり、お前を見たいそうだ」
 ロゼウスは、どう返事をしていいものか、わからなかった。

 ◆◆◆◆◆

「あなたは酷い」
 呪詛のように低く囁いた。
 体が重い。あちこちが痛い。弄ばれた四肢が凍りつき、自由に動いてはくれないようだ。
 こちらのそんな様子とは対照的に滑らかで美しい白い背中を晒す女の後姿を睨み付けた。
「あなたは酷い」
 掠れた声で繰り返せば、気だるげな表情で女は少年を振り返る。
「あらあら、心外ね。楽しかったでしょう? ハデス」
 楽しかったのはお前だけだろう。飛び出そうになるその言葉を飲み込んだ。今の彼女には何を言っても通用しない。わかっている。それでも怨嗟の言葉は、うちに閉じ込めているには重すぎた。暗すぎた。
 紅い蚯蚓腫れが走る肌、寝台の敷布に零れた血。
 帝国宰相なんて名ばかり。ハデスはこうして、皇帝であり姉である女の癇癪を受けとめるため、だけに存在する。
 帝国の皇位継承は血筋ではなくただ選定者の託宣のみによって決められるものだから、ハデスはただそこにいるだけでは、姉さんの臣下にあたる者たちから敬われることすらない。周囲の眼がようやく彼……ハデス=レーテ=アケロンティスという存在を認め始めたのは、ハデスが皇帝の執務に口を挟めるような実力をつけてからだった。
 それまでは、ハデスはただの玩具だったデメテルは機嫌が悪いからと言って、臣下に当るようなことは滅多にしない。彼女が部下の首を斬る時は、その相手が本当に帝国に不利益をもたらした無能である場合だけだ。
 その代わりに、ハデスにあたるのだ。それはただの暴力であったり、性的暴行だったり精神的なものだったりと様々だが、ハデスを傷つけることで楽しんでいるのは間違いない。
 この世で唯一絶対の存在、それ故に孤独な皇帝の、怒りの受け皿。
 ハデスは物心つくまでに、何度死に掛けたことか。皇族となれば体の成長が止まるから、それまでは簡単に皇帝の身内として登録もできないのだ。世界を無限のときをもって支配するべき皇帝に寄り添って生きるために、皇族となった者は皇帝と同じように、その体の成長を止める。
 この腕の、選定紋章印と共に。
 ハデスは偽りの選定者。本当の選定者は父親だったのに、デメテルはその父親を殺し、腕の皮膚を弟に移植してまで父親から選定者の資格を奪った。
「どうしたの? ハデス。泣かないでよ」
 細い指が伸びる。まだ無惨な痕が残っている頬に触れる。ぴりりとした痛みが傷口に走り、ハデスは顔をしかめた。
「そんなに嫌だった? じゃあ、今度はもっと優しくしてあげるから……」
 白い肌が降りて、額に口づけられる。柔らかな唇の濡れた感触も、今は不快なだけだった。
 薄暗い部屋の裸の男女。だけれど、自分たちはきょうだいだ。姉と、弟だ。許されるはずもない行為に溺れて、反吐が出そうになる。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!
 ハデスは父も母も知らない。ハデスが生まれてすぐにデメテルは両親を殺害してしまったから。ハデスはデメテルが皇帝になった後、どうしても兄妹が欲しいと両親に頼み込んで生ませた子。最初から、ただデメテルのためだけに生まれてきた子。
 ハデスが生まれた時、両親はさぞや喜んだことだろう。デメテルは父と母に約束していた。もう一人兄妹を作る代わりに、両親を皇族に入れると。そうすれば二人はデメテルの治世が終わるまで不老不死として、しかも皇帝の身内として贅沢な暮らしができる。こんな幸運は簡単に手に入るものではない。
 もともと黒の末裔は、虐げられていた民だ。両親はさぞかし、生きるだけで苦労しただろう。それが降って湧いたような皇帝宣言。嬉しくて涙も出るはずだ。
 もっとも、結局その期待は叶わなかったわけだけれど。
 いつかデメテルはハデスに語った。自分は両親に虐待されていたのだと。特に父親からは性的虐待と言われるようなことまでされた。
 その憎しみと折り合いをつけ、馴れ合うだけではなくいつか牙を向くためにと磨かれた力が姉を……デメテル=レーテを皇帝の座にまで引き上げた。
 デメテルが生涯でついたたった一つの嘘は、両親に不老不死を約束したことだけだ。今では大地皇帝デメテルは、嘘をつかないことで有名だった。
「ハデス」
 だからこの言葉は真実。
「愛しているわ」
 うっそりと微笑むその顔の下で、彼女はハデスを通して一体誰を見ているのか。
 デメテルは忌み嫌われた黒の末裔ではあるが、美人だ。そしてなんと言ったって皇帝だ。皇帝が伴侶を持ってはいけないと言う法はないので、彼女の求婚者はいつの時代でもひっきりなしに訪れている。
 けれど、その全てにデメテルは良い返事を返さない。その理由がハデスだ。
 ハデスはデメテルのために生まれた。そしてデメテルのためだけに生きねばならない。そのために生まれてきた自分だから、姉さんは僕だけを愛している。
 彼女のために生まれ、彼女の手のひらで転がされるためだけに生きる自分を。
 結局デメテルは、ハデス以外の男が怖いのだ。男だけでない、女も、全ての人間が怖い臆病者なのだ。
 虐待されて育った子どもは、将来自分の子どもをも同じように虐待してしまうのだと言う。
 ハデスはデメテルの子どもではないが、彼女が十九の時に生まれて以来、両親の手もなく育てさせられたんだから似たようなものと言えなくもない。
 もちろん、そうして虐待を受けて育った子どもが誰もがみんなそんな風に育つなんて思ってはいないが、デメテルに関しては明らかにそういう生き方しかできない人だった。
「あなたは酷いよ、姉さん」
 細い指が伸びてきて、萎えかけたハデスのものを掴む。
「あっ、あっ……」
 やわやわと丁寧ながらじれったい愛撫に、意識を持っていかれそうになる。
「私はそんなに酷い?」
「あ、ああ」
 きゅっと力を込めて握られ、もどかしさに目の端に涙が浮かぶ。さんざん傷つけられた肌をなおも甚振るように、デメテルは胸についた紅い血の流れる場所を舐めた。
「い、痛……」
「可愛いわよ、ハデス。私の、私だけの大事な……」
 あなたのこれは、姉が弟にする扱いじゃない。
 始めの頃はもっと抵抗していた。いくら皇帝と言えど、こんなことは許されないはずだ。けれど、無駄だった。彼女の不興を被るのが嫌な召し使いたちも、率先してハデスを売り払った。
 デメテルの指が男根を弄んで、熱を昂らせていった。無理矢理絶頂に押し上げられて、身体的にも精神的にも限界が来る。
「あっ、ふ、はぁあ!」
 言葉にならない声が漏れて、同時に姉の白い手を濁った汁が濡らした。顔を紅くし、肌は汗で濡れ、達した直後の気だるい恍惚に呆然と気を抜いているハデスの様子を見て、デメテルは酷薄に笑った。
 情事の名残にぽろぽろと、生理的な意味とそうではない意味で涙が浮かぶ。
 熱い雫は頬を滑り落ちて、それをまた顔を近づけてきたデメテルの舌が拭った。
 ああ、なんて強固な透明の牢獄。
 実際に手錠を使われたり、鎖で戒められたり、檻に入れられたりしているわけじゃない。だけれど、ここは間違いもなく牢獄だった。この世界は全て。
 アケロンティスにデメテルの手の届かない場所などない。どこへ行ったところで、デメテルの命令であれば逆らえる者もなく、いずれハデスは引き渡されるだろう。何故そんなに確信を持って言えるかといえば、ハデスはもうすでにそうやって脱走を試み、失敗したことがあるからだ。
 デメテルが皇帝である限り、ハデスは彼女のもとから逃げ出すのは無理だ。憎んでいたとはいえ両親を殺した事はやはり彼女に大きな影響を与えたらしく、唯一の家族であるハデスへのデメテルの執着は半端ではない。
 では、デメテルが皇帝でなくなればどうだろうか?
「あっ!」
 ぼんやりといつもの場所に思考が辿り着いたところで、何度も達するよう強制されてもはや力を失っていた場所に、再び指と、今度は唇も添えられる。
「や、やめて」
 また強制的に追い上げられたところで、今度はデメテルが動く。
「っ…………!」
 生温く、しとどに濡れた粘膜に受け入れられる。悦楽と嫌悪はない交ぜになり、身体を喜ばして精神を絶望させた。
「姉さっ……!」
 思わず喘げば、秀麗な面差しが暗く笑った。
「一緒に堕ちていきましょう、ハデス。可愛い、私の弟」
 いつか、殺してやる。
 その座から引きずり降ろしてやる。
 肌を重ね体を絡ませながら、ずっとそう思っていた。皇族の不死身の力は、《冥府の王》としての力をつけることには役立った。何をやっても死なないのだから。
 姉さん、あんたの未来はとっくに潰えているんだ。
 瞼の裏に、白い髪と紅い瞳を持った美しい少年が像を結ぶ。次の皇帝は、彼だ。
 愛していると囁けるほど大事なものも持たないハデスは、いつものように姉の責め苦を受けながら、そう考えていた。