100
そして、彼女はやってきた。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下。我が国にお越しいただき、光栄の至り……」
「ええ。はじめまして。エヴェルシード国王シェリダン」
挨拶はその人の性格が性格だけに、全く堅苦しいところもなく終わった。妻であるローゼンティアの姫君はシェリダンの隣で、彼に寄り添うようにして礼を取る妻の役目を厳重に言いつけられた。
一国の王であるシェリダンですら平伏して向き合わねばならない相手。目の前に堂々と立つのは、黒髪に黒い瞳の美しい女性だった。
世界《アケロンテ》、別名アケロンティス帝国。
その帝国を治める神にも等しき立場の女性。
第三十二代皇帝。デメテル=レーテ=アケロンティス。
大地皇帝と呼ばれる彼女は、黒の末裔の一人だ。艶やかで豊かな体つきは違うが、その顔立ちは弟であり、彼らとは顔なじみである帝国宰相ハデスに似ている。実の姉弟なのだから当然だ。
謁見の間で普段は玉座について相手を迎えるシェリダンが、今日は広間の中央にて、皇帝デメテル陛下の眼前に跪いている。黒がかった深い緑の、体の線を強調するような際どいドレスを細い身に纏った皇帝は微笑んで彼の臣下の礼を受けた。
陛下の白い手をとり、シェリダンがその指先に口づける。
帝国とは幾つもの王国や部族を併合して作られた国のこと。一国の王は、帝国の皇帝にとっては臣下の一人にあたる。だから、普段エヴェルシードで一番偉い上に、植民地化したローゼンティアに対しても優位なシェリダンもここでは一臣下、この広大なるアケロンティス帝国の領地の一つを任されただけの公爵という立場に戻り、頭をたれなければならないと言う。
「顔をお上げなさい」
皇帝陛下の促しにより、シェリダンは彼女の手を離し、立ち上がってその人に向き直った。
弟のハデスとよく似ている皇帝陛下は、それも弟と同じように、翳りとも悦楽ともつかない不思議な淡い笑みをいつも深紅の口元に刻んでいる。
「エヴェルシード王、結婚されたと聞いたけれど?」
「はい。こちらがこの度迎えることとなった我が妻です」
シェリダンが振り返り、後方に控えていたロゼウスと一瞬だけ視線を合わせる。
そして彼は、名を呼んだ。
「ロザリー」
頭を垂れて跪いた姿勢のまま控えるロゼウスの傍らから、名を呼ばれた妹が進みでる。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下。わたくしはロザリー=ローゼンティアと申します」
白と薄紅を基調とした可憐なドレスを身につけたロザリーが、優雅な礼をとる。
「ええ。知っているわ。今は亡きローゼンティア王国の、第四王女殿下」
亡国の王女は、慎ましやかだが硬い表情で頷いた。決して出すぎず、敵意を向けず。それでいて完全に服従する様子を見せないようにというのだから、無茶な注文だ。
本来ロゼウスがやるべき役目を全て受け持っているのは、ロゼウスの妹のロザリーだった。皇帝の前で醜態を晒す事は、王国そのものが権威を失うことに直結する。国王の迎えた花嫁が男だったなんてバレた日には……考えたくもないので、今回ばかりは替え玉を使うことにしたのだ。
ロゼウスとロザリーは異母兄妹にしては顔が似ている。体格もほとんど変わらないし、年齢だって一つ違いで、それぞれ第四王子と第四王女。こっそりと入れ替えるのにこれだけ適した替え玉もいないだろうと。
だから今、シェリダンの隣にはロゼウスではなく、ロザリーがいる。彼女は正真正銘の女の子だし、シェリダンがローゼンティアの王女を妻に迎えたことは有名だけれど、その王女の名前までは知られていない。もともとロゼという偽名には《ローゼンティアの王族》という意味があって、そんな曖昧な言葉で誤魔化していた、国内に限った問題ならば。
ロゼウスは今、本来の男の格好に戻り、ただの捕虜の一人として、ロザリーの兄として部屋の隅に小姓のエチエンヌ、侍女ローラ、侍従のリチャードと一緒に控えている。
「それで、エヴェルシードの今年の……」
一通り挨拶を受けたあとは、もうそんなことはどうでもいいと、デメテル皇帝陛下はシェリダンと政治の話に入ろうとしていた。いや、小難しい話の合い間によくわからない世間話が気まぐれに差し挟まれるらしく、ロザリーは二人の間で困ったような顔をしている。
そして俺は。
俺は、どうすればいいんだろう。
「では、いつまでもこの場所で立ち話はなんですから、部屋を移りましょう。何か御要望がありましたら、このバイロンにお申し付けください」
「ええ」
とりあえず現在この国の最高待遇で迎えられることになった皇帝陛下に、シェリダンは慇懃に腰を折りながら礼をする。すぐに歓待の晩餐会が開かれる予定らしいが、それにはエヴェルシード国内の貴族だけでなく、各国の代表者も参加するのだという。
シェリダンはいつになくきちんと着飾らされたロザリーを連れて、皇帝陛下をきちんとした客室にエスコートする。バイロン宰相も一緒だ。
三人の姿が消えてようやく、室内の端に控えていた侍女や小姓たちが動いてよいということになる。ロゼウスやエチエンヌたちも立ち上がり、ずっと跪いた姿勢で凝った全身を解した。
「あーあ、やっと一息つける」
「さすがに我々も、皇帝陛下とご対面するのは初めてだからな」
「ご対面っていうか、蚊帳の外っていうか置物の扱いだけどね」
仮にも元貴族の端くれだったリチャードはともかく、奴隷上がりの小姓であるエチエンヌは深い溜息をついている。皇帝陛下自身が気さくな態度を取っているとはいえ、この世で最も高貴なお方と同じ空間にいるのは彼に取っては耐え難いことらしい。
確かに大地皇帝デメテルの存在感は圧倒的だった。肌は色白で美しいのに、むき出しの肩に雪崩かかる緑なす黒髪の印象が強くて鮮烈だ。ミザリーのような可憐な花のような美貌と言うよりは、毒と棘のあるきつめの顔立ちをしていた。そのきつい眼差しが浮かべられた笑みで、何とも言えずにやわらげられて人の背筋を凍らせるような迫力があった。
あれが皇帝。
あれが、ハデスの姉上。
この世界で一番偉い、全てを決めることのできる人。
彼女がそれを認めたこともあって、ロゼウスたちヴァンピルの国ローゼンティアはエヴェルシードの属国扱いにされた。
枯れるだけの花なら容赦なく踏みにじればよいという、微笑みながら残酷な決断を下せる、有能にして冷徹、温厚にして酷薄な皇帝。
不思議な能力を持つ者が多く生まれるという黒の末裔の中でも、とびっきり魔術の資質があると言われた彼女の力の恐ろしさは、直に味わったものしかわからないと言う。
先程、実は一度だけ目があった。ロゼウスを見て、何故か嘲るような微笑を浮かべた人。
もしかしてバレたのだろうか。いろいろと。何もかもを見通すような瞳で、確かに彼女はロゼウスを見た。皇帝には不可能はないのかもしれない。でも、これでは何のための替え玉なのか。
『ロゼウス、お前は今回は……』
数日前のやりとりを思い出す。何か思いつめたような顔で、シェリダンは俺に言った。
『お前は、第四王子に戻れ』
そして彼は第四王女を妻に迎えると言った。
第四王女ロザリー、ロザリー=ローゼンティア。ロゼウスの大事な妹の存在はたぶん、全てにおいて都合が良かった。ロゼウスとロザリー、薔薇王子と薔薇王女。名前も似ているし、四番目の王子と王女であるという立場も似ている。何より顔がそっくりだ。
シェリダンの隣に寄りそうように立つロザリーの姿は美しかった。ヴァンピルの髪は白銀と薄く、エヴェルシード人の髪色は蒼と濃い。その中でもシェリダンの髪は夜空の藍色で、並べて立たせるに分にはこれ以上相応しい一対もなかった。
だったら、何で。
最初からそうでなかったのだろう。
「……ロゼウス様」
この国に来てからは珍しく男装のロゼウスを、ローラが呼んだ。
「私たちも行きましょう。今日からのお部屋へご案内します」
「ああ」
生返事をして、ロゼウスはローラについて歩く。この姿のロゼウスを見て、彼女は幾度となく顔をしかめていた。似合わない、と。
どうして? 俺にとってはこれが普通だ。もともと、俺は男なんだからドレスなんか着てシェリダンの隣に立つ方が異常なんだよ。
それでも、シェリダンとロザリーが並んでいる一幅の絵のような光景を見て、何故か胸の奥がひっかかれるような不快感を覚えるのは止められなかった。
◆◆◆◆◆
「エヴェルシードに何か動きはありましたか?」
わたくしは世話係の青年の一人に尋ねました。今日の彼は部屋に入ってきたときから強張った顔をしていて、その表情だけで何事かあったのだと教えていました。
「メアリー姫」
「教えて下さい。何があったのですか?」
王権派と呼ばれる人々にわたくしは保護されましたが、いまだ自由に動く許可は与えられていません。そもそも、他の兄妹がいるならばまだしも、わたくし一人ではできることもありません。
自分の無力さが恨めしい。けれど、一朝一夕に強くなれるものならば世話はないのです。
わたくしはせめて王権派と名乗る人々の力を借りて、どうにか祖国復興に費やさねば。
わたくしたちの敵である、エヴェルシード王シェリダンを倒さねば。
本来人間より身体能力で優れるはずのわたくしたちヴァンピルがエヴェルシードに負けたのは、友好関係にある隣国であるはずだという油断と、ジョナス王の跡を継いだシェリダン王の実力を見誤ったため。同じような過ちを、二度と繰り返すわけにはいきません。
「……今、あの国に皇帝陛下がいらっしゃっているのです」
「世界皇帝ですか!?」
皇帝陛下が? 驚いて、思わずそんな叫びを漏らしてしまった私に目の前の青年が苛立たしげに眉を上げました。それ以外に何がある、と言いたげな表情です。確かに、皇歴が始まって以来世界皇帝陛下以外に、アケロンテに皇帝はいません。
「……はい、第三十二代世界皇帝デメテル陛下が、エヴェルシードにお越しになりました。諸国からも、この機会に皇帝陛下にお目通りを願おうと、要人が集まっております」
不機嫌な表情のまま、彼は続けます。わたくしの能力の低さに怒っているのでしょう。あの時、王家の兄妹の中で唯一彼らに救い出されたのがわたくししかいなかったので仕方がないとはいえ、本当なら彼らもわたくしのような不出来な第五王女ではなく、もっと年上の、継承順位も高く、有能な、他の王族を旗印として助け出したかったのでしょう。
「それで、エヴェルシードの対応と、皇帝陛下の訪問目的、あなた方とわたくしが成すべき事は?」
青年は慎重を装って答えました。
「私たち王権派は、これを機にエヴェルシードに囚われているロゼウス殿下を救出し、ローゼンティアを取り戻すべく動き出します。襲撃をかけるべきは、明日の晩餐会」
「明日!? そんなに急なのですか!?」
「はい。今回は私軍を動かすのではなく、極少数でかの国に潜入いたします。乱戦になれば数でこちらが負ける可能性もあります。いくら相手は脆弱な人間とは言え、軍事国家エヴェルシード。侮る事はできません」
「では」
「少数精鋭でロゼウス殿下の奪還を目指します」
お兄様をまず救出し、それからローゼンティアの生き残りを指揮して体勢を立て直すのだと。
わたくしは――。
「連れて行きなさい」
「え?」
「連れて行きなさい。わたくしを、かの国へ。お兄様の下へ」
「で、ですがメアリー姫!」
「わたくしはローゼンティア王女です!」
「たかだかライマ家出の第五王女のくせに、我侭を……っ!」
これまでの優しげな仮面の裏に隠されていた侮蔑の眼差しが今更明らかになったところでわたくしはもう惑いません。
ああ、それに我が母である第二王妃マチルダ=ライマを侮辱すると言う事は、彼らはもとよりわたくしの味方ではなかったということですね。では、第一王妃様の手の者なのか……。
何故でしょう。どこかに違和感があります。けれど、そもそも彼らが明かした真実こそ我が耳を疑うものですから――。
今、すべての真実を得られるとしたらそれはやはり、エヴェルシードに行くしかないのでしょう。
「皇帝陛下のエヴェルシード訪問の話は民衆レベルで流布している情報ですか」
「それなり、と言ったところでしょうか。他国の市井の者にとっては偉い人が来る程度の認識ですが。エヴェルシードと各国の要人たちには十分伝わっています」
「どこからでも情報は得られるというわけですね。でしたら、皆も同じことを考えるでしょう」
「え?」
「他の兄妹です。あなた方が考え付いた程度のこと、我が兄や姉たちが、考えぬと思いますか」
王権派の青年が顔を歪めました。
「引き続き人をやってください。第二隊には、ロゼウス王子ではなく、彼とシェリダン王の周囲を探っている別の人物……他の王族がいないかを探らせてください。居場所のわかっている者を見張ることより、難易度はあがりますが」
わたくしも参ります。
あの国に。
この騒乱の全ての始まりの場所。
わたくしたちの王家の、隠されなければならなかった秘密を暴いた、あの忌まわしき王国。
ローゼンティアを滅ぼした憎らしい人間とはいえ、シェリダン王の見る目は確かだったということでしょう。王権派と名乗ったこの人々の言う事が、全て本当ならばの話として。
ロゼウスお兄様。
あなたこそが、全ての物語の渦中にいるのです。わたくしはもはや弾きだされそうなこの問題の輪に、今は必死でしがみつきます。王女と言うこの肩書きが例えお飾りを通り越した偽りのものであったとしても、今ここで全てを忘れ放棄して脱落するわけにはいきません。
「上手くすれば」
わたくしだけでなく、今はまだこの事実を知らない他の兄妹たちだって同じように思うはずでしょう。もう何ヶ月も顔を合わせていない、彼らは無事なのでしょうか。そうだとしたら。
「あの国で、ロゼウスお兄様のために、全ての兄妹が集まることになりましょう」
王権派の青年は、ここに来て恭しく平伏しました。
「……ご命令を承りました、第五王女殿下」
名前だけでもわたくしが王女である限りは、今のこの国にわたくしより上の立場のものはおりません。宰相や重役についた貴族は皆殺され、王家の兄妹も散り散りになっています。
ですが、忘れる事は許しません。
「ローゼンティアは、王の治める国。ローゼンティア王家の言葉に、あなたがたは従うほかないのです」
青年がかしこまりました。慇懃に礼をしてわたくしの命令を伝えるために部屋を出て行きます。
わたくしはどっと、肩の力を抜きました。そうすると、涙が出てきそうになるのです。わたくしはもともと、王位継承権から遠く、兄や姉たちのように豊かな才能も持たず、長じれば政略結婚の道具ぐらいの価値しかない王女として消えるさだめの者でした。こんな非常時に、人を指揮するだけの力はありません。強がって強がって我侭だと言われても、恐れずに意見を言う事しかできないのです。
ああ、ロゼウスお兄様……。
第四王子ではありますが正妃の息子であるロゼウス王子は、その立場に比べてずっと優れた方でした。王位に執着がないため継承権は年上のヘンリーお兄様に譲ってしまいましたけれど、きっとロゼウスお兄様が玉座についた暁には、この国は安泰だったのでしょうね。
最初から歯車がずれていた、今では叶わない夢物語。
わたくしたち家族は、揃うのにこんなにも遠回りをしなければならないのですね。