荊の墓標 19

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 落ち着かない。
 苛々する。
 酷く――喉が渇く。
「くそっ……!」
 毒づきながら廊下を歩く。こんなことも、男の格好に戻ったからこそできることだ。前を歩いていたローラが、ちらりと気遣わしげに振り返る。もしかしたら鬱陶しいと思っているのかも知れないけれど。
 エヴェルシードの者たちは今まで見たことのなかった「王子」の存在を少しくらい不思議に思っているかもしれないが、それでも先日まで他の兄妹たちが捕まっていたことや、ロゼウスとロザリーが髪の長さと体型を除けば瓜二つであることからいろいろと細かい疑問は誤魔化そうと思えば誤魔化せる範囲。
 ならいっそ、ロゼウスは最初から女装なんてしなければよかったようなものだが……ここ最近シェリダンが何を考えているかわからない。いや、もともとか……。
 もともと、俺とシェリダンは噛み合うことなんかなかったんだよ。
 ロザリーが替え玉をしている間、とりあえずロゼウスはあまり姿を見せないということに決まった。肝心の皇帝陛下の顔を知らないと困るから先程の謁見には引っ張り出されたが、これで後はお役御免。今日の晩餐会を含め、与えられた部屋でじっとしていればいいだけの話だ。
 もっとも与えられた部屋と言っても。
「あ、来た来た」
「……エチエンヌ」
 名目上この小姓の少年に下賜されたことになっているロザリーが普段いるのは彼との部屋だった。
「では、私は仕事に戻ります」
 今まで訪れたことのなかった妹夫婦の部屋にロゼウスを案内してくれたローラが、それだけ告げてさっさと部屋を出て行った。ロゼウスはあんまり馬の合わないエチエンヌと二人きりで取り残される。
「えーと……お世話になります」
 なんと言えばいいものか。
「はいはい」
 エチエンヌが呆れたようにおざなりな返事をする。かと思えば、ローラと同じくちらりとロゼウスの方へ視線を向けて。
「まいってるみたいだね」
「何?」
「気づいてないならいいよ」
 素っ気ない、一方的なやりとりをしてエチエンヌはロゼウスから視線を外す。
 一介の小姓とはいえシェリダンから重用されているエチエンヌの部屋は寝台の他に長椅子や机が置かれた快適空間だった。けれど、そのどこに居場所を見つけるということもなく、ロゼウスは所在なげにその場に蹲った。
「エチエンヌ、仕事は?」
「お前がここにいるせいでその世話がローラから僕に代わったんだよ。だから、普段はお前と一緒にシェリダン様の部屋にいるローラがあちこち走り回ってるんだろ」
 ああ、そういうことなのか。そういえばいつもこの時間は裁縫に励んでいるローラが珍しく忙しそうに働いていると思ったら、そういう理由だったのか。しかし彼女の代わりと言うには、エチエンヌはすることもなさそうに寝台の端に腰掛けて不機嫌な顔をしている。
 とはいえ彼が上機嫌だろうと不機嫌だろうといっこうに構わないロゼウスも似たようなもので、この部屋で落ち着く気分にはなれず、膝を抱えてしゃがみ込んだまま考えた。
 世界皇帝デメテル陛下。彼女はエヴェルシード王シェリダンの妃となったローゼンティアの王女を見に来た。いくら真実とはいえ見に来たと言うから印象がおかしくなるが、要は結婚祝いに駆けつけたということだ。
 それはつまり、エヴェルシードは絶対的に皇帝の庇護を受けているということ。この世は皇帝の権力が全てだから彼女に認められると言う事は世界でそれなりの地位にあることを意味するが、しかしシェリダン自身はデメテル陛下との面識はなく、会ったのは今回が初めて。
 ではどういう気まぐれかと言っても、そもそも皇帝陛下はこの国に弟であり帝国宰相と呼ばれる絶対権力者ハデスを訪問させていたのだから、まったくの気まぐれということも考えにくい。では何かの思惑があると考えるのが当然だが……はじめから、当代皇帝陛下がああいう性格でなければ何か思惑があると考えるのが普通なのであって、でもその思惑がわからない。
 エヴェルシードはロゼウスの敵だ。
 祖国ローゼンティアを滅ぼし、両親を殺した。国民を人質にロゼウスを脅した。
 そのエヴェルシードの行為を全て黙認したのは世界皇帝。
 皇帝は普段、アケロンティス諸外国の外交には口を挟まない。よほど大陸全土、世界全土に混乱を来たすものでない限り静観するのが普通だ。
 昔はどうだったか知らないが、とりあえず何代か前の皇帝は各国の外交に口を挟み悪戯に世界の治安を乱したことを理由に、僅か五年で退位している。これは平均統治期間が百年という中では異例の短さだ。もちろん、優れた皇帝は数百年にも渡る長い治世をしいた例もあるが、皇帝に選定されるのはだいたい人間が多いので、その寿命から考えて無理のない範囲で治世を終えていることが多い。
 そして退位というのはまだ緩やかな言い方で、実際にはその皇帝は廃帝と呼ばれている。
 各国の統治はその国の国王に任せる。これが帝国の一般的な政治状況。皇帝は絶対権力者にして中立者であり、審判者である。やたらと何もかもに口出しをするのではなく、一番重要なところを纏める。それが皇帝の役目、らしい……。
 一応国を治める者の常識としてドラクルに習ったが、自信がない。シェリダンだけではなく、皇帝陛下にお会いするのは自分も初めてなのだから。そして皇帝という存在は、下々の民には掴めるようなものではないのだと。
 第三十二代皇帝デメテル。大地皇帝。黒の末裔。
 不思議な黒い髪。黒い瞳。血のように紅い唇。謎めいた微笑み。
 彼女は何故エヴェルシードに来たのだろう。そうまでして、この国に味方するのだろう。
 エヴェルシードはシュルト大陸にとって、全てを吹き飛ばす爆弾のようなものだ。この国はロゼウスたちのローゼンティアだけでなく、世界そのものを破滅させるなんて、シェリダンは考えている。
 もちろんそうなればさすがに皇帝陛下がとめに入るだろうけれど……アケロンティスにどこまで打撃を与えられるかはシェリダンの力量次第で、それ以上にロゼウスの働きが大きいのだろう。
 三千年前、帝政成立のためにかつてのザリューク人であり後のエヴェルシード王国建国の祖、シェスラート=エヴェルシードに今のローゼンティア王家の先祖であるロゼッテ=ローゼンティアが協力したように。
 だけれど、何かがおかしいと感じる。まるでエヴェルシードの破壊行動を助長するかのような皇帝の動き。ただでさえ魔族の国であるローゼンティアを侵略したことは世界の均衡を揺らがせることになるはずなのに、何故何も言わないのか。
 俺たちは。
「……見捨てられたのか?」
「んー?」
 離れた場所にいたエチエンヌが独り言に反応して首を傾げるのを、手を振って何でもないと示す。
 世界皇帝の思惑は知らないし、それはやすやすと明かされるものでもないだろう。だけれど、これだけ一国と皇帝の距離が近しい事が不自然であるということだけはロゼウスにも何となくわかる。皇帝陛下は各国の王たる帝国公爵たちにその領地の支配を任せ、原則的にはその国の政治に口を出さない。
 今のデメテル陛下の行動はエヴェルシードの支配体制に口を出すものではないが、他の国の場合であればわざわざ結婚祝いなんかに駆けつけもしないことを考えれば十分異例だ。確か三年位前にビリジオラートとルミエスタの両王家がそれまでの対立関係を改め婚姻による和平を結んだ時なんかは、全く見向きもしなかったはずだ。
 では今回は何故エヴェルシードに訪れたのだろうか。まるで、この国がローゼンティアを侵略したことを褒めるように。
 考えても考えても答が出ない。
 何だろう? 自分は、何か重大なことを見落としている気がする。その何かを見つけ出さない限り、この問題は堂々巡りで永遠に決着がつかないだろう。それに。
「あの皇帝陛下、本当にただお前を見に来ただけなのかなぁ……?」
 手持ち無沙汰にシルヴァーニ文学の本を一冊弄んでいたエチエンヌが何ともタイミングよくそんなことを呟いた。そう、その可能性も否定できない。何しろ当代皇帝陛下の弟への溺愛ぶりと気まぐれ具合は、世界各国に知れ渡っている。
「さぁ……どうなんだろう?」
「まあ、どっちにしろ、今その役目を課せられてるのはロザリーであってお前じゃないけれど」
 冷やりと、首筋に刃物をつきつけるような冷たさでエチエンヌがそう言う。
「エチエンヌ」
「あーあ、可哀想なロザリー。お前なんかとそっくりなばっかりに、こんな時だけ都合よく駆り出されるんだ」
 皮肉げなその言葉に、エチエンヌが今回のことを快く思っていないことが知れる。でも。
「それを決めたのは、俺じゃない。シェリダンだ」
「そうだよ。シェリダン様のお決めになったことならば僕に否やを唱える権利なんてない。その気もない。だけど」
 睨んでくるエチエンヌの眼が訴えてくる。
 だからこそロゼウスが、このロゼウス=ローゼンティアが憎いのだと。ロゼウスがいなければ、こんなことにはならなかった。ロゼウスとロザリーがこんなにも似ているのでなければ、こんな不自由をしなくて済んだのだと。
 その恨みの眼差しにロゼウスはふと何かを思い出しかける。何だ? 今、何かがひっかかって……
 それを思い出す時間は与えられなかった。
「ロゼウス王子――!!」
「うわぁっ!?」
 ばたんと激しく扉が開け放たれたかと思うと、ロゼウスのもとに何かが飛び込んできた。

 ◆◆◆◆◆

「ロゼウス王子――!!」
「うわぁっ!?」
 床に思い切り押し倒される。エチエンヌの部屋が小姓の物とは思えない絨毯まで敷かれた豪勢な部屋だったから良かったものの、これを廊下でなんてやられた日には後頭部にたんこぶができる! 
 そのくらい激しく、もはやこれは体当たりという勢いでそれはロゼウスに飛びついてきた。
「久しぶり! 久しぶり! 久しぶり―――!!」
 まさしく狂喜乱舞と言った体で、何かがロゼウスにのしかかってくっついている。さっぱり意味のわからない「久しぶり」を連呼しながら。
 いや、ちょっと待って何これ?
 なんだか事態がよくわからないんですけど!
「何だよっ!?」
 思わず叫んで、のしかかってきた相手を突き飛ばす。きゅう、と獣が呻くような声をあげて、それは離れた。しかしすぐに体勢を立て直して、にこにことこちらの顔を覗き込んでくる。
「ちょっ、どうしたんだよ? ダレ、それ」
 エチエンヌの呼びかけにようやく冷静になって、ロゼウスも目の前にいる相手が、ほとんど自分たちと歳の変わらない少年であることに気づく。気づいたところで、何故その少年が自分に飛びついてきたのか? ということまでわかるはずもなく。
「ロゼウス王子! 久しぶり!」
「だから久しぶりって何!?」
 ガバっと音がしそうなほど再び強く抱きしめられて卒倒しそうになる。彼は見た目こそロゼウスやエチエンヌと同じく細身なのだが、その外見からは予想もできないほど腕の力が強かった。うっかり潰れないようにロゼウスは思わず胸から腹筋にかけて力を込めた。このまま背骨折られたらどうしようかというような腕力だ。
 と、言うか。
「だから、ダレ?」
「誰だよ!?」
 戸口で繰り広げられるいきなりの抱擁に呆れた声音で尋ねてくるエチエンヌに被せて、彼よりなお強く叫んだ。
「ロゼウス?」
「知らないよ! 会ったこともない相手だ!」
 知り合いじゃないのかとそろそろ戸惑った表情を向けてくるエチエンヌに向けても、そう叫び返す。
 ダレ!? 本当にダレ!?
 多少癖のある淡い茶髪に灰色の瞳の、十五、六歳ほどの少年。着ているものは華美とは程遠いが、それなりに整えられている。こちらを抱きしめてくる体からは、深い森の奥の木々と土のような匂いがした。それは多分ロゼウスがヴァンピルだからわかる程度の気配だろうけれど。
 ちなみにシェリダンはよく、稽古で怪我でもするのか微かな血の匂いと、庭園の花の香りの混ざったような匂いをさせている。ヴァンピル的にはとても美味しそうな匂いだ。
 けれど目の前の少年はそんなシェリダンとは違い、むしろ気を抜くとこちらが喰われそうな、肉食獣の匂い、大自然を闊歩する力強い生き物の匂いがした。それに。
「あ」
 飛びついた勢いで被っていた帽子が吹っ飛んだらしく、淡い茶髪の下から徐々に現れたのは獣の耳だった。一度伸びきると、ぴん、と音でも立ちそうにその頭の上に立つ。
「魔族……?」
「よく見れば尻尾もある。え? 犬?」
 それまで手に持っていた本を置いてこちらへと歩み寄ってきたエチエンヌが、少年を背後から見てそう言った。その瞬間、それまでの人懐こい動物のような仕草をしてロゼウスに擦り寄っていた少年が剣呑な光を瞳に宿して彼を睨む。
「犬じゃない! あれと一緒にするな!」
 その勢いがあまりに激しいので、あの豪胆なエチエンヌでもさえも一瞬身を竦ませる。しかしすぐに生来の強気が頭をもたげ、闖入者たる彼を睨み返した。
「じゃあ何なんだよ! 人の部屋にいきなり入って来やがって!」
 そういえばここはエチエンヌの部屋だった。この少年がロゼウスを探して来たのだとすれば、この騒ぎはもしかしなくても。
「ロゼウス? これ、どーいうこと!?」
 やっぱりエチエンヌの怒りの矛先がこちらに向いてきた。でも俺にもよくわかってないんだけど。だって。
「知らないよ! 俺だって会ったことない相手だもん!」
「え?」
 茶髪の少年はそれを聞いて、眉根を寄せた。落ち込んだように、口元をへの字に曲げる。
「ねぇ、ロゼウス王子。本当に俺のこと覚えてないの!?」
「う、うん」
 彼には悪いが、覚えていないものは覚えていない。
 いくら第四王子とはいえ、ロゼウスも王族の端くれ。社交は欠かせないもので、一度会った人間の名前(フルネーム)はまだしも、顔は絶対に忘れない。
 だけど、この少年には全く見覚えがない。幼い頃に会って多少造作が変わって見分けがつかないとか、そういうレベルでもない。そもそも茶髪の知り合いがまずいない。多分、一度も会った事はないはずだ。
 ところで、会ったことはないのだけれど、この少年の素性と言うものには大体推測が及ぶ。
 それだけ見ては何の種類かはわからないがこの獣耳、獣の尾。そして淡い茶髪と灰色の瞳。この特徴はあの国の――
「セルヴォルファス王!」
 そう、大地の王国セルヴォルファスの――あれ?
「シェリダン?」
「シェリダン様!」
 開け放たれた扉の向こうから、血相を変えたシェリダンとロザリーがこちらへと向かって来る。ロゼウスに抱きついている少年を見て、ロザリーが顔色を変えた。
「ちょっと! ロゼウスから離れなさいよ!」
「うわあっ!!」
「ちっ!」
 愛する妹の好意は嬉しいのだけれど、その位置で蹴りを出されると俺にも当りそうだったよロザリー。何はともあれ、茶髪の少年をロゼウスから引き離すことには成功した。ロザリーの蹴りを簡単に避けて、少年は身軽に部屋の隅へと着地した。
「いくら貴方が一国の主とはいえ、我がエヴェルシードで勝手な真似は慎んでいただきたい!」
 入り口の壁に手をつきながら、シェリダンが少年に向かってそう怒鳴る。怒鳴られた少年は涼しい顔だが、シェリダンは頬は紅潮し息は上がりこめかみに汗をかいて……ヴァンピルのロザリーはぴんぴんしているけれど、二人は一体どこから全力疾走してきたのだろうか……。
「セルヴォルファス王?」
 エチエンヌが首を傾げている。言葉の意味とかそう呼ばれた相手の態度だとかが脳に追いつかないらしい。
 一方ロゼウスは推測をシェリダンの言葉に裏付けられて多少は落ち着いた。茶髪に灰色の瞳は大地の王国セルヴォルファスの民の特徴。目の前の相手は民ではなくシェリダンと同じように若くして国を治める少年王のようだが。
 そしてセルヴォルファスは《人狼の国》。
 獣の耳と尾を持つこの少年は人狼――ワーウルフだということだ。
 しかし肝心の謎がまだ残っている。
「それで……素性はわかったけれど……」
 ロゼウスはセルヴォルファス王になんて会ったことない。もしかしたら最近まで王子だったのかも知れないけれど、それでもやっぱり会ったことはないはずだ。
 混乱するロゼウスの様子にも構わず、少年はシェリダンとロザリーの二人を拗ねたように睨み付けながら言った。
「何するのさ。せっかく人が初恋の人との感動の再会をしているところに水を差して」
「は」「い?」「え? はつこ……」
 シェリダン以下、部屋中の人々の言葉が消えた。
 初恋!? 何の話!?
 エチエンヌもロザリーもシェリダンもセルヴォルファス王と判明した少年も全員の視線がロゼウスに集まるが、ロゼウスは勢いよく首を横に、否定の方向に振ることしかできない。
「ちょっと待って! 知らないぞオイ!」
 なんで見ず知らずの人間から、っていうか正確には魔族だけどそんな相手から衝撃の宣告を受けねばならないんだ!?
 身に覚えはないが当事者扱いされて困惑するロゼウスの様子を見て取ったのか、ふとセルヴォルファス王は何かに気づいたかのように、ようやく得心がいったという顔でさらなる問題発言をした。
「ああ、もしかしてこの姿を見るのは初めてか」
 彼の灰色の瞳は真っ直ぐにロゼウスへと向けられる。
 灰色の、瞳。
 会った事はないはずだけれど、何故かその色に既視感を覚えた。この瞳、は確かに知っているような。でも思い出したくないような……。
「何……?」
 じっとりと背中に嫌な汗をかいたロゼウスを微笑んで見つめたまま、彼はその輪郭を緩やかに崩す。そうして。
『この姿なら、覚えてる?』
 脳に直接伝わる魔力の声とともに、現れたのは薄茶の毛並みと灰色の瞳を持つ一匹の狼の姿。
 それを見て一気に記憶が刺激される――思い出した。あの時の!
「―――――――っ!!」
 声なき声でロゼウスは思いっきり叫んだ。