荊の墓標 19

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 あまりのことに腰が抜けた。
『ねぇねぇロゼウス王子、覚えているでしょ? 俺のこと』
 目の前の狼が口を開いて喋っているわけではない。脳に直接響く魔力の声は弾んでいて嬉しそうだ。狼は千切れんばかりに尾を振っていて、その喜びようは傍目にもわかる。
 しかしロゼウスはそれどころじゃなかった。
「近寄るな!」
 擦り寄って来ようとするその獣を、全力で振り払った。ヴァンピルの全力で弾き飛ばされた狼が、キャインと短く悲鳴をあげて壁際まで飛ばされる。
「ロゼウス?」
「どうしたのロゼ?」
 シェリダンとロザリーが気遣わしげな声をかけてくるが答えられない。全身に嫌な汗が吹き出て、体が震える。両腕で自分の体を抱きしめて蹲る。
 狼、あの時の。あの時の!
 思い出すのは今よりも数年前の出来事。
「ロゼウス? っ! まさか……」
 先日の話によってロゼウスの様子の変化に気づいたらしきシェリダンが、顔色を変えて駆け寄ってくる。
 壁に激突させたにも関わらずほとんどダメージを受けていない狼がそろそろと怪訝な顔をして近寄って来ようとするのを、無言で押し留める。庇うようにその腕の中にロゼウスを庇って、人肌の温もりに涙が出そうになる。
「こいつなのか?」
「っ……!」
 ロゼウスは声を出すこともできずに、ただコクコクと首を振って頷いた。
 シェリダンは他国の王に対し、建前上の礼儀もかなぐり捨ててセルヴォルファス王を睥睨する。
 俯いたロゼウスの視界に映る影の形が変わり、狼が再び獣耳の少年の姿に戻ったことを示した。
「ロゼウス王子」
 通りよい声に名を呼ばれて、ギクリとする。聞いたことのない声。見たことのない姿。
 でもその灰色の瞳は知っている。
『兄様、それ、何?』
 ロゼウスはずっとドラクルに弄ばれていた。虐待を受けていた。その中の悪夢の一つに、彼はいたのだ。
 ある日ドラクルが彼の寝室に連れ込んでいたのは、一匹の狼だった。淡い茶色の体毛に、灰色の瞳。見事な毛並みの、美しい獣。
『彼がお前を気にいったんだってさ』
『非公式だけれど彼は大事な客人だ。ロゼウス、相手をしてやってくれる?』
『やめ、お願……兄様ぁ……』
 目の前のセルヴォルファス人の少年は、あの時の狼だ。まさか人狼だとは思いもよらなかった。
「なんだよ、俺、何か――」
「ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス王」
 口を尖らせて不満を示す彼を遮るように、シェリダンがその名を呼んだ。
『ヴィル』
 そうだ、確かシェリダンはあの時の狼をそんな風に呼んでいた。ヴィル、ヴィルヘルム。
 あの時刷り込まれた恐怖が甦って、まともに顔を上げることができない。シェリダンに縋り付いたまま、体を震わせる。
 あれ以来ずっと、ロゼウスは犬などの獣が怖かった。猫や鳥はいい。でも、犬や、まして狼なんて見たくもなかった。なのに。
「すまないが、出て行ってもらえぬか? 貴殿の話はまた明日聞こう」
 ロゼウスを強く抱きしめながら、シェリダンがヴィルヘルム王に射殺すような眼差しで、声で告げる。
「……何? シェリダン王。あなたになんで俺の行動を邪魔されなくちゃならないわけ?」
「ここは私の国だ。勝手な真似は慎んでいただこう」
「だからって」
「いいから、さっさとこの部屋から出て行け」
 口調こそ荒げるわけではないがいつになく強い調子で、シェリダンが命じる。立場こそ対等であるはずの両王だが、ここはエヴェルシード。鼻を鳴らしたヴィルヘルム王が冷ややかな声で。
「嫌だと言ったら?」
 宣戦布告する。ロゼウスはようやく顔を上げて、彼の様子を見る。
 灰色の瞳はまだ熱心に、ロゼウスのことを見ている。……先程、彼はなんと言ったのだった?
「ねぇ、ロゼウス王子」
「セルヴォルファス王陛下」
「ヴィルでいいよ。ねぇ、どこかで、ちゃんと話しない? どうやら色々と誤解もあるようだし」
 誤解? 誤解なんてない。
「俺は……」
「彼は私の人質だ。私の許可なく近づく事はやめてもらおうか」
「シェリダン」
「我が国がローゼンティアを支配下に置いたことはそちらも当然知っているはず。他国の捕虜に勝手に声をかけるなんて許されない。それに、そちらは魔族のようだしな」
「同類同士だから俺がローゼンティアを解放するために人質を逃がすかもって?」
「そうだ」
「呆れた」
 やれやれとヴィルヘルム王が肩を竦める。
 シェリダンの言い分は正しくても、普通友好国相手にそんなことを言いはしない。今の会話は、わざとそれとない理由を明かすことで、近づくなと言う牽制。
「だいたい、何でシェリダン王がそこまでロゼウス王子を庇うわけ?」
「それは――」
 ふと、言葉が出なくなったシェリダンにヴィルヘルム王が言い募る。
「ねぇ、君の大事な花嫁は、本当に後ろの彼女? それとも――」
 背後でエチエンヌと共に成り行きを見守っていたロザリーが息を飲む。見破られた? こんなところで。
 しかし救いの手は意外なところから現れた。
「あら」
「おや」
 暢気な声に振り返れば、開けっ放しの扉から似たような二つの顔が覗く。
「何だか大変なことになっているようだけれど」
 世界皇帝デメテル陛下は言った。
「僕たち、なんかマズイところに来たって感じ?」
 ハデスが尋ねる間に、シェリダンはロゼウスを支えつつ立ち上がった。体の震えもそろそろ収まっている。
 だが、この現場を見られた。皇帝陛下に。
「セルヴォルファス王ヴィルヘルム」
 彼女は流暢な発音で、人狼の国の若き王の名を呼んだ。
「どーも、皇帝陛下」
 ヴィルヘルムの反応を見てみるだに、二人はすでに面識があるようだった。それまで飄々としていたヴィルヘルムは、途端に不機嫌な顔つきになる。
「訪れた他国に面倒をかけるなんて、一国の主として自覚がなってないのではないの?」
「俺が何しようと、俺の勝手だ」
「あなたがただのワーウルフの長ならそれでもいいけどね。セルヴォルファス地区はもう立派な一国なの。その王に、責任知らずの勝手な振る舞いをされては困るわねぇ」
 手に持った黒い羽を使った扇をぱちりと音を立てて閉じて、皇帝陛下が微笑んだままヴィルヘルム王を嗜める。深淵のような黒い瞳には、生半な者には直視できないような鋭い光が宿っていた。
「ちっ」
 ヴィルヘルムは舌打ちして、部屋を出て行く。
「仕方がない。今日のところは、これで退散しますよ。またね、ロゼウス王子」
 最後にひらひらと手を振って、彼は消えた。ロゼウスは体から力が抜けて、その場にもう一度崩れ落ちる。
「ロゼウス!」
 シェリダンに預けた片腕だけが、上に引っ張られる情けない形になる。色々なものが頭を巡って、上手く物事が考えられない。
 そんなふやけた頭に、涼やかな声が降って来る。
「なんだかお疲れのようだし、話は明日にしようかしら」
 皇帝陛下は口元に例の謎めいた笑みを浮かべながら言った。そのままくるりと、呆気ないほどあっさりと踵を返す。
「デメテル陛下、こちらへは一体何をなさりに――?」
 そして彼女は尋ねるシェリダンの声に軽く振り返り。
「言ったでしょ? 私は、あなたの《本当》の花嫁を見に来たの」
 ロザリーではなく、間違いなくロゼウスの方を見ながら告げた。
 その微笑みは美しく酷薄で、先程のヴィルヘルムとは比べ物にならない恐ろしさだった。

 ◆◆◆◆◆

 晩餐会が始まる。
『言ったでしょ? 私は、あなたの《本当》の花嫁を見に来たの』
 デメテル陛下の言葉が頭から離れない。男で、そしてシェリダンの王妃だとバレた以上これ以上の芝居は無意味だと、ロゼウスは再び女装をしてシェリダンの隣に立つことになった。
 晩餐会が始まる。
 各国の客人を集め、皇帝陛下の訪問を祝うために行われる華やかなパーティー。デメテル皇帝陛下はさほど各国との友好や協力関係に力を置くタイプではないし、シュルト大陸の王族とはあまり顔を合わせないことで有名だ。彼女に取り入ろうと、要人たちが着飾ってこの晩餐会に参加する。
 エヴェルシード王であるシェリダンの結婚祝いなどというのは名目でついでで、彼らにとって肝心なのはデメテルに顔を覚えてもらうことだった。主催であるシェリダンは広間の一段高い場所から開催の言葉を述べ、その後は、皇帝陛下ほどではなくとも今現在この大陸で大きな影響力を持つ軍事国家の君主、シェリダンに取り入ろうとやってきた輩の対応に追われていた。
 ロゼウスは、そんなシェリダンの様子を眺めながら、することもなく立ち尽くしていた。万一にも正体を知られるわけにはいかないので、極力口を開くなとも命令されている。いつもの皮肉げな表情が嘘のようににこやかな顔で要人たちをあしらうシェリダンを見ながら、ぼうっとその場に佇んでいた。
 そのロゼウスに、声をかけてきた相手がいる。
「殿下」
 ロゼウス、と名を呼ぶのはまずいと判断したものか、昼間の体当たりよりはよっぽど落ち着いた、これが普通だと言う様子でセルヴォルファス王ヴィルヘルムが話しかけてきた。人狼族である彼も、獣耳や尾はそのままだがきちんと着飾ってこの場に出席していた。
「セルヴォルファス王……」
 昼間のことを思い出して思わず一歩引くロゼウスに、彼は苦笑する。
「ヴィルでいいよ。ヴィルヘルムでも。せっかく地上には少ない魔族仲間じゃん」
 確かに現在アケロンティス帝国世界の地上に存在する魔族は少ない。吸血鬼、人狼、人魚の三種族だけだ。残りの種族は地下世界エレボスとタルタロスに留まっている。その扉を開き、自由に行き来できるのは今のところ《冥府の王》であるハデスだけだ。
「……」
 しかしだからと言って、あんなことがあってロゼウスがこの少年を信用したり気を許したりなどできるはずもない。
 もう一歩距離をとると、セルヴォルファス王は拗ねたように唇を尖らせた。彼らの様子に気づいたシェリダンがヴィルヘルムをきつく睨み付けるが、気にしている様子はない。
「さっきはごめんなー。嬉しくて、思わず舞い上がっちゃった」
「嬉しい?」
「そう。昼間も言ったけど、あなたは俺の初恋相手だからね」
「……」
 どう返せばいいんだ。駄目だ。この人とは会話が続かない。
 戸惑うロゼウスの様子を気にもせず……むしろ、意図的に無視をしながらセルヴォルファス王は詰め寄ってくる。
「ドラクルとは最近顔を合わせないけど、まさかこんなところで君と遭えるとはね」
 思いがけず彼の口から出た名前に、ロゼウスは動きを止めた。
 ドラクル。ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。
 ロゼウスの兄。ローゼンティア第一王子。
 ロゼウスがヴィルヘルム王と知り合ったのも、そもそもはドラクルが発端だ。
 けれど、今は聞きたくない名前だった。
 何も考えたくない。思い出したくない。それでも消えることのない過去がついてくる。
「……どうしたの?」
 セルヴォルファス王が、小首を傾げて尋ねてくる。どう答えればいいのかわからない。俺は……兄様は――。
 思わず口元を押さえて俯くと、バロック大陸のチェスアトール王国宰相と話しこんでいたシェリダンが気にかけるような視線を送って来た。しかし異大陸の要人とは滅多に話す機会もなく、ここで無理矢理座を辞すわけにはいかない。もどかしげな気配もそのまま、彼の視線はロゼウスから離れた。
「ねぇちょっと」
 そこで、女性の声が挟まれた。
 様々な趣向を凝らして黒地でありながらこれ以上ないほど派手なドレスを身に纏った皇帝デメテルが話しかけてきた。
 それに救われたような、今度は何を言われるのかと戦々恐々としながら彼女の言葉の続きを待つ。
 化粧で少し年上に見せているが、もともと彼女は十八歳の時に皇帝に即位して体の成長を止めた。至近距離で向き合えば予想よりも若い美貌を見ながら、ロゼウスは言葉もなく立ち尽くす。
「ヴィルヘルム王、なんで毎度毎度私の邪魔をするのかしら? ねぇ、これって私の歓迎会なのよね? それで、そこにいる王妃様のお披露目晩餐会」
 これはこれで厄介な状況だ。白魚の指先が伸びて、ロゼウスの腕をとった。
「あ、あの……」
 大きな声を出して他の招待客に勘づかれるわけにもいかず、蚊の鳴くような囁きで尋ねれば悪戯っぽい笑みが返された。
「主催者の妻ならば、主賓の接待は当然の勤めでしょう?」
 血のように紅い唇を吊り上げて彼女はロゼウスの手を引いて広間の中央へと連れて行く。並べられる料理にも酒精の類にも目をくれず、二人で向き合った。踊るわけでもない。何故ならロゼウスは今女性の装束を身に纏っているから。
 周囲の視線が、二人に集中する。
 世界皇帝が対外的には侵略された国の吸血鬼の王女とどんなやりとりを交わすのかに人々の薄暗い興味が集中している。エヴェルシードはシェリダンとハデスが知己であるためそれなりに皇族とも縁が深いが、一般的にはそのことは知られていない。これまで世界皇帝となんら関係のなかったはずの国の王妃が皇帝と話す。これだけで、注目を集めてしまうのは仕方ないと言えるだろうけれど、でも。
 シェリダンがチェスアトールの宰相そっちのけでこちらの様子に気をとられている。でも問題はない。何故なら宰相の方もこちらに気をとられているから。
 部屋の中、小姓や侍女の姿で給仕をしながらさりげなく警護にも気を配るローラやエチエンヌ、リチャードも険しい顔つきでこちらに注目しているのがわかった。ロゼウスの替え玉をする必要がなくなったロザリーも広間の中にいて、何人かの淑女と適当に話を合わせていたのを切り上げて、こちらに向かおうとしている。
 椿の花のように紅い唇が、白い歯を零すように開かれた――と。
 部屋中の明かりが消えた。
「え!?」
「きゃあっ!!」
「何が起こったんだ!?」
「早く明かりを!」
あちらこちらで動揺した客たちの悲鳴があがる。突然広間の照明が全て消えたのだ、これだけの人々がひしめきあっている空間で混乱に陥らないはずがない。
「ローラ! リチャード! エチエンヌ!」
 シェリダンが叫んだ。ただの給仕に交じって働いていた彼らはすぐに反応し、広間の中を駆ける気配がした。急いで明かりをつけようとする彼らと、不安に慄く客たちの息を潜める気配と、対照的に一部の派手な悲鳴。
 けれどその中に、異質な何かが混じっているような――。
「ロザリー!」
 ロゼウスは思わず叫んだ。すぐに答えが返る。
「わかってる! そっち――」
 彼女の言葉が終わらぬうちに、こちらへ迫る気配を察した。しかし狙いはロゼウスではない。咄嗟に腕を突き出す。
焼け付くような痛みと共に、左腕が白刃に貫かれる。だけれど、ヴァンピルにとってはたいした傷ではない。それよりも。
「誰だ!」
 誰何に答えない闖入者が、再び刃を振り上げた――。