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囁く声がする。
――……か、……陛下。
自分を呼ぶ切ない声。でもその声自体に何らかの感慨があるわけじゃない。彼が切ないと思うのは、その声が自分に囁く響が、まるで墓石を前にした人間のそれだからだ。
――それは全て、あなたの……。
言わないで。聞かせないで、見せ付けないで、突きつけないで。
こぽこぽ、こぽりと胸の奥に水音が。
決して浮かび上がっては来れない、地上に顔を出す前に弾けて霧散する泡沫のような。
縋り付いて引き寄せて低く、その耳元で囁く。触れ合わせた冷たい頬に、雨のように透明な雫が降った。
この頬を滑り落ちて顎先から滴るしずく。
もう泣くことの出来ないその身に、せめて涙の雨を。
拭う指先は存在せず、ぬくもりは失われてしまっても。
意識が混濁する。
これは「いつ」だ? 過去にこんな記憶はない。では未来か? そんなもの、実際にその未来が来て見なければわからないじゃないか。明日の出来事を誰にも照明する術はないのだ。
だからこんなのは嘘だ。
地下室へと降りていった。階段は薄暗いのに手入れが行き届いていて埃一つ落ちていない。当然だ、あの場所は《完全なる大地》なのだから。その居城の壁の、石畳の一つだとて、支配者の意に沿わぬ場所はないのだと。それは神に選ばれた土地。
通路は薄暗かった。その場所に燭台などいらなかった。壁自体が薄く蛍のように発光して足元を照らす。長く歩き続ければ気が滅入るを通り越して狂いそうになるその道を歩いた。風も通らず、閉塞の通路に冷気が篭もっている。
やがて一つの部屋へと辿り着く。地下に作らせたそこは墓所であって墓所にあらず。横たわる屍を、自分は屍と認めたくないのだ。まるで美しい人形のように、硝子の柩に永久に閉じ込めておきたい。
その現実と相反するように、彼がすぐにでも目覚めることを望んだ。
叶わないとわかっていた。
わかっていて、望んだ。
あまりにも当然のように、見逃してきた日々の何もかもが尊く眩しい。取り戻したくて懐かしくてそんなことは神にさえできるわけはないと、知りながらそれでも過ぎ去った日々に恋い焦れた。
物言わぬ骸に取り縋り、今にも動き出しそうなその屍が刻んだ淡い微笑に胸を抉られる。何故そんなに満ち足りた顔をしているのか。だってお前は、俺に――。
白い瞼が永遠に閉ざした、その至高の朱金。
琥珀の中で、真昼の陽光の中で炎が燃えているようなその瞳が好きだった。
もう二度と、その目を見る事はできない。いや、見つめるだけならできる。屍の瞳を抉り出すなど簡単だ。けれどそれでは満足できない。その閉ざされた瞼が開き、自分を見つめてくれるのでなくては意味がない。
指どおりのよい藍色の髪。緩く、優美な癖のついた宵闇の帳にも似た。鬱陶しいとそれをかきあげる嫌に気取った仕草も、何もかも覚えているのに酷く遠い。
好きだった。好きだった。好きだった。お前が。
愛していたよ。――本当は憎まなければならなかったのに。
どんなに告白しても、もう答は返らない。言葉だけは残り、声音の記憶は薄れそうになる。その存在を失って以来何度も夢の中で同じ声を繰り返し聞いた。どんな罵りも侮蔑の言葉も嘲笑の響も、お前の声を忘れないために、幾度も夢の中で繰り返し繰り返し再生して、それが遠ざかる目覚めに泣いた。
夢はいつも甘く、目覚めがその分苦かった。
良薬口に苦しと言うのならば、甘美な妄想をいずれ忘れ去るべき記憶に変える夜明けは素晴らしき薬だったのだろう。哀しい記憶を永く抱えては生きられないと言うのならば、心についた傷は癒されねばならないのだろう。
そしてそれが成就した暁に、自分は本当に彼を失うのだ。
だから癒されたくなかった。忘れるものかと拳を握り締めた。忘れる事が救いだというのなら、俺は救いなどいらない。救われたくなどない。
一度ついた傷口を、自らの爪で何度も抉る。心が血を流すたびに、これでまたお前を忘れずにいられるのだとようやく安堵の息がつけた。
忘れない。忘れたくない。忘れられるはずもない。
――だって。
何度も夢でその姿を見た。何度も夢でその声を聞いた。なのに、笑顔が思い出せない。硝子の柩に横たわる屍の古拙の笑み以外には、笑った顔が思い出せない。
――だってお前を殺したのは。
これは自分の見た夢ではない。では、どうして。閉ざされた地下室の、硝子の柩に横たわる美しい人形のような屍。朽ちることもなく老いることもなく。満足かと誰かが問いかける。
――お前を殺すのは俺なのだから。
それで「彼」は手に入ったのかと。
緩く首を振って否定した。両手から甘い夢が零れおちていく。色鮮やかな虹の欠片だと思っていたものたちが、あっと言う間に透明な涙の雫となる。
ぱたぱたと、その雫が眠る屍の頬に落ちる。
ねぇ、なんでそんなに安らかに笑っていられるんだ。お前を殺したのは俺なのに。
何度も同じ問を繰り返す。答えなど返らないとわかっている問を繰り返す。
救われたくないならもう狂うしかない。
こぽこぽ、こぽり。
水音が世界に谺した。世界が水で満たされていた。自分が流した涙で溺れそうになる。
涙の湖。
――皇帝陛下。
世界が透明な液体の中にたゆたってその輪郭を朧にした。硝子の棺も地下室の光景も何もかもがやがて真っ白く、それでいて透明になる。湖の底に心ごと沈んだ。
――これは全て、貴方の見た夢。
涙に溺れて息が出来ない。馬鹿だな。こんなに泣かなければよかったのに。自業自得でしかない。
それでも何とか水面目指して浮上しようとする体に、何かが巻きついた。腰の辺りを掴むのは、白い腕。覚えのある感触。
水草のように揺らめき、たゆたうは白銀の髪。
振り返った目に映る、歪な笑みを刻んだ紅い唇。
囁く。目を覚ませ、現実を見ろ、逃げる事は許さないと誰かが。自分の中で、その誰かが必死に扉を叩いている。鍵がかけられているならその鋼鉄ごと突き破ればいいのだと乱暴に、内壁を爪で削っている。
その努力はいつか身を結んで、俺は「彼」にこの身を明け渡すのだろう。
自分が砕かれる。俺が俺で無くなる。
いつか、飲み込まれてしまう。
そしてその鍵となるのは、まるでこの涙の湖の底の世界のように透明な硝子の柩で眠る彼。
わかっている。わかっていた。
彼を殺して、自分は狂うのだ。その命を奪って、『彼』が芽吹くのだ。それはもう自分ではない。けれど、彼がいない世界で、自分が自分であることに何の意味もないから。
今の皇帝の治世は残り半年。
そして湖の中、ロゼウスを引きずりこもうとする、その腕の主は。
『――っ!』
紛れもない、自分自身だった。
ぽたぽたと。
まだ温かい頬に落ちる涙の雫。
「ロゼウス」
掠れたその声はたいして優しくないのに、慈しみ深い。
白い喉に紅い痕が残るほどに締め付けていた指を外した。シェリダンが咳き込む。目の端に涙が浮かんでいる。寝台がそれによって弾んだ。ロゼウスの手は力なく敷布の上に落ちた。呆然とした。声が出ない。
ロゼウスは震えたまま動けない。真夜中の寝台で、いつものように身を寄せ合って眠っただけなのに、なんでこうなるんだ。
ざわざわと血が騒ぐ。
止められない。変質が始まる。もう一人の自分が嬉しげに笑った。
その瞬間をロゼウスは忌避し、もう一人のロゼウスは待ち望んでいる。
それでようやく《永遠》を手に入れられるのだと。
「シェリダン……」
とっくに明かりを消した部屋で自分が今どんな顔をしているのかはわからない。ただ、夜目の利く瞳が、シェリダンの辛そうな様子を見つめているだけ。
ごめん、と。
今は言ってはいけないのだとわかっていた。
「どうした?」
答える代わりにその膝に縋り付いた。
「ロゼウス?」
溢れた雫で彼の夜着が濡れるのも構わずに泣き続けた。突然縋りつかれたシェリダンが怪訝な眼差しを向けてくるのに、何も言えない。
だって俺はいつか、あんたを殺すんだ。
そのためだけに自分は、そしてあんたは生まれたのだと――神様が囁いたのだ。
◆◆◆◆◆
迎えに行くよ、地獄から。
「ねぇ、本当に来るの?」
誰が言い出した言葉だったのか。
「おや、私の言う事が信用できないかい?」
「お兄様を疑うわけではありませんけれど」
エヴェルシード王に囚われている二人を除く、ほとんどの兄妹が勢ぞろいしていた。いつの間にか現れた長兄と、次女。ドラクルとルース。
いないのはいまだシェリダン王に捕まっているロゼウスとロザリー、そして唯一行方の知れない第五王女メアリーだけだ。そのメアリーに関しても、ドラクルに言わせれば心配はいらないとのことだった。半信半疑なれど、他に情報がないのも事実だ。
『元気そうで何よりだね――アンリ』
その声を聞いた時、アンリは心臓が口から飛び出るのではないかと思った。これまで全くの行方知れずだったドラクルが、何故。
いや、全くのと言ってしまうのは語弊があるのかもしれない。ミザリーとミカエラは、姿は見ていないけれどもドラクルとロゼウスが顔を合わせたという話を聞いたと言っていた。
ローゼンティアを追われてから、ただエヴェルシードの目をかいくぐって生き延びるのに精一杯だったアンリたちには圧倒的に情報が足りない。集まった兄妹で顔を突き合わせて、情報を照合し真偽を判断し有益なものを拾っていく。その作業は後から後から謎や疑念や困惑を生んで、きりがなかった。
ここはいまだエヴェルシード国内。その、とある森の中。
最初からこの国にいたのは第二王子アンリと、第三王女ミザリー、第五王子ミカエラと第六王子ジャスパー、第七王子ウィルに第六王女エリサ。そしてローゼンティア内の反逆者に捕まっていたという第一王女アンと第三王子ヘンリーが後から加わり、残るは五人だけとなった。そのうち二人、第四王子ロゼウスと第四王女ロザリーがエヴェルシード王城シアンスレイトにいるということまでもわかっていたから、実質的にその時点で行方が知れなかったのは第一王子ドラクル、第二王女ルース、第五王女メアリーの三人だけだった。
その行方知れずの三人のうち二人までもが、今日になって突然姿を現したのだ。
「ドラクル、ルース」
「久しぶりだね。元気そうで何よりだ、アンリ」
「……おかげさまで」
いくら久々の再会だからって、なんであんな惨劇の後初めて顔を合わせた兄妹の前でこの兄はこんな穏やかな態度でいられるのか。アンリは薄ら寒くなって、思わず自分の右腕で左肩を抱いた。
「二人とも、今までどこにいたんだ?」
「ちょっと昔のツテを辿って、いろいろなところを転々としていたよ。この国に留まらず、ルミエスタやセルヴォルファスの方にも手を回したかな」
「私は、ドラクルの交友関係の記憶を頼りに彼を捜していて、何とか途中で落ち合うことができたの」
まるで当然の、簡単なことのように言う二人に眩暈を覚える。それが一体どんな労力を伴う難問なのか。多分、アンリにはできないことだ。
「アンリ、お前たちこそ今までどうしていたんだ?」
やわらかに尋ねられて、アンリは咄嗟に何を言っていいのかわからなかった。……だって何から話せばいいんだ? 自分たちのこと、フリッツ店長のこと、ロゼウスのこと、エヴェルシード王のこと、イスカリオット伯とカミラ姫のこと、そして。
――ドラクルは一体どこまで知っているのか。
イスカリオット伯は言っていなかったか? 全ては彼の手のひらの上なのだと。
何故、ドラクルが。
「アンリ」
思わず考え込んでいると、名を呼ばれて顎に手をかけられた。美形の兄は、逞しいとは間違っても言えない体つきなのに背が高い。アンリはドラクルの指によって、彼の方を見るよう僅かに仰のかされる。
「何を考えている?」
「あんたに……何から言えばいいのかと」
「ふうん。いろいろあったみたいだね」
ドラクルはその秀麗な面差しに浮かぶ笑みを深くした。彼の顔を見て、アンリはロゼウスを思い出す。同じヴァンピルの兄妹でも腹違いの自分たちは皆それぞれに特徴があるけれど、それでも長兄ドラクルと第四王子ロゼウスの相似は目に付いた。もっともロゼウスとロザリーの性別を超えたそっくり具合に比べたら、まだ実の兄弟ならよくある範囲なのだが。
――駄目だ。思考が上手く纏まらない。
ロゼウスは、ロザリーは、メアリーは。ここにいない兄妹たちのことが頭の中をぐるぐる巡っている。そのうちの一人、もしくは二人、ロゼウスとロザリーに向けては今日この夜、この場所に来るようにドラクルが指示を出したとは言っていた。そして彼は昨日、弟の一人であるジャスパーを伴ってどこかに出かけていたようだった。
そしてその同じ時間に、シアンスレイト王城で騒ぎが起きたのだとアンリは後になって聞いた。
ドラクルのやることだから、きっとアンリが御前試合を攪乱しようとした時とは比べ物にならないことを仕出かした……あるいは仕出かす下準備をしてきたのだろう。笑顔を浮かべているのに、いつもどこかこの長兄は得たいが知れなくて恐ろしいのだ。
「ドラクル」
それでもここは年長者であるアンリとこの兄で場を収めるのが適当だと思ったから、アンリはぎこちなさを払拭しきれていなくても何とか会話を紡ぎ出そうと口を開いた。
「聞いてくれ、俺は――」
だけれど、肩に重みが、背中に腕の感触が回った。え? と音にならずに呟く。
抱きしめられていた。何の前触れもなく。
「もうすぐだよ、アンリ」
アンリの耳元で、何故か切なげにドラクルは囁いた。
「もうすぐ、私の憂鬱が払われる。すでに邪魔な方はあの座から退いて頂いた。大公爵の位はありがたく使わせていただいたが、もとからもらえるはずだったものを目前でとりあげられるのはやはり気分が悪い」
「え? えっ?」
何を言っているんだろうか彼は。邪魔な方? あの座? そして大公の位? 一体ドラクルは何の話をしようとしている?
アンリの困惑を気にした様子もなくドラクルが満足げに微笑んで彼を放すと、月明かりが差し込む森の広場の入り口へと視線を向けた。
つられて同じ方向に視線を向けた他の兄妹たちも一斉に同じ事に気づく。特に強く反応したのはジャスパーで、今にも飛び出していきそうな彼を、ミザリーとミカエラが二人がかりで押さえ込んでいる。それでもまだ暴れようとするジャスパーの耳元で、近寄ったルースが何かを囁くのが見えた。顰められた声はヴァンピルの耳にも聞こえなかった。
そして、見つめる先からもはや間違えようもなく足音が聞こえてくれる。
それは二人分だった。人間には区別がつかないだろう些細な変化から、彼らにはそれが同じくらいの年頃と体格をした、少年と少女のものだと言う事がわかる。
月明かりが、その姿を照らし出した。
「ロザリー……ロゼウス」
彼らと同じ白銀の髪に紅い瞳。よく似た顔立ちの二人。ロゼウスは今度はちゃんと男の格好をしていた。
エヴェルシード王に囚われているはずの二人が、間違えようもなくしっかりとした足取りで、そこに姿を現したのだ。