荊の墓標 20

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「我が国がローゼンティアに侵略する際、手引きをしたのは、貴様のはずだ」
 どういうことだ?
 どういう、ことだ!?
「ドラクル!?」
「兄上!!」
「お兄様!?」
 あちこちから悲鳴が上がった。ロゼウスは長兄の名を呼び、他の兄妹たちも口々にドラクルへと呼びかける。
 驚愕の事実を突きつける言葉を発したシェリダンは、厳しい瞳でドラクルを睨み続けている。
「ああ……そういえばそうだわ」
「エルジェーベト卿」
「男の顔なんて興味ないし、私が見てる王妃様はほとんど女装だから比べようがなかったけど、確かにローゼンティア侵略の際国内の有力貴族の手引きをしたのはこの大公閣下」
 そういえばエルジェーベト=ケルン=バートリ女公爵はローゼンティア侵略を実行した将軍の一人だったのだ。恐らくシェリダンに付き従ってローゼンティアへ繋ぎをつけようとした彼女までもが、そんなことを言う。
「ドラクルが、ローゼンティアを裏切った?」
「ドラクル兄上?」
 アンリとヘンリーが呆然とする。
「兄上……! 嘘でしょう!?」
 ミザリーが悲鳴をあげる。アンやロザリーも凍り付いている。
「おにいさま……」
「兄上、どうして!?」
 涙目のエリサを抱きしめながらウィルが問いかけた。そうだ、どうして。
 ――どうして?
 頭の中で誰かが囁く。
 決まっている。知っているだろう。お前は。
 ロゼウスの血の内側から、誰かが囁く。
 言葉の出ないロゼウスの、そしてこの場にいる全員の代わりとしてミカエラが叫んだ。
「どうして、そんなことを……っ! 第一王子であるあなたは、あのままいれば何事もなく玉座につけたはずだろう!」
 緊張状態に置かれて体調が悪化しているのか、ミカエラの顔色はすこぶる悪い。それでも今は自らの辛さよりドラクルへの不審と怒りが勝るようで、彼は声を張り上げて叫んだ。
 闇夜に風が吹く。
「――どうして?」
 ドラクルの長い白い髪が、風に巻き上げられて狂気のような月を背景に美しく夜を飾る。
 吸血鬼は夜の一族だ。その白い肌は、白い髪は、血の色をした瞳は漆黒の闇を纏ってなお映える。彼はまさしくこの夜の王者であった。
 逆らえるものなどいない。少なくとも、ローゼンティアの者たちの中には。
 恐ろしいほどの威圧感を纏ってそこに君臨するドラクルに、真っ向から対峙できたのはこの人物だけだ。
「私も聞いてみたいな、その理由を」
「シェリダン」
「貴様の話は聞いているぞ、第一王子。どのヴァンピルに聞いても次代の王の器として申し分ない人材だと太鼓判を押されている堂々たる第一王子が、何故祖国を裏切るような真似をする?」
 まあそれで我が国としては有利にことを進められたわけだが、とシェリダンは口元を歪める。
 それは嬉しいからではなく、間違いなく不愉快を覚えている嗤い。
「エヴェルシードがその思惑に乗って、ローゼンティアに攻め込むことまでその計画の内だったというわけか」
 白刃のように鋭い眼差しが闇夜を貫いてドラクルを見据えた。兄は微笑んでシェリダンに言う。
「ああ。この国は実に私の計画に役立ってくれた――感謝しているよ、親愛なるシェリダン=エヴェルシード国王陛下」
「貴様っ……!!」
「まぁ、あなたがロゼウスを殺すこともなく即座に国に連れ帰ったのはさすがに予想外だったけれどね。ロゼウスがあなたを選ぶのも」
 明らかな挑発の込められた態度に、シェリダンがますます表情を険しくする。剣を握る手に力がこもり、筋が白く浮かびあがった。
「本当の予定では、あの後王家の兄妹は全て死んで、めでたくあの国が私のものになるはずだったんだ。あれだけの数の死人が出ればいくらノスフェル……《死人返り》の一族だとて全てを甦らせることはできない。その上で、私に必要な人材だけを復活させる予定だったのに、あなたがロゼウスを連れて行ってしまったせいで少しずつ予定が狂ったよ」
「そうか。それは良かった」
 シェリダンが皮肉気に表情を歪める。ようやくじわじわと兄の裏切りが頭に事実として染みこんできたロゼウスたちは、お互いの顔を見合いながら声を出す。
「本当、なの?」
 すぐ近くのロゼウスに縋りながら、ロザリーが涙を湛えた瞳でドラクルを見つめる。兄妹一腕力が強くて気丈で、誰よりも家族思いなロザリー、だからこそ衝撃は大きかったのだろう。
「本当に……あなたはローゼンティアを……私たちの国を裏切ったの? ドラクル!!」
 彼女が叫べば、他の兄妹たちも呼応するように口々に長兄へと言葉を放った。
「そうです、おにいさま! なにかいってください!」
「嘘ですよね! 裏切っただなんて! あれが全部お兄様の計画だったなんて!」
「兄上……っ?!」
 魂を引き裂くような痛みと共に、彼ら彼女らは問いかけていた。もはやどれが誰の声、言葉なのかわからない。気持ちはみんな一緒だったからそれが誰のものであろうと構わない。
 ただ、その問を重ねることでドラクルが否定してくれるなら、それなら声が嗄れ喉が破れるほど叫んだって構わなかったのだ。
 しかしドラクルは微笑んでそれを斬り捨てる。
「本当のことだよ」
 微笑があまりにも優しいので、それは悪魔のようだった。魔力を持つ生き物としての魔族ではなく、人を堕落せしめるために作られた人間の敵である、ただしく悪魔たる存在のようだと。
「ドラクル……」
「それとも、私を庇うためにそこの彼を否定するかい? 私を反逆者だと叫んだエヴェルシード王を。ねぇ、ロゼウス?」
 ドラクルの言葉に、ロゼウスは斜め前に立つシェリダンを見た。彼は無表情でロゼウスたちローゼンティアの兄妹のやりとりを見守っていた。この場所から僅かに見えるその横顔が何を考えるかなんてわからない。でも。
 ロゼウスは下草を踏んで歩み、シェリダンの隣に立った。
「俺はシェリダンの言う事を信じる」
「ロゼウス!」
「ロゼ兄様!」
 アンと末弟のウィルがロゼウスに向かって叫ぶが、ロゼウスは言葉を続けるのをやめなかった。
「シェリダンは、こういうところで嘘を言う人間じゃない」
 今の格好が「ロゼ王妃」でなくてよかった。
 ロゼウスはいつもロゼウスで、どんな格好をしていても自分であることには変わりないけれど、それでも格好は自らの姿や立場を示す一番の手段だから。
 ここにいるのはエヴェルシード王妃ロゼではなく、ローゼンティア王子ロゼウス。間違いなく。
 俺は俺自身として告げる。
「あなたがローゼンティアを裏切ったんだ、ドラクル」
「そうだよ。ロゼウス殿下」
 はっきりと言い放てばドラクルの笑みが深まった。今が真夜中であり月明かりの逆光を背負っているという以上に、その顔には不思議な翳りが落ちている。まるでそれは彼が生まれ持っているもののように、しっくりとドラクルの表情に収まっていた。
「私は――ドラクル=ヴラディスラフはローゼンティア王家を裏切ったんだ」
 そんな名前を、彼らは知らない。

 ◆◆◆◆◆

 ドラクル=ヴラディスラフ。
 誰のことだそれは? 
 あなたは一体誰なんだ?
 ドラクル。ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。
 あなたは俺たちの兄上では、なかったのですか?
「何故……何故、なのですかドラクル」
 ヘンリー兄上が震える声で尋ねた。
「どうして、祖国に牙を向くような真似をしたのです。他の誰でもない、あなたが」
 ドラクルはまだシェリダンの問に答えていない。そしてその問はここにいるロゼウスたち全員の疑問だ。
「ドラクル……ヴラディスラフ大公、だと? ……何故、その名を名乗るのじゃ」
 アンが硬い声音でさらに尋ねる。そう、それも知りたい。何故、ヴラディスラフ大公などと。
 ヘンリーもアンも、ドラクルと身近だった。第一王女であるアンはアンリと同じ二十六歳、ヘンリーは二十歳。二十代の兄妹たちは、それぞれ仲が良かった。二十一のミザリーだけはミカエラやエリサみたいな小さい子にも構っていてくれたけれど、年長組は彼らだけで集まるといつも独特の空気の中にいるようだった。
 その彼らでさえ知らなかったという話。裏切り者、反逆者、そして、《ヴラディスラフ大公》という鍵となる言葉。
 それは。
「何故、お兄様は叔父様の名を名乗るのです?」
 ロゼウスたちが知るヴラディスラフ大公は、その名をフィリップ=ヴィシュテ=ヴラディスラフと言う。
 彼はロゼウスたち王家の兄妹の父親、つまりローゼンティア国王であるブラムス=ローゼンティアの弟にあたる。
 その、ロゼウスたちにとっては叔父にあたる人の名を、爵位を、何故ドラクルが名乗るのだ?
 それは彼がローゼンティアを裏切ったことと何か関係があるのだろうか。
「っ、ドラクル」
「さっき」
 けれどドラクルはそのことを問い詰めようとするロゼウスたちを先回りして、全く別の人物に話しかけた。
「あなたは言ったね、シェリダン王」
「ああ、言った。いろいろとな。具体的なことを言え。どの辺りだ」
 彼の視線は渦巻く疑問と不審と驚愕を吐き出したいロゼウスたちローゼンティア王族ではなく、シェリダンへと向けられた。
「私が次の玉座に座るに不足のない立場だと」
 ――貴様の話は聞いているぞ、第一王子。どのヴァンピルに聞いても次代の王の器として申し分ない人材だと太鼓判を押されている堂々たる第一王子が、何故祖国を裏切るような真似をする?
「ああ。言ったな。単なる事実だ、第一王子殿下。しかも正妃の息子で男児ならば、その即位は確約されているものではないか。一体何が不満で謀反など仕出かしたものだ?」
 不機嫌そうな顔つきのシェリダンが返す。だからどうしたと言わんばかりの彼に、ドラクルは意地悪げな笑みを向ける。
「それはどこかの誰かにも言えることだと思うけどね? 国を継ぐと決まっていた、それもローゼンティアとは違ってたった二人の兄妹、それぞれ唯一しか競争相手のいない立場の第一王子が何故わざわざ父親を幽閉してまで即位を急ぐ必要があったのかな?」
「っ!」
 ドラクルの言葉に、シェリダンがさっと顔色を変えた。纏う空気が針のように尖る。
「貴様……っ」
「単なる事実だよ、シェリダン王」
 先程のシェリダンと同じ言葉を返して、ドラクルがあからさまに彼を煽る。
「挑発ですよ、陛下。そんな簡単に乗らないでくださいね」
「……っ、わかっている!」
 シェリダンを鎮めるために、これまで何も言わず背後に控えていたイスカリオット伯ジュダが言葉を発した。ローゼンティアの兄妹は皆明かされたドラクルの裏切りに動揺していて彼らをどうにかしようとする考えもなく、ジュダとエルジェーベトは少々手隙のようだ。
 そんな暇もないと、常に目の前の相手と睨み合っているのは……。
「くっ!」
「クルス!」
 ユージーン侯爵クルス卿が呻いて、その場を退いた。ルースの手元の短剣が僅かに血に濡れている。
「……ごめんなさい。仕留めそこなったわ」
「いいよルース。お前はそろそろこっちにおいで」
 短剣を手にしたまま、ルースはいそいそとドラクルの隣へと戻った。ロゼウスたちが右往左往する間もずっと彼女と睨み合っていたクルスは、どこか消耗が激しい。その腕が浅く切り裂かれている。大きな怪我ではないようだ。
「ユージーン候……」
「あの御仁、中々の使い手のようです」
 いかにも楚々としたお姫様然としたルースだが、彼女の実力は兄妹の中でも飛びぬけている。何故なら彼女もロゼウスとドラクルと同じくノスフェル家の出身。《死人返り》の一族として名高いかの家の人間は突出した実力を持って生まれてくる。
 思えば、そのルースも謎だ。彼女は以前、ロゼウスに会いにシアンスレイト城を訪れた。ミザリーとミカエラの居場所をロゼウスたちに教えたのは彼女だ。そしてその後、シェリダンと何か話していた。ロゼウスはその内容を聞かされてはいないが、ルースを見て、シェリダンは険しい顔をした。きっと、二人の間でも何かがあった。
 ああ、誰が敵で誰が味方なのか。
 もうわからない。
 自分自身がどうしたいのかさえ。
 シェリダンをこのままあっさり殺してドラクルの望むまま彼についていくことなど到底できるわけがない。
 でもどうしても、ロゼウスは兄を嫌いきることができないのだ。憎んで憎んで憎しみに染まりただその死だけを願うことなど、できるはずがないのだ。
 だからどうしていいのかわからない。戦いたくない。どちらとも。
しかし彼の立場上、何もしないわけにはいかないだろう。
「ドラクル……」
 話を続けるために兄の名を呼んだ。ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。何故彼が先程からヴラディスラフ大公を名乗るかはわからない。俺たちの兄。ドラクル兄様。
 あなたは一体何者で、何を考えているのか。
 そんなロゼウスたちの疑問と声に出せない慟哭を知ってか知らずか……恐らくドラクルのことだから知っていてあえて無視し続けているのだろうが、彼は微笑む。
 その微笑はあまりにも美しく、あまりにも儚い。ルースを横に侍らせて彼は漆黒の闇に浮かび上がる王だった。
 傍らに付き従うルースは、まるで奴隷のように大人しくドラクルの背後に控えている。確かにこれまでもこの第一王子と第二王女の関係はそのようなものだったけれど、今夜はそれが殊更に強調されている。
 ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。ルース=ノスフェル=ローゼンティア。
 そしてロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。
 同じノスフェル家の兄妹だ。同じ、クローディア=ノスフェルを母に持つ二親血の繋がった実の兄妹。
 なのにどうしてだろう?
 今はこんなにも遠く感じる。
 ドラクルとルースの二人は、その眼前に透明な硝子の壁を立てているようだった。ロゼウスや他の兄妹たちはそれに必死に拳を押し当てて叩いているのに、二人は返事もしない。
「さぁ、これで役者は揃った」
 哀しげにドラクルが言った。その視線はロゼウスに向けられていたが、その瞳はロゼウスを見てはいなかった。
 今になって気づく。
 いつも切ないような眼差しでロゼウスを見ていたドラクルは、実際はロゼウスを見ていたわけではなかったのだ。
 では、誰を見ていたのか。
「始めよう」
 深紅の瞳。俺と同じ色の瞳。でも、違う目。俺を見ないその眼差し。
 ――さぁ、終焉が動き出す。
 胸のうちで誰かが囁く。
 ――だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?
 胸のうちで、自分が囁く。
「ディヴァーナ・トラジェディアを」
 そうだ、俺は本当は全ての答を知っていたのかもしれない。
 この世に比類なき、《――》の力によって。
そしてここから。
「ローゼンティア第一王子、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア」
 神聖なる悲劇の幕が上がる。