107
「行かせないわよ?」
優雅な微笑にハデスは舌打ちを返す。
忌々しい。
全くもって、忌々しいといったらない。
「どうしてですか? 姉さん」
「あら、わかっているのでしょう?」
本当に忌々しい。
――早く死んでくれればいいのに。
「言われなくても、すぐにそうなるでしょう?」
ハデスは声に出して言ったわけではなかったのに返ってきた答に驚いて目を瞠れば、先程よりさらに優雅に微笑む気配。
ここはエヴェルシード王国の王城、シアンスレイト城。その一室。
あるいは華美に装いながらも実際は簡素を好むこの国の君主の部屋よりも飾りつけられているのではないかと思うほどに豪奢なこの部屋は、今現在最高の身分と権力を持つ客人のために誂えられた部屋だった。
訪れると予告して間もなくこの環境を整えたシェリダン王の手腕には実際感服するしかない。彼は有能な国王だ。
だからせいぜい、役に立ってもらわねばならないのだ。
シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。
あなたにはまだまだ舞台の上で踊ってもらわねばならない。ハデスはその舞台を整えるだけ。
けれど、それを目の前の存在が邪魔をする。
「私、もうすぐ死ぬのね。そう、長くても今年中、つまり後半年以内ということかしら」
「知っていたんですか? 姉さん」
「ええ。だって皇帝だもの」
こともなげに告げるその顔は幼い。幼いというよりは、その外見の年相応と言うべきか。普段は化粧と振る舞いで多少誤魔化されている姉の年齢だが、実際、その肉体はまだ十八歳の少女のものだった。
その年齢の時、デメテル……デメテル=レーテは体の成長を止めた。皇帝になることによって。
世界皇帝となったものは不老不死の肉体を手に入れる。永遠に老いる事はない。
そして世界皇帝が死ぬのは、次代皇帝が生まれる時のみだ。その死がどういった形で訪れるかはまだ定かではないけれど、次代皇帝が生まれる事はその皇帝の死が差し迫っていると考えていい。
ハデスはそれを、暗黒魔術と呼ばれる冥府の術を覚えた時に知った。偽りの選定紋章印を授けられたこの身には、歴代の選定者のような超人的な力は有されていなかった。それでもハデスの生まれ自体が魔術に明るい《黒の末裔》のものだったから、必死で強力な術を片っ端から覚えていった。時間は気が遠くなるほど与えられていた。ハデスは始めから永遠の命を授けられるために生まれた、デメテルの唯一の血縁だから。
エレボス、タルタロスに降りてまで術を覚え、やがては《冥府の王》という称号まで得るに至った。力をつけた。そうせざるを得なかった。
今この目の前の女を殺すために。
ハデスに永遠の命と、それに見合う分だけの苦痛と恥辱を与えた姉。
あなたなど死んでしまえばいい。
「世界皇帝の代替わりは、全て神の意志によって行われる。そのための言葉は、選定者を通じてアケロンテ中に伝えられる」
「ええ。そうですよ」
「でも、なんと今回は偶然にも、去り逝く古き選定者も、新しき次代を担う次の選定者も己の役目を放棄する気満々で」
「だから、次代皇帝についての情報は長い間明かされることはなかった」
もしも彼が、次の選定者が我欲のためにその事実を隠匿することがなければ運命は変わっていただろうか?
次の皇帝になるべき兄のことを、さっさと周囲に話して持ち上げていれば世界はこんな時代を迎えずにすんだのだろうか。
いいや、とハデスは内心で首を振って否定する。
そんなことはない。そんなことにはさせない。
他の誰でもなく、ハデスがそのような事態にはさせないのだ。絶対に防いでみせる。彼を新しい皇帝に据えて、自分は目の前の忌まわしい女と共に世界から消え逝くなんてまっぴらだ。
「……たい」
僕は――生きたい。
「ハデス?」
姉が笑う。美しく笑う。
それは棚の上に飾った硝子箱の中の人形を見る笑み。
彼女にとって、ハデスは始めから道具だった。
彼女のためだけに、ハデスはこの命を与えられた。
デメテルの即位直後の話はすでに伝説と化している。皇族に加わって永遠の命を得たいと娘に対し懇願した両親に彼女はある約束をした。永遠を与える代わりに、新しい家族を、兄妹を作って欲しいと。その子が生まれたら両親に永遠の命を与えると。
両親はその約束を守った。そのためにハデスを作った。ハデスはそのために生まれた。人として幸せになるために生んでもらったのではなかった。彼らにとって二番目の子どもは、息子であるハデスは皇帝となる姉に捧ぐ貢物だったのだ。
その見返りは、永遠の命。
けれどデメテルが彼らに実際与えたものは《死》であった。
両親を殺して血染めの玉座についた姉。
その姉のために生まれた自分。
「……たい、……きたい、生きたい」
思いが溢れて、自分さえも飲み込んで押しつぶしそうになる。
僕は生きたいのだ。
道具ではなく、人間になりたかった。一人の人間として誰かに見て欲しかった。けれど自分を見る人間は誰もいない。誰もがハデスを皇帝の弟として見る。帝国宰相なんていう肩書きは、ハデスにとって何の価値もないものなのに。
ふかふかの絨毯の上に立ちながら、針の山を歩いている気がする。
選定者は、皇帝がその役目を終えると共に命を終える。何故ならそれが運命だから。ただ皇帝のためだけに生まれてくる存在、それが選定者。
ハデスはもともと選定者であったわけではない。本当の選定者は彼女の……つまりハデスの父親でもある男だった。ハデスは父を知らない。母を知らない。ハデスが生まれてすぐに姉は彼らを殺した。皇帝に仕える乳母に育てられたハデスは実の両親の顔を知らない。
それを不満に思ったことはないけれど、右腕の紋章だけはどうしても嫌だった。偽りの選定者。偽物の選定印。父親の腕から抉り取られハデスの腕に移植されたその紋章。
そんなもののために、何故自分が死ななければならないのだろう。
それでせめて、いつ命が失われても後悔しないだけの人生が送れているならば構わなかった。
しかしハデスは、どこまでいっても姉のためだけに生まれた存在で。
ただの玩具だった。人間じゃなかった。生かせてもらったことなど、一度もなかった。
――もうたくさんだ。
「姉さん、僕は」
「ハデス」
「あなたが、嫌いだ」
泣き声のように吐き出した言葉に、涼やかな微笑が返る。
「ええ――知ってるわ。ずっと、知っていたわ」
ぎり、と唇を食い破るほどきつく噛み締めた。血の味が口内に広がる。何もかもが忌々しかった。
一度でいいから生きてみたかった。確かな生をこの手で掴みたかった。
けれど、デメテルがいる限りハデスに未来はない。彼女はこの世の絶対権力者たる世界皇帝。彼女がいる限り、ハデスには自分の命を生きる権利などない。あっても簡単に奪われるのだ、皇帝の手によって。
だったら。
「僕は、皇帝になる」
三十三代皇帝になるのはこの僕だ。今現在玉座についている皇帝を直接手にかけることは難しい。けれど、幸か不幸か今は次代皇帝の存在が確認されている時期。
新しい皇帝の候補である存在が確認されるということは、今の皇帝の力が弱まっているということだ。
そして新しい皇帝候補は、あくまでも皇帝の候補であって皇帝ではない。皇帝になるだけの力と資格をその身に有してはいても、皇帝ではないただの人間であるなら倒す隙はあるはずだ。
だからハデスは、この時代に、この年に、そしてこのエヴェルシード王国の王に賭けた。シェリダン=エヴェルシード。鍵を握るのは彼の存在だ。
「邪魔しないでくれる、姉さん」
ああ、だから今はその計画を進めるために彼らのもとへ駆けつけねばならないのだ。ハデスの大事な駒と、大事な舞台女優と、大事な協力者のために。
この姉相手では、隙を衝いてこの場から抜け出すのにも命懸けだろう。本気を出すことにした。外見年齢十五、六のこの体では剣を振るうにも魔術を使うにも負担がかかりすぎて効率が悪いのだ。
だから、いつかこの城の庭園でカミラを襲った時のように、そして先日の晩餐会でロゼウスと斬り結んだ時のように姿を成長させる。二十代半ば頃の男の格好だ。
変化を悠然と見守っていたデメテルが、そうして現れた男の顔に眉をしかめた。極めて不愉快そうに告げる。
「その顔、父さんに似ているのよね。嫌いだわ。いつもの格好が可愛いのに」
自分を虐待していた父親が選定者になることを拒んだデメテル。
なのに彼女は、自分があれだけ忌避していた父親と同じことを今ハデスにしているのだということに気づいていない。
なんて滑稽でなんて愚かで、なんて哀れなのだろう。人間と言う者は。
それでもハデスは人間になりたかった。だから。
「――消えて、姉さん」
「お断りするわ」
黒の末裔同士の、全魔力を注ぐ死闘が始まった。
◆◆◆◆◆
溺れているのは誰だ?
――お前に何がわかる、ロゼウス。
俺の首を絞める兄の顔は酷薄で、底の知れない哀しみに満ちている。
――生まれながらに全てを持っているお前に、私の何が……っ!
この狂気は俺が生み出したものなのだと言う。
――お前が愛しいよ、ロゼウス。
――兄、上。
――そして大嫌いだ、我が弟よ。
――きら、い?
――そうだよ、ロゼウス。私はお前を愛しているけれど、それ以上にお前が憎い。
――さよならだ、第四王子ロゼウス。私の愛しい、秘密の囚人。
薔薇の下の虜囚。
俺は兄様の囚人。
ねぇ、愛しい愛しい、最愛なる兄様。
どうしてあなたは、そんな瞳で俺を見るの……?
「ローゼンティア第一王子、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア」
――神聖なる悲劇の幕開けだ。
「な、に……?」
始めに声をあげたのはロザリーだった。
「何を言ってるの? ドラクル」
普段は明朗で躊躇ったりお茶を濁したりすることなど滅多にない彼女の声が、余人にもわかるほどはっきりと震えている。
ロゼウスは凍り付いて動けない。
他の兄妹たちも、みんな固まってしまっている。今聞いた言葉の意味が理解できない。兄は何を言いたいのだ?
「ロゼウスは……」
俺は。
「第四王子、でしょ?」
確認の声はどこか白々しく響いた。勘のよい者は先程のやりとりと今のこれで、ある事実に行き当たった。――だけどそれを、認めたくはなかったのだ。
そしてロゼウスは。
――裏切ったな、クローディア。
――ええ。裏切りましたわ。それが?
――ふざけるな。貴様はとんだ売女だったな。まさか私を裏切り、フィリップと通じていようとは。
――ヴラディスラフ大公は素晴らしい方でしたわ。さすがあなたの弟君です。
いつだ? この会話を聞いたのは。
知りたくない。思い出したくない。耳を塞ぐ代わりに繋がれた手に縋ったのだけを覚えている。
父様と母様が怖い顔で声で言い争っていた。その光景から目を逸らして繋いだ手の暖かさだけを感じていた。
兄様。
あの日までは優しかった。
「――……あっ、ぁあああああ!!」
脳が飽和しそうになる。突然叫んだロゼウスの様子に隣にいたシェリダンや周りの兄妹たちも驚いて口々に名を呼んでくる。
「ロゼウス!?」
「ロゼ!」
「兄様!」
「――ロゼウスっ!」
一際強く名を呼んで、蹲ったロゼウスの腕を誰かが引き上げる。紅い軍服の胸元に抱き寄せられると、藍色の髪が視界に映った。シェリダンだ。
「思い出したかい? ロゼウス」
ドラクルはまたあの哀しい、切ない眼差しでロゼウスを見つめてくる。シェリダンの腕の中に抱かれながらロゼウスはその兄の方を見て言った。
「……思い、出した」
あの時は全くわからなかった言葉の羅列が、今、ドラクルの言葉の意味と重ね合わさり一つに解け合う。
そして何よりも残酷な事実を浮き彫りにした。
「ドラクル、あなたは……あなたたちは」
そう、これはドラクル一人だけの問題ではない。
何故、第四王子であるはずのロゼウスが第一王子と今呼ばれるのか、その訳は。
「アンリ」
「ドラクル?」
ドラクルはすぐ下の弟であるアンリの名を呼んだ。続いて、他の兄妹の名も。
「ヘンリー」
「ドラクル兄上?」
「ジャスパー、エリサ、それにルース、そしてメアリー」
ロゼウスには決して向けられる事のない愛おしげな瞳でドラクルは名を呼んだ彼らを見る。
「私とお前たちはね」
慈しみの眼差しで微笑みながら絶望を突きつける。
「ブラムス王の子では、ないのだよ」
「――っ!?」
一瞬、世界から音が消えた。夜の闇も風に揺られた木々の葉擦れも、何もかもが遠かった。
「な……」
「え……」
自らと言う存在の根底を覆す、そのあまりの衝撃に言葉もろくに出てきやしない。
「どういう、ことじゃ」
厳しい顔つきでドラクルに攻め寄るのは名を呼ばれなかったアンだ。
「ドラクル、何を言っておる。お前たちが王の子ではないなどと」
「本当のことだよ、アン殿下。私はブラムス=ローゼンティアの子どもではない」
「では誰の子じゃというのだ!」
「フィリップ=ヴラディスラフ」
「!」
全ての物事が一つの糸で繋がった。アンリが、ヘンリーが、ミザリーとミカエラが息を飲む。
そういう、ことだったのだ。
「叔父様がお父様を裏切っていたの!?」
悲鳴のようなミザリーの声。
「そういうことだよ、ミザリー姫」
ドラクルはもう、王族だと確約された兄妹を親しげには呼ばない。先程名を呼ばれなかった、つまり王の子である彼らは自分の弟妹ではないと。
誰もが青褪めてその言葉を聞いている。
「我が父はフィリップ=ヴラディスラフ大公爵。私は、ブラムス王の子ではない。だから、王の血を引く者、アン、ミザリー、ロザリー、ミカエラ、ウィル、そしてロゼウス。お前たちの兄などではないのだよ」
そして第一王子ドラクル、第二王子アンリ、第三王子ヘンリーというロゼウスの兄だと思っていた人々は軒並みその立場から外れるなら、それでは第四王子だと思われていたロゼウスが実際は第一王子であるのか。
でも。
「それでも、ロゼウス兄様はあなたの弟でしょう!」
ロゼウスの代わりにミカエラが叫んだ。
彼もちゃんと王の血を引く子どものうちの一人だ。ただ、ロゼウスより年下だから第一王子と呼ばれなかっただけで、実際はでは彼が第二王子になるのか。そんなどうでもいいことを考えた。
ミカエラが言う。
「だって父親は違っても、ドラクル兄様とロゼウス兄様は同じノスフェル家のクローディア王妃の子どもでしょう!?」
そうなのだ。例え父方が違ってもロゼウスとドラクルは同母の兄弟。だから、片親が違ったところで実の兄弟であることに変わりはない。
けれど悲鳴のようなその声を受けて、ドラクルは……これまでずっと、兄だと思い続けてきた人は凄絶に笑う。
「残念なことに、私は母親もクローディア王妃ではないんだよ」
「えっ!?」
「私の母は、貴族の称号すら持たないただの王妃仕えの侍女。あの頃、ブラムス王との間に子が出来ず、逆に自分と後宮内の権力を争っていたライマ家の第二王妃よりもどうしても早く子どもを生みたかった彼女は、無理な計画を立てた。ヴラディスラフ大公と侍女の間にできた子どもを、自らの生んだ第一王子だということにした」
それがドラクル。つまり。
「私はノスフェル家の出ですらない。……ああ、安心していいよロゼウス。ルースはちゃんと、クローディア母上の子だから片親だけでもお前の姉だ」
ドラクルの隣にいたルースがそっと顔を伏せる。
誰も、何も言えなかった。
では、ではここにいる元第一王子は。
ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。否、ドラクル=ヴラディスラフという人は。
「そうだ」
絶望に彩られた酷薄な声。わかったよ、ドラクル。何故あなたが俺をいつもあんな目で見ていたのか。あんな、墓石を見るような目で。
「私は、この場の誰よりも下賎で能力の低いヴァンピルだ」
俺こそが、あなたに絡む荊の墓標だったのですね。